2011年6月24日金曜日

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑤

・ Alfred Beach Sandal/One Day Calypso
・ muffin/FIRST TRIP
・ Cocknbullkid/Adulthood
・ Bon Iver/Bon Iver
・ Slap Happy Humphrey/slap happy humphrey
・ Thoughts On Air/Vent
・ 笹口騒音ハーモニカ/H
・ Chad Valley/Equatorial Ultravox
・ Washed Out/Within and Without
・ Connie Francis/Hawaii Connie
・ にせんねんもんだい/NISENNENMONDAI LIVE!!!




『「弾き語り」という音楽スタイルにはいまだ汲み尽くせぬ可能性がある。Alfred Beach Sandalこと北里彰久の音楽を聴いているとそう感じる。ガット・ギターを爪弾き、語るように歌い、歌うように語る。叙事的な描写と飄々とした歌声は平曲の境地も思わせるが、けれどもそれはまぎれもないポップ・ソングであり、深い「唄心」が聴き手を大きく揺さぶる。客演に腕利きのミュージシャンを迎えたフリースタイルな演奏。乱れ飛ぶ音の最中でも男は虎視眈々と言葉を繰り、歌を紡ぐ。そのさまに痺れた』。/muffinのカバー・アルバムはその歌声もさることながら選曲が見事。ピーター・アイヴァーズ、ホープ・サンドヴァルからヤナ・ハンターやメグ・ベアードまで。とりわけジュディ・シルが素晴らしい。他にもヴェルヴェット・アンダーグラウンドやパステルズ、テニスコーツとか。こうして聴くと、VUのサード以降~ソフトサイケ路線がアノラック・サウンドの原点のひとつ、ということに意外な形であらためて気づかされたりする。/


(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)④)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)③)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)②)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...))

極私的2000年代考(仮)……"新しさ"の相対化を拒むAMのロックンロール

「アークティック・モンキーズは最高のロックンロール・バンドだ」。

その意見に異論はない。

「ロックンロール」と一口にいっても、そのイメージや解釈はさまざまだが、それを承知の上で、彼らのサウンドには、しかし「ロックンロール」と以外に呼びようのない絶対的なアウラがある。

個人的に彼らの音楽を初めてちゃんと聴いたのは3年前のサマーソニックで観たライヴだったが、思い返してみても、その際の強かなインパクトを言い表すにはやはり「ロックンロール」の他にふさわしい言葉は見当たらない。もちろん、彼らの音楽はそう単純に一元化されるものではない、多様なエレメンツを含んだものであることはいうまでもないが、それでも2000年代以降に登場した数多の顔ぶれの中で「ロックンロール・バンド」と名乗ることがサマになるバンドは、彼らを置いてそういないだろう。


しかし、そう彼らに対して手放しで快哉を上げたくなる一方で、一リスナーとして彼らの音楽を聴きながら、あるいは彼らを取り巻く状況を見ていて思う、素朴な疑問がある。じゃあ、アークティック・モンキーズというバンドの何がそこまで “特別”なのか。彼らが最高のロックンロール・バンドだとして、ならばそこで彼らを「ロックンロール」たらしめているものとは何なのか。

それこそ、その理由はリスナーの数だけさまざまあるだろうが、彼らの魅力を、理屈ではなく感覚で理解しながらも、いざアークティック・モンキーズというバンドを真正面から語ろうとするとき、その難しさや捉えがたさに突き当たる。

彼らとその「ロックンロール」は、今の音楽シーンにおいてどう位置付けられるべきものなのか。そして彼らとその「ロックンロール」は、過去と現在をつなぐどのような流れの中に立つべきものなのか。そうした、アークティック・モンキーズというバンドの特異性を示すべく、彼らを評価の遡上に乗せるための座標軸を、そこにうまく描くことができないのだ。


というか、そもそも彼らが寄って立つこの2000年代の音楽シーン自体、その輪郭を描くことは難しく、実像は捉えがたい。

ネット環境の進展や音楽市場の爛熟(リイシュー&リマスター、BOX等のカタログ売り)を背景に加速する、ジャンルの細分化と“音楽史”のアーカイヴ化……リヴァイヴァルやクロスオーヴァーが前提となった2000年代の音楽シーンは、そのカルチャーとしての全体性を解体し、「ロックンロール」(「ポップ・ミュージック」も然り)という概念や価値観をとことん流動化させ空洞化させた、と2000年代の最初の10年を振り返りあらためて実感する。

(メジャーもインディーズも素人も、過去も現在も同じ空間にファイル状で陳列され)氾濫する“情報”としての音楽と、それらに取り囲まれた中で、いわば外堀を埋められるような形で逆説的に存在感を浮かび上がらせる「ロックンロール」。もはや「ロックンロール」は“中心”や“全体”ではなく“一部”であり、そうした無数の“一部”が、たとえば「時代(精神)」や「音楽シーン」といった大きな流れに収斂することなく点在するような状況こそ、2000年代の特異性であり、捉えがたさの所以だろう。


「幻想から醒めた後の時代を生きる世代っていうかな……魔法がすっかり解けてしまった後の妙に醒めた感覚が常につきまとってるっていうか。現代も過去もひっくるめてあまりにもいろんな情報に簡単にアクセスできるようになった時代の結果として……スポイルされた時代のスポイルされた世界を生きるスポイルされた子供達なんだよ(笑)」(ハドーケン!、ジェイムス)。
  
2000年代とはいわば、“「ロックンロール」という幻想から醒め、魔法が解けてしまった後の時代”であり、「加速する文化のための音楽」と題されたハドーケン!のデビュー・アルバムのタイトルは、そうした“喪失後”の音楽環境を取り巻く空気やミュージシャン/リスナーの意識の変化をリアルに象徴しているようだ。そこでは、「ロックンロール」は、ただそれだけではもはや時代やカルチャーを代弁するような音楽ではないのかもしれない。


ストロークスやホワイト・ストライプスのブレイクに触発されたロックンロール・リヴァイヴァル。フランツ・フェルディナンドが牽引したニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクの再評価。そしてクラクソンズやハドーケン!に代表されるニュー・レイヴ~ニュー・エキセントリックと呼ばれたクロスオーヴァー~折衷主義の動き。そうした2000年代を通じた一連の音楽トレンドを背景に、そこでは夥しい情報量の音楽が「現代も過去もひっくるめて」取り交わされ、なかば価値のインフレを引き起こしながらも、状況はこの10年間で文字どおり加速の一途を辿ってきた。その光景は、ジェイムスのいう「醒めた感覚」とは対照的に、あたかも幻想から醒め魔法が解けたことを忘れさせるかのような、一種の躁状態のようにも映る。そしてアークティック・モンキーズは、前年の限定シングルに続き2006年のデビュー・シングル、デビュー・アルバム『ホワットエヴァー・ピープル・セイ・アイ・アム、ザッツ・ホワット・アイ・アム・ノット』を引っ提げ、2000年代のど真ん中に登場した。リバティーンズがUKシーンに復権させたDIYなコミュニティ感覚を受け継ぎ、ネットを通じて広がったファンをベースに世界的なブレイクへの足がかりを築いた彼らもまた、ある意味ではまぎれもなく「加速する文化」の恩恵の元にクローズアップされたバンドといえるだろう。

しかし、アークティック・モンキーズの音楽は、いわゆる「加速する文化の『ため』の音楽」ではない。ハドーケン!やクラクソンズのクロスオーヴァーとはいうまでもなくフォルムはまったく異なる。数多のリヴァイヴァルや、参照と折衷に没頭するような音楽とも無縁だ。

もちろん彼らのサウンドもまた、過去のさまざまなアーティストやレコードからの影響やインスピレーションを形にしながら、ジェイムス・フォード(シミアン・モバイル・ディスコ)を始めとするプロデューサー陣との共同作業を通じて実を結んだ、「加速する文化」を背景にした賜物に他ならない。

が、あらゆる音源がファイリングされアーカイヴとして流通する2000年代という同時代性に立ちながらも、そうした「加速する文化」の反映としての音楽を彼らはけっして作らない。「ロックンロール」の共同幻想的な物語を信用していないという意味では、彼らもまた「醒めた感覚」を共有するが、しかし、それでも彼らの足場はあくまで「ロックンロール」であり、彼らのサウンドには、いうなればそうした“喪失後”の「ロックンロール」の可能性を模索し、音楽的な再構築/脱構築を試みるような肯定性がある。

それはけっして幻想や魔法への憧憬でも、ましてやノスタルジーではない。ほとんど自らの作品についてのみ饒舌に語られる彼らのインタヴューにも象徴的なように、そこにあるのはいわば「醒めた肯定性」というものであり、安易に群れず、またシーンと呼ばれるようないかなる磁場や文脈にも属すことなく孤独なほどストイックに音楽と向き合っている印象が、彼らにはある。


誤解を恐れずにいえば、アークティック・モンキーズはけっして音楽的に革新的なバンドではない。何か斬新なアイディアが試みられているわけでも、新たなタームを創出するような画期性があるわけでもない。異論は認めるが、ただ少なくともそうしたサウンド面の新奇さや実験性云々で注目を集めたバンドではない。「加速する文化」の元で新たな刺激を求めて奔走するような2000年代において、彼らのサウンドはむしろ、ともすればオーソドックスでクラシックに映る代物だろう。彼らの登場を、悪い意味でロックンロール・リヴァイヴァルのそれと重ねる向きも少なくなかったかもしれない。

しかし、そのことは、彼らが新しさや変化に無関心で鈍感なバンドという意味では断じてない。ニュー・アルバムの『ハムバグ』も合わせて3枚のアルバムを並べて聴けばわかるように、彼らは一作ごとに過去の自分達のサウンドを敷衍し止揚しながら、確実かつ強かに変貌を遂げてきた。
とりわけ2nd『フェイヴァリット・ワースト・ナイトメア』において、その変化/進化の象徴的なトラックである “ブライアンストーム”を決定づけたビートのキーとしてプロディジーの名前を挙げていことが(後のニュー・レイヴ~ニュー・エキセントリックの参照性をわずかに先取していた点で)興味深いが、ジェイムス・フォードやクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムといったプロデューサーの人選にも窺えるように、彼らはけっして座りのいい「ロックンロール・バンド」ではない。外部のさまざまな刺激に触れ、それらを吸収しながら、細かな実験や試行を重ねることで、初期の原初的なギター・ロックからより広義のそれへと彼らがサウンド/バンド・アンサンブルの幹と枝葉を太くしなやかに成長させてきたことを『ハムバグ』は物語る。


「加速する文化」は、“新しさ”という価値を流動化させ空洞化させる。「現代も過去もひっくるめて」容易にアクセス可能な音楽の氾濫は、その評価の拠り所となる時間軸や時系列を混乱させ、ゆえに“新しさ”を測る基準も当然曖昧になる。そうした“新しさ”を相対化する座標軸の喪失は、先に触れた「ロックンロール」の流動化/空洞化、また「時代(精神)」や「シーン」といった全体性の解体/島宇宙化に顕著な2000年代の特異性とも密接に絡んでいるだろう。そこにはそもそも“新しさ”を共有できる場所がない。それはつまり、かつて(「加速する文化」以前)の“新しさ”の基準では、2000年代(「加速する文化」以降)の“新しさ”を確定することはもはやできない、ということなのかもしれない。

であるとするならば、2000年代における“新しさ”とは何か。その音楽の“新しさ”を担保する特性なり資質は何か。その答えを出すことの難しさは、この10年の間に、本当の意味でのムーヴメントや、アイコンと呼べるようなバンドやアーティストが登場しなかったことと表裏の関係にあるだろうことは間違いない。そして、なぜ登場しなかったのかといえば――そう問うことはすなわち「加速する文化」の問題に回帰してしまうような、そんな入れ子の関係で堂々巡りするサイクルの中に2000年代は呑み込まれてしまっているようなのだ。それは、作り手側のクリエイティヴィティを問うアーティスティックな問題なのかもしれないし、あるいは、それを支える音楽業界の仕組みや消費者側の問題でもあるのかもしれない。ジェイムスが語る「スポイルされた時代のスポイルされた世界」という感覚は、こうした“新しさ”をめぐる閉塞感とたぶんシンクロしている。


繰り返すが、アークティック・モンキーズはけっして音楽的に特別革新性に秀でたバンドというわけではない。しかし彼らは、(まだアルバム3枚のサンプルしかないが)作品ごとに確実にその音楽的な変化や進化のプロセスを提示している。たった3年の間にも関わらず、『ホワットエヴァー~』と『ハムバグ』とでは、ビートの速度感や展開力、リフやギター・フレーズの多彩さ、ソングライティングの成熟度は比べ物にならない。そして、その達成された変化や進化はしかし、同時代的な今の音楽シーン内に位置付けられたり還元されたりするものではない、と考える。つまりアークティック・モンキーズとは、自らの“新しさ”を相対化させようと「加速する文化」にエントリーするのではなく、いわば内在化させることでその変化や進化のベクトルを定位し、内側から音楽的な自己像の更新を図ろうとするようなバンドなのではないだろうか。

彼らは、幻想から醒め魔法が解けた喪失後の2000年代で、それでも自らを相対化することで別の幻想や魔法(を与えてくれる「物語」)と結び繋がろうとするのではなく、自らの物語と、その現在地と進路を示す座標軸に忠実であろうとする。だからアークティック・モンキーズを語ることは難しく、捉えがたい。なぜなら彼らの“特別”たる所以もまた、その“新しさ”と同様に相対化ではなく内在化されたものだからだろう。


「今じゃどんな音楽でも、誰もが本当に簡単に手に入れられてすぐ自分のものにできるし、他人が何と思おうが関係ないんだよね。そのお陰で、音楽は他のものと何ら変わらない、単なる生活の一部になったんだ。そこには自由があったよ――みんな“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”といった縛りから解放されて、そしていきなり、“これまで経験してきた音楽の集大成が、自分のパーソナリティを形作るんだ”とされるようになった。どんな音楽でどんなことをやっても構わない、好きな音楽で好きなことをしていいんだ、ってことになったんだ」。

そう語るバトルスのタイヨンダイ・ブラクストンの考えに100%同意する。これはある意味で「加速する文化」のポジティヴな解釈であり、そこで音楽との間で結び直される新たな関係性がミュージシャンの創造性をより解放するという感覚の正しさは、何より彼のソロ・アルバム『セントラル・マーケット』が雄弁すぎるほどに物語っている。

そんな時代に「ロックンロール」とは、なるほど一種の幻想か魔法のようなものなのかもしれない。しかし、それでもなお幻想や魔法を信じさせてくれる「ロックンロール」があるとすれば、それはアークティック・モンキーズ以外にありえない、と彼らの音楽は直感に訴えかける。そこにあるのもまた、「シーン」や「時代(精神)」ではなく“これまで経験してきた音楽の集大成が自分のパーソナリティを形作る”という意味で「加速する文化」のポジティヴィティを享受し、あらゆる縛りから解放された「自由」に他ならない。


(2009/10)

2011年6月9日木曜日

2011年の小ノート(仮)……Alfred Beach Sandal

2010年10月17日(日)

Alfred Beach Sandal@七針。ようやくライヴを見れた。フリースタイルなドラムとラッパ&スティールパンを従えたトリオ編成は、作品で聴くボッサな調子の弾き語りとは違い、まるで赤道直下の密林と20年代のニューオリンズを行き来するように(!?)スリリングだった。


2010年11月04日(木)

Alfred Beach Sandalを見るのは、この前の七針に続いて2度目。まだたった2度目だけど、この人の演奏を見ていると、ギター一本と歌、という表現には、まだまだ汲み尽くせない未知なるものがあることを実感させられる。
ちょっと形容し難い感触なんだけど、そこに「私」がいない、とでもいうか、「私」という容れ物から覗く風景をひたすら綴っていくような語り部的な歌の感じがとても好きで、それは僕にはまるで琵琶法師が弾き語る平曲を思わせたりもする。ひたすら叙事的で、歌うように語り、語るように歌う。
歌声がそう錯覚させるのか、それともあの飄々とした佇まいがそう思わせるのか、まだわからない部分は多いのだけど。スティールパンを迎えた演奏も、この前の七針での観たそれ以上に謎めいていた。


2010年12月18日(土)

Alfred Beach Sandalに果ての果てまでふっ飛ばされた。イチラク氏のドラムはクリス・コルサーノのこんな逸話――奴なら岩石と亀の甲羅で太古の精霊を呼び寄せることができる――を思い出させた。


2011年01月22日(土)

七針でAlfred Beach Sandal。ドラム、ベース、ラッパ&鍵盤を迎えた四人編成は初。ベースがグルーヴを支えることで、歌が、音が自由奔放に遊びまわっていた。めちゃファンキー。バンドのアンサンブルが、ビーサンの実はポップシンガーっぷりを浮かび上がらせていたマジック。
(VIDEOTAPEMUSICは、映像編集と魔笛のようなピアニカが醸し出す、甘ったるくも禍々しい時間の感覚が個人的にケネス・アンガーの諸作を思わせた。即買いしたCD『Summer Of Death』も素晴らしい。赤道直下で惰眠を貪るような、熟れ熟れのリゾートマッドポップ)





2011年05月05日(木)

Alfred Beach Sandalは今迄観たライブ、どれ一つと同じ編成/メンバーのものがないという偶然。今日はゴンチチ編成だったが、飄々と言葉を繰るさまが渋かった。


2011年05月27日(金)

Alfred Beach Sandal@ゲラーズレコ発。今日もABSは“何か”をやろうとしていた。とても緊張感があった。ABSはけっして漫然とライヴをやるようなことをしない。それは見るたびに異なる編成やアレンジにも表れているけど、昨日のライヴでもABSは“何か”を狙っているように思えた。(そしてそれは秘密裏のうちに成功していたはずだ)

2011年6月8日水曜日

極私的2000年代考(仮)……USアンダーグラウンドのキュレーション

12月にイギリスのサマーセット州ミンヘッドで開催される、ソニック・ユースのサーストン・ムーアがキュレーターを務めるオール・トゥモローズ・パーティーズ。以前にも開催のニュースを紹介したが、しばらくオフィシャルHPの情報から目を放していた隙にラインナップがとんでもないことになっている(ちなみに来年一発目のキュレーターはダーティ・スリー。現時点で決定している出演者はニック・ケイヴ、ロウ、パパMなど)。

出演アーティストは大きく分けて5つのグループにカテゴライズできる。

ソニック・ユースを筆頭に、ダイナソーJr.、ギャング・オブ・フォー、メルヴィンズ、フリッパー(マジかよ!?)、ノートキラーズからザ・デッドC、サン・シティ・ガールズ、ナース・ウィズ・ウーンド、ホワイト・アウトといった(音楽性はバラバラだが)大雑把にパンク~ポスト・パンク/ノー・ウェイヴ世代の重鎮クラス。そして、バード・ポンドにジャッキー・O・マザーファッカー、ノー・ネック・ブルース・バンド、MV/EE+ザ・バーマー・ロード、ハラランビデス、ウッデン・ワンド、サンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マン、シックス・オルガンズ・オブ・アドミッタンス、コメッツ・オン・ファイア、メジャー・スターズ、リチャード・ヤングス、ファーサクサ、イスラヴァといったオールスター級の顔役が揃う、いわゆるフリーク・フォーク勢。そして彼らに連なるエクスペリメンタル・ロックの流れとしてダブル・レオパーズやマイ・キャット・エイリアン、さらにウルフ・アイズやヘアー・ポリスなど含むNO FUN周辺のノイズ/ドローン派。そしてマジック・マーカーズやビー・ユア・オウン・ペット、オーサム・カラーらソニック・ユース・チルドレン的なUSアンダーグラウンドの新顔に、イギー&ザ・ストゥージズとDKT MC5(&マッド・ハニーのマーク・アーム)というゴッドファーザー・オブ・パンク二大巨頭――。


サーストンがここ数年、80年代や90年代から続くフリー・ジャズや即興シーンのアーティスト(最近ヘラのザックと新プロジェクト、ダムセルを結成したネルス・クライン、鬼才ピーター・ボルツマンも出演者に名を連ねる)との共演と平行して、先の顔ぶれに代表されるフリーク・フォーク周辺のアーティストと積極的な交流を見せていることは以前にも触れたが、そのサーストンの思惑がここに列記したラインナップを見てみるとよくわかる。

つまり、サーストンにとってフリーク・フォークとは、単なるルーツ回帰や現代のフォークロア的なものではなく(そうした側面もじつは重要だったりすると思うのだけど。アニミズムとの関わりとか、コミューン的な思想を好む、ある種の儀式性とか)、自身もその一部である「歴史」と地続きに台頭したアヴァンギャルド・ミュージックの形態のひとつである、と。文字どおり“フォーク・ミュージックの異端派”というより、その「奇形性=フリークネス」ゆえに汎音楽的に前衛を更新する表現として、フリー・ジャズやノイズ・ミュージックと並ぶ音楽的な潜在性を捉え直す視座、とでも言うか。パンクの前史から現在へといたる時間軸において彼らの存在を位置付け、アンダーグラウンドのクロニクルとして提示したそのATPのラインナップは、そうしたサーストンならではの音楽(史)観に基づく批評的な意図が反映されているように思われる。

そして、さらにいえばそこに、音楽的な相関性や系統図的繋がりを明らかにすることでアンダーグラウンドの史観に新たな文脈を構築する――そんな企みさえ、このラインナップからは窺えなくもない。

たとえばストゥージズやMC5を、プレ・パンク云々ではなく、アルバート・アイラーやコルトレーンらを影響源とするフリー・ジャズへの参照性にこそ着目し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに比肩するインプロヴィゼーショナルなサイケデリック・ロックのオリジンとして読み替えることで導き出される系譜。すなわちフリーク・フォークを既成の文脈とは異なるアンダーグラウンド内の発展のフェーズにおいて定義付けることで、アヴァンギャルド・ミュージック全体の体系を再編する――。ともあれ、サーストンがフリーク・フォーク周辺を、現在のアヴァンギャルド・ミュージックの状況を俯瞰するうえでもっとも注目すべきタームであると考えていることは明白であり、彼らを中心にして構成されるアンダーグラウンドの新たな地勢図を今回のATPのキュレーションを借りて立ち上げようとしていることは、おそらく間違いない。

また、そうすることで必然的に自分たちを含めた先行世代の立ち位置さえも再検証し、世代もローカリズムも横断するアンダーグラウンド内の新たな文脈に自らを接続する(たとえばJのニュー・バンドのウィッチ然り、ダイナソーJr.の70~80年代に遡るハードロック/メタル志向は、従来のハードコア~オルタナティヴ~グランジといった90年代ロックの史観を超えて再評価されるべきだろうし、そこにはバード・ポンドやコメッツ・オン・ファイアなどのフリーク・フォーク周辺とも交じり合う脈筋を指摘することもできる。あるいはメルヴィンズの新作『(A) Senile Animal』なんて、まさに彼らがドゥーム/ストーナーの前衛に立つことを証明する作品なわけで)。4年前のソニック・ユースとしてキュレーションした回のア・ラ・カルト的なラインナップとは対照的に、きわめて示唆的な方向性やカラーが打ち出された今回のラインナップには、じつはそうしたサーストン自身がバンドとしてひとつの岐路に立たされている(それは再び4ピースのバンドに戻ったことに伴う意識の変化や、メジャーとの決別も噂される今後の動向とか、さまざまな意味で)という意識が、反映されている部分もあるのかもしれない。

だからだろうか、アクティヴすぎるキュレーションっぷりもさることながら(あのディープなメンツでチケットがソールドアウトしてしまうのだからATPの集客力って凄まじい)、サーストン本人のソロやユニット活動、作品リリースの方も最近にわかに騒がしい。


キムによるアートワークが美しいギター・ソロ作品『Flipped Out Bride』。キムとやってる夫婦デュオ、ミラー/ダッシュ(映画『ラスト・デイズ』のサントラにも曲提供していた)のライヴ盤『Live At Max's』(ウルフ・アイズ主宰「AA Records」から)。ジャッキー・Oやダブル・レオパーズのライヴCDRもリリースする「U-Sound」から、サーストンを筆頭に兄ジーン・ムーアら8人のギタリストが師匠グレン・ブランカを連想させる不協和なギター・オーケストラを奏でるプロジェクト=ニップル・クリークと、女性エレクトロ/ノイズ奏者ジェシカ・ライアンのユニット=キャントによるスプリット盤『New Vietnam Blues/Messy Mystery』。通称“Without Kim”と呼ばれる、ソニック・ユースの野郎3人と、サーストン&ジムと組んだディスカホリック・アノニマス・トリオのメンバーでもあるサックス奏者マッツ・グスタフソン(彼もボアダムスのEYEとの共演でATPへの出演が予定されている)が延々インプロを繰り広げる『New York-Yastad』。そして、アンドリューWKやドン・フレミング(サーストンやJもゲスト参加したことがあるヴェルヴェット・モンキーズを率いたDC~NYアンダーグラウンドの重要人物。一時ダイナソーJr.に在籍していたことも)も参加する流動的ハードコア・ノイズ・インプロ・グループ、トゥ・リヴ・アンド・シェイヴ・イン・LAの最新作『Horoscopo: Sanatorio de Moliere』。

なかでも、今回のATPのラインナップを踏まえたうえでとりわけ興味深く感じられるのが、正規の作品としては現時点でサーストンの最新のプロジェクトだといえるドリーム/アクション・ユニット(名前がヴェルヴェット・アンダーグラウンドの変名マルチ・アート・プロジェクト、ザ・ランチング・オブ・ザ・ドリーム・ウェポンに似ている)。メンバーは、サンバーンド・ハンドやシックス・オルガンズでドラムを叩くクリス・コルサノ(キャントと組んだユニット、ヴァンパイア・キャントもあり)、ハラランビデスやヤンデックにも参加するヘザー・レイ・ムーレイ、ノー・ネックやエンジェル・ブラッドの一員のマット・ヘイナー、そしてサーストンと共演多数の鬼才サックソフォニスト、ポール・フラハーティ。早い話が「フリー・ジャズ+即興+フリーク・フォーク」、つまりサーストンを中心に80~90年代と00年代のアヴァンギャルド・シーンの人脈を召集したフロントライナーであり、そもそもサーストンとジム・オルークによるサイド・プロジェクトとして始まったもののジムのソニック・ユース脱退に伴う離脱により流動的な状態でサスペンドされていたのが、昨年スコットランドで開催されたフェスティヴァルへの出演を機に現在のメンバーに再編され、その際の演奏を収録したのが『Blood Shadow Rampage』になる。

作品を聴くかぎり、ドリーム/アクション・ユニットのサウンドは、メンツから想像されるフリーク・フォーク色は薄く、むしろディスカホリックスの続編と位置付けてもよさそうな「フリー・ジャズ+即興」に特化された印象が強い。しかし、それは裏を返せば、そもそもフリーク・フォークの人脈と従来のアヴァンギャルド・ミュージックの人脈とはとても近しい間柄にあり、つまり両者は同根の系譜上を交わる音楽表現であることの証明でもある(これも以前にも触れたが、こうしたフリーク・フォークの複層にまたがりその系統図の枝葉を広げる性格を現在象徴する人物に、マジック・マーカーズのピート・ノーランが挙げられる。彼が今回、サーストンとともに新ユニット、バーク・ヘイズを結成してATPのラインナップに名を連ねているのはとても興味深い)。


フリーク・フォークと呼ばれる音楽とは、単なる「フォーク+α」でも「フォーク×α」でもなく、隣接し隔たり合う他の音楽様式を巻き込み同化・異化しながら拡張し、あるいは対極に、生声とギターの弦一本のレベルにまで余剰をそぎ落とす(ヤンデックがそうであるように)ことで立ち現れる、フォークでありフォークでないような「異形」の音と歌である。その意味でドリーム/アクション・ユニットは、フリーク・フォーク以降のアヴァンギャルド・ミュージックのきわめてアクチュアルな実践といえるだろう。サーストンにとってフリーク・フォークは、すでにアヴァンギャルド・ミュージックの歴史の一部として意識されているということの証左を示すものでもあろう、これは(※余談だが、ここ数年ソニック・ユースの楽曲はサーストンのギター・ソロを基に、バンド内のセッションを通じて発展させ完成にいたるケースがほとんどなのだが、サーストンが最新作『ラザー・リップト』発表前にソロ・ギグで披露したナンバー、たとえば“ヘレン・リュンデベルク”や“アイライナー”なんかはまったくもってヤンデックばりのフリーク・フォークな肌触りであった)。

フリーク・フォークはファッションではない。メインストリームには浮上しない(たとえデヴェンドラのようなポップ・アイコンを生もうとも)、アンダーグラウンドに潜行する潮流である。そして、今回のATPのラインナップを見てもそうだが、サーストン・ムーアの周囲をあらためて俯瞰したとき、それがあらかじめ用意されていたアンダーグラウンド内の必然的な流れの帰結であったことがよくわかる(※あるいはビー・ユア・オウン・ペットやブラック・ヘリコプターなどエクスタティック・ピース!所属の新顔を見ると、ソニック・ユース本体の最近の傾向も含めて、一方でサーストンがストレートなロックンロールにアンダーグラウンドを活性化させる新たな血として強く惹きつけられていることがわかる)。実際、先に挙げたラインナップのなかにはノー・ネックをはじめ90年代からサーストンが交流を続ける名前も少なくない。少し前の米VENUS誌でサーストンは、アヴァンギャルド・シーンが歴史的に女性アーティストに積極的に表現の機会を開いてきたことに触れ、続けてキム・ゴードンは、音楽として潜在的に男性的(マッチョ)な特性を孕むノイズの対極にある“女性的”なノイズの代表として、ハラランビデスのクリスティーナ・カーターを挙げている(最新作『Electrice』は背筋も凍る異界のゴスペル・フォーク集)。


「アンダーグラウンドというのは、ロックンロールが本当に生息するところだからね」。メインストリームとアンダーグラウンドの境界とは、往々にしてメインストリーム側の思惑により容赦なく破られ(その逆がひどくタフなのに対し)都合よく平坦化されてしまうものだが、それでもたしかにアンダーグラウンドな領域は存在する。今回のATPのキュレーションに象徴されるサーストンの一連の動向は、はたしてメインストリームとアンダーグラウンドの間にふたたび線を引き直すことを意味するものなのか。それとも、FONTANA設立が意図するように、アンダーグラウンド側からメインストリームへの突破を試みるのか。その真意は本人のみぞ知るところだが、いずれにせよサーストンが、アンダーグラウンドの現状に対してある種の問題意識をもって臨んでいることは事実だろう。

そしてなにより、そうしたすべての事象についてサーストンが当事者として関わり合いをもとうとしていることにあらためて強い信頼感を覚える(そういう意味でソニック・ユースの存在はほんと独特だし、ある意味とても孤独だと思う。同世代ではヤング・ゴッドを主宰している元スワンズのマイケル・ジラだけか。かつてはビースティーズもそうだったんだけどな)。

来月にはソニック・ユースのB面曲/レア・トラックスを集めた作品や、今回のATPのメンツと重なるアーティストも多数出演した「No-Fun」主宰フェス(サーストンはトゥ・リヴ・アンド~の一員で参加)のDVDもリリースされる。まだまだ話題は尽きない。


(2006/12)