2011年4月28日木曜日

2011年の小ノート(仮)……2010年代のリアル・アンダーグラウンドへ~NNF

WIREの最新号(2011年5月号)にNOT NOT FUNに関するレポートが掲載されている。それを読んで膝を打ったのは、NOT NOT FUNの出発点に際して、創設者の片割れでミュージシャン(Pocahaunted ~ LA Vampires)であるAmanda Brownの個人的なRior Grrrl体験や当時のジン・カルチャーからの影響(、そしてSmellなどアメリカ西海岸のコミュニティとの出会い)が背景にあったという事実。カセットやハンドメイドの作品リリースにこだわる姿勢、あるいはNOT NOT FUNからリリースされたコンピ『My Estrogeneration』の経緯とはなるほどそういうわけか、と。そして、NOT NOT FUNをはじめとする現在の「アンダーグラウンド」シーンの特徴として、例えば一人の同じミュージシャンが複数の名義を使い分けて様々な音楽性を披露するように、ジャンルの蛸壺化に向かうのではなくその徹底した移動と横断、またそこに際して様々なミュージシャン或いはレーベルがシェアしたりされたりする関係が構築されること、こそが重要な点だと強調している。くわえて、NOT NOT FUNの音源リリースに関して、カセットやアナログといったフィジカルな形態にこだわり、近年のデジタル・メディアに傾斜した聴取環境に抗いを見せる一方、インターネットを介したグローバルな情報の伝播が、彼ら多くのマージナルなミュージシャンたちを押し上げるアドバンスとなり、またその結果そこには従来の地政学的なかたちとは異なる新たな「シーン」や「コミュニティー」が醸成されることの重要性も同じく彼女は強調している。裏を返せば、デジタル環境の恩恵を望むと望まざるにかかわらず授かっているという自覚があるこそ、彼女たちはアナログ・メディアを志向するのかもしれない。そのあたりは以前ピッチフォークに掲載された「This Is Not a Mixtape」と題された記事(http://pitchfork.com/features/articles/7764-this-is-not-a-mixtape/)でも述べられていた内容と重複するところがあるものの、2000年代末から2010年代初めにかけての、この端境期における音楽状況の潮流の内実をかなり的確に突いたレポートだと思う。以上雑感。なお参考jまでに過去の拙稿を。
http://junnosukeamai.blogspot.com/2011/01/this-is-not-mixtape-httppitchfork.html
http://junnosukeamai.blogspot.com/2011/01/2010.html

2011年4月27日水曜日

極私的2000年代考(仮)……スコット・ヘレン

今回、メイン・プロジェクトであるプレフューズ73のニュー・アルバムをはじめ、スコット・ヘレン関連の作品が3タイトル相次いでリリースされる。なかでも、ファンの間でもっとも驚きをもって迎えられるだろう作品は、このアルバムに違いない。本作『Ice Capped At Both Ends』で初披露となるニュー・プロジェクト、ダイアモンド・ウォッチ・リスツ(以下DWW)でスコットが組んだのは、ヘラのドラマーであり、近年はマーニー・スターンのサポートや、LCDサウンドシステム/!!!やノー・エイジのメンバーらが参加したソロ・アルバム『Astrological Straits』も話題を呼んだ奇才ザック・ヒル。これまで、各種プロジェクトや作品/ライヴでの客演、プロデュース業も含めて多種多様なミュージシャンとコラボレーションを果たしてきたスコットだが、異色の顔合わせといえるだろう、これは。

かたや、ヒップホップ~エレクトロニカをキャリアの出自とし、現在はニューヨークを拠点に様々なプロジェクトを通じてジャンル横断的なサウンド・プロダクトを展開するトラック・メイカー/マルチ・インストゥルメンタリストであるスコット・ヘレン。かたや、地元カリフォルニアはサクラメントのパンク/ハードコア~ノイズ・シーンをバックグラウンドとし(ディアフーフやシュシュ、あるいは!!!の前身にあたるヤー・モスの面々もしかり)、スコット同様に多種多様なミュージシャン(デフトーンズ、ピンバック、キッド606、マトモス、ジョーン・オブ・アーク、CEX、オマー・ロドリゲス・ロペスetc)とユニットやコラボレーションを展開しながらも、その本分は生粋のドラマーにほかならないザック・ヒル。音楽的な繋がりは見当たらず、また個人的な面識もまったくなかった両者の関係だが、今回のDWWの結成は、ザックからの電話がきっかけだったという。

そもそもDWWとは、事前のアナウンスにもあったように当初は、旧知の仲でありプレフューズ73の前作『Preparations』で共演も果たしたバトルスのドラマー、ジョン・ステイニアーとスコットが計画していたプロジェクトの名前だった。しかし、互いに“本業”が多忙ゆえにスケジュールが合わず、話だけの状態が1年以上続いた末に、結局その計画は頓挫してしまう。そんな折、昨年の春(今回リリースされるサヴァス&サヴァラスの新作『La LLama』のレコーディング直後)、たまたまザックからスコットにソロ・プロジェクトのプロデュースの依頼があり、またスコット自身、以前からヘラやザックが関わる作品の個人的なファンだったこともあって、連絡を取り合ううちに意気投合した2人は、自然の流れで今回のDWWの結成へと至ったという(ちなみにスコットによれば、ジョンとのプロジェクトは今後、別の形で実現する可能性も十分ありうる、とのこと)。

とはいえ、ザックもまた複数のプロジェクトを掛け持ちする多忙さゆえスケジュールの調整は難しく、また両者のロケーションも離れていたため、一緒にスタジオに入り曲作りやセッションを行うといった形のコラボレーションは適わず。結論として今回のレコーディングでは、互いが制作した音源のデータをメールでやり取りする方法が採られた。まずはスコットがベーシックな部分――ギターと歌、自分で叩いたドラムを入れたものを作り、その上にザックがドラム・パートを重ね、それを聴いた上で再度スコットがギターも歌もすべて録り直す、というプロセスを繰り返す。レコーディングは昨年5月に始まり、ミックスも含めた全工程が終了したのが昨年8月(個人的には2002年ごろから曲を書き溜めていたようだ)。その作業の間、2人が実際に顔を合わせる機会は一度もなかったという。
事前に具体的なコンセプトやアイディアは用意せず、あくまで一連の作業の中から生まれるものを大事にすることで「2人の“バンド感”や“チーム感”を出したかった」とスコットは語る。

時間軸が異なる2人のプレイのコンビネーションを意識しながら、ひとつの方向性としてスコットの「歌」とザックの「ドラム」にフォーカスを当てた音作り(2人のアンサンブルを強調するようなミックス)が摸索された。「ザックから送られてきたラフでラウドなドラムの音に、彼の動作の一連性は損なわないようにしつつ、自分が書いた曲を当てはめる。そう処理をして音をクリーンなものにしたところで、自分の歌だったり楽器のクリアな感覚を生かすために、他のうるさい部分を下げたり、ヴォーカルとドラムに焦点を当てるためにバランスを取る。狙ったというより、自然とそういう方向性が見えてきた感じだね」。結果、「ザックにとってもヘラのドラムじゃない、自分にとってもプレフューズ的な音じゃない、ひとつの独自のバンドによる、まったくの別物として成立させることができた」と自負する。

その言葉どおり、本作『Ice Capped At Both Ends』は、これまでのスコットとザックの作品いずれとも趣向の異なるサウンドを披露するものだ。本作でスコットは、ギターやベース、ペダルスティール、クラリネット等々の楽器を自ら演奏し、まるでトロピカリアと中東フォークを往来するようなオーガニックで幽玄なインストゥルメンテーションを展開する一方、対するザックのドラミングは、ヘラでの脊髄反射的なプレイとは異なる緩急細やかなビートを刻みながら、楽曲全体のトーンやシークエンスを巧みに創出している。構成は至ってシンプルだが、様々な音楽的意匠を映す凝ったプロダクションとリヴァーヴのかかった奥深い音像は、ほとんど“サイケデリック”という形容がふさわしいかもしれない。いわゆる「プレフューズ73+ヘラ」みたいな、安易な音楽的帰結として一種のブレイクコア的な展開も想像できたが、それとは文字どおり“別物”の、それこそアニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンスといった同時代のサイケデリック/トライバル・ポップへのある種の回答ともいえそうなサウンドを作り上げてくるとは、誰も予想し得なかったのではないだろうか。

アナログ・テープで録音されたプレフューズ73の新作『Everything She Touched Turned Ampexian』、音響的な濃密さを増したサヴァス&サヴァラスの新作『La LLama』とも、その内省的なヴァイヴを共有するような本作は、さながらスコットの脳内世界を素描するようなドラッギーな生々しさも湛えている。またザックにとっても、「みんなはザックの千手観音的なプレイを期待しているのかもしれないけど、彼はそれだけのレベルのドラマーじゃない。彼が提示してくれたプレイは嬉しいハプニングだった」とスコットが評するように、今回のプロジェクトはチャレンジングで得がたい経験だったのではないだろうか。


なかでもスコットが、本作について特別深い思い入れを寄せているのが、その「歌」だ。本作ではすべての曲でスコットがヴォーカルをとり、それも英語で歌われている。素朴だが陰影に富み、そこはかとないサウダージな感覚が漂う叙情性は、「スペイン語特有のトーンや言い回しで英語で歌うというのが、ある意味、自分なりの独特のスタイルとしてできつつあるのかな」と自身も認めるように、サヴァス&サヴァラス等で聴けるそれとは異なる、本作のスコットの「歌」の大きな魅力となっている。とりわけ今回のレコーディングでは、ザックから帰ってきた音源を聴いて、録り直す過程で自分の声や歌を聴き直すことができたことが大きかったようだ。ちなみに本作の歌詞の内容はすべて、この5年間にスコットの周りで起きた出来事がテーマになっていて(スコットは本作のプレスシートの中で、DWWの構成要素を“日常の物事についてのシンプルな曲”と称している)、8曲目“Simple Love Notes (5 Years Later)”では、きわめてダイレクトな形で個人的な恋愛経験が歌われているという。

そしてスコットは、その曲にデュエットで参加しているバトルスのタイヨンダイ・ブラクストンや、同じくサヴァス&サヴァラスの『Golden Pollen』でも共演を果たしたスウェーデン生まれのアルゼンチン人SSW、ホセ・ゴンザレスらとの出会いが、自身をより深く「歌」へと向わせるモチヴェーションになった、と語る。「自分はビートを作る人間として思われているか、もしくは歌を歌うにしてもスペイン語で歌う、それもサヴァス&サヴァラスのような、いつもパートナーがいる環境でしかやったことがなかったところで、自分一人で曲を作る、一人で歌うってことは新しい経験だった。また、そういう中での出会い――タイやホセだったり、彼らに曲を聴かせて『すごいね!』って言ってもらったり共感してもらうことでさらにインスパイアされて、自分は突き動かされたんだ。一人で曲を作って、それを聴いて認めてもらえるアーティストに出会えるってことが、自分にとって新しい発見だったよ」

もちろん、スコットにとってザックとの出会いもまた、そうした“突き動かされる”ような経験だったことはいうまでもない。そもそもスコットにとって今回のプロジェクトは、その「歌」と同じく、きわめて私的なモチヴェーションから生まれたものだった。「このプロジェクトの大事なところであり、いいところであると思っているのは、まず、自分達自身の自費でやっているところ。レーベルに動かされているわけでもなく、自分達のアイディアで即断、即行動に移れるプライヴェートなもので、個人レベルで動くことができる特別なバンド。個人的なレベルの音楽なんだ」。誰からの干渉も制約も及ばない、ゼロから音楽と向き合える場所――それこそ、スコットがこのDWWのスタートに際して掲げた理想であり、実際DWWの活動は、その理想を実現化する美学(スコットいわく“パンク・ロック的な思想”)のもと運営されている。そして、スコットにとってそうした理想や美学をようやく共有することができた相手が、ザックだった。

「ザックとの繋がりに、間違いなくスピリチュアルなものを感じている。彼とこのプロジェクトに入るという話は雲の向こうから来たような話で、意識も期待もしてなかったけど、彼との出会いにはスピリチュアルなものを感じるし、自分自身、もしも歳を取ってこの先どこか遠い島で一人で過ごすようなことになったとしても、この音楽は作り続けていけるというものを見つけることができたこと自体がとてもスペシャルで。またそれをザックとやれているっていうのがスペシャルで、ようやくそういう特別なものを見つけることができたという感覚なんだ」


そうした感慨に至った背景には、プレフューズ73名義での最初の作品『Estrocaro EP』のリリースから今年で10年目を迎え、スコットの内に漠然と去来する“キャリアの節目”の感覚も影響しているようだ。それは、今回のDWWというプロジェクトの名前や『Ice Capped At Both Ends』というアルバム・タイトルとも関係している。「DWWという名前は、意味合いとしては、自分の中にある政治的な部分だったりもするんだけど……今、社会的に物質至上主義的で、すべてがマテリアリスティックな世の中がある一方、人間の尊厳だったり魂、ヒューマンな部分というのが対極にあって。で、自分だったら当然、後者の方を大事にしなきゃいけない、と思いながらも、世の中は前者に寄っているわけで……そういう状況に対する皮肉であり、マテリアリスティックな社会全体への皮肉を込めて“ダイアモンドの時計をした腕”というフェイクな部分を暗示させている。本当は、その背後にある人間的な部分のほうが大事なんだということを示したいんだ。アルバムのタイトルは――ダイアモンドや金を連想させる『Ice/Icy』には、煌びやかなイメージと同時に“氷のような、冷たい”という皮肉がある。今の世界的な経済状況、金融危機、政治的にも不安な世の中で、煌びやかに見えているけどその下には氷のような冷たい社会がある、という2面性、皮肉を暗示させているんだ。そしてここには、自分の立場、キャリアの相反する2面性も暗示されているんだ。成功した、煌びやかに見えるキャリアと同時に、カテゴライズされない音楽的なモチヴェーションもあり、DIY的なアティチュードも持っている、という2面性……」。


そしてスコットは、こう締め括る。「プレフューズ73として10年やってきて、今はマーケットに影響されない、関係ない自由な環境でフリーなスピリットで音楽を作りたい。音楽を作ることさえできればそれ以上、何も求めていないという次元に今はある。この10年、とくにこの3年で自分は大きく成長した。今は、音楽を作ることと自分の生活が最優先なんだ。そう、だから今、そういう葛藤はあるね」

スコットによれば、すでに次のDWW用のアルバム分の曲は用意できているらしく、次回はスタジオを使った、短期間の凝縮された時間の中でのレコーディングを計画している、とのこと。ネクスト・レベルを見据え創作のギアを加速させたスコットの動向に、ますます目が離せない。


(2009/3)

2011年4月20日水曜日

極私的2000年代考(仮)……英米間の亀裂を埋めるフォールズ

フォールズはうまくいけば2008年を代表する新人バンドになるかもしれない。って以前にも似たようなことを書いた気もするがまあいい。つまり東のヴァンパイア・ウィークエンドに西のフォールズ。正直、EPを試聴した時点ではあまりピンとこなかったが、今度出るデビュー・アルバム『アンチドーツ/解毒剤』を聴いてたちまち惹きつけられた。カテゴライズ不能。周到かつ巧妙なクリシェの解体。それでいて現代的なポップ・ミュージックのフォルムをもちながら、エキセントリックでフリーフォームで、過去30余年のオルタナティヴなインディ・ロック史を参照する数多の特異点を含む。もっともブルックリンやサンフランシスコやフィンランド周辺の同世代に比べれば、ヴァンパイア・ウィークエンド同様に特別何か画期的なことをやっているわけでもなく、サウンドの全体的な印象は2000年代以降のUKポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの流れを汲むそれを必ずしも大きく踏み出るものではない。が、それでもやはり彼らには、ついに現れるべきバンドが現れたな、とでも言うべき必然性を強く実感させるところがある。

例えば1970年代から80年代にかけてのアメリカとイギリスのアンダーグラウンドなロック・シーンの間では、パンクからポスト・パンク/ノー・ウェイヴ、ニュー・ウェイヴ~ディスコ/ダブ……といった音楽トレンドの時間軸を互いに共有する連鎖反応や通奏低音があった。あるいは1980年代から90年代以降にかけての両者の間では、(ポスト・)ハードコアからオルタナティヴ~グランジ、ローファイ、ポスト・ロック~スロウコア……といったタームを背景に、地方都市(シアトルとグラスゴーetc)やレーベル(ブラスト・ファーストとSST/ホームステッド、マタドールとケミカル・アンダーグラウンドetc)同士の限定された範囲ながらシーンを結び合わせるコネクションがあった。

という具合に大雑把ながら2000年代を再考したとき、いわゆるロックンロール/ガレージ・ロック・リヴァイヴァル以降、現象化するレベルでの米英両陣営の相関性はほとんど皆無に等しいのが現状ではないだろうか。例えばブルックリン界隈のアヴァンギャルド~フリー・フォークやベイエイリア一帯のエクスペリメンタルなポップ勢に相応するシーンがイギリスには見当たらなければ、ニュー・レイヴからグライムやダブステップまで含むエレクトロ~ダンス・カルチャーがアメリカで顕在化する兆しも今のところない。もちろん、個々のアーティスト同士やレーベルの繋がりを介した交流はあるだろう(オール・トゥモローズ・パーティーズがUK/US双方の会場で定期的に開催されている意義は大きい。またWARPとTouch&Goの連携は2000年代以降のインディ・シーンに新たな図面を引く可能性を秘めている)。しかし、かたや細分化を極めるアメリカ側と、かたや大局的にトレンドが推移を見せるイギリス側と、音楽環境もシーンの構造(それを取り巻くメディア事情も含め)もますます乖離した両者の間に音楽的な共通言語を見出すなど、土台無理な話なのかもしれない。その隔たりは、数年前の80Sリヴァイヴァルやディスコ・パンクの類が、一見バックグラウンドを共有する同時進行のムーヴメントのように登場しながら、ラプチャーや!!!に代表されるようにハードコアやノー・ウェイヴを参照するアンダーグラウンドな性格を帯びていたアメリカ側に対し、イギリス側では後のニュー・レイヴと連結する「ポップ」のヴァリエーションとして隆盛を見せたことにも象徴的だ。少なくともアメリカのインディ・シーンにおける「アンダーグラウンド」を指すものが、音楽的にも状況的にも今のイギリスには存在しない――というのが傍から見た実感である。


思えば、そうした現状に対して、最もアクチュアルで意識的なミュージシャンの一人がジェイムズ・マーフィだった。ハードコア・バンドの元ドラマーで、スティーヴ・アルビニ周辺のエンジニアだった経歴をもつジェイムズと、アンクルのトラックメイカーを務めたティム・ゴールズワージーという2人のパーソナリティに象徴されるDFAの混血的なバックボーンと、それを反映したプロダクション・チーム/レーベルとしての横断的な活動(※最近で言えばM.I.A.のリミックスにパイロンの再発やホット・チップの新作、そしてヘラクレス&ラヴ・アフェアなど新人アクトのリリースが続く)、そしてジェイムズがLCDサウンドシステム/DJとして見せるエクレクティックなスタイルは、ローカリズムとジャンルの細分化で分断された2000年代への批評を含んだ真摯な態度に思える。ジェイムズ自身、DFAやLCDサウンドシステムを始めるに際して、音楽的な交流が希薄化する1990年代以降のUS/UKシーンの関係性について問題意識を抱えていたことをインタヴューで語っていたりもした。しかし、ジェイムズが牽引役ともなった2000年代のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの台頭は、前述の通り、むしろ米英間の溝や相違点をあらためて浮き彫りにするものとなった。その状況は、2000年代も終盤を迎えた現在も変化を見せる気配にない(もっともジェイムズはLCDの“オール・マイ・フレンズ”をフランツ・フェルディナンドに歌わせたりもしてるのだが……こんなことやる奴、この男の他にいない)。

『アンチドーツ/解毒剤』を聴いて得た印象を簡潔に言うなら、LCDやラプチャーに相応するバンドがようやくイギリスから登場したな、というものだった。仮にフォールズを、冒頭にも書いたように2000年代のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの流れを汲む最新サンプルと位置づけるなら、前述の英米間の隔たりを埋め、双方の文脈に立脚し得るのが彼らではないか、と。以前はマス・ロック・バンドとして活動し、同時代のイギリスのロックをよそにハードコアやヒップホップを聴き漁っていたという彼らは、音楽的な素養に関してはポスト・アメリカン・オルタナティヴの純血種とも言えそうだ(ちなみにVo/Gのヤニスがフェイヴァリットに挙げるアウルズはジョーン・オブ・アーク等も率いるティム・キンセラのバンドでアルビニとも縁が深い。ヒップホップ系ではヴァンパイア・ウィークエンドのエズラと同じくア・トライブ・コールド・クエストを挙げる。中でもゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーには特別思い入れが深いそう)。“Heavy Water”や“Two Steps, Twice”に顕著だが、ギター・ループを組み込む幾何学的なレイヤーの音響構築やアフリカン・ミュージックを援用したミニマルでポリリズミカルなビートなど、数多のエレメンツを含みながらも捩れた像を結ぶサウンドは、例えば、“ハードコア発、ポスト・ロック~マス・ロック行き”という1990年代中盤以降のアメリカのインディ・シーンで顕在化した流れ(※大雑把にバトルスやヘラ、あるいは一時のブラック・ダイス、もちろんJOAやトータスまで含まれ得る)を、2000年代のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴを通過した「(ギター・)ロック/ポップ」へと強引にスイッチさせたような奇妙な系譜を思わせて興味深い。なるほど彼らの場合、PILとトーキング・ヘッズを、ディス・ヒートとロキシー・ミュージックを両手に転がし遊ばせるような不敵さがある。“Tron”や“Big Big Love”のようなメロディアスなナンバーも惹かれるが、「アメリカ」と確信犯的に交わり、その混血的なバックグラウンドを自身の創作に反映する在り方は、現在のイギリスの同世代の中では一際異色と言えるだろう。『アンチドーツ/解毒剤』は、ヴァンパイア・ウィークエンドが降り立ったブルックリンのまっさらな風景とは対照的に、音楽史的記憶を潜行すUKアンダーグラウンドの在り処を炙り出す。


『アンチドーツ/解毒剤』には、プロデューサーとしてTVオン・ザ・レディオのデイヴ・シーテックが参加している。聞けば、バンド側が仕上がりに納得できず自分たちで一部作り直したらしいが、具体的にレコーディングの過程でデイヴとどのようなやり取りがあったのか、そもそもなぜデイヴをプロデューサーに起用したかについては、これを書いている現時点では知らない。デイヴのプロデュース・ワークといえばやはり、結果的にTVOTRの格好のプロモーションともなったヤー・ヤー・ヤーズやライアーズの諸作が有名なところだろうが(新しいところでは、もろTVOTRマナーのアフロ・アヴァン・ポップを聴かせるドラゴンズ・オブ・ズインスの『Coronation Thieves』が面白い)、いずれのバンドの作品とも、またTVOTR自身とも『アンチドーツ/解毒剤』の印象は異なる。というか、第一に、アルビニやDFAのようにプロデューサーとしての“デイヴ・シーテックの音”なるものが現段階では判然としないので、今作におけるバンドとデイヴの相互作用を推し量るのは難しい(独特なエコーやリヴァーヴのサイケ感、オーガニックなまろみはデイヴの持ち味なのかもしれないが)。

ただし一方で、ヤニスいわく実際のプレイやソングライティングの上で広義のワールド・ミュージックを重要な音楽的指標の一つに挙げる彼らが(なかでもヤニスはセネガル音楽のギター奏法にインスピレーションを得ているという)、相談役にデイヴ・シーテックを迎えたという選択は、それなりに道理がいく話ではある。基本フリーフォーム(NYの肥沃な即興シーンの伝統を継ぐ)なジャムにドゥーワップやゴスペル、ソウルやファンクを落とし込み、それを圧縮しポスト・プロダクティヴな解体/再構築(ダブ・ミックス)を施しながら高密度で官能滴るポップ・ミュージックへと整形していくTVOTRのサウンドは、その概観こそ異なるが、いわゆるルーツ音楽やプリミティヴなものとポスト・ロック以降の音響マナーや2000年代ならではの批評性との循環の中からそれが精製されるというプロセスにおいて、フォールズとも共有するアプローチや構造をもつと強引に言えなくもない。彼らやヴァンパイア・ウィークエンド然り、アフロ・ミュージックや様々な民族音楽のエッセンスを取り込みユニークなサウンドを追求する動きが、ポップ/アヴァンギャルドの領域問わず新しい世代のバンドの間で顕在化しつつあることは以前にも軽く触れたが、そうした中でTVORT=その音楽的中枢を司るデイヴがある種の先駆的象徴として俄かにクローズアップされることは必然的な流れでもある。TVOTRが2006年に発表した2nd『リターン・トゥ・クーキー・マウンテン』はまるで、2000年代のインディ・ロック・シーンを斜め切りしたミルフィーユ状の断面にサン・ラーの宇宙を描くような怪作だったが、結果いかなる時代性や歴史性にも捉われぬベクトルを示したその異形の音の塊を、「あらゆる音楽を食い尽くし、新しい肉体を造っている」と評するフォールズの面々が、ある種の憧れとともに(たとえ形を結ばなかったとしても)自分たちが向かうべき理想像として熱望したことは想像に難くないだろう。


かつて『リメイン・イン・ライト』を制作する際にデヴィッド・バーンとブライアン・イーノは、アフリカン・ミュージックを自分たちの音楽に持ち込む上で、そのコードやリズムの概念に至る伝統的な奏法の習得と、それに順ずる形でインプロヴィゼーション主体のレコーディング・スタイルの踏襲を自らに課したというが、例えば今回の『アンチドーツ/解毒剤』においても、そのワールド・ミュージック的なニュアンスを再現する上でのルールみたいなものが、デイヴとバンドの間で何か取り交わされていたりしたのだろうか。昨年のEPリリース時のヤニスのインタヴューによれば、「ギターは12番目のフレットから上しか弾かない」とか「コードは弾かない」といった決め事が楽器単位ですでにあるということだったが、つまり、何かを新たに持ち込むというより、そもそも実践されているそうした非=ロック/西洋音階的なアプローチを、いかにして2000年代のロック/ポップの最前線に定着させるか、にこそ『アンチドーツ/解毒剤』のレコーディングの眼目はあったと思われる。その意味でデイヴ・シーテックという選択は、それが英米の時間軸を同期させるという意味でも最適だったと言えるだろう。
 

TVOTRとしてのニュー・アルバムについてはいまだ何の動きも見せない状態だが、昨年はVoのトゥンデがウルフ・パレードのメンバーらと参加したサトルのアルバム『Yell&Ice』が話題を呼んだ。サトルしかり、ワイ?やオッド・ノズダムといったアンチコンの周りに集う連中もまた、神出鬼没でフリーフォームな汎ジャンル主義の越境者たちであり、TVOTRが最初期のエクスペリメンタルなローファイ・ポップをへて、NYのアヴァンギャルドを横目にブラック・ミュージックの大河を渡り辿り着いた場所の近くに、アンチコンの一派はヒップホップを基点に1990年代のインディ・ギター・ロック~ポスト・ロックを読み替え、オルタナティヴに他花受粉されたシュールでサイケデリックなロック/ポップの花を咲かす。それは言うまでもなくフォールズの『アンチドーツ/解毒剤』とはまったく別のフォルムのサウンドだが、しかし、そこにはTVOTR~デイヴ・シーテックを介して三者を繋ぐ基底通音のようなものがあるような気もしなくない。例えばそれは、ロック/ポップの縦軸(歴史性)と横軸(時代性)を自由に移動し横断する創作精神の在り方だったり、それを実践しプロダクションに反映するプレイヤビリティの高さだったり、その結果としてのサウンドのクオリティだったり……。ともあれ、『アンチドーツ/解毒剤』が成功を収め、フォールズの名前が本国のみならずシーンを騒がせる状況になることを期待するしかない。


アンダーグラウンドはともかく、米英におけるメインストリームが1990年代以降、希薄な関係性のまま現在に至るという状況は、ジェイムズ・マーフィが違和感を抱いた通り確かなのだろう。その突破口を開くということは、すなわち「次の10年」を見据えた才能の登場を意味するに他ならない。いい加減、その瞬間が訪れてもいい頃だと思うのだが、どうだろう?


(2008/05)

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)②

・ Hara Kazutoshi/楽しい暮らし
・ Bjørn Torske/Kokning
・ ヒトリトビオ/Monster
・ TV on the Radio/Nine Types of Light
・ Tara Jane O'Neil & Nikaido Kazumi/タラとニカ
・ Dirty Beaches/Dirty Beaches
・ Julianna Barwick/The Magic Place
・ Micachu And The Shapes/Chopped & Screwed
・ Grimes/Halfaxa
・ Grouper/A I A : Dream Loss
・ Glenn Gould/The Little Bach Book


ヒトリトビオは大阪のバンド。予備知識もなく七針でライヴを観て一目惚れに近い好ましさを感じた。牧歌的なペイヴメントのようで、みずみずしさと老獪さを兼ね備えたような不思議なたたずまい。“マジックアワー”という曲が素晴らしい。/『タラとニカ』は両者による牧歌的でチャーミングな「歌」もの、と思いきや音声的な実験性と企みに満ちた一枚。言葉や詩が生まれる前の、「音」や「声」としてのある種原始的なユニゾンを堪能できる。/ミカチューの新作はチューンヤーズの新作と陰陽をなすガールズ・エクスペリメンタル・ミュージックのポップな名盤。ドロッとしてるが個人的には趣向の近いWildbirds & Peacedrumsの最新作よりも好み。余談だがそのWildbirds & Peacedrumsと一緒に今年のフジロックにコンゴトロニクス・プロジェクトの一員として出演予定のNYのスケルトンズの新作もかなり。アニマル・コレクティヴの『サング・トンズ』をトライバルなセンスとプログレなテクで推し進めたような妙技の連続。/フリーフォークの頃のココロジー的なものがダブステップとウィッチ・ハウスを通過したらGrimesになるのかも。Not Not FunやNight People周辺のダブとノイズとディスコのデルタ地帯 には、GrimesやEMAやMaria y Joseや面白そうなアーティストがたくさん。それも女性アーティストが主役を握っているというのが興味深い現象かも。/


(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...))

2011年4月16日土曜日

2011年の小ノート(仮)……

七針は東京のSmellのような場所だ。
そこにはシーンがありコミュニティがある。
音楽とアートと、歌と即興と、声と楽器と、ダンスとノイズの、
世代を超えた、ジャンルを超えた、国籍/ローカリティを超えた。
けれど身内ノリはあったとしても内輪ウケは断じてない。

(続く)

2011年4月12日火曜日

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)

・ Radiohead/The King Of Limbs
・ マリアハト/The Letter Half Of Aloha EP
・ 平賀さち枝/さっちゃん
・ 笹口騒音ハーモニカ/うるう年に生まれて〜東京駅
・ Joan of Arc/Life Like
・ EMA/Past Life Martyred Saints
・ Battles /Gloss Drop
・ Vivian Girls/Share The Joy
・ White Noise /An Electric Storm
・ Tune-Yards/W H O K I L L
・ Maria y Jose/Espiritu Invisible
・ Panda Bear/Tomboy
・ Thurston Moore/Demolished Thoughts
・ GANG GANG DANCE/EYE CONTACT


『The King Of Limbs』の雑感は、バンドを招集してトム・ヨークのソロ・アルバムを作ったとでもいうか、例えばアトムス・フォー・ピースがトム・ヨークのソロ・アルバムをバンド・サウンドで再構築したのとは真逆の志向を感じる。つまりアルバム前半部はラップトップで、後半部はアコギやピアノでソングライティングしたものをバンド・サウンドでアップデートさせたような。実際、アルバム後半部の曲はリード・トラックの“ロータス・フラワー”をはじめそもそもアトムスやソロのライヴでトムがアコギで披露したものでしょおそらく。もっといえばトムにとってアトムス・フォー・ピースは『The King Of Limbs』の習作的なプロジェクトだったのでは?とも。/震災後に初めて聴いた/観た音楽はマリアハトのプレレコ発だった。最近はソロのライヴもよく観るけど、観るたびに違う。本人のテンションが歌声やアレンジに否応なく反映されるというか、それが面白い。即興的?とも違うか。/『さっちん』も素晴らしい。けど本音を言えば前々からリリースされていたCDR盤の方が個人的には好みかも。デモ音源のような宅録っぽいラフな音でも(の方が)彼女の歌声は映えるというか、甲乙つけがたい。アルバム発売に合わせて配信される笹口騒音ハーモニカとのデュオ曲“春の窓から”もCDRの音源の方が好きかな。でもこれは間違いなく名盤だと思います。それと今回の正規アルバムとCDRを聴いて感じたことは、歌詞/言葉の語尾の「止め」と「はね」。後者では流したり音程をわずかにズラしたりするところ、前者はきゅっと力強く踏み込む。その微妙で絶妙な違い。ライヴも最近よく観てますけど、彼女の場合もテンションというかい意味でのムラがその都度あって面白い。この前三鷹のおんがくのじかんで観た演奏は初来日の際のキャット・パワーのライヴを想起させた。ちなみにそのライヴで披露された新曲“江の島”もよかった。これまでの平賀さち枝の曲が「春」のイメージなら、スパニッシュ風ギターも軽快な“江の島”は「夏」の歌。いや夏を想う歌といった方が正しいかも。/その笹口騒音ハーモニカの“うるう年に生まれて”はYouTubeから。笹口騒音ハーモニカの音源は何枚か持っているけどたぶんどれにもまだ収録されていないんじゃないか(※訂正:『H』という新しいCDRに収録されているらしい。ちなみに“春の窓から”も)。/ジョーン・オブ・アークはスティーヴ・アルビニとの共作。アウルズやメイク・ビリーヴでは共演済みだがJOAでは初。/バトルスの新作は……うーん、正直期待外れだった。タイヨンダイの抜けた穴を応急処置で済ませた感が見え見えというか、決して本調子ではなかった一昨年のエレクトラグライドでも披露された新曲が、豪華なゲスト・ヴォーカルを呼んでみたところで敵わないな、という。結局のところ、ハードコア~マス・ロックに出自をもつバックグラウンドが似通った3人が寄ってたかってみたところで血中濃度は増したがやや自家中毒な感も。合奏としてのテンションが上がりもちろんそれはそれでかっこいいんだけどタイヨンダイがいたらこんなもんじゃなかっただろうといういう意味で。まあ別のバンドだとして聴けばいいのだけど。/ヴィヴィアン・ガールズもあの界隈では群を抜いた安定感。長尺のナンバーではスリーター・キニー的な逞しさも。/チューンヤーズの新作も見事だったな。ローファイなエタ・ジェイムスmeetsまさにダーティー・プロジェクターズというか、五線譜でキルトを編むようなマルチレイヤード・トライバル・ソウル・ポップ。http://vimeo.com/22883825/『Demolished Thoughts』は、サーストン版『シー・チェンジ』ねえ……いや、前作がフリー・フォーク人脈との交流から生まれた作品とするなら、次作はカート・ヴァイルやSmell周辺との交流を反映した……という期待もあったわけで。つまりサーストン版『Stereopathetic Soul Manure』か『One Foot in the Grave』。まあ早い話が『サイキックハーツ』の続編的な。/パンダ・ベアは高値安定。ミックスを手がけたソニック・ブームの功績も大きいのでは。でも個人的にはエイヴィ・テアが作った曲の方が好きなんだけどな、アニコレにおいては。“Fireworks”はエイヴィ作だし。/ギャング・ギャング・ダンスと言えば「トライバルなパーカッション。トリッピーなダブ・サウンドにのせて魔都の暗がりをダンスで照らす。その快楽性はライヴで格段と映えるが、新作では煌めくようなシンセと歌謡性を増した歌が新たな装飾を施す。冒頭の10分を超すトラックも最高だが、東南~中東亜の流行歌も思わす熱っぽさはブルックリンのマナーを超えて新鮮。そもそも来歴不明な魅力があったが、これは突き抜けている」。/EMAとMaria y Joseについては追々。

極私的2000年代考(仮)……ジョーン・オブ・アークというシカゴの重心

「自分がこれまで作ってきたどのアルバムについても言えることなんだけど、今回のアルバムに関しては、とくに聴くのがつらい……というか、心情的につらすぎてね。ちょうど自分の人生で難しい時期に差しかかってた時期で、個人的にいろいろあって、今回のアルバムを作ったのも……もともと、ジョーン・オブ・アークの新作については作る気がなかったんだよ」

本作『ブー・ヒューマン』について、ティム・キンセラはそう複雑な胸の内を明かす。

アルバムのレコーディングに入る直前、ティムは“自分の人生を大きく揺るがすような出来事”に見舞われ、なかば自暴自棄の状態に陥っていた。それでもレコーディングを通じ、自分の中にわだかまっていた感情を吐き出すことで正気を保つことができ、楽になれた。だから個人的に、今回のアルバムを完成されたひとつの「作品」とは見ていない。そもそも他人に聴かせるものとして考えてなかった、という。



ジョーン・オブ・アークの名前で活動を始めて10余年。オリジナル・アルバムとしては本作で9作目を数える。地元シカゴのインディペンデントなコミュニティに活動の足場を置きながら、いまやアメリカのインディ・シーンに確固たるポジションを築く彼らの存在は、同郷のトータスやウィルコと並んで誰もが認めるところだろう。しかし、そこに至るまでの道筋は、「自分がこれまで作ってきたどのアルバムについても言えることなんだけど――」と冒頭の発言でティムが前置きするように、必ずしも平坦なものとは言い難い。頻繁なラインナップの変更と、それに伴う音楽性の試行錯誤、また創作上の理由から活動が暗礁に乗り上げるなど、これまで幾度の過渡期を迎える中、ティムは一時的だがバンドを離れたこともある。前作『Eventually, All at Once』の直前には父親を失う悲劇に見舞われ、作品に暗い影を落とした。

ティム・キンセラが、ジョーン・オブ・アークの他にもこれまで様々なバンドやユニットで活動し、また現在も複数のプロジェクトを掛け持ちする多才なミュージシャンであることはご存知の通りである。
89年、当時高校生だったティムは、後のシカゴ発ポスト・ハードコア~EMO/ポスト・ロック・シーンの礎を築くことになる伝説的グループ=キャップン・ジャズを弟のマイクらと結成。95年の解散後、元ギタリストのデイヴィ・ヴォン・ボーレンがプロミス・リングを結成しEMOシーンを牽引していく一方(02年解散、マリタイムを始動)、ティムはマイクと元ベーシストのサム・ズーリックと96年にジョーン・オブ・アークを立ち上げる傍ら、平行してソロや、キャップン・ジャズのメンバーが再集結したアウルズ(アルバムのプロデュースはスティーヴ・アルビニ)、ジョーン・オブ・アークを始めサニー・デイ・リアル・エステイト、90デイ・メン、ヘラ、キャリフォンらのメンバーとコラボしたフレンド/エネミー、そしてニュー・アルバム『ゴーイング・トゥ・ザ・ボーン・チャーチ』がリリースされたばかりのメイク・ビリーヴetcと、ハードコア~ポスト・ロック以降のエクスペリメンタリズムを横断しながら多様な形態で活動を展開してきた。また、近年は映像作家としても高い評価を受け、本作に先駆けて初監督作品『オーチャード・ヴェール』のDVDを発表するなど、その表現のフィールドは音楽以外にも広がっている(※同作品のサウンド・トラックには、ティムの他にタウン&カントリーのジョシュ・エイブラムス、ジョーン・オブ・アークのベン・ヴァイダ、メイク・ビリーヴの一員でもある従兄弟のネイトが参加)。

なかでもジョーン・オブ・アークは、これもよく知られている通り、メンバー編成やレコーディングのアプローチにおいて、流動的で自由度の高いスタンスを大きな特徴としている。明確なコンセプトや着地点はあえて設けず、ティムが自宅で制作したデモを元に、その日スタジオに入れるメンバー(=楽器の布陣)に応じて即興的に音作りが行われていく。そうした試行錯誤の記録として日々ストックされる楽曲を、あらためてティムがオーヴァー・ダブ等のポスト・プロダクションを施しながら体裁を整え、全体の流れを方向づけ、結果アルバムとして「作品化」される。この一連のスポンテニアスな制作プロセスこそ、ジョーン・オブ・アークの独創的なサウンドが生み出される源であり、メンバー各自のクリエイティヴィティ&プレイヤビリティは無論、ソングライティングへの積極的な参加が要求されるシステムは、いわゆるバンドというより実験的なラボのイメージにも近い。実際、ツアーではメンバーの事情で本来より少人数でセットが組まれる場面も多く、となると必然的に個々のポテンシャルや柔軟な創造性が試されるわけで、そうした状況下で培われたものがスタジオ・ワークへとフィードバックされることでジョーン・オブ・アークは弛まぬ音楽的漸進を遂げてきた。

ゆえに、リーダー役としてのティムの肩に掛かるものは、たとえばメイク・ビリーヴのような「定型」のバンドの場合と比べて大きなものになる。メンバー各自の個性が尊重される反面、それを統率するティムのコンディションの如何が、バンドと作品の成否を左右する。ジョーン・オブ・アークが、人数的な規模も楽曲の構造的にも最もインタラクティヴなユニットでありながら、冒頭の発言にも窺えるように、ティムにとってはパーソナルな表現の場所としてその音楽活動のパーマネントな中心であり続けてきたのは、そのためだろう。

ティムによれば、今回の『ブー・ヒューマン』もこれまで同様、具体的なプランは立てず、臨機応変にレコーディングが行われたという。「その日誰がスタジオに来ることができて、その中で楽器をとっかえひっかえしながら片っ端からいろんなことを試した中で、1日の終わりに何ができるかって感じで、スタジオでその日何が起きてたのかを、そのまま音として記録していくって感じで進めていったんだ」(ちなみに資料によれば、本作にはティムを含めて14名のメンバーがクレジットされている)。オープニングを飾るリリカルな弾き語りから、真骨頂とも言うべき華麗な微分的アンサンブル、インタールード的に差し込まれたアブストラクトなエレクトロに、フィールド・レコーディング&コラージュが被さる静謐な(ジャンデックと聴き紛うような!)アヴァン・フォークまで、なるほど、刻一刻と変態するバンドの相貌をありのまま捉えたかのような脱中心的なサウンド・スケープがアルバムを通して描かれる。傾向としては、近作の流れを汲むメロディアスな側面(あえて言うならアメリカン・フットボール~オーウェンに連なるマイク節の唄心)が打ち出された印象も受けるが、全編の聴後感は相変わらず分裂的で起伏は激しい。なお、今作ではオーヴァー・ダブ等の処理はほとんど施されてなく、ライヴ・レコーディングのような生々しい音の質感が特徴的だ。

ファンの間では周知の事実かもしれないが、ティムは昨年、前述の映画『オーチャード・ヴェール』の共同制作者でもある妻のエイミー・カーギルと離婚した。そんな“自分の人生で難しい時期”にレコーディングされた本作は、ティムいわく「ここまで自分の情念を露にしたことはないってくらい、感情がもろに剥き出しになったアルバムになってる」という。なかでも、その象徴的なナンバーが、④“9/11 2”と、連作的な趣の⑩“If There Was a Time #1”&⑫“If There Was a Time #2”。スリントを彷彿させる荒々しい音響にのせて絶唱する前者は、まるで9・11の悲劇に襲われたように、ある日を境にこれまでの日常や人生が一転してしまった自身の失恋のショックを歌ったナンバー。そして、後者についてティムはこう語る。

「日本語の歌詞でどれだけニュアンスが伝わるかわからないけど、言葉遊びをしていて、最終的には何を歌ってるのかっていうと……要するに、自分は完全に混乱していて……で、混乱したまんまの状態で、時間とは何か、空間とは何かってことを問うてるわけだよね。その結果、時間も空間も実際には存在しないんじゃないかってところに救いを求めているというか……もしも時間も空間も存在しなければ、何もなかったのと同じなわけであってさ……っていう内容の曲なんだ」


最愛の人との離別。すべてが一変してしまった生活。「自分が生きていくこと以外に考える余裕がなかった」というティムに、それを見るに見かねた友人たちが、少しでも気が紛れれば、とヘッドフォンを被せて、マイクの前で歌わせた――そうして、この『ブー・ヒューマン』は生まれた。そんな今のティムにとって、ジョーン・オブ・アークは「自分を見失ったときに還ることの出来る場所」だという。
「そこで自分を自由に表現することで世界について知る、というか。だから、すごく自由だし、いろんな形で存在することができるっていう」

この秋からまた大学に通う予定なんだよ、とティムは語る。シカゴのアート・スクールで文章の創作について勉強し、これから何年かは学生生活を送ることになるという。はたして『ブー・ヒューマン』が、ティムの喪失感をどれほど贖うことができたのかはわからない。ただ、このアルバムを作ることが、ティムにとって新たな人生を踏み出す大きなきっかけとなったことは確かなようだ。6月末から行われる7年ぶりの再来日公演は、きっとメモリアルなものとなるに違いない。


(2008/05)