『デビュー』のネリー・フーパーやハウイーB。『ポスト』のグラハム・マッセイ(808ステイト)やトリッキー。『ホモジェニック』のマーク・ベル(LFO)。『ヴェスパタイン』のマトモスやマシュー・ハーバート。『メダラ』のマイク・パットンやロバート・ワイアット。さらに、プラッドやエイフェックス・ツイン、ゴールディー、アンダーワールドといったリミックス等で関わった名前も含め、多種多様な人脈に広がるコラボレイターの相関図は、そのままビョークの音楽的な変遷を詳らかにする創作の系統樹とも言える。
一方、ビョークのディスコグラフィーにおいて特徴的なのは、そこで提示されるサウンドが、自身の「音楽史」をアップデートする内容であるのはもちろん、同時代の音楽状況においても常に“最新”の傾向を示すものである、という点ではないだろうか。
つまり、何年に一度か作品ごとに発表されるビョークの最新報告は、いわゆる「シーン」における最新報告とも同義に等しい。コラボレイターの人脈同様、ポップからアヴァンギャルドまで様々なフィールドに入り組みながら広がるサウンドの枝葉の先に生る果実は、常に最先端/最前衛の音楽的な試みとして歓迎されてきた。
文字通り最先端のサウンド・クリエイターを迎え、ダンス・ミュージックの最新モードを身に纏いアヴァンギャルドに着崩してみせた『ホモジェニック』までの三部作。ラディカルなエレクトロニック・アーティストたちと共に、モダン・アートのような静謐で優美な電子音(とアコースティックが融合した)の箱庭を創り上げた『ヴェスパタイン』。多数のゲスト・ヴォーカルの「声」を器楽的/音響的なアプローチから構成し、編曲された無数の「音」の群れがビョーク自身(の「歌/声」)と同期することでオーケストラルな「歌」を奏でる――いわば「声」「音」「歌」の領域を横断する円環的なプロジェクトである――『メダラ』。あるいは『セルマソングス』や『拘束のドローイング9』といったコンセプチュアルな作品も含め、それらは、ビョークという唯一無二の作家性を証明しながら、かつ同時代の音楽的な共通言語としての今日性も備えたポップ・ミュージックの達成とも言える。
すなわちビョークにとって“新しい”は、周りのみんなにとっても“新しい”(と認識できる範囲内に自らのアーティスト・エゴと創作的な到達点を着地させるバランス感覚にビョークは優れている)。「ここ数年ちょっと困ったことがあって、ずっと一緒に仕事していていい関係を築いてきた仲間を、すごくリッチな人が横からもっとお金出して雇っちゃうわけよ」と以前インタヴューでビョーク自身が語っていたエピソードは(マドンナやU2のこと?)、そんな彼女のディスコグラフィーが周囲に与えるエフェクトの大きさを物語っている。
コラボレイターのセレクトに打ち出された明確なサウンド・ヴィジョン。その達成が導くアーティスト・イメージの不断のアップデートと、ポップ・ミュージックとしての共時的な先鋭性。ビョークはそのディスコグラフィーの過程で絶えず進化し続け、結果的に進化し続けることはビョークにとって最大の音楽的な関心事だったと言っても過言ではない。そして乱暴に言えば、その進化のフォーミュラは同時にシーンやリスナーの音楽観を更新するものでもあったように思う。私たちはそのディスコグラフィーを通じて、「新しいビョーク」と「新しい音楽」に何度でも出会い直す。あるいは当のビョーク本人にとっても、もしかしたら音楽を創るという行為とは、「新しい自分」と出会い直す機会として受け止められている部分もあるのかもしれない。
だとするなら、最新作『ヴォルタ』は、はたしてどんな作品だと定義することが可能なのだろうか。彼女のディスコグラフィーにおいて、それはいかなる位置を占め、その「音楽史」に何を刻むのか。あるいは、同時代の音楽状況と対置したとき、それはいかなるベクトルを指し示し、また今日性と結ばれるものなのか。そして、そこにいるはずの「新しいビョーク」は、私たちにどんな「新しい音楽」を届けてくれるのか。
最新のインタヴューでビョークは、「数個の要素しかないんだけど、そのひとつひとつが巨大である」という表現で、『ヴォルタ』の性格を『ホモジェニック』に準えている。「アルバム制作の90%はコンピューターの前に座っていた」と語るように、徹底したポスト・プロダクションが施されながらも、基本的にヴォーカルとインストゥルメントを中心に構成されたサウンドは、『ヴェスパタイン』以降の偏執的なアプローチ/楽曲構造に比べれば、なるほど初期の三部作に手触りは近い。
ティンバランド参加の“アース・イントゥルーダーズ”(でドラムを叩いているクリス・コルサーノはソニック・ユースやサンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マンにも参加するアヴァンギャルド界の才人)や、“イノセンス”のプリミティヴな躍動感に触れて、 “アーミー・オブ・ミー”や“ヒューマン・ビヘイヴィア”を連想しないファンはいないだろうし、マーク・ベルが潤色を与える“ワンダーランド”や“ヴァータブリー・バイ・ヴァータブリー”の荘厳な世界観は、『ホモジェニック』のそれを確かに想起させる(“ディクレア・インディペンデンス”は“プルートゥ”のハードコア版か)。
あるいは、ミュージック・コンクレートを思わす数々の演出的な効果は『セルマソングス』を思い起こさせるし、ブラス・セクションとブライアン・チッペンデール(ライトニング・ボルト)のドラムを従え、アントニー・ヘガティーとの濃厚なデュエットを聴かせる“ザ・ダム・フレイム・オブ・デアイア”はまるで、同アルバムでトム・ヨークと共演した“アイヴ・シーン・イット・オール”の変奏のように聴こえなくもない。中国式琵琶とエレクトロニクスが幽玄な音色を奏でる“アイ・シー・フー・ユー・アー”は、『ヴェスパタイン』の内向的な情緒性や『拘束のドローイング9』に流れるオリエンタリズムのフィードバックとして聴くことも可能だろう……。
繰り返すが、ビョークのディスコグラフィーとは、自己像(正確には自身のヴォーカルを取り巻くサウンド)の絶えざる更新の軌跡である。つまり、そこには常にビョークの「現在」があり、『デビュー』から『拘束のドローイング9』まで含め、発表されるアルバムの一枚一枚にはビョークの「新たなスタンダード」が刻まれてきた。
対して『ヴォルタ』はどうか。
初期の三部作を彷彿させる「動=ポップ」のビョークのダイナミズム。「不信心者で、無宗教な感じ」とは言いえて妙な、国境も人種も音楽的なバックグラウンドも越えた異種混交のマルチ・コラボレーションで制作されたカラフルでモザイク状のサウンド。そして、そんな「音」の重力を無視するように、近作とは異なる雄々しい息遣いで歌唱する圧倒的なヴォーカル。
確かにそこには、まぎれもないビョークだけの世界が広がっている。「一番大事だったことは、とにかく情熱的なアルバムを作るってこと。とにかく一番楽しいことを思い切りやろう、って思ったの」と語るように、七色を身に纏ったアートワークの自身の姿同様、エモーショナルなものが色彩となり溢れ出したような『ヴォルタ』は、なるほど「現在」のビョークのモードをそのまま正直に映し出した作品に違いない。
しかし、ここには、“いまだ見なかった”ビョークはいない。これまでのディスコグラフィーで出会ってきたような「新しいビョーク」は、おそらくいない。
私たちは、この『ヴォルタ』の様々な場面で出会うビョークを、たぶんすでに知っている。いや、もしかしたらこのアルバムを聴いて、「あのビョークが帰ってきた」といったような感覚を抱くファンも、きっと少なくないのではないだろうか。つまり、ここには、これまでのように自身の「音楽史」を更新し、同時代の音楽状況の先端/前衛と交わり、音の細部から、それこそ起用したスタッフの顔ぶれまで周囲の監視対象となってしまうほどシーンに強い余波を与え続けてきた革新的な表現者としてのビョークは、存在しないのではないか、と。
『ヴォルタ』を聴いて、個人的に真っ先に連想したのが、ベックの去年の最新アルバム『ザ・インフォメーション』だった。あれを初めて聴いたときの感触と『ヴォルタ』の第一印象は、とても似ている。
どこかで聴いたことがあるような、けれども既視感とは異なる、確かに「現在」のビョークを捉えたサウンド。これまでの集大成のようでもあり、ビョークによるビョークのセルフ・カヴァーのようなニュアンスもある。しかし、実際にそれが、彼女のディスコグラフィーにおいていかなる文脈で語られるべき作品で、また自身の「音楽史」や全体の「音楽史」といかなる関係で結ばれるものなのか、過去の作品と比べてきわめて曖昧なのである。
たとえばベックが、『ザ・インフォメーション』の前段となるアルバム『グエロ』の制作意図について、こう語っていたことを思い出す。
「このアルバムでは、これまでにいろいろと試してきた中で、いちばんうまくいったなと思えたことばかりを総括したところはあると思う。自分がこれまでに学んだすべてのことをここで発揮して、それをあえてまたダスト・ブラザーズと一緒に仕事したらどうなるのか、っていうのを見てみたかったんだ。このアルバムは、僕がこれまでに実験してきたこと、いろいろと試してきたことすべての結晶なんだ」
『ヴォルタ』の中には、『デビュー』の動物的な肉体性も、『ポスト』のテクノロジカルな熱狂も、『ホモジェニック』の壮大なエレクトロニクスの陰影も、『ヴェスパタイン』の無垢で宗教的な美しさも、『メダラ』の雄々しい生の賛歌も、ある。ならば、『ヴォルタ』についても、こう仮定することができないだろうか。
つまり、これまでアルバムごとにフォーカスが当てられていた様々な「実験」の成果を「総括」し、「地球上において人間はひとつの種族でしかない。人間種族のビートを作りたかった」とビョークが語るように、すべてのトライブの音楽=汎民族音楽として差し出した「結晶」が『ヴォルタ』なのではないか、と。
あるいは、ベックにとっての『オディレイ』と同じく、ビョークにとってキャリアのひとつの到達点である『ホモジェニック』を参照点に、言わばその「王道のビョーク・スタイル」を新たな共演者(だからその中にマーク・ベルの名前が再度含まれていたことには意味がある)と共にアップデートしたものが『ヴォルタ』である、という解釈もできるかもしれない。「ビョーク」という音楽のアーカイヴの中でコンピューターの前に座り、無邪気なセルフ・ミックスに興じるビョーク自身の姿が目に浮かんだりもする。さらに言えば、サウンドの随所に窺わせる自身の作家性を相対化するような眼差しは、たとえばオノ・ヨーコの『イエス・アイ・アム・ア・ウィッチ』みたいに、本人参加のトリビュート・リミックスとして聴けないこともない。
ビョークは『ヴォルタ』の出発点に関して「まず決めたのは、事前にいろいろ決めるのはやめよう、ってことだったの(笑)」と語っている。確かに今作は、これまでとは違い、いわゆる音楽的な野心から生まれた作品ではないのかもしれない。コラボレイターのセレクトにも、従来のような一貫したテーマ性やコンセプトは見当たらない。(制作工程の実質90%は自身の編集作業だったというのだから、結果的に共演者の役割は一部を除いてほとんど「素材」の提供者のようなものだったのではないか。ティンバランドに至っては自分のサウンド・ファイルの全部をビョークに預けていたというし)。本当に直感的に、楽しむことを第一に、「自分の中の熱狂を信じる」ことで生まれたアルバムであることが窺える。
それゆえ『ヴォルタ』は、結果的にビョークの「現在」がありのままの姿でさらけ出された作品となった。だからこそ、同時にそれはビョークにとって、これまでの自身の「音楽史」に見られた進化論的な視座とは別の部分で「音楽の本質」に触れるような機会だったのではないだろうか。
『ヴォルタ』は、ビョークが初めて同時代的なコンテクストとは離れた場所で音楽と自分に向き合った作品であると考える。そしてそれが、必然的とも言えるクオリティで「ビョークの音楽的な本質」を総ざらいするような内容の作品となったことに、驚きを禁じえない。『ヴォルタ』は、これまでのどの作品にも増してもっとも“ビョークな”アルバムと言えるのではないだろうか。それ以上の付加価値めいた意味づけや文脈を必要としないほど、『ヴォルタ』には音楽としての強度を感じる。
それにしても、ビョークの歌声である。何が鳴ろうが、誰と組もうが、所詮すべてはバックトラック/背景として他者を置き去りにしてしまうビョークの歌声は、圧倒的に自由であり、同時に根源的な不自由さも体現しているように感じてしまうのは気のせいだろうか。何物にも染まれない、何者とも同一化できないその強烈な存在感に、あらためて感嘆する。そして、その他者との乖離は一層鮮明な形で『ヴォルタ』に陰影を刻んでいる。冷静に聴くと、ほとんどサウンドを無視してビョークが独唱しているような曲ばかりだし。
(2007/06)
(※2010年代の極私的“ビッチ”考……ビョーク『バイオフィリア』(※草稿) )
(※極私的2000年代考(仮)……ポスト・ノー・ウェイヴはアンダーグラウンドを疾駆する)
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