2011年2月28日月曜日

極私的2000年代考(仮)……From No Wave To 77Boadrum

かねてより伝えられていた、ソニック・ユースのサーストン・ムーアと、英WIRE誌にも寄稿する音楽評論家のバイロン・コリーの共著『No Wave: Post Punk. Underground. New York.  1976-1980』()が先頃出版された。元ティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークスのリディア・ランチ、コントーションズのジェームス・チャンス、DNAのアート・リンゼイやイクエ・モリ、マーズのマーク・カニンガム、セオレティカル・ガールズのグレン・ブランカ、ライス・チャザム、あるいはリチャード・ヘルやTJ&TJの最初期のメンバーだったフリクションのレックなど当時の関係者へのインタヴューとテキスト、そして貴重な写真の数々で構成された、ノー・ウェイヴの実像を伝えるドキュメンタリー。裏表紙には、デヴィッド・ボウイ(当時ベルリン時代の最中だった)のコメントも寄せられている。この種の書籍としてはこれまで、写真集の類を除けば、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの登場まで遡る(さらにMC5やストゥージズのデトロイト、エレクトリック・イールズやロケット・フロム・ザ・トゥームズを輩出したクリーヴランドを含む)包括的なニューヨークのパンク史の検証の中でそのエピローグ的にノー・ウェイヴについて触れた『From The Velvets To The Voidoids』(邦訳題は『ルーツ・オブ・NYパンク』。副題に「A Pre-Punk History For A Post- Punk World」と記されている)、逆にプロローグ的に触れたソニック・ユースのバイオ本『Confusion is Next』()など有名なところであったが、ここまで文字通りノー・ウェイヴだけに絞って検証したものとしては、まさに決定的な一冊になるだろう。なかでもやはり、当時ボウイやトーキング・ヘッズとのコラボレーションと平行してブライアン・イーノが監修を務め、ノー・ウェイヴを「歴史化」したコンピレーション盤『No New York』に関するエピソードが興味深い。その制作の経緯や裏側については知られていないことも多く、イーノ自身やアルバムに収録されたイースト・ヴィレッジ陣営の4バンドの元メンバーはもちろん、収録されなかったソーホー陣営のグレン・ブランカらも含めて、実際に当事者の口から語られる証言はどれも貴重だ。

サーストンがノー・ウェイヴの歴史について本に纏めようと最初に考えたのは18歳のときだったという。58年生まれだから18歳は76年、つまりノー・ウェイヴに初めて触れた瞬間から今回の本について構想していたということになる(CBGBで演奏するDNAのステージの写真には、それを観客席から見つめるサーストンの姿も収められている)。そう考えると今回の出版には感慨深いものがあるが、そういえばじつは過去にサーストン自身の口からノー・ウェイヴに関する執筆計画について直接話を聞いたことがあったことを思い出した。それは8年前、アルバム『NYCゴースツ&フラワーズ』を引っ提げたソニック・ユースの来日公演の際に行ったインタヴュー終了後、プレゼントしたリタ・アッカーマンの画集を見ながらサーストンが「ノー・ウェイヴの歴史について書くから、ロッキング・オンで出版してくれないかな?」みたいなことを話していたのを覚えている。ちなみに、「サーストン・ムーアが語るロックンロールの裏10曲」と銘打ち、ヴェルヴェッツをはじめNYパンクやパブリック・エネミーやイーノやニルヴァーナをトピックにロックの裏史的な再考を企画したそのインタヴューの中で、サーストンは当時のノー・ウェイヴの印象をこう語っていた。

「パンク・ロックの第一世代、つまり『セックス・ピストルズやパティ・スミスを聴くのは刺激的だ』って価値観が共有されていたところに、ある日突然、アート・スクール出身だったり、ただドロップ・アウトしたような全然違う系譜の人たちがニューヨークにやってきてさ。それで一気に、ニューヨークには一文無しで、何か刺激を求めてる若い子が集まっちゃったんだ。『ピストルズなんてチャック・ベリー並みに古いよ、つまんねえよ』っていうさ。全部破壊してやるっていう、もう敵意むき出しでね。なにしろ本職のミュージシャンじゃない連中が音楽をやりたくてやっていたわけで、いわゆるパンクよりも強烈なんだ。イカレてるって意味でね」。そして「ただ、このムーヴメントの作品はほとんど記録が残ってないんだよ。全体的な歴史なんかも一切記録がない。誰かがやんなきゃいけないんだよね、本にするとかさ」。
 
以前にも紹介したドキュメンタリー映画『キル・ユア・アイドルズ』。「New York No Wave & The Next Generation」という副題が示す通り、サーストンや元スワンズ~エンジェルズ・オブ・ライトのマイケル・ギラも含むオリジナルのノー・ウェイヴ世代と、その影響が指摘される00年代初頭のニューヨークのミュージシャンを対置し、双方の証言から浮かび上がる両者の共通項や対立軸を手掛かりに彼の地のアンダーグラウンドなロック史を紐解いていく同作品の中で、リディア・ランチは「(ノー・ウェイヴ)当時の知的概念や音楽のヴィジョンや多様性のリヴァイヴァルが起きたわけではない。より均質的で高級化していて柔和になっている」と両者を線引きし、TJ&TJを結成した経緯を「私が受けたすべての影響を排除した。何も参考にしない音楽を創ることが私たちの目標だった」と語っていた。アート・リンゼイは「音楽の基本要素を根本から変えてやろうと考えたんだ」と振り返る。サーストンも証言するように、ノー・ウェイヴはまさしく“否定の音楽”だった。そんなノー・ウェイヴの連中に、“ノン・ミュージシャン=非音楽家”を自称するイーノが関心を示したのは当然の成り行きだったというほかない。ノー・ウェイヴにおいて“否定”がいかに重要な態度であったかについては、『No Wave~』のインタヴューでグレン・ブランカが、自分たちがイーノのお眼鏡に適わず『No New York』の収録から弾かれた理由について「彼らは自分の楽器さえも満足に弾けなかった。でも自分たちはれっきとしたミュージシャンだった」と確信的に語っていることからも窺える(さらに、『No New York』収録の4組のバンドは「社会学上の変人」であり、自分たちこそが真に実験的な音楽を創造していた、とも)。そういえば筆者が3年前にインタヴューしたジェームス・チャンスも、当時を回想し、周りの芸術家崩れの連中に交じって、自分には音楽学校で学んだ素養やジャズというバックボーンがあったことに後ろめたさや逆にコンプレックスを感じていたと告白していた。

しかし、たとえノー・ウェイヴが“否定の音楽”であったとしても、それは“音楽の否定”ではない。むしろ、音楽という表現手段の可能性に対して無邪気なまでに肯定的だったからこそ、あれほどまでラディカルに振る舞うことができたと見るのが正しい。いわば、様々な影響素(レゲエ、ファンク、民族音楽etc)を選択肢として担保し、参照点を自分たちの外側に求めることで「パンク・ロックの第一世代」の音楽的隘路を突破した英国ポスト・パンクとは対照的に、ノー・ウェイヴはあくまでニューヨークという文化圏内を基点に、自家中毒の瀬戸際まで自らの創作を追い込み内側からの音楽的刷新を目論んだ。結果、『No New York』の4バンドを含め当時の多くのバンドは短命に散ったが、彼らの音楽はアンダーグラウンドなロックの系図に鋭い爪痕を残した。その中心的な役割を担ったアーティストたちは、その後もそれぞれ粘り強く音楽活動を続けている。3年前のコントーションズに続き、今年6月にはニューヨークのニッティング・ファクトリーで、リディア・ランチ率いるTJ&TJが、現在はニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズでドラムを叩くジム・スクラヴノス(ソニック・ユースに一時参加していたことも)ら元メンバーを従え一夜限りの再結成を果たした(これがまた、笑えるぐらい当時とまったく変わっていない……)。

そして何より、いうまでもなく今やノー・ウェイヴは、「歴史」として対象化され、後続世代の創作を喚起する音楽的な参照点の一つとして同地の音楽史的記憶の中に定着している。ノー・ウェイヴが貫いた態度や精神は、彼らがそこに線を引こうとも血の習わしのように断続的だが受け継がれ、その自覚の如何は問わず、形を変えながらも同地の「現在」に残響し、音楽的な薫陶を授けている。『キル・ユア・アイドルズ』に登場する2000年代のいくつかのバンドの中でも、ブラック・ダイスとライアーズはその最良の継承者であり、互いに音楽性は違うが、一つの鉱脈をひたすら掘り続けるように執拗で、求道的ですらあるサウンドのアプローチは、ミニマリズムというかダダイズムというか何なのか、『No New York』の連中やブランカのギター・オーケストラに通じるものを感じさせる。

DFAと、ニューヨーク/サンフランシスコに拠点を置くレーベルRong Musicが共同リリースしたコンピ『Not Wave』()には、元!!!のジョンによるフリー・ブラッドやタッスルらに交じってジェームス・チャンスが名を連ねていて、世代を越えたシーンの交流を窺わせて興味深い。以前にも取り上げた『They Keep Me Smiling』が“2000年代の『No New York』”というなら、こちらは、『No New York』の4バンドやスーサイドに加えて、キッド・クレオール&ザ・ココナッツやウォズ(ノット・ウォズ)、マテリアルなどダンス系のアクトも擁したノー・ウェイヴの旗艦的レーベルZEのオムニバス、といった趣だろうか(03年にZEが10余年ぶりに再始動した際、いち早くサポートを表明したのがDFA/ジェームズ・マーフィだった)。


昨年07年7月7日、ニューヨークのハドソン川を臨むフルトンフェリーパークで、77台のドラム/77人のドラマーを擁して行われたボアダムス主催のパフォーマンス「77Boadrum」()。この夏公開されたドキュメンタリー映画に続き、そのライヴの模様を収録したCD『77Boadrum』がリリースされた。
EYEを基点に渦を巻くように配置されたドラムの77重奏が繰り広げる、太古の儀式を召喚させたような比類なき壮大なサウンドエクスペリメント。77台のドラムが一斉に打ち鳴らされ、複雑なリズムとグルーヴを象りながら結界を築き上るように創出される音の異空間は、圧巻の一語に尽きる。ライヴの映像は以前にもYouTube等で断片的に触れていたが(『77Boadrum』の初回版にはマルチアングルでライヴ映像を収録したDVDが付いている)、聴覚を通じてダイレクトに喚起されるスペクタクルは半端なく凄まじい。
しかし、その圧倒的なパフォーマンスにも増して個人的に関心を引いたのが、そこに集った77人のドラマーの顔ぶれ。アナウンスされた当時も話題を呼んだが、あらためて凄い。

ギャング・ギャング・ダンス、ライトニング・ボルト、ノー・ネック・ブルース・バンド、サンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マン、バード・ポンド、プレフューズ73、オネイダ、ホワイト・マジック、サイティングス、エクセプター、タッスル、マン・マン、Aa、ホリー・ファック……といった00年代アヴァン・ロックの博覧会のような錚々たるバンドの(あるいは携わる)ドラマーに加え、大御所アラン・リクトやゴッド・イズ・マイ・コ・パイロット(!)、USハードコアの雄ネガティヴ・アプローチから、アニコレのエイヴィの妹アビー、さらに我らがアンドリュー兄貴(キャップにサングラスにポロシャツに短パンという、私服なのか一見誰?な笑える風貌)が参加。そこに広がるピープル・トゥリーに否応なく胸が高鳴ると同時に、じつはそのメンツをオーガナイズしたのが、自身も1/77を務めるヒシャム・バルーチャ(元ブラック・ダイス~ソフト・サークル)と最近知って、膝を打った。

かつて“2000年代の『No New York』”を謳う『They Keep Me Smiling』を監修したヒシャムは、つまり、ここに新たなノー・ウェイヴ的光景を現出させようとしたのではないか、と。もちろん妄想だが、けれどそう考えると、77台のドラムの螺旋がまるで、ニューヨークの音楽史に埋め込まれたノー・ウェイヴの遺伝子配列のようにも見えてくるから面白い(そしてその中心にボアダムスがいる、というのが2000年代のニューヨーク~アンダーグラウンドを読み解く上でさらに重要なヒントを示している――という話はまた別の機会に)。一見畑違いにも思えるアンドリューWKが、ミシガン時代に遡るウルフ・アイズ~No Fun Fest周辺のノイズ・シーンとの交流、サーストンとのユニット共演(トゥ・リヴ&シェイヴ)やドン・フレミングとの共作、さらにはリー・ペリーのプロデュースなど、じつは2000年代のアンダーグラウンドに深く入り込んだ人物だということを知れば、例のJポップのカヴァーやお悩み相談もいっそう味わい深く感じられるというものだろう。そして、リディア・ランチが「大勢の変人が精神浄化をするため、ニューヨークという汚くて貧しい街へやってきた」と『キル・ユア・アイドルズ』で当時を回想したように、その「77Boadrum」もまた、ある種のアウトサイダーたちを引き寄せ、彼らの中にある何かを浄化し、あるいは解放するための場であり空間だったのではないだろうか(なお今年08年8月8日には「88Boadrum」()をニューヨークとLAで開催。ニューヨークの回はギャング・ギャング・ダンスがキュレーターを務めた)。


余談だが、2000年代も最終盤を迎えて、たとえばギャング・ギャング・ダンスの文化横断的なアプローチや、それこそTV・オン・ザ・レディオやアニマル・コレクティヴからヴァンパイア・ウィークエンドのサウンドに特徴的なアフロ~トライバルなビートの台頭は、ノー・ウェイヴ以後、イーノと共にアフリカ~民族音楽史的な音楽実験を加速させたトーキング・ヘッズに象徴される当時のニューヨークにおける音楽状況との奇妙な符合を連想させたりもして、興味深い。


(2009/02)


※追記:2009「Boadrum 9」















※追記:2010「Boadrum × 10」

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