少し前のピッチフォークに興味深い記事が掲載された。「This Is Not a Mixtape」と題された記事(http://pitchfork.com/features/articles/7764-this-is-not-a-mixtape/)で、内容は、ここ数年、アメリカのインディ・シーンでにわかに注目を集める「カセット・カルチャー」について紹介したもの。カセット・オンリーでリリースされる作品や、その専門的なレーベル、またその界隈の代表的なアーティストを取り上げ、“カセット・リヴァイヴァル”と記事が呼ぶカルチャー/シーンと、その背景にあるアメリカン・インディの現状について、当事者の証言や簡単な時代考証を交えながら伝えている。
たとえば、最新作『ビッテ・オルカ』を、CDやヴァイナルやMP3と一緒にカセットでもリリースしたダーティー・プロジェクターズ。カセット限定のEP『On Platts Eyott』『Rainwater Cassette Exchange』が話題を呼んだディアハンター。過去のライヴ音源を集めたカセット作品『Fine European Food and Wine』を制作したオネイダ。そして彼らと並んで、記事で著書『Mix Tape: The Art Of Cassette Culture』等のエピソードが紹介されているサーストン・ムーアは、最近始めたブログ(http://flowersandcream.blogspot.com/)内でもカセット・カルチャー/シーンの話題をたびたび取り上げている。
あるいは、そのソニック・ユースがリリース予定のBOXセット用に、アルバム『EVOL』を全編カヴァーしたカセット作品を提供することが報じられたベック。また最近では、カセット・リリースが新人アーティストのプロモーションの機会にもなっているという例として、それぞれサブ・ポップとマタドールからデビューが決定したジェイルとハーレムの名前が挙げられている。
一方、記事は、このカセット・リヴァイヴァルなるものが、現在のアメリカン・インディにおける、ある音楽的動向と共犯関係にあると指摘する。具体的には、俗に「チルウェイヴ」「グローファイ」などと呼ばれる、オルタナティヴなエレクトロニック・ミュージック。ヒプノティックな電子音のゆらぎ、宅録/多重録音的な圧縮された音像のモアレ、粒子やコントラストの粗い歪んだサイケデリア……それは、ある種の“雰囲気”も含めてカセット・テープというオールドスクールなマテリアルならではの「特性/魅力」と親和性を見せるものであり、ネオン・インディアンやトロ・イ・モワ、ウォッシュド・アウト、メモリー・テープスといったそのシーンに属すとされるアーティストの少なからずは、実際にカセットでの作品リリースの経験をもつ。
また、詳しくは後述するが、たとえばウェーヴスやダム・ダム・ガールズ、あるいはノー・エイジやダックテイルズ(ガールズの盟友リアル・エステイトのメンバーも在籍)など、俗に「シットゲイズ」「ノーファイ」などと呼ばれるサイケデリックでローファイなガレージ・パンク~ノイズ・シーンとも関わるアーティストの中にも、そうした傾向は多く見られる。
カセットはCDと違ってトラックリストをスキップできない。MP3やデジタル・メディアへの変換も簡単ではない。結果、それはアーティストが望むとおりの形=「作品/アルバム」として聴取される。だからそこには、通常よりも「リスナーとの間に、個人的で密接した結びつきが生まれる」と、たとえば南カリフォルニアで「Bridgetown Records」(http://www.bridgetownrecords.info/)というレーベル(リアル・エステイトやビーチ・フォッシルズと共演するクラウド・ナッシングスは要注目)を運営するケヴィン・グリーンズポンは語る。
対して、現在のカセット・リヴァイヴァルにおける中心的なレーベルといっていいアイオワの「Night People」(http://www.raccoo-oo-oon.org/np/)を運営するショーン・リードは、そうしたアンチMP3/ダウンロード的な立場を踏まえた上で、両義的な見解を示す。
作品フォーマットとしてのカセットのクローズアップ/再評価の背景には、近年市場で台頭するデジタル・メディアやインターネット~ダウンロード文化へのリアクションという側面があることは間違いない。実際、この手のカセット作品は、後にCD化やデジタル・リリースもされないものが大半を占める。そうした、いわゆるアンダーグラウンドでマージナルな音楽や才能にスポットを当て、活動をサポートする場所としてカセット・カルチャーはある。しかし同時に、彼らのような存在が、文字どおりアンダーグラウンドでマージナルなレベルに埋もれることなく、メディアやショップの情報を介さずとも世界中のリスナーに届く/発見される場所として、インターネットが重要な役割を果たしていることも強調する。
そもそも、個人的にこの界隈の動きを知るきっかけになったのも、何かの検索で偶然引っ掛かった海外のブログだった。それから「Night People」に直接オーダーしたティース・マウンテンやティー・ピィーやサヴェージ・ヤング・テーターバグのカセットを聴いて、その面白さに気づかされたという経緯がある。また最近では、カセットをデジタル音源に変換できるオーディオ機器も充実している。つまり、カセット・リヴァイヴァルにとってインターネットやデジタル環境は、リスナーとの間を結ぶ重要な情報網であり販売網としての役割も担っている。
カセットの場合、個人的な体験や記憶と結びついた、ある種のフェティシズムやノスタルジアからくる魅力も大きい。たとえば記事では、スーパー・ファーリー・アニマルズのグリフが、カセットで初めてU2を聴いたときのエピソードが紹介されている。なんでも、そのカセットは犬に噛まれてところどころに傷や跡がつけられた代物だったらしく、聴いたらそれは全編にわたって強烈なノイズとヴィブラートがかけられていて、まるでマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのリハーサル・テープか何かのようだったという(それから数年後に正しいヴァージョンを聴いて、とてもがっかりしたらしい)。これは特殊な例だが、そもそもカセットというのは、プレイヤーの調子で再生速度にムラがあったり、あるいは経年劣化も含めて、けっして“正確”ではないどこか偶然性を孕んだものであり、極端な話、永遠に音が変わり続ける録音メディアだとグリフは語る(グリフは昨年、自身のレーベル「Irony Bored」http://www.myspace.com/ironyboredから、ネオン・ネオンにゲスト参加もした女性シンガー、ケイト・ル・ボンの作品をカセットでリリースした)。
そして、冒頭でも挙げたダーティー・プロジェクターズ。彼らの出世作『ライズ・アバヴ』も、きっかけはデイヴ・ロングストレスが、引っ越しで部屋の整理中に見つけたブラック・フラッグの『ダメージド』の空のカセット・ケースをきっかけに、その中身の音楽を、昔聴いた記憶を辿って再構築していく過程で生まれたアルバムだった。ちなみに、ニューヨークで「Captured Tracks」http://www.capturedtracks.com/(ダム・ダム・ガールズ、ビーチ・フォッシルズetc)を運営するマイク・スナイパーによれば、自身のバンドのブランク・ドッグスがツアーした際、物販で真っ先に売り切れるのがカセットだという。カセットはそんな、いわば“iPod以前”のアクチュアルかつアクシデンタルな聴取体験や音楽的記憶の名残を留めた、なるほどフェティッシュでノスタルジックなメディアなのかもしれない。
いうまでもないことだが、ここでカセット・リヴァイヴァルと呼ばれるものは、けっして今になって急浮上したカルチャー/シーンではない。
“リヴァイヴァル”とあるように、カセットは過去にも、アメリカン・インディに限らずさまざまな局面で重要なトピックを担ってきた。代表的なところを挙げれば、たとえばブラック・フラッグやマイナー・スレットが登場した80年代のアメリカン・ハードコア。ポスト・パンク周辺からスロッビング・グリッスルやノイバウテン等を経由して、現在まで脈々と続くノイズ/インダストリアル・シーン。個人的にリアルタイムなところでは、ハーフ・ジャパニーズやダニエル・ジョンストン、あるいは初期のベックらアンチ・フォーク勢も含む90年代初頭のローファイ・ムーヴメント。その界隈のKやキル・ロック・スターズといったレーベルを介する形で、オリジナル・ハードコアの遺産(と反省)から生まれたライオット・ガール。それこそ、テープ・コラージュやミュージック・コンクレートまで範囲を広げて現代音楽~アヴァンギャルド・ミュージックを検証したらきりがないが、ともあれ、「それは、ノイズ・ミュージックと、現代性の欠如と行き着く果ての周縁性を志向する試みからカセットというフォーマットを選択したアーティストと共に、ゆっくりと前進してきた」と、ミネアポリスでレーベル「Moon Glyph」http://www.moonglyph.com/(先日アリエル・ピンクとのコラボが話題を呼んだヴェルヴェット・ダヴェンポートは要注目)を運営するスティーヴ・ロスボロが語るように、カセット・カルチャー/シーンは、繰り返すがアンダーグラウンドでマージナルな音楽と共犯関係を結んできた「歴史」がある。
とりわけ、近年たびたび話題に上り、再評価的な機運も見受けられるのが、『C86』という作品(C86)。86年にNMEがリリースしたカセット・コンピで、その内容から、転じて派生的な音楽ジャンルやタームを指したりもする。当時のイギリスのインディ・バンドを集めて制作され、プライマル・スクリーム(“Velocity Girl”)、パステルズ、ショップ・アシスタンツ、ウェディング・プレゼント、スープ・ドラゴンズ、クロース・ロブスターズ、マイティ・マイティなど22組を収録。いわゆるアノラック系と呼ばれた、初期クリエイション~当時のグラスゴー周辺を象徴するジャングリー&トゥイーなギター・ポップのまさに入門編的な趣をたたえた本作は、それから20余年後、2000年代末に登場した新しい世代のインディ・バンドにとっての格好の教本として、その価値が見直されている。
それはたとえば、ヴィヴィアン・ガールズやザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートやクリスタル・スティルツやコーズ・コモーションといったバンドに代表される、「ローファイ」や「シューゲイザー」「サーフ・ミュージック」「ガレージ・パンク」などさまざまなタームが交差したインディ・ロックの現場においてであり、彼らがまとう空気やそのサウンドには随所に「C86」的なるものを感じることができる。実際の影響の有無はともかく、四半世紀近く前のイギリスのインディにおける限定的なトピックが、一本のカセットを通じて遠いエコーのように現在のアメリカン・インディと共振を見せている事実は、興味深い。
たとえば、ダム・ダム・ガールズ/クロコダイルズ/グラフィティ・アイランド/ペンズのスプリット7インチ『Four Way Split』。あるいは、ここらのシーン全体のキーマンのひとりといっても過言ではないウッズ率いるジェレミー・アール主宰の「Woodsist」(http://www.woodsist.com/)のサブ・レーベル「Fuck It Tapes」のカタログを眺めれば、そこにはヴィヴィアン・ガールズやウェーヴスやブランク・ドッグスから、エクセプターやイエロー・スワンズやポカハウンテッドといったノイズ・ドローン~アンビエント/サイケデリック~フリー・フォークまで含む、より広範で複雑に絡み合ったアメリカン・インディの樹形図が浮かぶだろう。
そしてそこでは、かつてのハードコアやライオット・ガールのように、7インチと並んでカセットがバンド同士やバンドとファンの距離を近づける重要なメディアとなり、またネットや(アーティスト/ファンの)ブログやツイッターがかつてのファンジン的な役割も果たし、シーン全体を活性化させている。
それにしても――すでにいろんなところで指摘されていることだが、この界隈に「海」にまつわる名前のアーティストやバンドが多いのはどうしてだろう。ウェーヴスやB・フォッシルズは既に挙げたが、他にも、ベスト・コースト、ビーチズ、ダーティ・ビーチズ、サーファー・ブラッド、サーフ・シティ、サマー・キャンプ、サマー・ヒッツ、サマー・キャッツ、シー・ウルフ、ウェーヴ・マシーンズ、ウェーヴ・ピクチャーズ、カルフォルニア・サン、ヘヴィー・ハワイズ(※ウェーヴスのネイサン・ウィリアムスの元同僚)……。これに、作品のタイトルやアートワークに「海」をあしらったものまで含めれば、それこそ枚挙に暇がない。偶然なのか、それともなんらかしらの理由があるのか。ビーチ・ボーイズ/ブライアン・ウィルソン、『ペット・サウンズ』、ウォール・オブ・サウンド、50~60年代ウェスト・コースト・ミュージック~サーフ・ロック、サイケデリック、あるいはノイズ(=潮騒)、ループ(=波)……そのサウンドから、「海」との因果関係を紐解くヒントを与えてくれそうな共通する「イメージ」を導き出せなくもなさそうだが、はたしてそこに興味深い「答え」があるようにも思えない。しかし、その「海」には、このカセット・リヴァイヴァルをひとつの渦として巻き込む、アメリカン・インディのうねりが確かに内包されている。
そんなところに届いた、MGMTのニュー・アルバム『コングラチュレイションズ』。ここにも「海」がアートワークに飾られている。けれどその「海」は、まるで奥行きを欠いたスーパーフラットなカートゥーンの海で、フィリックスに似たキャラクターが高波に捲くられてサーフィンをしている。コミカルというより、「祝福」というタイトルとも相まってどこか得体の知れなさが先立つ本作は、そこで歌われている内容や意図したメッセージはともかく、「ポップ」なんてインフレ(デフレ?)した言葉では回収のできない、ひどく倒錯した印象を与える。それは、作品の後半に進むにつれて混沌とサイケデリックな様相を深める展開に、プロデュースを務めたソニック・ブームの、EARやスペクトラムで見せる電子音響~ドローン的なそれではなく、むしろかつて元相棒ジェイソン・ピアーズがドクター・ジョンと組んだときのことを連想させる南部黒人音楽やルーツ・サイケデリアに精通した素養が露わとなるという驚きもさることながら、カセット・リヴァイヴァルをめぐってここまで触れてきた、2000年代と2010年代の端境期をまたぐアメリカン・インディのあらゆる事象をキャッチウェイヴし続けるようなサウンドの、その異様なテンションの高さである。
その様子は、アートワークのイラストのようにどこか戯画っぽくもあり、アマルガムな音の感触は、逆にあらゆる情報が相対化され断片化された時代に似つかわしいリアリティを伝えているように思えた。サマー・オブ・ラヴとモダン・テクノロジーが交差するアーチの下で、パンク・ロックとゴスペルが、サーフ・ポップとグラム・ロックが、そしてファルセットとスクリームが騒々しくユニゾンし、鮮やかなコントラストを描く。そして、その高波のように押し寄せる虹色のサウンドの向こう側には、しかし、まだ「2010年代のロック/ポップ」の姿は見えてこない。楽しみまだまだこれからである。
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