2011年2月1日火曜日

極私的2000年代考(仮)……レディオヘッドという案件

レディオヘッドのニュー・アルバム『イン・レインボウズ』の印象を言葉で表現するのは難しい。初めて耳にして以来、もう何度と繰り返し聴いてみたが、その感覚はまったく変わらない。いや、むしろ聴けば聴くほどその疑問や不可解さは増すばかりというか。

違和感、というのとも違う。難解なサウンドなので適当な言葉が見つからない、というのとも異なる。ただなんとなく漠然と、しかし確かな実感として、否定的な気持ちからでも肯定的な気持ちからでもなく純粋にこの「音楽」を、“レディオヘッド的”に/あるいはレディオヘッド的なものとは離れた場所でどう評価すべきかが、まったくもって判然としない。


『イン・レインボウズ』を初めて通して聴いたとき、最初に抱いた感想は、なんだか随分と雑然としたアルバムだな、というものだった。

激しいものと穏やかなもの、シンプルなものと複雑なもの、暖かいものと冷たいもの、凶暴なものと静謐なもの……ギター・ロック、エレクトロニカ/ブレイクビーツ~グライム、ミニマリズム/アンビエント~ダブステップ、バラード、オーケストラ……など、いろんなアプローチの楽曲が並び、確固たる音楽的なベクトルや世界観が基底通音のように作品全体を貫いた『キッドA』以降のレディオヘッドの近作とは、明らかに手触りが異なる。肯定的に言えば、バラエティに富んでいてあらゆるチャンネルに開かれている。少し否定的な見方をすれば、どこかとらえどころがなく焦点が定まっていない。どれも名曲揃いだけど、核となる「この1曲」がない、みたいな。
 

まさに「虹」を描くようにカラフルな楽曲群に彩られた『イン・レインボウズ』。そしてその「虹(=アルバム)」は、「あらゆるものを平等に扱っている(トム・ヨーク)」「僕にとって完璧な状態というのはラップトップもアコギもまったく平等に扱って、どちらも美しいものが作れてっていう状態で、自分達はどんどんどこに近づきつつあると思う(ジョニー・グリーンウッド)」という両者の言葉どおり、それぞれの「色(=楽曲、機材etc)」が等間隔に配色されることで均衡が保たれている。

しかし、果たしてその「虹」は、どこからどこへ向けて架けられたものなのか。アルバムを聴いても、いわば「虹の中」からは虹の軌跡が見えない。いや、そもそもあらゆるものが等価に存在する「虹の中」の世界に、その軌跡を導く「始まり」や「終わり」などあるのだろうか。
ア・ラ・カルトに様々なタイプの楽曲が揃い、しかもそれらは平等な関係性においてアルバム内に遍在している。そしてそれ(アルバム)は、「虹」を思わせる美しい弧と色彩を描きながらも、「ひとつの作品」として完結性を誇るというより、むしろ誰もがどこからでも「虹の中」に入ることができるような開放性を感じさせる。

つまり変な言い方をすれば、『イン・レインボウズ』とは、いわゆる私達が一般的に考える「アルバム」と呼べる形の代物なのだろうか。もっと言えば「アルバム」として差し出される必然性はどこにあるのか――。そこが、個人的に『イン・レインボウズ』に対して漠然と感じた疑問や不可解さの端緒でもある。

実はこうした感覚を抱くようになったのには個人的な理由がある。というのも、そもそも僕は『イン・レインボウズ』を、彼らのサイトからダウンロードしたわけではなく、知人が焼いてくれたCDRとして入手したのだけど、どういうわけかそのCDRは、正規の作品とは異なるデタラメな曲順で収録されたものだった。しかも、そのことに気付くことなくしばらくそれを聴いていた、という。つまり、そもそも初めから「虹の中」への入り口も辿るべき軌跡も間違えてしまっていたわけで、そんな経緯もあり、なおのこといっそう『イン・レインボウズ』は輪郭の曖昧な作品という印象が強い。そして驚くことに、そのCDRで聴いた『イン・レインボウズ』と、後日聴いた正規の『イン・レインボウズ』の聴後感は、ほとんどまったく変わらなかった。
今回の『イン・レインボウズ』のリリースを聞いたとき、その販売方法の画期性もさることながら(実は4年前の『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』のリリース時点でトムはインタヴュー等で予告していたわけだが)、個人的に真っ先に思ったのは、大なり小なりこういう事態は起こり得るのではないか、ということだった。MP3ファイルのデータ形式でやり取りされる『イン・レインボウズ』の10曲は、もちろん然るべきコンセプトに基づき曲順の通し番号が付されているだろうとはいえ、それがパソコンやデジタル音楽プレイヤー向きの「ソフト」であることをある程度前提としている以上、すでにフォーマット化されたCDの場合とは異なり、あらかじめいかようにもシャッフルされ加工されて聴かれることを免れない。

つまり、その「作品」が、必ずしもアーティスト側の意図した形の「作品」として聴かれるとは限らない。結果として、極端な話、聴き手の数だけ順列組み合わせのパターンをもった、無数に変奏される『イン・レインボウズ』の存在を可能性として孕むことになる。そして、それは突き詰めて考えれば、一種のオープンソース的なものへとレディオヘッドを“開く”機会とも捉えることができなくない。
こうした『イン・レインボウズ』のリリースがもたらす、その可能性や潜在的な事件性をバンド側がどこまで把握し予測していたかはわからない。リスナーのリアクションについては概ね手応えを掴んでいるようだが、事の全体像が見えてくるのはもう少し経ってからなのだろう。しかし、この彼らの一連の行動が、単に音楽業界の構造的な問題のみを標的としたアクションだとは到底思えない。もっと本質的な部分での音楽と自分達をめぐる関係性、つまりレディオヘッドの「これまで」と「これから」を問い直し再構築する議論の射程を含んだ、多分に実践的で確信犯的な批評的行為だったと推測する。

そして、こうしたことと『イン・レインボウズ』が音楽的に与える印象は、おそらく無縁ではない。さらに言えば、これらのあらゆる事象や事態の行き着く先こそ、彼らが『イン・レインボウズ』で導こうとしている「虹」の軌跡なのではないだろうか。


たとえば本作に関するインタヴューのなかで特に印象に残ったのは、トムのこんな発言である。今回のダウンロード販売のメリットを訊かれて、トムはこう答えている。
「これはどういうアルバムかという文脈でバンドの歴史がしつこく繰り返されなくてもいいこと。作品の真価そのものによって聴いてもらえるんじゃないかと」
ちなみにトムは、6年前の『キッドA』リリース時のインタヴューでも、このような発言をしている。
「僕としては、次に作るものが過去の作品の責任を負わされるのはまっぴらごめんだって思ったんだ」
今回の先行ダウンロードという形のリリース方法が、ひとまずバンドを取り巻く業界的な「外側の世界」の解体だったとするなら、バンド自身の内側から「レディオヘッドの世界」を解体したのが、あの『キッドA』だった。極めて簡略して言えば、『OKコンピューター』までのいわゆる「ロック」的なアプローチから、エレクトロニクスやポスト・プロダクションを大胆に導入した「脱ロック」的なアプローチへの転回。オブスキュアなメロディ、分裂的なビート、複雑なサウンド・テクスチャー、断片的で抽象的に選び取られた歌詞……すなわち、それまでのレディオヘッド的な文脈の切断、サウンド・ヴォキャブラリーの更新が『キッドA』では目論まれていた(その「結果」についてはあらためて議論の必要がある。そして『アムニージック』の位置づけについても)。

しかし、同時にその内在的な批評精神は、「ロック・ミュージシャンはみんな家に帰って、生活を取り戻すべきだよ。そして何か別のものを聴くんだ。ロックなんて退屈だ」といった当時のインタヴューでの発言にもあるように、自分達の「外側の世界」にも向けられたものであったことはご存知のとおりである。

それは単に、ギター・ロック的な音楽フォーマットとしての「ロック(・バンド)」の否定でも、ロックの歴史性の否定でもない。今回の『イン・レインボウズ』のリリースが標的としたものと同様の、音楽業界が抱える不健全な産業構造や資本のサイクル、それに巻き込まれざるを得ないロック・バンドの愚かしさ、エゴ、クリシェ、惰性的なクリエイション環境……など、そうした一切の括弧付きの「ロック」を拒否し、逆説的に本質的なロックの批評性やエモーションを再検証することで「大文字のロック」を回復すること、それが『キッドA』の「(外側の)世界」への眼差しだった。
そして、これと同じような構図で、『イン・レインボウズ』の「外側の世界」に向けられた批評精神もまた、同様に「レディオヘッドの世界」に向けられるものでもあると考える。

今回のゲリラ的なリリースは、硬直化した音楽業界に対する批判的なメッセージであると同時に、上記のトムの発言にもあるように、“レディオヘッド的”な文脈を離れたところで純粋に自分達の「音楽」に対する正当な評価を求める声の表れだった。ダウンロードという販売形態も、その即効性もさることながら、CD/レコードという固定された聴取体験ではなく、聴き方の自由をリスナーに委ねることで「作品の真価そのもの」へと導く周到なプロセスではないかと思えてくる。「あらゆるものを平等に扱っている」という様々なアプローチの楽曲が並ぶサウンドは、特定のヴィジョンや方向性を打ち出すことで帯びる過剰な意味性を排し、フラットな形でバンドの全体像を提示することで、歪ではない、ありのままのレディオヘッドという存在を再確認しようという試みなのではないだろうか。

「誰もが感じているレディオヘッドの深刻さ」「自分を過度に重要視するほど最悪なことはないからね」というトムの言葉が象徴する、ある意味誇大的に膨らんだレディオヘッドを、そうしたバンドの歴史性みたいなものを再生産するあらゆる回路を断ち切ったところで、持てるすべてのサウンド・ヴォキャブラリーを使い解体し、再構築する。バラバラのピースのような楽曲が、ひとつに束ねられることでグラデーションを放ち、まっさらなキャンバスに文字どおり「虹」のような美しい弧と色彩を描く。そしてその「虹」を、彼方に眺めるのでもなく、その向こう側に想いを馳せるのでもなく、「虹の中」から見つめている――『イン・レインボウズ』は、なるほどそんな不思議な光景を想起させなくない。


『イン・レインボウズ』が、少なくともバンドにとって、いわゆる「レディオヘッド論」「レディオヘッド史」的な既成の文脈からの解放を意図した作品であったことは間違いない。そして、それはある部分では果たされ、それ相応の自由を彼らが手にしたことはトムとジョニーのインタヴューからも窺える。

しかし、同様の意図をもって制作された『キッドA』が、皮肉にもさらなる「レディオヘッド論」を刺激し、「レディオヘッド史」のドラマ性を煽ったように、『イン・レインボウズ』もまた、そのようなバンドをめぐる文脈の螺旋からは逃れることができないのではないだろうか。その手に入れた自由や解放感の先には、また新たな「レディオヘッド論」「レディオヘッド史」が続いている。「誰もが感じているレディオヘッドの深刻さ」は、やがて姿や形を変えて彼らの前に現れ、「自分を過度に重要視する」トム・ヨークという一人称は、新たなアルター・エゴとしてレディオヘッドを再び波乱の季節に呼び入れないとも限らない。そして、トムが言うところの「怪物」は、その正体が他でもないレディオヘッドそのものである以上、バンドを続ける限り永遠に消え去ることも脳裏から離れることもないだろう。
そうした諸々に考えをめぐらせた上で、やはり自分の感覚としては、このアルバムをどう評価し位置づけたらよいものかわからないでいる。果たしてこれは、現状における彼らの最高到達点なのか、それとも踊り場的な変化/進化の過程にある姿なのか。少なくとも「これまで」とは変わろうとしているのは確かだが、しかし、ここから聴こえてくるものはまぎれもないあのレディオヘッドであり、それ以上でもそれ以下でもなく、いやそもそも何かそんなイズムめいた気負いなど毛頭ないようなあっけらかんとした感じも伝わってきたりする。

そして、このようなアルバムが、結果的に、レディオヘッドの「これから」をいかように照らしているのか。『キッドA』『アムニージアック』や『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』を聴いたときの、あるいは聴き終えたときの、あの胸騒ぎがするような未来の手応えや予兆が、『イン・レインボウズ』には希薄というか、あまり感じられない。解放感や多幸感で溢れる「虹の中」で彼らが、かつてないほど自由に「音楽」と向き合えていることは伝わってくるが、そのことがレディオヘッドの「これから」にどのような果実をもたらすのかは、現状では見えてこない。ただ、過去でも未来でもない、この「たった今」を全身で享受する――そんな、もしかしたら今まで彼らが見せたことないかもしれないレディオヘッドを『イン・レインボウズ』が捉えているのは間違いないだろう。
 
かつて「レディオヘッド」という意味性や記号性に誰よりもウンザリしていたはずの彼らは、しかしその重力を全方位に平等な状態で解き放つことで、ロック・バンドとしての自由な身体を手にし、ある意味「レディオヘッド」を再び自分達のもとに取り戻した。まぎれもないレディオヘッドによる、レディオヘッドにしかつくれないアルバム『イン・レインボウズ』。この揺るがなさはやはり、ロック・バンドとしてひとつの究極のあり方なんだろう。


(2008/02)

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