2011年1月31日月曜日

2000年代の極私的“ビッチ”考……PJという特異点

PJハーヴェイのニュー・アルバム『ホワイト・チョーク』。このアルバムのなかでポリー・ジーン・ハーヴェイはわずかな場面を除いてほとんどギターを弾いていない。代わりに彼女は多くの曲でピアノを弾き、あるいはオートハープスやハーモニカといったギター以外の楽器を操りながら歌っている。それもいままでの彼女の作品では聴いたことがないような歌い方と歌声で、彼女は歌っている。
彼女は今回のアルバムについて、いくつかのインタヴューに応えている。なかでも興味深かったのが、表紙を飾ったWIRE誌とガーディアン紙のインタヴューで、彼女は今回のアルバムの真相/深層についてかなり踏み込んだところまで話している。とくに後者の記事を読んだ後では、私の中でアルバムの印象はガラリと変わった。PJハーヴェイというアーティストにとってこの『ホワイト・チョーク』というアルバムが格別の意味をもつことを痛感させられた。
 
今回のアルバムについて語るとき、やはりキーとなるのはピアノの存在だろう。前作の『Uh Hur Her』、あるいは『ドライ』をはじめ初期の作品を通してPJハーヴェイの音世界を形づくってきた荒々しいギター・サウンドは姿を消し、『ホワイト・チョーク』ではほぼ全編にわたりアコースティック・ピアノが奏でるクラシカルなメロディがサウンドの主旋律となっている。聴いたその印象は、単にギターの代替としてピアノによって作曲されたというより、ピアノを弾くために書かれたアルバムと形容したほうがふさわしい。これまでの彼女の作品とはどれとも似つかない異質な手触りがある。

ポリーにとってピアノは、慣れ親しんだギターとは異なりほとんど未知の楽器だった。今回のレコーディングにあたり、家の中に招き入れたその見慣れぬ異形の存在=ピアノについて彼女は「巨大な野獣」と形容している。実際、彼女が本格的にピアノを弾き始めたのは前作『Uh Hur Her』のリリースからしばらくした後のようで、昨年某フェスティヴァルで披露するまで客前でピアノを弾いた経験は一度もなかったという。それほど彼女にとってピアノを弾くこと、それもソングライティングやパフォーマンスのレヴェルにまで弾きこなすことは一大事でありチャレンジングな行為だった。いまでもステージで演奏するのは怖くて堪らないというぐらいだから、それは相当のことだったのだろう。
ポリーはなぜ、そんな思いをしてまで今作でピアノを弾こうとしたのか。変化や前進への志向は表現者としてきわめてまっとうな欲求とはいえ、仮にもキャリアが20年に届かんというアーティストの取り得る手段としては、必ずしも賢明とは言いがたい。しかも、ミュージシャンとしての根幹に関わる部分でのこうした選択は、かなりリスキーと言える。限りなくゼロの地平から自らの音楽世界を新たに立ち上げることは、その爽快感と引き換えに、大袈裟に言えばそれまで築いてきたものを自らの手で壊す行為にも等しい。
しかし、それでもポリーにとってピアノを手にすることは、20年近くにわたるキャリアの中で到達した「自らの深み」から抜け出し、新たに向うべき正しい場所を見つけるために不可欠な選択であり、それは彼女の内に芽生えた抗いがたく圧倒的な欲求だったという。そして、その欲求に応えることこそが、彼女にとって『ホワイト・チョーク』を制作した最大にして唯一の理由だと言い切ってもおそらく間違いない。


本人の、ドラマ性を喚起するキャラクターとは裏腹に、ミュージシャンとしてのキャリアの面ではこれまで比較的に順調な軌跡を歩んできたと言えるPJハーヴェイ。しかし、そんな彼女にとって敢えてターニング・ポイントとなる作品を挙げるとするなら、それは2000年に発表された『ストーリーズ・フロム・ザ・シティ、ストーリーズ・フロム・ザ・シー』だろう。
楽曲の大半が故郷のドーセットではなく当時滞在していたニューヨークで書かれ、音楽的にも内面的な世界観の部分でも変化を迎えた5作目のスタジオ・アルバム。このアルバムの中でポリーは、それまでの自身の内面を生々しく曝け出すようなモノローグから、外の世界と能動的にコミュニケーションを図るようなダイアローグへと「語り」の視点を変え、観念的なレトリックを排した素朴でストレートな言葉で「自分以外の人間から見た世界観」(ポリー)を意識したストーリーを歌っている。

そしてサウンドや彼女の歌声も、ヘヴィで直情的に突き動かされるような摩擦や歪みは失せ、ポップな躍動感にあふれ、包み込むようなおおらかさと慈愛を感じさせるものへと変化した。それまでのアルバムが、PJハーヴェイというアーティストを私小説的に内側から輪郭付けていった作品だとすれば、『ストーリーズ~』は、第三者的に外側から見つめることでPJハーヴェイを「再発見」し新たな輪郭を与えた作品とも言える。さらに女性アーティストとして初のマーキュリー・プライズに輝くなど、世間の評価的にも彼女のキャリアを代表する一枚である(トム・ヨークとの共演も話題を呼んだ)。
しかし、最近のインタヴューの中でポリーは『ストーリーズ~』について振り返り、そうした周囲の反応をよそに必ずしも満足できる作品ではなかった、と明かしている。曰く、技術的/アーティスティックな部分ではひとつの実験であり達成だったが、心の深い部分で満たされることはなかった、と。たしかにアルバムは高い評価を受け、PJハーヴェイというアーティストに大きな成功をもたらした。「私にもやっと外界に対して長年閉ざし続けてきた扉を開け放つ覚悟がついてきたのよ」と興奮気味に話してくれた当時のインタヴューからは、彼女自身もそうした変化や新境地について好意的に受け止めていた様子が窺える。でもそれは、たとえば『トゥ・ブリング・ユー・マイ・ラヴ』(’95)や『イズ・ディス・ディザイアー』(’98)のような、創作的な達成と内的な充足を同時にかなえてくれた作品とは程遠い、と2007年のポリーは語っている。
続く『Uh Hur Her』(’04)についてポリーは完成後のインタヴューで「今までで一番、本当に『自分』を描けたアルバムだと思う」「私が音楽とか自分についてどう考えているのかを表現する方法としては、より正直なドキュメンタリーができたと思う」と話していた。

故郷のドーセットで制作され、ほぼすべての演奏を一人でこなし、初のセルフ・プロデュース作となった『Uh Hur Her』(は、『ストーリーズ~』とは対照的に、創作的な部分での変化や実験よりも、まず彼女の内面的な如何が優先された作品と言える。音楽のスタイルも、初期の代表作を彷彿させる攻撃的なギター・ロック/ブルーズへと(すべてではないが)回帰を見せた。「ドーセットみたいな明らかな自分のルーツ的場所に頼らなくても自分を見失わなくなった」と話していた『ストーリーズ~』で「世界」を発見したポリーは、ここで再度自らを内側から凝視することで「本当の自分(=ルーツ)」を再定義する。もっとも、それは単なる前作の反動というよりむしろ、外の世界に触れ数多の経験を得たからこそ彼女の中に芽生えたアイデンティティの「成熟」の表れだったのだろうと思う。
だとするなら、「このアルバムでようやくスタートラインにたった気がする」とまで語っていた『Uh Hur Her』をへて産み落とされた『ホワイト・チョーク』は、彼女にとってどのような意味をもつ作品と言えるのだろうか。


ポリーはガーディアン紙のインタヴューの中で奇妙なエピソードを告白している。「私はこのごろ、自分が『イギリス人』なんだって強く感じるの。自分は『イギリス人の女性』だと意識するようになった。だから私はイギリス人の女性のように歌いたかったの」。さらに記事によれば、『Uh Hur Her』のリリース後、ポリーは「英文学」を学びたいと思い立ち、そのための然るべき教育機関に進むことも真剣に考えていたのだという。
なぜそのような感情が彼女の中で沸き起こったのか。その明確な理由は定かではない。彼女はあらためて自覚するまでもなくれっきとした「イギリス人」である。ただ一方で、小さなころから両親の影響(彼女の父親は「ストーンズの6番目の男」とも呼ばれたイアン・スチュアートと親交が深かった)でキャプテン・ビーフハートや古いブルースなど“アメリカ人が歌った”レコードを聴いて育った彼女にとって、「自分とは何者か?」という問いはつねにアーティストとしてのアイデンティティに関わる重要なトピックだったのだろう。そして『ホワイト・チョーク』は、その「問い」の延長に生まれた作品としておそらくある。

思えばPJハーヴェイとは、なんとも“アメリカ的”なアーティストである。その音楽的な趣味志向やルーツも含めたスタイル。登場した時代背景やシーンとの関係性。スティーヴ・アルビニがニルヴァーナの『イン・ユーテロ』と同時期にプロデュースした『リッド・オブ・ミー』(’93)が象徴的なように、「1991年」にデビューを飾った彼女とはいわばアメリカのオルタナティヴ/グランジに対するイギリスからの回答だった。

その独特な立ち位置については、あらためて彼女を90年代初頭のイギリスの音楽地図の上に置き直してみればよくわかる。そこに音楽的な共時性はほとんど見当たらない。ブリット・ポップともブリストルとも交わらない。むしろ彼女の音楽的な関心は海の向こう側で起きた地殻変動と地続きに共振するものであり、そこにはベックやジョン・スペンサーを巻き込むことも可能な「ブルーズ」をめぐる議論から、そのキャラクターが本人の不本意な形でカリカチュアされた結果としてのライオット・ガールとの比較論まで、同時代のアメリカのロック状況に対照する争点が内包されていた。

『Uh Hur Her』でポリーが本当に描いたという「自分」とは、つまりそうしたアメリカの音楽と交わりの深い自らのアイデンティティと捉えるのがおそらく正しい。その意味であのアルバムとは、「こういうレコードをつくる方が私にとっては自然で」とも話していたように彼女の血肉にまで根を下ろした音楽的ルーツをあぶりだす文字どおり「正直なドキュメンタリー」だった。
であるならば――。「イギリス人の女性のように歌いたかった」という、それまでの“アメリカ的”なものとは真逆の、しかもさらに踏み込んだ形で自身の「ルーツ」へと彼女が向った『ホワイト・チョーク』を、いったいどう捉えるべきなのだろう。

『ホワイト・チョーク』を聴いて、まず誰もが深く魅了されるのは、その彼女の歌声ではないだろうか。それは、あの情念が迸るような叫びとも、荒涼と吹きすさぶ詩情とも、あるいは『ストーリーズ~』で聴いたみずみずしい躍動感とも異なる。もの憂げで、艶かしく、凍えるほど張りつめ、でもどこか感情の底が抜け落ちたような、まさに「静謐」という言葉がふさわしい歌声。今までのPJハーヴェイのアルバムで、こんなふうな歌声で歌うポリーを聴いたことがない。アートワークに写るポリーはまるで、神の洗礼を受けた修道女のように清らかで透徹した表情をしている。
PJハーヴェイのこれまでのキャリアにおいて、(その歌詞と共に)時にそのキャラクターを過剰に意味づけ、またセンセーショナルにカリカチュアしてきたポリーの歌声。「どうも世間では、私が持って生まれた女としての業を歌を書くことで解消させてる、悪魔祓いみたいなものだと思い込んでるフシがあるみたいだけど、そうじゃない。私にとってソングライティングはセラピーではなくて自己表現なの」。デビューからのそうした誤解や偏見に嫌気がさしていた彼女は、もう長い間、自分が本当に歌いたい歌い方を探し続けてきたという。それは同時に、「自分とは何者か?」という問いとも響き合うものであり、「イギリス人」である自分を意識するようになった出発点でもある。

そしてガーディアン紙のインタヴューの中で彼女は、今回の『ホワイト・チョーク』に際し、あるキーワードを記したメモを身の回りに貼り付けレコーディングに臨んだことを明かしている。彼女によればそのメモには「子供のように」「5歳」と書かれていたという。

そのキーワードが具体的に何を意味するのかはよくわからない。少なくとも『ホワイト・チョーク』のポリーの歌声は「5歳」の「子供のように」は聴こえない。だから想像するに、そのキーワードとはある種のメタファーなのだろう。それは、たとえば「音楽」というものの記憶や体験が認識される以前の無垢や純真さの象徴かもしれないし、つまりは“アメリカ的”なものと出会う以前の“イギリス的”なルーツへの回帰を指すものかもしれない。あるいは彼女の中で「5歳」とは何か特別な年齢なのかもしれない。
ただ、言えるのは、『ホワイト・チョーク』とはポリーにとって、けっして無邪気に音楽と戯れるような作品ではない、ということだ。むしろ、彼女が今作に期する思いは、これまでのどの作品よりも切実で重いものであったに違いないと想像する。『ストーリーズ~』と『Uh Hur Her』という、対照的で、かつ互いを補完するようにしてPJハーヴェイというアーティストを定義/再定義した両傑作をへて、その余韻が引いた後にふと、内側から生々しく湧き上がってきた「お前は誰だ?」という囁き。その内なる声に応えたのが『ホワイト・チョーク』であり、結果、彼女はここにまったく新たな「PJハーヴェイ像」をつくり上げてみせた。

白いドレスを着て、暗がりの中でたたずむアートワークのポリーの姿はまるで蝋燭のようであり、その光が灯された全身の背後には、彼女の影が周りの闇に溶け込むように深く伸びている。

その「影」の濃さこそ、『ホワイト・チョーク』を物語る何物かであるのは間違いない。


(2007/12)


※追記:2011年2月、ニュー・アルバム『LET ENGLAND SHAKE』リリース。
「これまでの私の作品の多くは、内面的なこと、感情だとか、私自身の内部で起きていることについて語っていたと思う。だけど今回は、私の視点はとにかく外側へと向いている。だからイングランドに目を向けて、その問題を扱っているだけじゃく、世界に目を向け、今、世界の最新情勢はどうなっているかということにも目を向けているの。でも常に、1人の人間としての視点を忘れないようにしているわ。」
とポリーは語る。

※追記:『LET ENGLAND SHAKE』収録曲(のいくつか)は『ホワイト・チョーク』のレコーディングと同時期に制作されたものらしい。

極私的2000年代考(仮)……スワンズあるいはMGという導線

1980年代の音楽状況をめぐるもっともラジカルな争点は、“過渡期/更新期におけるロック表現”としてのポスト・パンク/ノー・ウェイヴの時代にこそ集約されるのではないか。

たとえば1970年代のオリジナル・パンクが、無秩序を謳いながらもヒロイックで、破壊的にふるまいながらも最低限「ロック」のフォーマットであることは満たしていたのに対し、ポスト・パンクやノー・ウェイヴの多くは、文字通りの(音楽的)無秩序を、破壊を持ち込むことで、それまでとは異なる回路へと「ロック」を解放してみせた。それまで、その時々の流行や時代の変化に晒されながらも、柔軟性や適応力を見せ、表現のベクトルを垂直方向に漸進し続けてきた「ロック」に対し、いわば「外部」から補助線を引き、異物を接ぎ木し、流動的で可変的な表現へと文脈を錯綜=ミスリードさせる――それこそがポスト・パンクやノー・ウェイヴの矜持だった。
その意味で、だから彼らは所詮、「ポスト」であり「ノー」に過ぎなかった。ポップ・カルチャーのメインストリームと化した「ロック」の懐に土足で踏み込み“嫡流”の血を汚す、来歴不明の混血児の「ロック」としてのポスト・パンクやノー・ウェイヴ。もちろん、そのとば口を作ったのはオリジナル・パンクにほかならない。

しかし、ポスト・パンクやノー・ウェイヴの矛先は、必ずしも「ロック」にのみ向けられたものではなかった。それは結果的に、あらゆる本家本流に対する価値の転倒へと実を結んだ。

「で、これって、私だけでなく、当時の人たちに、フリー・ジャズとかフリー・ミュージックというのか、ま、それへの敷居を低くしましたよね。それが功績だと思いますね。それまでフリー・ジャズのコンサートって、ちょっと行きづらかったというのかしらね、ロックだったらロック、ジャズだったらジャズってはっきり分かれていたような気がするんですね。だけど、これは本当、敷居を低くしたというのがね、いろんなありとあらゆる音楽へのね」
(※『No New York』CD化に際して配布された『No New York Self Help Hand Book』より、Phewのインタヴュー記事から抜粋)


ソニック・ユースと並んで、1980年代初頭のニューヨークに登場し、当時のシーンを象徴するグループのひとつだったスワンズ。その中心人物だったマイケル・ジラにとっても、ノー・ウェイヴ/ポスト・パンクの洗礼は、サーストン・ムーアと同様に自身の音楽観を決定づけるほどの革命的な事件だった。

地元ロサンゼルスのアートスクールをドロップアウト後(ちなみに、そこでジラは当時学生だったキム・ゴードンとも出会う)、友人と「No Magazine」なるファンジンを発行するなど、ロサンゼルスのパンク/ハードコア・シーンに心酔していたジラだが、やがてスロッビング・グリッスルやSPK、グレン・ブランカやDNAといったバンドの音楽に触れ、覚醒。彼らの啓示のもと、「既存のロック・フォーマットを覆すパンクの暴力的なエナジー」「力で精神と肉体を圧倒する音楽」を求めて最初のバンド、リトル・クリップルズを結成する。しかし、LAのスタイル偏重主義なパンク/ハードコア・シーンに嫌気がさしたジラは、ノー・ウェイヴの空気に憧れてニューヨークへ。短命に終わったサーカス・モート()の活動をへて、1981年にスワンズの結成に至る。

当時、広い意味でポスト・パンクやノー・ウェイヴの恩恵を授かったバンドは、アメリカにおいてだけでも、スワンズに限らずソニック・ユースやライヴ・スカル、プッシー・ガロアにバットホール・サーファーズ、Utなどいくつか挙げられる。しかし、そのなかでもスワンズは、かなり特異な部類に入るのではないか。

そのサウンドは、まるでインダストリアルとドゥーム・メタルとグラインド・コアが混濁したような騒々しくヘヴィな代物で、全編を覆うムードも、音の奥底から滲み出るエモーションも陰鬱きわまりない。ノイズやテープ・ループで禍々しく施された音世界がのんべんだらりんと広がり、その裂け目からは、ジラの呻き声のようなヴォーカルが湧き出してくる。同時代では、ニック・ケイヴのバースデイ・パーティやフィータス&リディア・ランチとも通じる暗黒怪奇なオペラ、というか。

一昨年のWIRE誌のインタヴューでジラは、当時影響を受けたアーティストとして、前記の名前に加えてスーサイドやキャバレー・ヴォルテール、ワイヤーにバズコックス、ブライアン・イーノやクラフトワークの名前を挙げていた。が、そこにはさらに、初期のピンク・フロイドやアモン・デュール、同郷の先達でもあるフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートの姿も重ね見ることができるだろう。

とはいえ、ここに羅列された名前は、スワンズの直接的な音の構成要素というよりは、あくまで「力で精神と肉体を圧倒する音楽」へとバンドを導いた指標に過ぎない。

いや、むしろ、当時彼らにつきまとった「世界一やかましいバンド」という評判が象徴するように、そもそもキワモノとして捉えられていたきらいさえある。ちなみに、1982年にソニック・ユースと回った初のアメリカ・ツアーにジラみずから銘打ったタイトルは「Savage Blunder Tour(=凶暴でいいかげんな一行)」()。よく言えば“孤高”、悪く言えば“ナンセンス”というのが、当時のバンドに対する大方の評価だったのではないだろうか(なお、両者は当時、スワンズのライヴにサーストンがベースで参加するなど関係が深く、余談だが、MRRのMykel Boardとthe dBs のPeter Holsappleによる「Swanic Youth」なんてプロジェクトもあった)。

「既存のロック・フォーマットを覆すパンクの暴力的なエナジー」「力で精神と肉体を圧倒する音楽」という意味では、文字通り当初の目的を達成し、ある意味では本家のノー・ウェイヴやポスト・パンク以上に“決壊後”のロックの行きつく先を体現してみせたスワンズ。しかし、1987年発表の5th『Children Of God』を境に、その音楽性は大きな転換を遂げる。

従来のノイズやインダストリアルな要素は後退し、代わりに全編の基調となるのは、ジラいわく「トラディショナルな曲構造をもった、内省的な高揚感を誘う本物のメロディ」。ソング・オリエンテッドな曲展開、ギリシャ音楽や中近東のドローン・ミュージックにインスパイアされた幽玄でサイケデリックな音響、そして新加入のVo.ジャーボーがもたらした賛美歌やクラシックなジャズの要素が、次第にサウンドの核を成すようになる。

また、この時期と前後してジラはアコースティック・ギターで作曲を始め、歌唱もそれまでの不気味で“引かせる”ようなものから、レナード・コーエンも彷彿させるエレガントで“聴かせる”ものへと表情を変えていく。
1990年代を迎え、かつては異物扱いであったノイズやインダストリアルが「オルタナティヴ」の一翼として市民権を得ていくなか、そんな時代の流れと逆行するように、気難しく難解なまま、ある種のフォーマリズム的な方向へと音楽スタイルを洗練させていくさまは、かつての同胞である“凶暴でいいかげんな”ソニック・ユースが華々しくシーンの盟主として地位を確立していったのと比較したとき、あらためてスワンズというバンドの奥深さを物語るようで興味深い。

このスワンズの1980年代における変節について、ジラは「もしもあのまま初期の方法論で突き進んでいたら、しまいには『Cartoonish(=漫画的な、ベタで大袈裟な、ってところか)』なものになりかねなかった」と自身が運営するレーベル、ヤング・ゴッドのHPで語っている。たしかに、パンクの暴力性に魅入られ、半ばなし崩し的に過激さを突き詰めていった初期のスワンズは、ともすればメタル的な様式美に陥りかねない紙一重の所産だった(もっとも、その悪魔が悪魔祓いしているかのような倒錯感こそ、アーリー・スワンズの衝撃であり醍醐味なわけだが)。仮にも芸術を志し、多感な知性の持ち主だったジラが、そこに危機感と創造性の限界を感じたとしても無理はない。

しかし、サウンドの概観がいかに変化しようとも、その中心にいるマイケル・ジラという「本質」は、当然だが変わりようもない。音楽の暴力性を極めた初期においても、あるいはソングライティングに開眼していく中期以降においても、いわばジラはつねに自身をトランスフォームすることに貪欲であり、その実現のための欲望に対して忠実だ。ジラの内では絶えず表現をめぐる関心が網の目のように走り、それは本流と支流を問わず途切れることなく代謝を繰り返し、ねじれ、融解し、多元化することでスワンズのあのクロニクルのように深遠な世界観を形作ってきた。

そして、そうしたジラの来歴不明な漂流難民たる表現者の足場を成したものこそ、あの1980年代におけるポスト・パンクやノー・ウェイヴの洗礼だったのはいうまでもない。当時の空気を全身に浴び、あらゆる音楽の敷居や境界線をラジカルに壊し続けたジラは、その意味でノー・ウェイヴ/ポスト・パンクの啓示の忠実な遂行者だったように思う。


『Children Of God』以降も旺盛な音楽実験を繰り広げたスワンズは、1996年発表のアルバム『Soundtracks For The Blind』を完成後、燃え尽きるようにして解散。際限なく領域を拡大し、ベクトルを錯綜させていった結果、サイケもデカダンも、バロックもアヴァンギャルドも、エスニックもニューエイジも包摂する音のアマルガムへと膨れ上がった晩期のサウンドは、スワンズという“過剰さを志向し続けた”バンドの末路を飾るにふさわしい最後だった。

スワンズ解散後、ジラは“ポスト・スワンズ”とも言うべきプロジェクト、ボディ・ラヴァーズ/ボディ・ヘイターズ()をへて、新たにエンジェル・オブ・ライトを始動。そこでは主に、中期以降のスワンズの核となったアシッド・フォークやカントリーといったルーツ・ミュージックへの嗜好・志向が追求されている。そのハードボイルドで、赤裸々に美しく、静謐な叙情を宿した歌の数々からは、彼の永遠のアイドルであるボブ・ディランやジョニー・キャッシュ、ニック・ドレイクやウィリー・ネルソンへの愛が伝わってきて微笑ましい。

また、そうしたジラの感性は、現在「フリー・フォーク」と呼ばれるような音楽の源流となり、至る場所でユニークな才能を生み出している。

デヴェンドラ・バンハートを始め、ジョアンナ・ニューサム、マット・ヴァレンタイン、ホワイト・マジック、ダイアン・クラック(デヴェンドラが今のNYで最もお気に入りだという女性SSW)、アイアン&ワイン、ジョセフィン・フォスターらが参加したコンピレーション『The Golden Apples Of The Sun』()は、そうした潮流の深い部分にジラの大きさをあらためてうかがい知ることができる作品だ。さらに、ギャング・ギャング・ダンスやアニマル・コレクティヴ、タワー・レコーディングスらを含む現在のNYの実験的なサイケ/フリー・ミュージックの一群のなかに、中期から後期に至るスワンズ/ジラの影響を透かし見ることも可能だろう。

そんなジラの、目下デヴェンドラに続く秘蔵っ子と言えそうなのが、エンジェル・オブ・ライトの新作『ANGELS OF LIGHT & AKRON/FAMILY 』にも参加したブルックリンの4人組、アクロン/ファミリー。エレクトリックと生楽器が鮮やかに交錯し、アシッド・フォークとルーツ・カントリーのあわいで紡ぎだされる甘美で幻想的なメロディと歌は、かつてジラが思い描いたという「本物のメロディ」の原風景を思い起こさせる。


(2005/06)

※追記:スワンズは2010年、再結成を果たした。
http://www.thelineofbestfit.com/2010/09/tlobf-interview-michael-gira-swans/

極私的2000年代考(仮)……ブリストルは反転する(補講:BEAK>について)

去年、ポーティスヘッドがニュー・アルバムの『サード』をリリースした際、印象的だったのが、インタヴューでジェフ・バーロウとエイドリアン・アトリーが、作品をつくる上でインスピレーションを受けた音楽として、いわゆるドゥーム・メタルやヘヴィ・ドローンを挙げていたことだった。

サンO)))やオムなど具体的なバンドの名前を挙げ、それらのライヴを初めて観たときのことを「パブリック・エネミーを初めて聴いたときと同じ衝撃を受けた」とまで語っている。象徴的だったのは、彼らがキュレーターを務め、また再始動のステージとなった2007年12月のオール・トゥモローズ・パーティーズのラインナップ。そこには、ダモ鈴木やシルヴァー・アップルズに加えて、前記の2組やブラック・マウンテン、オーレン・アンバーチ、日本のボリス、さらにはディラン・カールソン率いるアースといった錚々たるメンツが並んでいた。そして実際、件の『サード』は、トリップホップ云々と騒がれた前の2枚のアルバムのビート/エディット感とは趣向を画し、そうした音楽と通底するノイジーでヘヴィ・メタリックなサウンド嗜好が随所に色濃く反映された内容だった。

といった経緯もあり、そのジェフが新たなバンド――ビークを立ち上げたというニュースを最初に聞いたときは、そうした音楽的関心がより前面に打ち出されたプロジェクトになるのではないか、とも予想された。今回、そのデビュー・アルバム『ビーク』をリリースするジェフ運営のレーベル「Invada」は、元エレクトリック・ウィザードのリズム隊が結成したラムシーズやゴンガ、先のATPにも出演したアタヴィストなど、それ系のアーティストを多数擁している(ちなみにUSでのリリースは、メルヴィンズやアイシスを擁するマイク・パットン主宰のイピキャック)。一方で、近年ジェフは、ホラーズ(09年『プライマリー・カラーズ』)やコーラル(05年『インヴィジブル・インヴェイジョン』)といった若手のギター・バンドのプロデュースを手掛けるなど――ダブ・ステップやグライムなどダンス・ミュージックのトレンドをよそに、その動向からは“ロック”への積極的な関心も窺えた。

はたして本作『ビーク』は、そうしたジェフの近況を残響として背後に留めながらも、しかし、また新たな音楽世界を提示した作品といえるだろう。ポーティスヘッドの過去とも現在とも微妙に距離を取りつつ、それでいてブリストル・サウンドの底流と密かにつながるような、深遠でユニークなサウンドをつくり上げてみせている。


グループのメンバー構成は3人。おそらくはサウンド・プロダクションを統括する立場のジェフを中心に、ベーシストのビリー・フラー、主にキーボードやエレクトロニック全般を担当するマルチ・インストゥルメンタリストのマット・ウィリアムスという布陣。ジェフ以外の2人の経歴を簡単に説明すると――ビリーは、「Invada」の第一号アーティストであるファズ・アゲインスト・ジャンクのメンバーで(※他にもマラカイやモールズ、あるいはスピリチュアライズドやマッシヴ・アタック周辺の人脈が結成したファイルズなど複数のバンドを兼任)、またポーティスヘッドやティナリウェンのサポート・メンバーも含むロバート・プラント&ザ・ストレンジ・センセーションの『マイティ・リアレンジャー』(05年)や、来るマッシヴ・アタックのニュー・アルバムへの参加でも知られるキーマン。そしてマットは、同じく「Invada」に所属するチーム・ブリックというバンドのメンバーとしても活動。両者ともブリストルの音楽シーンを拠点とするミュージシャンであり、ジェフとの関係は今回のビークを結成する以前からの間柄といえる。ちなみに、正式なグループの結成は今年2009年の1月とのこと。

彼らのマイスペースにも掲載されているプレスシートのバイオによれば、彼らは作曲やレコーディングのプロセスをコントロールする上で、ある厳格なルールを自ら設けているという。それは、一室で行われるライヴ・レコーディングを原則とし、オーヴァーダブやリペアは一切なし、アレンジメントにおいてのみエディットが許される、というもの。その狙いや理由はどういったものなのか、またそれはどのタイミングで取り決められたものなのか、詳細は定かではないが、ともかく実際にそうしたアプローチのもとアルバムは制作されたのだという。ちなみにすべての曲は、ポーティスヘッドも利用するブリストルのSOA(=STATE OF ART)STUDIOで行われた12日間のセッションで書き上げられた(エンジニアリングは、ポーティスヘッドの『サード』も手掛けたスチュアート・マシューズ)。

次のアルバムまでに10年以上の歳月を要したポーティスヘッドとは対照的に、即断即決のごとく行動力と集中力で制作が進められたことが窺える本作『ビーク』。しかし、けっしてノリや勢いでつくられた作品ではない。それが、個々のバックグラウンドやキャリアを反映し、確かなヴィジョンの元に結実した作品であることは、そのサウンドを聴けば明らかだろうと思う。


まず、アルバムの冒頭を飾る“Backwell”や“I Know”に特徴的なのが、いわゆるクラウト・ロックからの影響/引用。とりわけノイ!あたりを想起させるビート~ループ的なサウンド、あるいはシルヴァー・アップルズやラ・モンテ・ヤングにも通じる催眠的なエレクトロニクスやミニマルなテクスチャーが印象的だ。それらはたとえば、ポーティスヘッドの『サード』でいえば “We Carry On”や“Nylon Smile”といったナンバーとの繋がりも感じさせるものだろう。マイスペースでレコーディング・セッションの様子が公開されている“Iron Acton”の、無機質なベース&電子音にのせて響くジェフの冷笑的なヴォーカルは、スーサイドのアラン・ヴェガを連想させなくもない。

一方、「カン(withダモ鈴木)×サンO)))」のような“Ham Green”、ドローニッシュなギターが呻く “Dundry Hill”、ジョイ・ディヴィジョン風のメタリックなポスト・パンク“Blagdon Lake”からは、前述したジェフのドゥームやノイズ・ロックへの関心を聴き取ることができる。ファズ・アゲインスト・ジャンクでサイケデリックなガレージ・ロックに興じるビリー、そしてチーム・ブリックでエクスペリメンタルなコンポーズを展開するマット両者の音楽的嗜好がより露わとなるのも、おそらくこのあたりのナンバーだろう。かたや、ブリーピーなエレクトロ・ノイズで押し切る“Barrow Gurney”など、ヘアー・ポリスやカルロス・ジフォーニといったニューヨークのNo Fun周辺にも通じる禍々しさだ。

他にも、アルバムでは異色の優美なギター・アンビエント~ポスト・ロック的なサウンドスケープを奏でる“Battery Point”、きっとベス・ギボンズが歌ったら最高にハマりそうなノワール調のバラード“The Cornubia”など、さまざまなアプローチの楽曲が並ぶ。ブリストルの音楽シーンを共通のバックグラウンドとし、そのキャリアや近況から互いに近しい音楽的嗜好を共有しながら、楽曲ごとに異なる世界観を、微妙な濃淡で一枚のアルバムに描き込んでいく。「今まで自分がいた環境とまったく違うところで曲をつくるのはいい経験だった」とはジェフの弁だが――たとえば、そもそもライヴをやることには消極的で(そこにはベスの意向が大きかったわけだが)、いわばスタジオ・プロジェクト的な性格も強かったポーティスヘッドに対して、今回のビークは彼にとって、その成り立ちやレコーディングのプロセスからして、初めてまっとうに「バンド」と呼べるものなのかもしれない。


現時点での今後の活動予定としては、本作がリリースされた直後の12月に、ドイツやフランスも回るUKツアーがアナウンスされている。そのなかには、10周年の記念開催となるATPでのライヴも組まれており(サンO)))やオムも出演)、そこが彼らにとっての大々的なお披露目の舞台となりそうだ。ちなみに、UKでは「Invada」から、12インチやTシャツを付録した本作のボックス・セットも限定でリリースされた。

そして先日、ポーティスヘッドがすでに次のアルバムの制作に着手していることが、ジェフの口から明かされた。現在はジャム・セッションを重ねている段階で、まだ曲は完成していないものの、ジェフいわく「シンセサイザーでたくさんのレイヤーを重ねた作品になるだろう」とのこと。12月にツアーが終わり次第、本格的なレコーディング作業に入り、順調に行けば2010年内にリリースされる予定だという。今回のビークのアルバム同様、ポーティスヘッドの、そしてブリストル・サウンドの“次の10年”に向けた新たな展望を示すだろうその完成を、期待して待ちたい。


(2009/10)

極私的2000年代考(仮)……ブリストルは反転する

『ダミー』と『ポーティスヘッド』の2枚のアルバムが、パブリック・エネミーを聴いて人生が変わるほどの衝撃を受けたという元ジャズ・ギタリストのエイドリアン・アトリーと、マッシヴ・アタックが『ブルー・ラインズ』をレコーディングしたスタジオ「コーチ・ハウス」の雑用スタッフだったジェフ・バーロウの“ヒップホップへの情熱”が生んだ結晶だとするなら、ニュー・アルバム『サード』の“熱源”とははたして何なのだろう。

90年代のポーティスヘッドが、マッシヴ・アタックやトリッキーと通奏低音を鳴らすブリストルの正統者だったとするなら、00年代の終わりに再登場したポーティスヘッドとはいったい何者なのか。

ベス・ギボンズの凍てついた歌声は10年前とほとんど変わっていない。けれどもそのサウンドは、“トリップホップ”と呼ばれ、甘美なまでのメランコリーとエレガンスをたたえたあの頃とは相貌がだいぶ異なって聴こえる。


エイドリアンとジェフは一連の『サード』にまつわるいくつかのインタヴューの中で、今回のレコーディングに際し、俗に「ドローン/ドゥーム」と呼ばれるシーンのバンドや作品から音楽的なインスピレーションを受けたことを明かしている。パワー・アンビエントやスラッジ・コア等の様々な呼称やサブ・ジャンルをもつ「ドローン/ドゥーム」は、初期ブラック・サバスやブルー・チアー、あるいはラ・モンテ・ヤングを源流とするヘヴィネスとミニマリズムを極限まで推し進めた演奏スタイルを音楽的特徴とし、いわゆるハード・ロックやヘヴィ・メタルからアンビエントや音響派~ポスト・ロックにまで跨る、大雑把にいってノイズ・ロックの形態の一種。ふたりはMOJOやピッチフォークのインタヴューで、サンやOMのライヴを初めて見たときのことを振り返り「パブリック・エネミーを初めて聴いたときと同じ衝撃を受けた」と語っている。

また昨年、再結成一発目のライヴを行い、彼ら自身がキュレーターも務めたオール・トゥモローズ・パーティーズのラインナップには、エイフェックス・ツインやマッドリブ等のテクノ/ヒップホップ系、あるいはダモ鈴木やシルヴァー・アップルズに交じって、そのサンやOMを筆頭に、ふたりがフェイヴァリットに挙げるブラック・マウンテンや日本のボリス、サンにも参加するオーレン・アンバーチ(サンのグレッグ・アンダーソンとブリアル・チェンバー・トリオとしても活動)、ジェフが運営するレーベル「Invada」から作品をリリースするアタヴィスト、クリン・クラン、そしてカート・コバーンとも交流があったディラン・カールソン率いる“巨魁”アース(そもそもサンはアースのトリビュート・バンドとして結成された)など、必ずしも音楽性を一括りにはできないが、いわゆる「ドローン/ドゥーム」系のバンドが多く名を連ねていた。

思えばこのATPのラインナップが発表された時点で(あるいはふたりの中で構想された瞬間から)、『サード』の方向性は予告されていたものなのかもしれない。ジェフはMOJOの記事の中で「サンみたいになるつもりはないし、何時間もドローンを演奏しようとは思わない」と語り、あくまで自分たちと彼らとでは音楽的なポイントが異なることを前置きする。実際、『サード』と「ドローン/ドゥーム」系の間には必ずしも音楽的に直接的な関連性があるとは言い切れない。

しかし、例えば“マジック・ドアーズ”や“プラスティック”といった90年代に制作されたという楽曲とは対照的に(あるいはベスがウクレレの弾き語りで歌う“ディープ・ウォーター”は例外として)、シルヴァー・アップルズやクラウト・ロック/ジャーマン・エレクトロ周辺の反復とミニマリズムを落とし込んだ“ウィ・キャリー・オン”や“ナイロン・スマイル”、文字どおり銃砲のようにエレクトロ・ドラム&シンセが鳴り響くヘヴィな“マシン・ガン”、そしてサッドコア/スロウコア的な静謐さを装う序盤から一転、終盤に向けてフィードバック/ドローン・ノイズを吐き出しながら(ベスのフリーキーに舞う歌唱と相俟って)黙示録めいた混沌を創り出す“スモール”や“スレッズ”からは、過去2枚のアルバムとは一線を画する志向性やベクトルが窺える。

かつて“ナム”や“オーヴァー”、“オンリー・ユー”等で聴けた特徴的なスクラッチやあからさまなヒップホップのビート/トラックは意識的に封印され、感覚としては、そうしたエディット感やポップ・ミュージック的な洗練とは対極にあるプリミティヴでハードコアな「バンド」へとサウンドの構造やイメージを刷新した。

何より「音」として圧倒的にダイナミズムが増した背景には、以前に比べてベスが積極的に曲作りにも参加するようになり(もちろんそれにはソロ・アルバムを作った経験が大きく反映されていることはいうまでもない)、グループ内のサウンド面におけるコミュニケーションがより密に有機的なものとなったことが挙げられるかもしれない。、が、ともあれ、ポーティスヘッドとはこんなにもアグレッシヴで荒々しい音を鳴らすバンドだったのか!?と、今回の『サード』を聴いて10年前にトリップホップ云々と騒がれていた頃とは隔世の感を受けることは間違いない。


先に挙げた「ドローン/ドゥーム」系のバンドの音楽や作品が、『サード』の制作に際し“指標”とは言わないまでも、ある種の“触媒”となり、何らかの過程において積極的なエフェクトを与えたであろうことはその「音」から容易に想像できる。そして仮に、この『サード』をサウンド的に特徴付ける傾向を“ノイズへのフェティシズム”とするなら、そうした志向性(嗜好性)はけっして「ドローン/ドゥーム」との出会いを契機に新たに発現したものではない、という。

ピッチフォークのインタヴューでエイドリアンは、ソニック・ユースやグレン・ブランカ、スワンズといったNYノー・ウェイヴ・シーンの熱烈なファンであることを明かし(ちなみにサーストンとブランカは前記のATPにも招待された)、彼らが鳴らす/鳴らした「ノイズ」とサンやOMの「ノイズ」は自分の中では地続きなものだと語っている。続けてジェフは、大好きだというジョン・カーペンター作品のサウンドトラック等に使われていた初期のシンセ音や歪んだエレクトロの質感に触れ、「例えばレコードを掛けたときの細かなノイズのような“奇妙で超俗的な”響きの音(=「Sonic Unconscious」とジェフはそれを形容する)が聴く人を安堵させることがある」と持論を説く。そして、ジェフにとって『ダミー』はそういう作品だった、という。


そうした『サード』にまつわるあれこれやエイドリアンとジェフのエピソードを踏まえた上で、ブリストルという音楽都市の風景をあらためて再考したとき、その存在がクローズアップされるグループがいる。同じく90年代初頭に登場し、しかしポーティスヘッドやマッシヴ・アタックらのさらに地下深くを通奏する異形のブリストル・サウンドを鳴らしたデュオ、フライング・ソーサー・アタックである。

70年代末~80年代のポップ・グループやその周辺(リップ・リグ&パニック、マキシマム・ジョイ、ピッグバグ……)から、あれこれへて90年代のマッシヴ・アタックやトリッキーやポーティスヘッドへと続く流れがブリストルの“本流”とするなら、フライング・ソーサー・アタック(あるいはムーンフラワーズやクレセントetc)はその奥底を脈打つ“伏流”の一筋といえる。
トリップホップ勢とは一線を画し(ダブやジャングルの磁場圏内にはいたが)、ジーザス&メリー・チェインやマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン辺りのシューゲイザー、あるいはスペースメン3~スペクトラム/EAR(ソニック・ブーム)のサイケデリック・ロック/ミュージックと共振する志向性を披露したフライング・ソーサー・アタックは、当時のブリストルでは極めてオルタナティヴな存在だった。

フィードバックを効かせたヘヴィ・サイケなハード・ロックとヒプノティックなエレクトロが、朴訥と爪弾かれるアコースティック・ギターとドラムン調の高速ビートが……あらゆる“余剰”を引き摺りながら渾然一体となり寄せては返すサウンドは、00年のアルバム『Mirror』を最後にグループ解散後、最初期のメンバーだったマット・エリオット率いるサード・アイ・ファウンデーションへと引き継がれる形でリチュアルな極みを見せることになるわけだが、とりわけ『Distance』(’94)など初期の作品群は、その来歴不明の禍々しさにおいて今聴き返してもなお刺激的だ。

そうした彼らの特異な立ち位置は、例えば当時(90年代後半)の作品が、ジム・オルークやロイヤル・トラックスや日本のゴーストの作品と並んでドラッグ・シティからリリースされていた事実にも象徴的なように思う。フライング・ソーサー・アタックというブリストルの地下水脈は、90年代中盤辺りから台頭し始めたスロウコア/サッドコア系の音響派~ポスト・ロック勢に影響を与えたのはいうまでもなく、数多の参照点が散りばめられたフォークであり「ノイズ」の新奇種として、00年代のオルタナティヴ(それこそバーチヴル・キャット・モーテルからバーニング・スター・コアやレリジアス・ナイヴズに至るまで)の大いなる水源となり共鳴する可能性を胚胎していた。

ポーティスヘッドとフライング・ソーサー・アタックの間に当時どのような交流があったのか否かについては知らない。しかし、現在のポーティスヘッドとFSAの間には、前者が参照し、後者が予告したアンダーグラウンドなロックの系譜を介することで見えてくる繋がりがあるように思える。『サード』を聴いて即座にFSAを連想する人はいないだろうが、例えばフライング・ソーサー・アタック(~サード・アイ・ファウンデーション)のコラージュか油彩の抽象画のように何層にも構築された音響世界と、『サード』の快楽性を廃したハードコアな音の感触やアンサンブルの歪みは、互いにある種の“重さ(ヘヴィネス)”を志向しているという点で両者を貫く通奏低音の存在を意識させるものだ(もっとも『サード』を覆う“重さ”は、多分に時代の影響によるものであることはジェフもインタヴューで語る通りだが)。そのヘヴィネスとは、いうまでもなく冒頭に挙げた「ドローン/ドゥーム」勢とも共振するものだろうし、そこには文字通り“奇妙で超俗的な”音への志向/嗜好で結ばれた相関性を指摘することができる。おそらくフライング・ソーサー・アタックが辿った軌跡と『サード』の“熱源”(にインスピレーションを提供したもの)は深い部分で通底していると見て間違いないだろう。
90年代終わりの活動休止以降も、各自ソロや客演(ゴールドフラップ、イソベル・キャンベル、マリアンヌ・フェイスフルetc)やプロデュース(コーラルetc)など継続的な活動を見せていた彼らだが、それでも次のアルバムを完成させるには結果的に10年の歳月を要したという事実は、3人にとってのポーティスヘッドという存在の困難さをあらためて物語ると同時に、その困難さを前にしてもなおふたたびポーティスヘッドとしての創作へと向わせるほどの強烈なモチヴェーションが3人の中で芽生えたことを意味する。エイドリアンとジェフにとってはそれが「ドローン/ドゥーム」だった、とすべてを結論付けてしまうのは早計に過ぎるとしても、そうした未知の音楽との遭遇が、ポーティスヘッドのサウンドに新たな回路を拓き、またそれはブリストルを伏流するオルタナティヴな音楽史を想起させる兆しとして、ヒップホップを遡るふたりの音楽的な原体験(=「ノイズ」)に根ざした志向/嗜好をフレームアップしレコーディングの着想へと導いたことは確かといえるだろう。はたして『サード』は、ポーティヘッドにとって、そしてブリストルの音楽史において、“失われた10年”を補完し、“次の10年”を予告する(今回が最後のアルバムという噂もあるみたいだけど)マイルストーンとなり得るのだろうか、否か。


最後に、これからのブリストルを牽引するだろう注目のニュー・アクトを紹介したい。アンドリュー・ハンとベンジャミン・ジョン・パワーによるデュオ、ファック・ボタンズ。先のポーティスヘッドがキュレーターを務めたATPにも出演を果たし、またそのATPが運営するレーベルから昨年デビューを飾った逸材である。
今年2月にリリースされたアルバム『Street Horrrsing』には、モグワイのジョン・カミングスやパート・チンプのティム・セダーがゲスト参加し、さらにはマスタリングをシェラックのボブ・ウェストンが担当――という脇を固めるメンツが物語るように、そのサウンドは恐ろしく凶暴で、かつ美しく官能的。メタリックなファズ・ギターの轟音とオルガンの繊細なメロディが、陰鬱なドローン・ノイズとバレアリックなビートが、ブリーピーに痙攣するシンセとシャーマニックなエコーとタイコが混濁しながらシンフォニーを奏でる壮観なサウンドスケープは、ハードコア経由ポスト・ロック~シューゲイザー・リヴァイヴァルからクラウト・ロック~音響エレクトロニカを圧縮、はたまたブラック・ダイスやサイキック・パラマウント辺りとも通底し得るジャンクかつ高等的なエレクスペリメンタリズムを内包し猛威を振るう。

そこに脈打つのは、ブリストルでもフライング・ソーサー・アタックに連なるアンダーグラウンドな伏流であり、あられもない“奇妙で超俗的な”音(=ノイズ)への憧憬であり、ポーティスヘッドの面々が彼らを自らのフェスに招聘したことには符合めいたものを感じずにはいられない。本国イギリスでは、例のオブザーヴァー紙が名付けるところの「ニュー・エキセントリック」の一角としてフォールズやジーズ・ニュー・ピューリタンズやライト・スピード・チャンピオンらと括られたりもしている彼らだが、はっきり言って頭2、3個分飛び抜けた存在だと思う。


(2008/07)

2011年1月30日日曜日

極私的2000年代考(仮)……"アフリカン・インヴェイジョン"という新しい波

トーキング・ヘッズのライヴ作品がCDとDVDで2枚同時にリリースされた。タイトルは『Rome Concert 1980』。つまり、あの『リメイン・イン・ライト』がリリースされた年に行われたライヴを収録した作品で、自分はDVDの方を買ったのだけど、これが凄まじくかっこいい。

1曲目の“サイコ・キラー”を除いてすべて、『モア・ソングス』や『フィア・オブ・ミュージック』を含むブライアン・イーノとの共作アルバムからのナンバーで占められ、要所でサポートの黒人ミュージシャンを交えながら、白熱した鋭利なファンク・サウンドを展開する。とくに、“ハウシズ・イン・モーション”から“ボーン・アンダー・パンチズ”、“グレイト・カーヴ”と『リメイン~』のナンバーが続くラスト3曲の流れは強烈。だ。

『リメイン~』の制作にいたる過程で修練を重ね、会得されたアフリカン・マナーの奏法やコンポジションの実験が、イーノとのスタジオ・ワークの末に血肉化され「バンド・サウンド」として結実した、そのスリリングな実況をここに見ることができる。

彼らはこの2年後に『實況録音盤 トーキング・ヘッズ・ライヴ』というすばらしいライヴ・アルバムをリリースしたが、それがイーノ時代の成果を相対化した総括的な作品だとするなら、『Rome Concert 1980』は、そのプログレスの課程がひとまずの完結をみた直後の“実習”の模様を記録した、もうひとつの『實況録音盤』といえるのではないだろうか。

周知のとおり、『リメイン~』は、主にイーノとデヴィッド・バーンのアフリカン・ミュージックへの関心がその大きな出発点のひとつになっている。そのレコーディングに際して、彼らは、リズムやコード、旋律に関するアフリカン・ミュージックの概念や伝統の理解と(演奏技術の)習得に努め、そのルールに従ってインプロヴィゼーションを中心に曲作りが行われるなど、徹底してコンセプチュアルな姿勢で臨んだ。イーノとバンドの共同プロデュースという形を執り、即興演奏やスタジオ・ワーク(ミックスやドラム等の“電化”のポスト・プロダクション)の実験が試みられた前2作をへて、イーノとバーンの共演作『ブッシュ・オブ・ゴースツ』における文化横断的な民族音楽史的アプローチの追求を挟み(録音は『リメイン~』のセッション直前の79年)プログレスを重ねた音楽メソッドの理論的帰結として、『リメイン~』は位置づけることができる。

そのレコーディングやライヴでの黒人ミュージシャンの起用法、また『ブッシュ~』におけるサンプリング(コーランの斉唱やラジオ放送などアラビア及びアフリカ文化圏の音源)~音楽的借用については、その是非をめぐって帝国主義的だのさまざまな論争を当時呼んだが、少なくともイーノの関心はその政治的な意味合いにではなく、あくまで音楽的な部分(非西欧文化圏の音楽形式、またそれらと既存の音楽形式やテクノロジーとの融合・コラージュを意図した、イーノいわく「第四世界の音楽」という構想)に向けられたものであったことはいうまでもない。ちなみに、当時のインタヴューでイーノは、「クラフトワークとパーラメントを合体させたような音楽を作ったら面白いんじゃないか」という夢(?)を度々語っていたらしく、つまり制作/録音技術も含めたエレクトロニック・ミュージックの革新性と、ブラック・ファンク・ミュージックの肉体性/官能性の融合というアイディアが、トーキング・ヘッズとの一連の共同作業における青写真的なもののひとつとしてイーノの頭の中にはあったようだ。


西欧ロック/ポップとアフリカン・ミュージックの相関性を紐解くトピックは、他にもさまざまある。

トーキング・ヘッズ&イーノと同時代の80年代でいえば、ポール・サイモンやピーター・ガブリエルが有名だろうし、遡れば60年代のトーケンズ(“ライオンは眠っている”)や、“Soul Makossa”の世界的ヒットでディスコ黎明期を飾ったカメルーンのマヌ・ディバンゴ、そして「アフロ・ビート」を商標登録化したフェラ・クティはいうに及ばず。90年代を迎えて以降は、ユッスー・ンドゥールをはじめセネガルやマリのミュージシャンが米英の音楽シーンでポピュラリティを得ていく一方、近いところではブラーのデーモンがアフリカン・ミュージックへの傾倒(Mali Music』)を見せるなど、その現象は随所に散見できる。

また2000年代以降~最近では、マリの盲目の夫婦デュオ、アマドゥ・マリアムとコールドプレイやデーモンとの共演が話題を呼んだ。あるいは、ギャング・ギャング・ダンスからヴァンパイア・ウィークエンドまでブルックリン周辺のバンドや、フォールズなどイギリスの一部若手のサウンドに、アフリカン・ミュージックのリズムやアクセントとの親和性を指摘できることは、ご存知のところだろう。

もっとも、そもそもアフリカの音楽自体が、紐解けば西欧の音楽との混交と集約の歴史の産物といえる。

イギリス人植民者によって持ち込まれたキリスト教の賛美歌や、軍隊音楽であるブラス・バンド。さらには、植民地軍に入隊したアフリカ人兵士によって持ち帰られたカリプソなどカリブの黒人音楽、レコードやラジオを通じて輸入されたラグタイムやスウィング・ジャズ、あるいはソウル・ミュージックなどアメリカ黒人音楽と、複雑なポリリズムやシンコペイションを特徴とする現地の祭儀音楽や舞踏音楽とが交わり、同化と異化を重ねるなかで、「ハイライフ」や「ジュジュ」といった伝統と現代性が統合された混成音楽=独自のポピュラー・ミュージックがアフリカの各地で生まれた。

トーキング・ヘッズ&イーノの実験や2000年代のブルックリンで起きている現象もまた、視点を移せばそうした「歴史」の一部に組み込まれるものであり、翻ってそれは、アフリカン・ミュージックにおける混交と集約の新たな参照点となり西欧ロック/ポップとの相関性を再度築くことで、現在にいたるアフリカ文化圏内のポピュラー・ミュージックのプログレスにおいてもさまざまな影響を及ぼし続けている。


はなはだ図式的な理解だが、以上のようなアフリカン・ミュージックの歴史を背景に、独自の発展を遂げた彼の地のポピュラー・ミュージック――つまりは「ロック/ポップ」の、現時点において最新のケースのひとつにおそらく挙げることができるのが、南アフリカのヨハネスブルグ出身の4人組、ブラック・ジャックス(「BLK JKS」と表記)だ。

2000年に結成され、07年のデビュー10インチに続き今春シークレットリー・カナディアンからリリースされたEP『Mystery』で本格的デビューを飾るや、「TV・オン・ザ・レディオへのアフリカからの返答」など熱烈な評価を得た彼らのサウンドは、まさしく“混交と集約”の歴史を体現した産物といえるだろう。
ドキュメンタリー映画『アフロ・パンク』()で描かれたアメリカの黒人パンク・ロッカーたちは、白人社会からもブラック・コミュニティからも異端視された自らの境遇を語っていた。つまり、アメリカで黒人がパンク・ロックをやることは、人種的な背景に加えて文化的なコンテクストにおいても二重の意味でマイノリティに置かれる――というエピソードだが、同様にブラック・ジャックスの場合もまた、活動当初は「“黒”でも“白”でもない」と聴衆の困惑に晒されたという。

複雑で根深い人種問題の歴史を抱える南アフリカにおいて、人種隔離政策下の90年代初頭に深夜放送のテレビで見たニルヴァーナやサウンドガーデンなどUSオルタナティヴに衝撃を受け、「ロック」に目覚めたと語るリード・ヴォーカルのリンダ・ブテレジ。「ロックは白人、つまり憎き天敵の音楽だって偏見があったからね。バンドを始めたばかりの頃は随分とこっぴどい目にあったよ」。彼らがバンドを始めたのはアパルトヘイトが廃止されて以降だが、しかしここには、『アフロ・パンク』で描かれていたのと似たような人種とカルチャーをめぐる構図が窺える。
同じ“混交と集約”でも、たとえば90年代以降の南アフリカで黒人やカラードを中心にポピュラー・ミュージックの主流となった、「クワイト」と呼ばれるヒップホップやR&B、レゲエやハウスがミクスチャーしたダンス・ミュージックと、ブラック・ジャックスの音楽は明らかに毛色が異なる。
前述のハイライフ、そしてジャズ~原始ロックと土着のアフロ・ビートの混成音楽として50年代末に登場した「ンバクァンガ」という、アフリカン・ポピュラー・ミュージックの伝統的な音楽様式を継ぎながら、ダブやシューゲイザー、プログレ~クラウト・ロックやメタルまで渾然一体と併せ呑みサイケデリックなハーモニーを築くサウンドは、演奏の卓抜さと相俟って、なるほどTV・オン・ザ・レディオやマーズ・ヴォルタにも肉薄したクリエイティヴィティを誇る代物だ。

そもそも南アフリカのポピュラー・ミュージックは、他の地域のアフリカのそれと較べて、その社会背景(白人の比率の高さ)や音楽的な親和性(シンプルなリズムとヴォーカル主体の音楽が好まれた)から、代々アメリカの黒人音楽に大きな影響を受けてきたといわれるが、彼らが披露する“混交と集約”は、なるほどそうした歴史の証左といえるのかもしれない。実際、彼らのサウンドは、それこそ今のニューヨークに置かれたとしてもまったく遜色ないだろうし、一方でそのアフリカ性は、たとえば同地で活動するアンティバラスやノモといった“フェラ・クティの継承者”にも比肩するクオリティを示すものだろう。
待望のファースト・アルバム『アフター・ロボッツ』は、プロデューサーにシークレット・マシーンズのブランドン・カーティスを迎え、ジミ・ヘンドリックスのエレクトリック・レディ・スタジオで録音された。無尽蔵な演奏と分厚い音のテクスチャーが、怒涛のテンションで放埓にうねる。EP『Mystery』が予告した大器の片鱗を見事フルスケールで成就させたその作品の前に、もはや“黒”も“白”もない。南アフリカの混交と集約のプログレスの最前線を示す、目下最強のハイブリッドとしてブラック・ジャックスは特筆に価する。


ちなみに、彼らが注目を集めるようになったきっかけには、DJで訪れた南アフリカのケープタウン滞在中に彼らの音楽を聴いて惚れ込んだというディプロとの出会いがあったわけだが、そのエピソードに無理矢理関連づけていえば、似たようなディプロ周辺との交流をきっかけに注目を集めた、もう一組のアフリカ絡みのユニットがある。

ボンジ・ド・ホレやシット・ディスコ等のリミックスを手掛け、スウィッチ(MIA『カラ』、ディプロと組んだメジャー・レイザー等)のレーベルから音源もリリースするロンドンのフランス人&スウェーデン人プロデューサー・チーム=レディオクリットと、同じくロンドン在住で、アフリカ南東部のマラウイ共和国出身のシンガー=エサウ・ムワムサイヤが組んだユニット、ザ・ヴェリー・ベストがそれだ。
そもそもレディオクリット側にとって、アフリカン・パーカッショニストだと期待されたエサウが、実はいたって普通のドラマーだとスタジオで判明し、それじゃあとトラックに乗せて歌わせてみたところそれがハマった……という経緯からスタートしたというザ・ヴェリー・ベスト。去年リリースされたブート・アルバム『Esau Mwamwaya & Radioclit are The Very Best』――南アフリカの曲やフレンチ、さらにはマイケル・ジャクソンの“Will You Be There”やビートルズの“Birthday”のカヴァー&リミックス、そしてブラック・ジャックスとのコラボなどいろいろ詰まった――なかで、とりわけ話題を呼んだのが、MIAの“Boyz”とヴァンパイア・ウィークエンドの“Cape Cod Kwassa kwassa”のカヴァーだった。

ノリとしてはほとんどカラオケに近い代物ながら、マラウイの現地語のチャワ語で歌われるエサウのヴォーカルがなんとも楽しげで、心躍らされる。単なる企画物的なカヴァー&リミックス・アルバムの一言では片付けられない――本稿の趣旨に則していえば、西欧ロック/ポップとアフリカン・ミュージックの“混交と集約”を介した相関性それ自体をユニークに脱構築(=カヴァー&リミックス?)したような、不思議な魅力に満ちた一枚だった。
正式なデビュー・アルバムとなる『ウォーム・ハート・オブ・アフリカ』には、本物のMIAとVWのエズラ・クーニングがゲストで2曲に参加。パーカッションやギター等の生楽器やビートのサンプリングがカラフルなオーケストラを形作り、エズラのヴォーカルまで楽器やビートの一部のように鳴る/躍動するトロピカルなアフロ・ポップは、変な話だが、とても“本格的”だ。「伝統的なアフリカン・ソングのアルバムを作る気はない」と彼らは語るが、たとえばブラック・ジャックスと較べて、前述のクワイトや「マラビ」とも親和性を示すところが彼らの特徴と言えるかもしれない。

6つの言語を使いこなすエサウの歌の歌詞には、戦争やHIV、差別など彼が実際に見たり経験してきたアフリカの「歴史」が描かれているという。ともあれ、ブラック・ジャックスが、繰り返すように南アフリカの“混交と集約”の歴史が生んだモダンな(=汎アフリカの)ハイブリッド種だとするなら、このザ・ヴェリー・ベストは、その変化とプログレスの先に“アフリカ”と仲立ちする――イーノの言葉を借りれば「第四世界(=多国籍で無国籍)の音楽(=ポップ)」を構築するような変異種といえるのではないだろうか。


他にもアフリカ発の興味深いバンドは尽きない。最近ではヘルスやポート・オブライエンの新作で沸くドイツのシティ・スラングと契約した、ヨハネスブルグ出身の男女デュオ、ディア・リーダー。スリル・ジョッキーに所属する、ナイロビとワシントンDCに国籍を跨る混合バンド、エクストラ・ゴールデン。デズモンド&ザ・チュチュス、ジ・アロウズ……etc。面白いバンドは探そうと思えばいくらでもいる。

(2009/11)

2011年1月28日金曜日

極私的2000年代考(仮)……NY定点観測2001‐2008

ザ・ストロークスの登場とロックンロール・リヴァイヴァルの台頭は、確かに大きなきっかけだったが、それはあくまで始まりでしかなかった。「ニューヨークの2000年代」をあらためて見渡したとき、本質は“その後”にこそある事実を再認識する。

そしてその「ニューヨークの2000年代」とは、必ずしも新しい世代によってのみ培われたものではなく、言うまでもなく彼の地の脈々たる音楽史的記憶や遺産との交わりのなかでもたらされたものだった。そこに広がる音楽地図は、世代やシーンで区画整理されたものではなく、小道や裏道が張り巡り、多様性で結ばれたコミュニティが斑模様に混生する、文字どおりメルティングポットな様相を呈している。


「ニューヨークの2000年代」の特徴を簡潔に記すなら、それはかつてなく“エクスペリメンタルな音楽が前景化した10年”――となるのではないか。

ポスト・パンク/ポスト・ノー・ウェイヴ、ディスコ・パンク~エレクトロクラッシュ、フリー(ク)・フォーク、ドローン/ドゥーム・メタル、ネオゲイザー……その呼び名はともかく、それらのタームを一先ずの指標とし展開されたロックンロール・リヴァイヴァル以降の多様な音楽フェーズはいずれも、本来であればアンダーグラウンドな志向の先鋭的なものばかりだった。

遡ればヴェルヴェット・アンダーグラウンドからニューヨーク・パンクに至る60年代中盤~70年代、ポスト・パンク/ノー・ウェイヴをへてソニック・ユースやスワンズが顔役となる70年代末~80年代のような時代もあったが、しかし00年代ほど実験的で個性豊かなサウンドがその表舞台でスポットを浴びたディケイドはない。「ニューヨークの2000年代」は、シアトルなど地方都市に端を発したオルタナティヴ/グランジの喧騒をよそに、ソニック・ユースさえ「『あの連中はいったい何をやってるんだ?』って顔されたアルバムが何枚かあった(苦笑)(サーストン・ムーア)」という模索した「ニューヨークの1990年代」とはあまりに対照的な、刺激に満ちた10年だった。


「NY No Wave & The Next Generation」と銘打たれた2006年制作のフィルム『キル・ユア・アイドルズ』は、そんな「ニューヨークの00年代」の端緒を記録した格好の検証作品と言える。ヤー・ヤー・ヤーズやライアーズ、ブラック・ダイスら00年代初頭の現世代と、1980年代初頭のノー・ウェイヴ世代を対置し、両者を結び貫く「系譜」を紐解いていく――そこで示される史観は極めて示唆的だ。

それとはつまり、同時期のロックンロール・リヴァイヴァルと混同されがちだった前者を、後者に連なるニューヨーク音楽史のエクスペリメンタルな前衛として位置づけ、「ニューヨークの2000年代」の起点を確定する視座である。彼ら現世代が象徴するのは、いわばそこに連綿と受け継がれる「精神」のリヴァイヴァルであり、模倣でも否定でもなく、その歴史や過去を捉え直し読み替えていく肯定的なクリエイティヴィティこそ、すなわち「ニューヨークの2000年代」の精髄にほかならない。

はたして「ニューヨークの2000年代」の基底通音となるエクスペリメンタリズムの再興は、ブルックリンを主戦場に、ロックンロール、パンク/ハードコア、フリー・ジャズ、フォーク、アンビエント、ミニマル、ノイズ、電子音楽など、そこに隣接し混在する多様なエレメンツを参照しながら数多のユニークな才能を産み落とし育んでいく。“2000年代の『No New York』”とも評された当時ブラック・ダイスのヒシャム監修のコンピ『They Keep Me Smiling』(2004)は、その百花繚乱な音楽風景を切り取った最初のドキュメンタリーであり、その界隈からはアニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンスを筆頭に00年代のアメリカン・インディの顔役となるバンドが登場した。いわゆるフリーク・フォークや、「No Fun Festival」周辺のコアなノイズ・シーンとも共振し繰り広げられるラディカルな音楽実験の様相は、さながら1990年代を跨いで遅れて彼の地に到来したオルタナティヴの季節のよう、と言えるかもしれない(そこにはソニック・ユースやマイケル・ギラの薫陶があり、スーサイドやシルヴァー・アップルズの残響がある)。

そして同時に、「ニューヨークの2000年代」は、アニコレの『フィールズ』(2005)が象徴的だが2000年代の中盤辺りを境に、そのエクスペリメンタルな創作のなかに「ポップ」への志向を露わに見せ始めるようになる。


一方、2000年代におけるニューヨークの重要性を物語る証拠として、そこが数多の世界的な音楽トレンドの発信地となった事実を指摘できる。なかでもディスコ・パンクやエレクトロクラッシュと呼ばれた一群のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ~1980年代再評価を汲む2000年代前半の動向は、後のニュー・レイヴやニュー・エキセントリックにまで至る同時多発的なロックとエレクトロのクロスオーヴァーの決定的な契機となった点で、極めて重要なトピックといえるだろう。そして、その最大の牽引者たるアイコンこそジェームズ・マーフィであり、そのLCDサウンドシステムやDFA名義の先鋭的なプロダクション、あるいはラプチャーの諸作は、2000年代におけるダンス・ミュージックを再定義したといっても過言ではない。

そこには多様性があり、ポスト・パンクもグラム・ロックも、アシッド・ハウスもハードコアも呑み込むエクレクティックな、何よりポップ・ミュージックとしての荒々しい熱狂がある。それは、たとえば機能主義的でテクノロジーに拠った1990年代のメインストリームなダンス・ミュージックとは異なる価値観を有するものだ。加えて、シザー・シスターズのブレイクやヘラクレス&ラヴ・アフェアの登場も、ニューヨークにおけるダンスの復権を強く印象付けるものだった。
そのジェームズが、かつて1990年代にパンク・バンドでドラムを叩き、またスティーヴ・アルビニ周辺のエンジニアだった経歴は有名だが、同じく1990年代のハードコア~ポスト・ハードコアに出自を持ち、「ニューヨークの00年代」で頭角を現したバンドとして、バトルスと!!!が挙げられる。かたや、ヘルメットやドン・キャバレロの元メンバーを擁し、ミニマルな構築と圧倒的な演奏力を駆使しバンド・アンサンブル/コンポーズの拡張性を追求するバトルス。かたや、前身の西海岸ハードコア・パンドを出発点としながらファンクへ突然変異を図り、Pファンクとトーキング・ヘッズとストゥージズが飽くなきジャムを繰り広げるようなカオスを創出する!!!。スタイルは異なるが、共に「ニューヨークの00年代」の音楽地図の欄外に属すレフトフィールドな存在であり、その未知のカタルシスや知的興奮を誘う音楽体験はまさに“エクスペリメンタル”と呼ぶにふさわしい。2007年の『ミラード』と『ミス・テイクス』は、そんな両者の規格外のオリジナリティを示すマスターピースだろう(ちなみに!!!とLCDはメンバーをシェアする関係)。

ニューヨークの音楽史とは、つまり実験とダンスの歴史であり、「ニューヨークの2000年代」もまたその一部でありヴァリアントにほかならない。そして昨年リリースされたTV・オン・ザ・レディオとギャング・ギャング・ダンスの新作は、その2000年代における現時点の最大の達成といえる。
ブライアン・イーノ(1970年代末~80年代前半)を彷彿させるハイブリッドな実験精神と、アフリカ性が奔流するアフロ・ビート/ゴスペル・サウンドを混交させ、アマルガムで重厚なアート・ロックを創り上げる前者。対して、即興シーンと交わるスポンテニアスな創造性を、乱れ打つパーカッション・サウンドと呪術的なダブ音響に解き放ち、文化横断的なトライバル・ミュージックを奏でる後者。まるで合わせ鏡のように対照的で相似的な両者の相貌は、ニューヨークの音楽史における実験とダンスの、不可分で入れ子的な関係性を象徴するようで興味深い。

同じく2000年代初頭の黎明期に登場し(TVOTRのデイヴ・シーテックはYYYSやライアーズのプロデュースを務めた)、今やマッシヴ・アタックからニュー・エキセントリックにまで影響力を誇る前者と、昨年ニューヨークで開催された「88 Boadrum」をオーガナイズするなどUSアンダーグラウンドに求心力を示す後者の現在地は、そのまま「ニューヨークの2000年代」が築き上た所産の大きさを物語っている。

対して、そんな「ニューヨークの2000年代」を貫く歴史のくびきから解き放たれるように、瑞々しく伸びやかにロック/ポップを謳歌する“2000年代出自”のバンドも登場し始めている。

トーキング・ヘッズというよりむしろ1970年代ブリティッシュ・ポップのマナーにのせて軽妙なアフロ・ポップを鳴らすヴァンパイア・ウィークエンド。1990年代のアセンズ辺りに通じる箱庭的ポップ・センスをエキセントリックなエレクトロで装飾し、煌く陶酔的なサイケ・ポップに興じるMGMT。彼らもまた「ニューヨークの00年代」に違いないが、しかしその佇まいはまるで一足先に“次の10年”を望むような、どこか浮世離れした感覚を想起させる。そしてそこには、「ニューヨークの2000年代」のエクスペリメンタリズムと画す「ポップ」への強烈な発露がある。あるいは、またぞろ彼の地で盛り上がりを見せるシューゲイザーやガレージ・ポップを巻き込みながら……。

「ニューヨークの2010年代」はもうそこまで迫っている。


(2009/01)


※追記:その後、アニマル・コレクティヴ、ダーティー・プロジェクターズ、グリズリー・ベアらの新作がリリースされ、音楽的な評価とともに一定の商業的な成功も収めることとなった2009年を、UNCUTは“インディ・ミュージックがメインストリームを制圧した年”と総括した。

2011年1月26日水曜日

極私的2000年代考(仮)……シットゲイズもしくはノーファイについて(So Bored !)

いわゆる「シューゲイザー」や「ローファイ」云々と一括りされるようなノイジーなサウンドは、インディーズにおけるひとつの定番であり常套手段である。ジーザス&メリー・チェインやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの登場、あるいはベックやセバドーらオルタナティヴ勢の台頭で注目された1980年代末~90年代以降も、ブームや流行廃りに関係なくその類のサウンドは、この20年近くのあいだ不滅のジャンルとして脈々と永らえてきた。また、その意匠やコンセプトを引用・参照したり、メタ/サブ・ジャンル的に派生したケースにいたっては、もはや枚挙に暇がない。

しかし、2000年代も最初の10年が幕を閉じようとしている現在。シューゲイザー/ローファイは、インディーズにおける新たなタームとして再浮上しつつある。


シューゲイザーは、“ネオゲイザー”や“ニューゲイザー”という呼称が聞かれ始めた2000年代の中盤あたりから、ローファイに関していえば、ブラック・ダイスやアニコレが、ディアフーフやシュシュが頭角を現し始めた2000年代初頭のブルックリン/西海岸のアンダーグラウンドに(あるいは、それこそ初期のホワイト・ストライプスら“ロックンロール・リヴァイヴァル”にも)、その萌芽はすでに散見できた。しかし、いま各所で活発な動向を見せ始めたシューゲイザー/ローファイは、それらとは異なる背景や文脈から登場した現象のように思われる。

その再浮上(再評価)の経緯を端的に指摘するのは難しい。なぜならそれは、シーンやムーヴメントと呼ぶにはまだ輪郭の曖昧な“兆候”にすぎず、またそこには、後述するようにさまざまな“因果関係”が複雑に絡み合っていると思われるからだ。が、あえてこの新興勢力としてのシューゲイザー/ローファイのシンボルといえる存在を挙げるとするなら、それは間違いなくノー・エイジではないだろうか。


ノー・エイジは、ロサンゼルスを拠点に活動するバンドで、Dr&Voのディーン・アレン・スパントと、Gのランディ・ランドールからなるデュオ。前身にあたる地元のハードコア・パンク・バンド、ワイヴスを解散後、2005年に結成された。2007年に、それぞれ異なるレーベルから発表された5枚のEP/シングルをコンパイルしたアルバム『Weirdo Rippers』をファットキャットからリリース。そして昨年、サブ・ポップからリリースされたデビュー・アルバム『ノウンズ』は、年間ベストの3位(TV・オン・ザ・レディオ、ディアハンターに次ぐ)を付けたピッチフォークを始め、ローリング・ストーン誌やNMEなど主要音楽メディアで高い評価を獲得し、彼らの名前は一躍知られるところとなった。

ハードコア/ポスト・ハードコアを基点に、ガレージ・パンクやグランジ、サイケデリック~アンビエントからライトニング・ボルト周辺のノイズ・ロックまで凝縮したサウンドは、轟音に塗れながらもポップにもフリーにも振り切れる絶妙な奥行きを披露するものだ。手触りはローファイそのものだが、アンサンブルは驚くほど展開力と構築性に富み、クラシックなロックの王道感もたたえている。初期のEPの時点では、その出自に拠って立つ部分がまだ大きかった感もあるが、『ノウンズ』では音楽的な射程を格段に増した。オルタナティヴ以降のUSインディーズの「コア」を、その旺盛な手数でさらに煎じ詰めるようにたたみ掛けるダイナミズムが醍醐味である。


ノー・エイジをシンボルに挙げる理由は、そのサウンドによってのみではない。彼らについて語る上で外せないのが、その活動のホームでありバックグラウンドといえるロサンゼルスのダウンタウンに構えるDIYなアート・スペース「ザ・スメル」()。そしてディーンが主宰するレーベル「PPM(Post Present Medium)」。その周辺に集う顔ぶれが、目下のシューゲイザー/ローファイに象徴されるインディーズの時代性を象徴しているようなのだ。
ディーンいわく「僕らのCBGB」というスメルをホームとするミュージシャン/バンドは、ノー・エイジを筆頭に、昨年キル・ロック・スターズのショーケースで来日したミカ・ミコ、エイヴ・ヴィゴーダ、ヘルス、シルヴァー・ダガーズ、ラヴェンダー・ダイアモンド、バー(Barr)、ガン・アウトフィットなど、一般的な知名度はまだそれほどでもないが近年頭角を現しつつある名前が少なくない。ゲストも含めれば、フガジのジョー・ラリーを始め、ギャング・ギャング・ダンス、アリエル・ピンク、フット・ヴィレッジ、新鋭ストレンジ・ボーイズやナイト・ジュエルなど、その数はかなりに及ぶ。

そして、PPMが擁するのは、共にデビュー・アルバムをリリースしたエイヴ・ヴィゴーダとガン・アウトフィットらスメル組に加えて、ブラック・ダイスのエリック・コープランドやライアーズ(ノー・エイジとスプリット7インチを発表)、要注目サンディエゴのウェーヴス(Wavves)など。さらに、『New Video Warks』なるDVDコンピ()に収録されたメンツも含めれば、ディアハンター、ハイ・プレイセズ、ジャパンサー(サーストンも共演)、ラッキー・ドラゴンズ、ポカハウンテッド、ソフト・サークル(元ライトニング・ボルト/ブラック・ダイスのヒシャム)、シュシュなど、そこにはUSインディーズを縦横軸で横断するような錚々たるコネクションが広がる。

無論、ここに挙げられた名前を一概に音楽性で一括りにすることはできない。エイヴ・ヴィゴーダのトロピカルなジャンク趣味。ミカ・ミコのライオットガールな狂騒。ガン・アウトフィットの硬質なハード・ロック。ウェーヴスのフリークなサーフ・パンク。ヘルスのハーシュなディスコ。ラッキー・ドラゴンズのトイトロニカな雑音遊び。ストレンジ・ボーイズの無邪気なガレージ・パンク。エリック・コープランドのドープなコラージュ。ポカハウンテッドのアヴァンギャルドな無間サイケ……そして、ノー・エイジの凝縮された「ロック」。サウンドの趣向はさまざまであり、個々が拠って立つ音楽的なバックボーンも多分に異なる。
しかし、彼らは総じて「ノイズ」との親和性が高く、音像は荒削りで歪み、ほとんど宅録にも近いプライヴェートな制作環境から生まれた音楽という点で、「ローファイ」のDIY精神を共有している。

それはもちろん、スメルという“解放区”ならではの成り立ち、PPMを主宰するノー・エイジの(音楽性も含めた)キャラクターと無縁ではない。そして、こうした彼らの存在は、大げさにいえば、たとえば業界全体の流動化が進みメジャー/インディの存在意義が問われ、あるいは細分化やアーカイヴ化の果てにロック/ポップが相対主義に傾倒していくなかで、図らずも一種のカウンターとして特異点を演出しているようにも思われる。
そして、こうした現象はもちろん、ノー・エイジの周辺だけに留まらない。固有名詞を挙げればキリがないが……たとえば、Troubleman Unlimitedからデビューし、昨年XLと契約を果たしたタイタス・アンドロニカス。驚異的なペースで音源を量産するブランク・ドッグス。盟友ダム・ダム・ガールズ(両者が組んだメイフェア・セット)。タッチ&ゴーからのラスト・リリースとなったクリスタル・アントラーズ。“ポスト・ブラック・ダイス?”なダックテイルズ。ニューヨークの注目株ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハート。ヴェルヴェッツの正嫡子クリスタル・スティルズ。その姉妹関係ともいえるヴィヴィアン・ガールズ。新鋭イート・スカル。アイオワのRaccoo-oo-oon(メンバーはレーベル「Night People」を主宰)。スーパー・ヴァケーションズ、ttttttttttttttttttttt、メス・ティース、インテリジェンス、チューン・ヤーズ……etc。ガレージ/サーフ・パンク系からハードコア~ポスト・コア、シューゲイズなギター・ポップや、エクスペリメンタルなノイズ音響まで、個々に音楽性が異なれば、拠点とする活動地もバラバラ。しかしそこには、スメルやPPMに集う顔ぶれと同様、彼らを同じ地平で結ぶことで見えてくるUSインディーズの“新たな地図”のようなものがある。

興味深いのは、それが、大都市でも郊外、主に地方都市を震源地として顕在化している点だろうか。

ここ数年、USインディーズの中心地といえば専らニューヨークだったが、それはスメルやPPMのようにロサンゼルスでもダウンタウン、シアトルやポートランド、あるいはディアハンターやブラック・リップスの両バンド・メンバーによる覆面ユニット、スプークスもまさにを擁するアトランタなど、ローカルな磁場を起点としているところが大きな特徴といえる。そうした大小のコミュニティが点在し、それらが作品/ライヴでの共演やレーベルを介したバンド個人レベルで繋がることで(※この界隈ではスプリット盤やカセットでの自主リリースが一種のファンジンのような機能を果たしている部分が大きい)、燎原に広がる火のように“現象化”する。その構図はまるで、80年代のオリジナル・ハードコアを連想させなくもない。

たとえばノー・エイジに、かつてSSTを立ち上げたブラック・フラッグの姿を重ね見ることは早計だとしても(そこに政治的・社会的な背景はいまのところ皆無なわけで)、そうした彼らの存在が、USインディーズになんらかの地殻変動を促す契機とならんとしていることは推察可能だろう。

そして、同じようなことは、90年代のインディーズとの関係性についてもいえる。

彼らのサウンドが、80年代末~90年代のオリジナルのシューゲイザーやローファイを彷彿とさせることは指摘するまでもない。加えて、そのバンドを取り巻く環境や状況は、サブ・ポップやキル・ロック・スターズの設立に端を発する形で、シアトルやオリンピアといった“僻地”からオルタナティヴの狼煙が上がった90年代インディーズの黎明期の雰囲気と近いものを感じさせて興味深い。当時のオルタナティヴ勃興の背景には、80年代の業界主導的なレコード・ビジネスへのアンチテーゼの意も込められていた(結果、そのオルタナティヴもメジャー側の企業倫理に骨抜きにされるわけだが)。同様に、現在の彼らが、そのDIYな活動スタイルやコミュニティ意識において、レコード産業の現状と一線を画するオルタナティヴたり得ていることは先に触れたとおりである。彼らの側にそこまで明確な意識があるかはわからない。しかし、そうしたさまざまな符合から、そこに時代性や必然性を導き出せるのも事実である。

また、2000年代のインディーズで比較すれば、スメルの存在は、かつてライトニング・ボルトのブライアン・チッペンデールがプロヴィデンスで創めた「フォート・サンダー」(1995~2001年)を連想させる。DIYなフリーのアート・スペース/ライヴ・ハウスという環境面はもちろん、ブラック・ダイスやディアフーフやファッキン・チャップスや日本のメルト・バナナなどさまざまなバンドがライヴを行い、インディーズを横断するコミュニティの場となったフォート・サンダーの機能を、スメルが現在に担っているのは重要な点だろう。そして、10年前のフォート・サンダーがそうだったように、スメルやその周辺の相関図は、その後のインディーズを予見する格好の見立てを提供してくれるはずだ。
あるいは、それこそ近年のニューヨークや、ニュー・レイヴ~ニュー・エキセントリックに連なる最近のUKの若手を含め、ある種の相対主義や折衷主義が前提化した現在のインディーズにおいて、彼らのようなサウンドが“反動的”にも映る事実は見逃せない。さまざまな音楽的影響を反映・昇華するというより、むしろひとつのアイディアやトーンを突き詰めることで生まれる彼らのロック/ポップは、ある種のミニマリズムに近いといえる。

むろん、たとえばディアハンターのように、複雑な音楽的コードをもち、シューゲイザー/ローファイはその一部に過ぎないようなバンドもいる。A・ヴィゴーダは“ヴァンパイア・ウィークエンドへのUSジャンクからの回答”ともいうべき手数の多さを誇る。しかしながら、ノー・エイジが象徴する現在のシューゲイザー/ローファイ勢のサウンドには、多様性よりも強度でねじ伏せるようなダイナミズムがあり、それは70年代のパンクや80年代のハードコア、そして90年代のオルタナティヴ~グランジ勢を彷彿させるという点において、やはり何か因縁めいたものを感じさせずにはいられない、と強調したい。

最後に、ザ・ホスピタルズというバンドを紹介する。

ホスピタルズは、サンフランシスコを活動拠点とする3人組。彼らのマイスペースによれば結成は「2017年」。カート・ラッセルとスティーヴン・セガールを愛し、オフィシャルHPのリンク先はなぜかパトリック・スウェイジのファンサイト……と、つまり素性は不明(元メンバーは現在イート・スカルで活動)。が、昨年リリースされたアルバム『Hairdryer Peace』が英WIRE誌の年間総合3位に選ばれるなど、評価は高い(ちなみギャング・ギャング・ダンス『セイント・ディンフナ』は5位)。

ハードコアやガレージ・パンクを敷衍したノイジーで歪んだ音像は、ノー・エイジやその周辺と通じるともいえなくない。しかしプッシー・ガロアやハリー・プッシーからハーフ・ジャパニーズまで比せられるサウンドは、どうにもこうにも病んでいる。デビュー時のマイブラがバースデイ・パーティやクランプスに準えられたエピソードを連想させるが、こちらはさらにダブやインダストリアル、フリー・フォーキィなジャムまで組み敷き「ノイズ」としての抽象性をアピールしている。

ローファイであることには間違いない。が、シューゲイザーと称する甘美さや爽快感はどうだか!? ノー・エイジが王道なら、こちらは完全なるレフトフィールド。もっとも、大局的に見れば彼らもまた、再興するシューゲイザー/ローファイの一角に数えられて然るべき存在だろう。やはりこの界隈はまだまだ神出鬼没で、興味が尽きない。


(2009/06)

極私的2000年代考(仮)……アニマル・コレクティヴとディアハンター、あるいはアニマル・コレクティヴからディアハンターへ

4年前にユナイテッド・アコースティック・レコーディングからリリースされたコンピレーション『They Keep Me Smiling』()は、「00年代の『No New York』()」とも謳われた評判通り、00年代初頭のニューヨークのアンダーグラウンド・シーンを捉えた格好のドキュメンタリーだったが、そこに収録されたアーティストの顔ぶれや彼らが象徴した音楽的趣向は、結果としてそれが「アメリカン・インディの00年代」を指標する示唆的な作品であったことを物語っている。

先日のギャング・ギャング・ダンスのライヴにもゲスト出演した元ブラック・ダイス~ソフト・サークルのヒシャムが監修を務め、そのギャング・ギャング・ダンスやブラック・ダイス、アニマル・コレクティヴを始め、サマラ・ルベルスキー、エンジェル・ブラッド(GGDのリジーの別ユニット)、ホワイト・マジック、エクセプター、ブラッド・オン・ザ・ウォール、コプティック・ライト(バトルスのイアンも在籍したストーム&ストレスが前身)、ギャヴィン・ラッソムらが名を連ねたそれが伝える当時のニューヨークに萌芽した才能の野放図は、00年代を通じてアメリカン・インディの各所で同時多発的に顕在化していく音楽的命脈の縮図に等しい。フリーク・フォーク、ポスト・ノーウェイヴ~ニュー・ノイズ/ドローン、ミニマル/エレクトロ~クラウト・ロック、シューゲーザー、ワールド・ミュージック……がまだら模様に織りなす多様な音楽事象が、ある種00年代の趨勢を予見する形でここには胚胎されていた。

その『They Keep Me Smiling』の続編ともいうべき作品が、少し前にニューヨークのレア・ブック・ルームからリリースされた『Living Bridge』()。アニマル・コレクティヴらが御用達のブルックリンのスタジオ「Rare Book Room」のエンジニア、ニコラス・ヴァーンヘスが監修したコンピレーションで、エイヴィ・テアのソロやブラック・ダイス、サマラ・ルベルスキーなど『They Keep Me Smiling』にも参加した顔ぶれに加えて、タラ・ジェイン・オニール、イーノン、セオ・エンジェル、テレパス、リングス、シルヴァー・ジューズ(※スティーヴン・マルクマスが参加した98年の音源)、パルムス(同レーベルの第2弾となるデビュー・アルバム『It’s Midnight In Honolulu』も素晴らしい。オルタナなマジー・スター?http://www.myspace.com/palmsgroup)、あるいはディアハンターといったニコラス/スタジオと縁の深い全25組のアーティストを収録。『They Keep Me Smiling』同様、いわばニューヨークの一風景を定点観測したきわめて局所的な作品ながら、その描きだすパースペクティヴは、08年現在のアメリカン・インディの全景を相似関係に可視化する射程を含む。

音楽性もその背景も世代も様々な才能が雑多に混在し、かつ互い同士がゆるやかな連帯を見せるような08年のニューヨークの音楽地図は、ジャンルやトレンドの細分化の果てに「シーン」と呼ばれるものが飽和・爛熟し、従来型の構成単位とは異なる、新たなメディアやバックグラウンドを介して結ばれたローカルなコミュニティが台頭するなかで脱中心化が進む現在のアメリカン・インディの光景をそのままなぞるものであり、さらにいえば、そうしたまるで「全体」と「細部」が入れ子の関係にあるような感覚は、90年代の反動か、“大文字の物語”が失効し、それこそメジャーとインディの間に限らずあらゆる局面で対立軸や争点を見出すことが困難な00年代という時代性を象徴しているようで興味深い。
 
似たような話は何もニューヨークに限ったことではない。こちらはPVやライヴ・パフォーマンスを収録した映像作品のコンピレーションで、ロサンゼルスのポスト・プレゼント・ミディアム()からリリースされたDVD『New Video Works』。共に今年揃ってリリースされたニュー・アルバムが好評を得た盟友関係のエイブ・ヴィゴーダ(ヴァンパイア・ウィークエンドへのUSジャンク~ローファイからの回答?)とノー・エイジ(ちなみにメンバーが同レーベルを運営)、6月のキル・ロック・スターズのショーケース・イヴェントにも出演したシュシュとミカ・ミコ、イレース・エラッタ、ラッキー・ドラゴンズといった西海岸アンダーグラウンドの新旧顔役を中心に、ヒシャムのソフト・サークルやスリル・ジョッキーへの移籍で注目集めるハイ・プレイセズ、ウルフ・アイズばりの量産ペースを誇るガールズ・ドローン/アヴァン・フォーク・デュオ=ポカハウンテッド(※元メンバーのベサニー・コンセンティーノは現在ベスト・コーストとして活動)、ジャパンサー(サーストンが映像出演)などニューヨーク勢やディアハンターも交えた強烈すぎるラインナップ。

ここに収められた異種混淆のアマルガムな饗宴は、いうまでもなく『They Keep Me Smiling』や『Living Bridge』が映し出すニューヨークのそれと重なり合うものであり、あるいはそこには、たとえば80年代末~90年代初頭のオルタナティヴ/グランジ前夜の頃のアメリカン・インディが漲らせていた何か闇雲なエモーションや創作精神を取り戻そうとしているような熱気が感じられたりもする。

とくに西海岸の連中は、様々な音楽フェーズを潜り抜ける過程でそれなりにソフィストケートされたものを漂わせるニューヨークの連中とはやはりどこか違い、サブ・ポップやKRSが設立された頃のあの空気やマインドを変わらずたたえていて微笑ましい(「素朴(プリミティヴ)な音楽は訓練されていない現代人の耳には複雑すぎる」と、現代音楽や芸術音楽の計算された前衛主義や主知主義に対し不確定で変則的な「民俗音楽の複雑性」について研究したのは20世紀初頭の民謡採集者/ピアニストのバーシー・グレインジャーだが、本作に収録されたアーティストやディアフーフなんかの音楽を聴くと、これと同じようなプリミティヴィズムが、ある種の「民俗性・民謡性」みたいなものとして西海岸のインディ・ロックには脈々と受け継がれているような気がする)。そしてここにもまた、前記の2作品と比べてたぶんに歪な形ではあるが、まぎれもなく今のアメリカン・インディの姿が凝縮されたスケールで描かれているように思う。


『They Keep Me Smiling』も『Living Bridge』も『New Video Works』も、それぞれ切り取られるフレームは微妙に異なりながら、アメリカン・インディの全容を紐解く巨大な展開図のワンピースとして、その現場の空気や温度をリアルに伝えてくれる(フガジのブレンダン・キャンティがプロデュースするDVDシリーズ『Burn to Shine』()も同様。ワシントンDCやシカゴなどアメリカ各都市のインディ・シーンにスポットを当て、取り壊しの決まった廃屋で行われる地元アーティストたちの演奏を記録したライヴ・ドキュメンタリー。ウィル・オールダムやマジック・マーカーズらが出演予定のルイヴィル編が待機中)。しかも、それぞれのピースはアメリカン・インディの全体図と相似形をなしており、各作品に名を連ねるアーティストたちは、ローカリティや音楽性で分断されたり区画されることなくゆるやかに連帯し、その背景に複雑に入り組んだ人脈図を呈する。興味深いのは、そうした「アメリカン・インディの00年代」をそのまま体現するような作家性を誇る才能がごく稀に存在することだろう。


「アメリカン・インディの00年代」を、仮に『They Keep Me Smiling』と『Living Bridge』のふたつの作品で前半と後半に分けてみる。そして仮に、先に触れた才能の象徴として、前半を代表するアーティストがアニマル・コレクティヴだとするなら、後半を代表するアーティストはディアハンターではないだろうか。


俗にフリーク・フォークと呼ばれたものが、その「フリーク」なる過剰で異形的な響きの冠のとおり、ある固有の音楽様式や音楽趣向の系譜を指すものではなくむしろ、突き詰めればその周囲に点在し錯綜する数多のエクスペリメンタルな音楽事象や音楽史的記憶=ルーツ・ミュージックの類をも際限なく巻き込みながら曼荼羅のように複雑な文様を象るような一種の音楽的スペクタクルであるという、当連載でもこれまで繰り返し触れてきた事実を踏まえたとき、そこに“ポップ・ミュージック”という非アンダーグラウンドな文脈/感性を持ち込み、新たな回路を拓きブレイクスルーを遂げてみせたのが、一時はそのフリーク・フォークの旗手とも呼ばれたアニマル・コレクティヴだった。


その大きな転機となったのが、ペイヴメントとサン・シティ・ガールズが共生したかのようなパンダ・ベアとエイヴィ・テアのデュオ時代~初期の“プリミティヴ”なアヴァン・サイケ路線をへて、さながらビーチ・ボーイズと『ホワイト・アルバム』と『リチャード・D・ジェイムス・アルバム』の邂逅を連想させた05年の『フィールズ』だったわけだが、いわば彼らは、それこそニューヨークに限っていえばヴェルヴェッツからノー・ウェイヴの時代をへて連綿と彼の地に受け継がれるアヴァンギャルドの様式美を換骨奪胎し、まるでアメリカン・インディがその創作精神をもっとも自由に謳歌していたオルタナティヴ前夜の頃のような伸びやかさで、アンダーグラウンドなエクスペリメンタリズムを否定でも反動でもなく肯定的にロック/ポップへと反転させてみせたわけだ。しかも、本来の意味での実験精神は微塵も失うことなく、百科全書的なまでに豊潤で奔放な音楽的語彙を誇りながら、そのサウンドはどこまでもサイケデリックに酩酊感を増し眩い色彩を放つ。文字どおり「フリーク」なクリエイティヴィティは、たとえばギャング・ギャング・ダンスなんかに比べると一定の「型」らしきものを近作において創出しつつも確実にピークを更新し続けていて、そのポテンシャルはいまだ底を窺い知ることができそうにない。

対するディアハンターもまた、アメリカン・インディの現在をきわめて今日的な形で体現するサンプルとして、アニマル・コレクティヴと双璧をなす屈指の存在といえるだろう。
ディアハンターが創り上げるサウンドも、じつに多面的で複雑な意匠に富み、圧倒的な構成力と情報量を誇る代物だ。中心人物のブラッドフォード・コックスが「完全な失敗作」と語り、ザ・フォールの出来損ないのようだというデビュー・アルバム『Turn It Up Faggot』をへて、昨年クランキーから発表されたセカンド『Cryptograms』。作品を聴いて気付かされるのは、それがまさにここ数年のアメリカン・インディ界隈で顕在化した音楽トピックを纏め上げたかのようなサウンドの、その見事な符合の一致だろう。

すなわち、ジザメリやマイブラを反芻するシューゲーザー、ブライアン・イーノを指標とするドローン/アンビエント、フェラ・クティのアフロ・ビート、ファウストからパウリーン・オリヴェロスまで参照するクラウト・ロック~アヴァンギャルド、シャングリラスやクリスタルズを羨望するオールド・ポップ/ドゥー・ワップ、そしてペイヴメントやブリーダーズら90年代のインディ・ロックをルーツに引くローファイ……いわばそれらが交錯するする00年代のアメリカン・インディの景色を活写した作品こそ『Cryptograms』だった。

さらにいえば、そうしたディアハンターのサウンドの偉大なアーキタイプと呼べそうなアーティスト――ラブラッドフォード、パン・アメリカン、スターズ・オブ・ザ・リッド、ウィンディ&カールらを90年代初頭から世に送り出し続けてきたクランキーから本作がリリースされた事実にも、必然めいた巡り会わせを感じずに入られない。
そうした背景には、当然ながらブラッドフォード個人の資質やルーツに求められる部分が大きい。音楽好きの従兄弟の影響で小学生の頃からヴェルヴェッツやバットホール・サーファーズ、同郷のthe B-52sやパイロンのレコードを聴き、ブラッドフォードが手作りのドラムセットとテープレコーダーで音楽制作を始めたのは10歳のとき。そして中学生のときに友達から4トラックのレコーダーを借りたのを機に、現在のディアハンターやソロのアトラス・サウンドの音楽的な基盤となるテープコラージュやサンプリングにのめり込む傍ら、同時代のインディ・ロックと一緒にあらゆるアヴァンギャルド・ミュージックやアンビエント、かたやオールディーズなんかにもどっぷりと漬かりながら、その特異な作家性は育まれてきた。『Cryptograms』とはまさに、そうしたブラッドフォードの音楽的な個人史の縮図としても聴くことが可能だし、それが奇しくも「アメリカン・インディの00年代」と相似関係をなしたことも興味深く、そこにはアニマル・コレクティヴとはまた違った形の時代性を読み取ることができるだろう。

かたやポップの求心力に魅入られるような近作におけるアニマル・コレクティヴと、かたやとことん脱中心的に創作を漂泊させるディアハンターの在り方はきわめて対照的だ。ブラッドフォード曰く、今度のディアハンターの新作『マイクロキャッスル』(レコーディング&ミックスはニコラス・ヴァーンヘス)は「スタンダードで、ポップなレコード」らしいが、その実体はアニマル・コレクティヴのそれとも、いや、今現在のアメリカン・インディが示すそれともかなり趣を異にするものである。

ちなみにアニマル・コレクティヴとディアハンター/アトラス・サウンドはツアー・メイトの間柄。この両者の関係性に、グリズリー・ベアのエドワード・ドロステやダーティ・プロジェクターズのデイヴ・ロングストレス、あるいはアーケイド・ファイア/ファイナル・ファンタジーのオーウェン・パレットの名前を組み込むことでさらに陰影に富んだ「アメリカン・インディの00年代」を描くことができそうだが……それはまた別の機会に。





(2008/12)


※追記:ブラッドフォードが、宅録の音作りから、実際にステージに立ち人前で演奏するミュージシャンを志すようになったきっかけとして、ニルヴァーナのカート・コバーンがランジェリー姿で演奏するライヴ(映像?)を見て大きな勇気をもらった、と某インタヴューで語っていたのは興味深い。

極私的2010年代考(仮)……“カセット・カルチャー”について

少し前のピッチフォークに興味深い記事が掲載された。「This Is Not a Mixtape」と題された記事(http://pitchfork.com/features/articles/7764-this-is-not-a-mixtape/)で、内容は、ここ数年、アメリカのインディ・シーンでにわかに注目を集める「カセット・カルチャー」について紹介したもの。カセット・オンリーでリリースされる作品や、その専門的なレーベル、またその界隈の代表的なアーティストを取り上げ、“カセット・リヴァイヴァル”と記事が呼ぶカルチャー/シーンと、その背景にあるアメリカン・インディの現状について、当事者の証言や簡単な時代考証を交えながら伝えている。

たとえば、最新作『ビッテ・オルカ』を、CDやヴァイナルやMP3と一緒にカセットでもリリースしたダーティー・プロジェクターズ。カセット限定のEP『On Platts Eyott』『Rainwater Cassette Exchange』が話題を呼んだディアハンター。過去のライヴ音源を集めたカセット作品『Fine European Food and Wine』を制作したオネイダ。そして彼らと並んで、記事で著書『Mix Tape: The Art Of Cassette Culture』等のエピソードが紹介されているサーストン・ムーアは、最近始めたブログ(http://flowersandcream.blogspot.com/)内でもカセット・カルチャー/シーンの話題をたびたび取り上げている。


あるいは、そのソニック・ユースがリリース予定のBOXセット用に、アルバム『EVOL』を全編カヴァーしたカセット作品を提供することが報じられたベック。また最近では、カセット・リリースが新人アーティストのプロモーションの機会にもなっているという例として、それぞれサブ・ポップとマタドールからデビューが決定したジェイルとハーレムの名前が挙げられている。

一方、記事は、このカセット・リヴァイヴァルなるものが、現在のアメリカン・インディにおける、ある音楽的動向と共犯関係にあると指摘する。具体的には、俗に「チルウェイヴ」「グローファイ」などと呼ばれる、オルタナティヴなエレクトロニック・ミュージック。ヒプノティックな電子音のゆらぎ、宅録/多重録音的な圧縮された音像のモアレ、粒子やコントラストの粗い歪んだサイケデリア……それは、ある種の“雰囲気”も含めてカセット・テープというオールドスクールなマテリアルならではの「特性/魅力」と親和性を見せるものであり、ネオン・インディアンやトロ・イ・モワ、ウォッシュド・アウト、メモリー・テープスといったそのシーンに属すとされるアーティストの少なからずは、実際にカセットでの作品リリースの経験をもつ。

また、詳しくは後述するが、たとえばウェーヴスやダム・ダム・ガールズ、あるいはノー・エイジやダックテイルズ(ガールズの盟友リアル・エステイトのメンバーも在籍)など、俗に「シットゲイズ」「ノーファイ」などと呼ばれるサイケデリックでローファイなガレージ・パンク~ノイズ・シーンとも関わるアーティストの中にも、そうした傾向は多く見られる。

カセットはCDと違ってトラックリストをスキップできない。MP3やデジタル・メディアへの変換も簡単ではない。結果、それはアーティストが望むとおりの形=「作品/アルバム」として聴取される。だからそこには、通常よりも「リスナーとの間に、個人的で密接した結びつきが生まれる」と、たとえば南カリフォルニアで「Bridgetown Records」(http://www.bridgetownrecords.info/)というレーベル(リアル・エステイトやビーチ・フォッシルズと共演するクラウド・ナッシングスは要注目)を運営するケヴィン・グリーンズポンは語る。


対して、現在のカセット・リヴァイヴァルにおける中心的なレーベルといっていいアイオワの「Night People」(http://www.raccoo-oo-oon.org/np/)を運営するショーン・リードは、そうしたアンチMP3/ダウンロード的な立場を踏まえた上で、両義的な見解を示す。

作品フォーマットとしてのカセットのクローズアップ/再評価の背景には、近年市場で台頭するデジタル・メディアやインターネット~ダウンロード文化へのリアクションという側面があることは間違いない。実際、この手のカセット作品は、後にCD化やデジタル・リリースもされないものが大半を占める。そうした、いわゆるアンダーグラウンドでマージナルな音楽や才能にスポットを当て、活動をサポートする場所としてカセット・カルチャーはある。しかし同時に、彼らのような存在が、文字どおりアンダーグラウンドでマージナルなレベルに埋もれることなく、メディアやショップの情報を介さずとも世界中のリスナーに届く/発見される場所として、インターネットが重要な役割を果たしていることも強調する。

そもそも、個人的にこの界隈の動きを知るきっかけになったのも、何かの検索で偶然引っ掛かった海外のブログだった。それから「Night People」に直接オーダーしたティース・マウンテンやティー・ピィーやサヴェージ・ヤング・テーターバグのカセットを聴いて、その面白さに気づかされたという経緯がある。また最近では、カセットをデジタル音源に変換できるオーディオ機器も充実している。つまり、カセット・リヴァイヴァルにとってインターネットやデジタル環境は、リスナーとの間を結ぶ重要な情報網であり販売網としての役割も担っている。

カセットの場合、個人的な体験や記憶と結びついた、ある種のフェティシズムやノスタルジアからくる魅力も大きい。たとえば記事では、スーパー・ファーリー・アニマルズのグリフが、カセットで初めてU2を聴いたときのエピソードが紹介されている。なんでも、そのカセットは犬に噛まれてところどころに傷や跡がつけられた代物だったらしく、聴いたらそれは全編にわたって強烈なノイズとヴィブラートがかけられていて、まるでマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのリハーサル・テープか何かのようだったという(それから数年後に正しいヴァージョンを聴いて、とてもがっかりしたらしい)。これは特殊な例だが、そもそもカセットというのは、プレイヤーの調子で再生速度にムラがあったり、あるいは経年劣化も含めて、けっして“正確”ではないどこか偶然性を孕んだものであり、極端な話、永遠に音が変わり続ける録音メディアだとグリフは語る(グリフは昨年、自身のレーベル「Irony Bored」http://www.myspace.com/ironyboredから、ネオン・ネオンにゲスト参加もした女性シンガー、ケイト・ル・ボンの作品をカセットでリリースした)。

そして、冒頭でも挙げたダーティー・プロジェクターズ。彼らの出世作『ライズ・アバヴ』も、きっかけはデイヴ・ロングストレスが、引っ越しで部屋の整理中に見つけたブラック・フラッグの『ダメージド』の空のカセット・ケースをきっかけに、その中身の音楽を、昔聴いた記憶を辿って再構築していく過程で生まれたアルバムだった。ちなみに、ニューヨークで「Captured Tracks」http://www.capturedtracks.com/(ダム・ダム・ガールズ、ビーチ・フォッシルズetc)を運営するマイク・スナイパーによれば、自身のバンドのブランク・ドッグスがツアーした際、物販で真っ先に売り切れるのがカセットだという。カセットはそんな、いわば“iPod以前”のアクチュアルかつアクシデンタルな聴取体験や音楽的記憶の名残を留めた、なるほどフェティッシュでノスタルジックなメディアなのかもしれない。
いうまでもないことだが、ここでカセット・リヴァイヴァルと呼ばれるものは、けっして今になって急浮上したカルチャー/シーンではない。

“リヴァイヴァル”とあるように、カセットは過去にも、アメリカン・インディに限らずさまざまな局面で重要なトピックを担ってきた。代表的なところを挙げれば、たとえばブラック・フラッグやマイナー・スレットが登場した80年代のアメリカン・ハードコア。ポスト・パンク周辺からスロッビング・グリッスルやノイバウテン等を経由して、現在まで脈々と続くノイズ/インダストリアル・シーン。個人的にリアルタイムなところでは、ハーフ・ジャパニーズやダニエル・ジョンストン、あるいは初期のベックらアンチ・フォーク勢も含む90年代初頭のローファイ・ムーヴメント。その界隈のKやキル・ロック・スターズといったレーベルを介する形で、オリジナル・ハードコアの遺産(と反省)から生まれたライオット・ガール。それこそ、テープ・コラージュやミュージック・コンクレートまで範囲を広げて現代音楽~アヴァンギャルド・ミュージックを検証したらきりがないが、ともあれ、「それは、ノイズ・ミュージックと、現代性の欠如と行き着く果ての周縁性を志向する試みからカセットというフォーマットを選択したアーティストと共に、ゆっくりと前進してきた」と、ミネアポリスでレーベル「Moon Glyph」http://www.moonglyph.com/(先日アリエル・ピンクとのコラボが話題を呼んだヴェルヴェット・ダヴェンポートは要注目)を運営するスティーヴ・ロスボロが語るように、カセット・カルチャー/シーンは、繰り返すがアンダーグラウンドでマージナルな音楽と共犯関係を結んできた「歴史」がある。
とりわけ、近年たびたび話題に上り、再評価的な機運も見受けられるのが、『C86』という作品(C86)。86年にNMEがリリースしたカセット・コンピで、その内容から、転じて派生的な音楽ジャンルやタームを指したりもする。当時のイギリスのインディ・バンドを集めて制作され、プライマル・スクリーム(“Velocity Girl”)、パステルズ、ショップ・アシスタンツ、ウェディング・プレゼント、スープ・ドラゴンズ、クロース・ロブスターズ、マイティ・マイティなど22組を収録。いわゆるアノラック系と呼ばれた、初期クリエイション~当時のグラスゴー周辺を象徴するジャングリー&トゥイーなギター・ポップのまさに入門編的な趣をたたえた本作は、それから20余年後、2000年代末に登場した新しい世代のインディ・バンドにとっての格好の教本として、その価値が見直されている。

それはたとえば、ヴィヴィアン・ガールズやザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートやクリスタル・スティルツやコーズ・コモーションといったバンドに代表される、「ローファイ」や「シューゲイザー」「サーフ・ミュージック」「ガレージ・パンク」などさまざまなタームが交差したインディ・ロックの現場においてであり、彼らがまとう空気やそのサウンドには随所に「C86」的なるものを感じることができる。実際の影響の有無はともかく、四半世紀近く前のイギリスのインディにおける限定的なトピックが、一本のカセットを通じて遠いエコーのように現在のアメリカン・インディと共振を見せている事実は、興味深い。


そして、この“C86チルドレン”界隈は、先に挙げた「チルウェイヴ」「グローファイ」や「シットゲイズ」「ノーファイ」周辺のアーティストとも、とても近しい間柄にあり親和性が高い。音楽的なルーツやタームを共有するサウンド面の共通項や近似性はもちろん、レーベル・メイトだったり、ツアーでの共演やスプリット盤の制作を通じて結ばれたバンド同士の密な関係性が、そこにはある。

たとえば、ダム・ダム・ガールズ/クロコダイルズ/グラフィティ・アイランド/ペンズのスプリット7インチ『Four Way Split』。あるいは、ここらのシーン全体のキーマンのひとりといっても過言ではないウッズ率いるジェレミー・アール主宰の「Woodsist」(http://www.woodsist.com/)のサブ・レーベル「Fuck It Tapes」のカタログを眺めれば、そこにはヴィヴィアン・ガールズやウェーヴスやブランク・ドッグスから、エクセプターやイエロー・スワンズやポカハウンテッドといったノイズ・ドローン~アンビエント/サイケデリック~フリー・フォークまで含む、より広範で複雑に絡み合ったアメリカン・インディの樹形図が浮かぶだろう。

そしてそこでは、かつてのハードコアやライオット・ガールのように、7インチと並んでカセットがバンド同士やバンドとファンの距離を近づける重要なメディアとなり、またネットや(アーティスト/ファンの)ブログやツイッターがかつてのファンジン的な役割も果たし、シーン全体を活性化させている。

それにしても――すでにいろんなところで指摘されていることだが、この界隈に「海」にまつわる名前のアーティストやバンドが多いのはどうしてだろう。ウェーヴスやB・フォッシルズは既に挙げたが、他にも、ベスト・コースト、ビーチズ、ダーティ・ビーチズ、サーファー・ブラッド、サーフ・シティ、サマー・キャンプ、サマー・ヒッツ、サマー・キャッツ、シー・ウルフ、ウェーヴ・マシーンズ、ウェーヴ・ピクチャーズ、カルフォルニア・サン、ヘヴィー・ハワイズ(※ウェーヴスのネイサン・ウィリアムスの元同僚)……。これに、作品のタイトルやアートワークに「海」をあしらったものまで含めれば、それこそ枚挙に暇がない。偶然なのか、それともなんらかしらの理由があるのか。ビーチ・ボーイズ/ブライアン・ウィルソン、『ペット・サウンズ』、ウォール・オブ・サウンド、50~60年代ウェスト・コースト・ミュージック~サーフ・ロック、サイケデリック、あるいはノイズ(=潮騒)、ループ(=波)……そのサウンドから、「海」との因果関係を紐解くヒントを与えてくれそうな共通する「イメージ」を導き出せなくもなさそうだが、はたしてそこに興味深い「答え」があるようにも思えない。しかし、その「海」には、このカセット・リヴァイヴァルをひとつの渦として巻き込む、アメリカン・インディのうねりが確かに内包されている。


そんなところに届いた、MGMTのニュー・アルバム『コングラチュレイションズ』。ここにも「海」がアートワークに飾られている。けれどその「海」は、まるで奥行きを欠いたスーパーフラットなカートゥーンの海で、フィリックスに似たキャラクターが高波に捲くられてサーフィンをしている。コミカルというより、「祝福」というタイトルとも相まってどこか得体の知れなさが先立つ本作は、そこで歌われている内容や意図したメッセージはともかく、「ポップ」なんてインフレ(デフレ?)した言葉では回収のできない、ひどく倒錯した印象を与える。それは、作品の後半に進むにつれて混沌とサイケデリックな様相を深める展開に、プロデュースを務めたソニック・ブームの、EARやスペクトラムで見せる電子音響~ドローン的なそれではなく、むしろかつて元相棒ジェイソン・ピアーズがドクター・ジョンと組んだときのことを連想させる南部黒人音楽やルーツ・サイケデリアに精通した素養が露わとなるという驚きもさることながら、カセット・リヴァイヴァルをめぐってここまで触れてきた、2000年代と2010年代の端境期をまたぐアメリカン・インディのあらゆる事象をキャッチウェイヴし続けるようなサウンドの、その異様なテンションの高さである。

その様子は、アートワークのイラストのようにどこか戯画っぽくもあり、アマルガムな音の感触は、逆にあらゆる情報が相対化され断片化された時代に似つかわしいリアリティを伝えているように思えた。サマー・オブ・ラヴとモダン・テクノロジーが交差するアーチの下で、パンク・ロックとゴスペルが、サーフ・ポップとグラム・ロックが、そしてファルセットとスクリームが騒々しくユニゾンし、鮮やかなコントラストを描く。そして、その高波のように押し寄せる虹色のサウンドの向こう側には、しかし、まだ「2010年代のロック/ポップ」の姿は見えてこない。楽しみまだまだこれからである。


(2010/04)


2012年1月のカセット・レヴュー(随時更新予定))