「ハードコアって、とにかく自分がパンクであることに何より自己を見出した新しい世代だったんだ。しかも若者によるムーヴメントだったんで、すごく理想主義的なところもあって、本気で世界を変えようとしていたんだよ」
70年代末~80年代初頭に、ミドル・クラスやブラック・フラッグらによってロサンゼルスから火の手が上がり、瞬く間にサンフランシスコなど西海岸一帯に燃え広がりながら、バッド・ブレインズやマイナー・スレットのワシントンDC、SSデコントロールのボストン、ニューヨークへと同時多発的に連鎖引火を起こしアメリカ全土を焼き尽くしたオリジナル・ハードコア。その実態は、たとえば映画の中でアーティクルス・オブ・フェイスのヴィック・ボンディが「80年代の組織化された左翼、改革主義だった」と語るとおり、純粋に音楽的なシーンという以上に、当時誕生したレーガン政権が訴えた右翼的・保守的観念への対抗文化としての側面が強かったわけだが、そのハードコアが、皮肉にもレーガンの二期目の再選と交差するように、85~86年あたりを境にムーヴメントとしては終息に向かっていく姿がここには赤裸々に描き出されている。
本映画の原作本である『American Hardcore』の副題に「A Tribal History」とも記されているように、アメリカ各地に点在する若者たちを繋ぐ包括的なネットワークでありながら(その光景は、70年代初頭に同じく西海岸で誕生したスケーター・カルチャーのドキュメンタリー映画『DOGTOWN&Z-BOYS』の光景ともダブる)、生活環境や思想・信条の異なるさまざまな「種族」が混在していたハードコアは、その理想主義ゆえに、ミュージシャン側の「理想」に反して局地的な対立や衝突が耐えなかった(映画の中で後期ブラック・フラッグの女性ベーシストだったキラ・ロゼラーが、当時のハードコア内の女性蔑視的な風潮を指摘しているのは重要だ。後のライオット・ガールズの登場へと繋がる萌芽ともいえる)。ハードコアという「スタイル」が、一部でハードロックやメタルへの流出/流入を招き音楽的な形骸化を来たす一方、そうしたシーン内の確執から生じた暴力的な風潮や厭世観を引き金に内側から崩壊していったという事実は、実際に当事者の口から語られる真実と重ね合わせたとき、それがいかにあやうい均衡の中で全うされた、凝縮された「歴史」であったかを再認識させて感嘆する。
原作の著者スティーヴン・ブラッシュは、映画の公開に寄せたDOOL誌のインタヴューで、ハードコア・シーンの節目を印象づけた出来事として、ブラック・フラッグとデッド・ケネディーズの解散(86年/87年)、ミニットメンのD・ブーンの死(85年)、ハスカー・デューのメジャー移籍、そしてビースティ・ボーイズがハードコアからヒップホップに転身した『ライセンス・トゥ・イル』のリリース(86年)を挙げている。
映画の中でも、たとえばバッド・ブレインズが次第にレゲエ&ラスタファリズムへの傾倒を強めていくエピソードが、彼らやビースティーズのプロデューサーだったジェリー・ウィリアムズの証言とともに懐疑的なトーンで紹介されているが、そもそもハードコアが当初のインパクトとは裏腹にほどなく隘路に陥った要因のひとつに、その愚直で純粋主義ともいえる音楽的なストイシズムが挙げられる。
「本心を表現したかったら32秒で伝える(イアン・マッケイ)」オリジナル・ハードコアは、それ自体ですでに完成され完結された音楽様式だった。速度と強度を極限まで突き詰めた、その混じりけのない凝縮された「音」の内実こそオリジナル・ハードコアの本領、といえる。だから、そのピュアリズムを貫くことと、音楽的な変化/進化を求める態度は、当然ながら本質的に相容れがたい(ミニットメンのような「規格外」もいたが)。結果、音楽フォームとしてのハードコアは、いうなれば原理主義派とそうでない派に「種族」が枝分かれしシーンの細分化が進むことで、かつての求心力を後退させていく。「ブラック・フラッグの周りには何の文化も残ってなかった」と解散時のシーンの状況を回想するグレッグ・ギン(最後を見届けた唯一のオリジナル・メンバーだった)の言葉と、かたや『ライセンス・トゥ・イル』によって新たなカルチャーを創り上げたビースティーズの成り上がりは、そんな80年代のオリジナル・ハードコアが迎えた混沌を対照的に物語るエピソードとして興味深い。
「ニューヨークのキッズがやってるただのハードコア・バンドでしかなかった奴らがヒップホップをやるなんて、すごく胡散臭く思えたのを覚えてるよ。そしたら『ライセンス・トゥ・イル』が爆発的に売れちゃってさ。ヒップホップには、普段パンクやハードコア、果てはメタルを聴いている連中まで虜にできるぐらいのエネルギーがある、ってことを嫌というほど思い知らされたね」(サーストン・ムーア)
ムーヴメント/カウンター・カルチャーとしてのハードコアは80年代の終わりに差し掛かる頃には退潮し、よりアンダーグラウンドな存在へと先鋭化した。しかし一方ハードコアは、むしろ90年代以降、その直接的/間接的な後継者たちの登場によって、より重要性を増した形でクローズアップされることになる。
ポスト・ハードコアの最右翼だったビッグ・ブラックを率い、その後レイプマン~シェラックと自身のバンド活動を継続する傍ら、エンジニアとしてグランジ/オルタナティヴに多大な音楽的薫陶を授けたスティーヴ・アルビニ(がプロデュースしたストゥージズの新作は、ヘヴィ・ロック、パンクとモードを経た2000年代イギー・ポップのハードコア的帰結か!?)。バストロでドラムを叩いていたジョン・マッケンタイアのトータスを筆頭に、スリントからドン・キャバレロ、モグワイやジョーン・オブ・アーク、バトルズなどポスト・ロック/インストゥルメンタル・ロック勢。2000年代以降で言えば、西海岸でハードコア・バンドの活動履歴をもつ!!!やラプチャー、アルビニ近辺のエンジニアだったジェイムズ・マーフィ=LCDサウンドシステム。ライトニング・ボルトやヘラ、コプティック・ライトなどハードコアの「原始回帰≒現代的展開」とも呼べる動き、サンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マンやウッデン・ワンド&ザ・ヴァニシング・ヴォイスら一部のフリーク・フォークから、アースやサン・オーなどドゥーム/スラッジに至るまで、勿論ディスコード周辺の若手は言わずもがな、陰に陽にハードコアとの深い関係性にあるミュージシャンやバンドは後を絶たない。
なかでも現在、「ハードコア」を最もラディカルな形で受け継ぎ独創的なサウンドを追求しているバンドといえば、マーズ・ヴォルタであることに異論はないだろう。そのアット・ザ・ドライヴ‐イン時代に遡る履歴や最新作『アンピュテクチャー』における音楽的な達成については言及するまでもないが、そもそも彼らがテキサスのローカルなハードコア・シーンをルーツとしている事実は、そこから現在に至る飛躍を考えたとき改めて驚嘆せざるを得ない。
たとえば興味深いのは、「初めてのロックンロール体験は?」と訊かれたときの、オマー・ロドリゲスのこんな答えである。
「俺にとってのサルサ以外での初の音楽的な体験、ひいては俺自身の人生が変わっちゃった経験っていうのは、ビースティ・ボーイズの『ライセンス・トゥ・イル』を買ったことだったんだ。俺は10歳だった」
「ハードコア」は登場から20年以上を経る中で、ある種触媒的な影響源としてさまざまな音楽スタイルと他花受粉を果たしながら“開かれて”きたわけだが、その軌跡はそのままマーズ・ヴォルタの音楽的な世界観に含まれる、と言っても過言ではない。
デビューEP『Tremulant EP』や2nd『フランシス・ザ・ミュート』のフリー・ジャズやサイケデリック・ロックと邂逅した交感的なインプロヴィゼーション。ライヴ盤『スキャブデイツ』でも実践された、カンやファウストを経由してルーツ・ダブとポスト・ロック以降を繋ぐような編集感覚と音響処理。1st『ディラウズド・イン・ザ・コーマトリアム』における(ヘヴィ・ロックとはまるで視点の異なる)斬新なハードロック/メタル解釈。そして、ATDI時代から受け継ぐポスト・パンクとラテン訛りのハイブリッドなファンクネス……etc。そうした多様で複雑な意匠に富む音楽文体を、さらなる高みへと纏め上げた3rd『アンピュテクチャー』は、同時に「ハードコア以降のハードコア」の進化/深化のドキュメンタリーであり、圧倒的な情報量を誇り、それを凝縮し“積み上げる”ことでロックンロールを「解放」や「更新」「異化」へ導こうと奮闘する彼ら(と勿論同郷のトレイル・オブ・デッド)の創作精神は、対極に“削ぎ落とす”ことで「再生」「回顧」に向った数多の00年代初頭のギター・ロック・バンドへの強烈なカウンターとして、その埋め難い差を見せつけながら今なお異彩を放ち続けている。
そうした現在のマーズ・ヴォルタのサウンドを踏まえたとき、そこには、その頭脳であるオマーの、たとえば『ライセンス・トゥ・イル』を自身のロックンロール体験の原点に挙げてしまうような特異な音楽観が窺える。パンクもハードコアも虜にする、ハードコアの「オルタナティヴ」として生まれた白人によるヒップホップ=『ライセンス・トゥ・イル』。それをあえて「ロックンロール」と呼んで(読み替えて)しまうセンス。その後オマーの聴取体験は、スレイヤーからブラック・フラッグへと時代を遡ることでハードコアの「オリジナル」と出会うわけだが、その独特な感覚は、マーズ・ヴォルタの来歴を無視したような音楽性と確実に重なり合うものだと思われる。
のオマーが、元カン~ダモズ・ネットワークのダモ鈴木とコラボレートEP『Please Heat This Eventually』を発表した。その、まんまオマーのソロ(2nd『Omar Rodriguez』収録の“Regenbogen~”や“Spookrijden~”みたいなサイケ/ファンク・ロック)にダモのマントラのようなヴォーカルが乗っかってるというか、つまりオマー×ダモのマーズ・ヴォルタ?みたいなぶっちゃけたサウンドもさることながら、何より感慨深いのは、やはりそのマーズ・ヴォルタとカンという運命的とも言える巡り合わせの妙である。
たとえばセドリックが「俺の一番好きなアルバム」としてカンの『タゴ・マゴ』(と、そのカンの絶大な影響下にあったPILの『フラワーズ・オブ・ロマンス』。さらにセドリックは「最強の見本」としてジョン・ライドンがダモ鈴木を愛聴していたというエピソードを挙げている)を挙げていたりもするように、カンとマーズ・ヴォルタは音楽的にも親和性が高い。アヴァンギャルドかつファンキー、ハードコアでルーツ・オリエンテッドなサウンドの多様性とフリーフォームな構築性。対して、オマーのソロ作品でも顕著な緻密なエディツト/サンプリングや、呪術的なフィーリングを生み出すミニマルな反復。マーズ・ヴォルタを聴いて『タゴ・マゴ』や『モンスター・ムーヴィー』を想起しないひとはいないだろうし、カンのみならずアモン・デュールやグル・グルなどジャーマン・ロック全般からの影響はおそらく音を聴くかぎり疑いのない事実だろう。
しかし、それ以上に興味深いのは、シュトックハウゼンの門下生だったホルガー・シューカイ(ベーシストでありコラージュの名手だった彼の存在はオマーにとって大きなものだったのではないだろうか)を筆頭に、現代音楽やクラシック、フリー・ジャズなど背景にもつ「門外漢」が集まり、あえてロックやポップ・ミュージックを志向するところから始まった、というそもそものカンの出発点である。
クラシックや前衛音楽の伝統が深く根差した60年代のドイツにおいて、ロックは明確なカウンター・カルチャーだったに違いない。このカン誕生のエピソードに象徴されるある種のねじれの構図は、ハードコアからヒップホップに転じたビースティーズは勿論、その『ライセンス・トゥ・イル』にロックンロールの原体験を見出すオマーの思考回路と響き合うものであり、それは同時に、ロックのフォーマットから逸脱しながらも逆説的にロックの本質を炙り出すようなマーズ・ヴォルタのメカニズムとも、その「正統」に対する異化作用において同質のものと言えるのではないだろうか。「みんなが持ち寄ったものを同じ缶に投げ込む」という諸説あるカン命名の秘話よろしく、「ハードコア」という入れ物に異質な素材を放り込むことで独自の音楽体系を築き上げてきたマーズ・ヴォルタは、「ファンクをやろうとした挙句、暴走して変な方向に進んだ結果、新しい音楽が生まれた」というもう一組のカンの恐るべき子供=!!!同様、トレンドやフレーム・アップが必要以上に重宝されるこの時代に、ロックやポップ・ミュージックにはまだまだ自力で変化や進化する可能性が残されていることを証明してくれる数少ない存在だ。
オリジナル・ハードコアの砕け散った破片が、その後のアンダーグラウンド・シーンに魅力的な才能の花を咲かせる種となったように、あるいはカンの登場が、米英の価値基準とは異なる角度からポップ・ミュージックの新たなモデルを創り上げたように、マーズ・ヴォルタの飽くなき実験/実践はロックを更新する。
(2007/03)
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