2011年11月23日水曜日

極私的2000年代考(仮)……「レコード盤中毒者の匿名トリオ」による即興考

3月下旬、先のテロ事件の影響で延期となっていたディスカホリック・アノニマス・トリオの来日公演が行われた。

「レコード盤中毒者の匿名トリオ」とはよく名付けたもので、メンバーのサーストン・ムーア、ジム・オルーク、フリー・ジャズ奏者のマッツ・グスタフソンは3人とも無類のレコード・コレクター。しかも結成の目的は「レコード屋が充実している街を旅しながら演奏すること」……冗談のような話だが、しかしそうして音源を掘り続け得た様々な意匠が彼らの創作をインスパイアし、ラディカルかつ独創的なサウンドを生みだしているのだと、今宵のライヴは証明していた。


●ストロークスってどう思います?

サーストン(以下T)「すごい、かわいいんじゃない。もし、ぼくが少しでも若ければ、食っちゃってたかも」


●(笑)音の方はいかがでしょうか。

T「ちゃんと聴いたことないんだ、実は。テレビでちらっと見たことあるし、あとストロークス好きも周りにいるんだけど。でも、なんだろう、ちょっと使い捨てポップスって気もするけどね。まあ、使い捨ての音楽は好きだから、別にいいんじゃないの。批判するつもりはないし、ザ・ストロークスがやりたいこともわかるし。ただ、個人的には熱狂するような音楽じゃないよね」


●そうですか。

T「ニルヴァーナの方が良かったよ(笑)」


●(笑)。他にニューヨークで活きのいいバンドはありますか。

T「うん。最近ニューヨークのバンドが結構注目を浴びるようになったよね。ストロークスはもちろんのこと、ヤー・ヤー・ヤーズってバンドも人気あるし。あと、ちょっと毛色は違うけどブラック・ダイスとかいて。今はニューヨークで活動してるけど、ロードアイランド州のプロビデンスのバンドなんだ。あと、それに近いバンドでライトニング・ボルトっていうのも気に入ってる」


●ブラック・ダイスとライトニング・ボルトは1月頃に一緒に来日してましたよ。

T「そうだったんだ。良かったでしょ?」


●ええ。

ジム(以下J)「うん、ブラック・ダイスはいいバンドだよ。ライトニング・ボルトもね」

T「その2つはどっちかっていうとノイズっぽくって、ちょっとマニアックな感じで、ヤー・ヤー・ヤーズとかはもっとわかりやすいパンクなポップなんだよね。あと、まだちゃんと聴いてはいないんだけどライアーズっていうバンドの評判も結構いいらしい。最近ニューヨークから出てくる若いバンドってみんな要領がいいんだよね」

J「でも、ニューヨークでこいつら(とストロークスを指す)のことを知ってる人はいなかったじゃん」

T「そうそう。それがストロークスの面白いところで、彼らのプレス・エージェントはかなりのやり手で、アルバムが出てもないっていうのに、イギリスとかヨーロッパでは『ニューヨークからの新星、ザ・ストロークス』みたいな感じで煽りたててさ。でも、実際にニューヨークでザ・ストロークスの存在を知ってる人はいなかったっていう。実は2ヵ月前、ジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンのラッセル・シミンズと『ストロークスって誰なの?』って話をしてたばかりなんだよね。同じニューヨーク出身ってことでしょっちゅうストロークスについて聞かれるんだけど、お互い誰のことなのかさっぱり分からなかったんだ。なにしろ1年前には存在してなかったバンドなんだから」

J「そうそう、スペインに行ったときも、インタヴューされる度に聞かれたんだけど、答えようが無かったんだよね」

T「でも、やっとその正体がわかったんだ。ストロークスはまさにニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックだよ」


●(笑)。

J「そう言えば、日本ではどっちのジャケットを使ってるんだっけ?」


●お尻のやつ。

J「そうなんだ。アメリカは違うよね」

T「アメリカではサイケがかったジャケットだよ」

J「そうだった」

T「でも、ストロークスっていまだにちゃんと聴いてないんだ。この前、お店で流れてたんだけど、なんだろう……。みんなはヴェルヴェット・アンダーグラウンドとテレヴィジョンを混ぜた感じだっていうけど、ぼくはそうとは思わないなあ。まあ、すごく洗練されてるっていうか、ある意味、狡猾にさえも感じるよね。でも、レッド・ホット・チリ・ペッパーズとかオアシスとかプライマル・スクリームのゴミ音楽よりかはマシなんじゃない」


●(笑)。

T「あとコーンとか、ウィーザーとか、ぜ~んぶ最低だぁ~」


●(笑)。

J「(手もとの音楽誌を見ながら)シャーラタンズの人って見付かったんだっけ?」


●失踪したのはマニック・ストリート・プリーチャーズですよ。

J「そっか(笑)」


●ニューヨークの若いバンドと交流があったりするんですか。

T「うーん、ある程度はね。でもぼくたちってもう古株なんだよ。だから、別にシーンと密接な関わりがあるってわけじゃないんだ。もし、そういうバンドと交流することがあるとすれば、それはたまたま一緒にライヴをやったりする時ぐらいで。例えば、ロサンゼルスでオール・トゥモローズ・パーティーズをやったばっかりなんだけど、あれは若いバンドと接するいい機会だった。ブラック・ダイスとかさ、ぼくにしてみればまだキッズって感じで。普段だったら、あまり仲良くならないかもしれないよね。なにしろ、オヤジだからさ、ぼく」


●(笑)。

T「だから、みんないい連中なんだけど、特に仲が良かったりするわけじゃないよ」


●マッツもロック・バンドを聴いたりするんですか。


マッツ(以下M)「ロックしか聴かない」


●(笑)そうなの。

M「買うのはジャズのレコードばっかりだけど、聴くのはロックだけ」

J「ひゃははは」


●(笑)若いジャズの即興のミュージシャンはいたりするのでしょうか。 日本にはあまりそういう情報が伝わってこないんですけど?

M「え、それってどこのこと?」


●スウェーデン。

M「うんうん、いっぱいいるよ。その話だったらもう延々とできるから。ちょっと前までは、ぼくとか一握りの人しかインプロヴィゼーションをやってなかったんだけど、最近は若い世代のミュージシャンも増えてきて。しかも、最近の連中はロック・シーンやクラブ・シーンから出てきてるもんで、ジャズが主体のミュージシャンばっかりの時代に比べてかなり多様性があるシーンになったんだよね。だからちょっと前に比べて、盛り上がってるし、すごく刺激的だよ」


●なるほど。では、ここでディスカホリック・アノニマス・トリオについてお聞きしたいのですが、昨日のライヴはいかがでしたか。

M「買い物の時間を削られてしまった」

T「そうそう。本当はレコード屋を周ってるはずの時間だったのにさ」


●(笑)。

T「でも、まあ、ライヴ自体は良かったよ。実は昨日は3人で演る初めてのライヴだったんだ」


●そうだったんだ。

M「うん、まだこの3人ではアルバムを作っただけなんだ」

T「だから、昨日はどう転んでもおかしくなかったんだよね。思ったよりエレクトロニカルな傾向が強いライヴだったかも。でも、楽しかったよ。とにかく即興音楽なんだから、一つ一つのライヴを個性的なものにしたいんだ。自分たちだって実際にどういうサウンドだったのかはわからないわけだし」
M「そうだよね。でも、すごく上手くいったんじゃない? で、明日はまた全然違うものになってるはずだよ」


●録音したんですか?

T「うんうん。ライヴを録音したし、ビデオも撮った」

M「2週間後に12インチとしてリリースするつもりだよ」


●そうなんだ。

J「このグループは最も細かく記録された即興音楽集団になるはずさ」

M「(笑)そうなんだよね。ぼくたちが鳴らすサウンドは一つ残らず記録するから」

T「一音一音を金にしてやるんだ」

全員「(爆笑)」


●(笑)実際に音を出してる時はどういう精神状態なんでしょうか。昨日のステージを見てると、気持ち良さそうなんだけど、緊張感もかなりあるように見えたんですが。

T「そうだね、普通のロック・バンドでやってるのとはだいぶ違うよ。なにしろ決まり事が一切ないんだからさ」

J「時間の感覚もぜんぜん違うんだよね。普通の曲を演奏してる場合は、自分のやってることと、バンドのやってることに、集中力を分散することができるけど、インプロヴィゼーションの場合はすべてのことに終始、気を配らなきゃいけないわけだからさ」

M「そう、インプロヴィゼーションだと、いつ音楽の流れが変わってもおかしくないわけで、普通のバンドだとそういう不安はないもんね」

T「本当に自由なんだよ。だけど、自由である反面、それだけ責任もあるわけで。他のメンバーに迷惑かけないように、ずっと音楽に集中してなきゃいけないんだ。だから、緊張感が生まれるんだよ。他のメンバーとお客さんにとって常に刺激的なサウンドを奏でなきゃいけないわけだから」

M「テンションはいつだってあるんだ。ただ、そのエネルギーに自分が乗っかって盛り上がるか、そのエネルギーを他のメンバーに譲るかって感じで。すべてはコミュニケーションなんだよ」

T「(音楽誌のロジャー・ウォーターズの広告を指して)げっ。いつか、ストロークスの連中もこうなっちゃうんだよ。オッサンにね」


●(笑)結成の経緯はどんな感じだったんですか。

T「全員、レコード・マニアだから。3人でバンドをやって、レコード屋の充実してる色んな街で演奏するのが、ぼくたちの目的なんだ。そういう街じゃなきゃライヴはやらない。もちろん、音楽も重要なんだけど……。えーと、世界中のレコード屋を周る理由になるからね」

J「きゃはははは」


●(笑)それだけが結成の理由なんですか。

J「まあ、お互い他で一緒に演ったことはあるんだけど、この3人で集まって本格的に活動しようってなった時、ニュージャージーのど真ん中みたいに何もないところで演ってもしょうがないってことになって」

T「そう3人とも昔からの知り合いだし、ソニック・ユースや他のインプロヴィゼーションのセッションを通して、一緒に演奏することはよくあった。その上に、お互いが屈指のレコード・マニアだってことも知っていた」


●(笑)。

T「いや、マジな話、この3人はコアなレコード・オタクなんだよ。レコードを買う人は大勢いるけど、ぼくたちほどの人はなかなかいないって。ピーター・ブラウスマン(?)もリー・ラナルドだってレコード・マニアではない。確かにレコードを集めてるミュージシャンは他にもいるけど、ここまで極端なマニアは少ないと思うよ。マジで狂ってるんだから、この3人は」

M「それはこのツアーで必要以上に証明できたと思うよ」

T「そうなんだよ。だから、最初っからコンセプトはあったんだ。人前で演奏しながら、素晴らしいレコード屋がいっぱいある街を旅するっていうね。東京や大阪はもちろんのこと、ストックホルムとかにもこれから行く予定だよ」

M「でも、レコードってインスピレーションの源になるし、そういう意味でも、面白いんだ。今回のツアーは必ずしも買い物ツアーってわけじゃないんだよ。ぼくの場合はレコードを聴いて、それに影響を受けることが大切なんだ。なにしろ、ぼくみたいにラップランドみたいな所に住んでると滅多にライヴなんか見ることができないからね」

T「ぼくもライヴよりレコード聴いてる方が好きなんだ。だってライヴって、いつも混んでるし、隣のやつがタバコ吸ってたりするし……」

M「レコードだと、いつ何を聴きたいか自分で決められるからね」


●では、具体的な音楽のコンセプトがあったわけではないのですか。

M「音楽のことは話し合わなかったなあ」


●(笑)やっぱり、そうなんですか。

T「でも、トリオでインプロヴィゼーションに取り組みたかってのは元々あったよ。で、スウェーデンで3人でレコーディングをしたんだけど、それをリリースしようって決めた時、このプロジェクトのコンセプトを決めたんだ。つまり、レコードがいっぱい手に入るところでしかツアーしないってこと(笑)」

M「すぐ決まったよな、それ(笑)」

T「確かにどこでもライヴを演るインプロヴィゼーション・トリオでもよかったわけだけど、それよりか、しっかりしたルールみたいなのがあった方が面白いと思ってね」

M「あと、滑り出しが絶好調だったっていうか、スウェーデンでレコーディングした直後、3人でそのままバスでコペンハーゲンに行ったんだけど、そのバスがいっぱいになるほどレコードを買い漁ったんだよね(笑)。素晴らしかったなあ、あれは」

T「そうそう、コペンハーゲンにはかなりいけてるレコード屋が何軒もあるからさ。それがキッカケとなってこのグループはレコードを死ぬほど入荷できるところじゃないと、演奏しないっていうコンセプトが生まれたんだ。そうじゃない場所では、オファーがあっても断ることにしたんだよ」

M「その通り」


●普通の音楽にはない即興演奏の魅力とは3人にとって何なのでしょうか。

T「その前に、こっちから質問したいんだけど、売りたいレコードある?」


●いやいや。

T「そうなんだ。わかった。でも、即興音楽の魅力とはって聞かれても。えーと、昔、デレク・ベイリーが『みんなが即興音楽に熱狂しないのが理解できない。これほど魅力的な音楽はないのに』って言ってたけど、本当にその通りなんだよね。まったく展開の予想できない音楽だし、ミュージシャン同士のインタラクションを観察できて、面白いし。で、インプロヴィゼーションっていわゆる“ジャム”とは違って、ノリだけで演奏してるんじゃないんだよね。演奏に全神経を集中させて、まさにインプロヴァイズしてるんだ。それって本当に面白いことだと思うし、このスタイルがあまり人気ないのはぼくも不思議だよ。だって、即興音楽こそ人生に最も忠実な音楽っていうか。だって人生っていくら整理しようとしても、結局は予想不可能な要素にしょっちゅう左右されてるわけだから。そういう意味で即興演奏は人生にすごく似てるんだよね」

M「もう一つ引用を使わせてもらうけど、イスラエル人の作曲家とサックス奏者のドワーラー・ワイラー(?)が『自由で自立した演奏、または自由で自立したリスニングは、自由で自立した思想に繋がって、それは自由で自立した活動に繋がる』と言ってたんだよね。サーストンにこのプロジェクトの話を聞いた時、すごくそれがぴんときて。アートも文学も美術もパフォーマンスも、すべてがそれに繋がってるんだと思う」

J「ぼくは単純にジャムりたいだけ(笑)」

M「(笑)なんか、違うなあ~」

T「そう、こいつは女にもてたいだけなんだよ」

J「(笑)あまり知られてないらしいけど、インプロヴィゼーションにはいい女が寄ってくるんだよ」


●(笑)マッツは元々ジャズから即興音楽の世界に入ってきたってことですけど、サーストンやジムはこういう音楽に興味を持つキッカケになった作品はあるんでしょうか。

J「ぼくだってインプロヴィゼーション畑の出身だよ。そもそもマッツと出会ったのは、1990年にロンドンで開催されたデレク・ベイリーのフェスティバルにお互いが出演したからなんだから。で、そのデリック・ベイリーの音楽こそ、ぼくが即興音楽に興味を持つようになったキッカケだったんだ。高校の先生が、実は牧師で、何でだか知らないんだけど、すべてのジャンルの音楽から各1枚、アルバムをピックアップしたコレクションを教室に置いてて――」

T「すごいな、それ」

M「(サーストンに)この話、聞いたことある?」

T「いや、初めて聞くよ」


●(笑)。

J「その頃はジャズに興味があったんで、色々と教えてもらってさ。ある時、アンソニー・ブラクストンのアルバムを貸してもらったんだけど、先生はあまり気に入ってなかったらしいんだ。でも、ぼくは他のものに比べてかなり気に入っちゃって。そのアルバムを軸に自分の好みを言ってみると、今度はジョン・ケージのアルバムを貸してくれて、それがまた、かなりの衝撃でさ。だから、そういう音楽にすごく興味が湧いて、図書館で色々と調べてみたんだ。そしたら、『ローリング・ストーン』誌のアルバム・ガイドみたいなのにジョン・ケージの『インデターミナンシー』のアルバム評が載ってて、何故か5ツ星だったんだよね、ロック誌だっていうのに(笑)。その記事にデレク・ベイリーの名前があって、すぐにその名前の正体を探ったんだよ。なにしろ、その頃は狂信的にそういう音楽を追求してたからさ。その図書館でデレク・ベイリーとデイヴ・ホーランドが一緒にやってるアルバムを探したんだけど、そのアルバムこそぼくが求めてたもので。昆虫としか思えないような音が延々と収録されてるんだよね。クチャクチャクチャって感じなんだけど、『これメチャクチャいけてる!』って思って。その頃は、即興音楽の概念なんか全然なくて、ただ、ひたすらデレク・ベイリーの音楽を聴きまくってただけなんだ。それから、そういう音楽のルーツも探るようになったんだよね」


●そうなんだ。それって高校時代の話なんですよね?

J「そうだよ。あと、フランク・ザッパの影響も大きかったよ。ザッパの自筆ライナー・ノーツとかを読むと、インプロヴィゼーションの話とかがよく出てきたから、興味が湧いたってのもある。だけど、その頃は、フリー・ジャズだとか、インプロヴィゼーションだとか、識別してなくて、全部を同列のものとして聴いてたんだよね。こっちのほうがこっちよりウルサイって程度で(笑)」


●(笑)。サーストンはどうだったんでしょうか。きっかけになった作品かアーティストはありましたか。

T「んー、恐らくデレク・ベイリーのライヴを見た時になるかなあ。それまでは、ジョン・ゾーンの世界を通して即興音楽の存在とかは知ってたんだけど。ジョン・ゾーンがやってたザ・セイントっていうライヴハウスがあって、たまに行ってたんだけど、あまり興味は湧かなかったんだよね。なんか、髭のオッサン達が難解ことやってるって感じでさ。それよりか、リディア・ランチとか、グレン・ブランカとか、身近な人達がやってた実験音楽のほうが面白かったんだ。だからインプロヴィゼーションのことはなんとなく分かってたんだけど、いまいち理解できてなかったんだよね。本格的にそういう音楽を追求し始めたのは、ジャズを聴き出してからなんだ。奥さん(※キム・ゴードン)がすごくジャズが好きで、(ジョン)コルトレーンとかアルバート・アイラーを紹介してくれて。それからバード(チャーリー・パーカー)やレスター(ヤング)とか、ジャズのルーツを探るようになって、ジャズの歴史やアーティストの人脈を理解するようになったんだ。そうなったら、もう本格的に面白くなってね。『最近はどんどんジャズそのものから離れて、レーベルだとかそういう関係性ばっかりに集中しがちだ』ってブラウッツマン(?)が言ってたけど、ぼくも実際に音楽そのものよりかは、ムーヴメントの方に興味があったんだよね。そういうミュージシャンから、自分たちで伝統を作り上げてるっていう意志を感じて、パンクなんかよりずっとアンダーグラウンドで、過激に思えたんだ。実はその頃、デレク・ベイリーのアルバムを一枚通して聴くほどの忍耐力が自分にあると思わなかったんだよね。でも、ある時ライヴを見に行って。人が全然入ってない小さなクラブで、ポール・モーションと演ってて――」

M「それって2人だけで?」

T「そうだよ。そのライヴは本当に衝撃で、今まで聴いたことないくらい崇高で、洗練された音楽を耳にしたんだよね。同時に革新的で、過激だったし。そう言えば、そのライヴでポール・モーションがドラムをセッティングしてたら、PA担当がドラムにマイクをつけ始めたんだけど、ポール・モーションが『余計なことをするな!』っていきなり怒鳴り出してさ。びっくりしたよ。どうやら、アンプとドラムと、オーガニックなサウンドだけを使って演奏したかったらしくて、それ以外のサウンドの操作はマジで嫌がってたんだよね」

J「伝説的なライヴじゃん、それ。その2人が一緒に演ったのって、その時だけだよ」

T「そうなんだよね。アラン・リヒトも客席にいたよ」

J「(ヘンリー)カイザーもいたはずだよ」

T「そうなんだ。でも、とにかく、その時点では、最高に衝撃的なパフォーマンスだったよ。それまでも、かなり凄い音楽を体験してるはずなのに。だから、あのライヴのおかげで、インプロヴィゼーションの世界のことをもっと知りたくなって、あと、ミュージシャンとしてもすごく興味を持つようになってさ。でも、前から正しいギターの弾き方なんか知らなかったから、基本的にはずっとインプロヴィゼーションしてたようなもんなんだよね。どっちかっていうと、ノイズとかに傾倒してたかもしれないけど。ノイズをインプロヴィゼーションだと認めない、トラディショナルな即興音楽家はいるかもしれないけど、ぼくはそうだとは思わない。あの、ルーマニアの作曲家、えーと――」

J「ドゥメトリスキオ(?)」

T「そうそう、ドゥメトリスキオなんか、『最近一番面白いと思う音楽はアンダーグランドのノイズ・バンド』って言ってたくらいなんだから。本当にその通りだと思うよ。別にノイズ演ってる連中だって、適当にやってるわけじゃないんだし、れっきとしたミュージシャンなんだからさ。だから、ぼくにとって、そういう革新的なサブ・ジャンルには基本的に同じような雰囲気が漂ってると思うんだ。今でもそうで、別に自分たちがやってるのがデレク・ベイリー流やメルツバウ流とかじゃなくて、全部が繋がってる感じなんだよ」

M「レコードのおかげでね」

T「そう、レコードのおかげで」


●音楽じゃなくても、50年代のビートニクの文学や詩の影響はあるのでしょうか。

T「ていうか、ビートニクの詩人がジャズ即興に影響されたことはれっきとした事実んなんだからさ。だから、別にビートニクの詩人だけが、ああいう表現をしてたわけじゃないんだ。確かにアメリカのビートニク達が、あのスタイルを人気にしたってのはあるけど、別に連中が始めたムーヴメントじゃないんだよね。ただ、ジャック・ケルアックの凄いとこは、まるでスリム・ゲイラードみたいに独奏してる感じで小説を書いてたことなんだよね。だから面白いことにケルアックってアメリカではいまだに異端扱いされてるんだ、あんなにメインストリームにおける評価が高いっていうのに。まあ、へミングウェイじゃないってことだよね(笑)」


●(笑)。そういう文学にインスピレーションを受けることはありますか。

T「うん、好きだし。ただ、あまり過大評価したくないんだよね。ビートニクって戦後、自分たちの力でカルチャーを作り上げて来た人たちなんだ。その頃のアメリカが、覆い隠そうとしてたものを曝け出し、それを表現してたんだよね。つまり不満とか疎外感を表現してたんだよ。だけど、文章そのものはクラシックなスタイルに基づいてて、洗練されてたんだよね。ビートニクが聴いてる音楽もすごく過激で、革新的だって言われてたけど、実はアフリカにルーツを持つすごく洗練された音楽だったっていう。だけど、うん、ああいう文学には影響を受けたよ」


●そうなんだ。3人とも他のプロジェクトを色々とやってますが、その中におけるディスカホリックの位置付けは? 他のプロジェクトと互いにフィードバックするものなんでしょうか。

J「まあ、そりゃあ、それぞれのプロジェクトから学ぶものはもちろんあって、プロジェクト同士も共通する点はあるわけで。以前に体験したシチュエーションをまた上手く利用してるっていう感じなんだ。インプロヴィゼーションにしても、他のメンバーと演った時のことを参考にして、新たなメンバーと挑むわけだし。だから、ぼくの場合は、いちいち一つ一つのプロジェクトを線引きするようなことはないんだ」

M「ぼくだって、そうだよ。全部のプロジェクトはぼくの中で繋がってるんだ。それこそ、さっきのビートニク詩人の話じゃないけど、自分からそういう刺激を求めて活動してるわけなんだから、何をやっても自分の大事な一部になるんだよ」

J「そうそう、何においても活動とはそういうもんなんだよ。レコード漁りにしても、自ら面白いものを探すためのわけで。別に他の人にこれは面白いと言われたレコードを探してるわけじゃないんだ。もちろん、他人にレコードを勧められることは歓迎するけど、基本的には自ら積極的に探してるわけで」

M「終ることのない旅っていうか。全てが全てに繋がっていて、一つのことから新たな発見があるんだよ」


●ということは、ディスカホリックはただ単にレコード収集の旅じゃなくて、音楽的にも何か得るものはあると思いますか。

全員「もちろん」


●サーストンは何か付け加えたいことありますか。

T「すべて、いい~か~ん~じ~」


●(笑)。

T「いや、でも、もちろん楽しいと思えるプロジェクトはあるし、後悔したプロジェクトもある、ごくたまにだけどね。でも、一日の時間が少なすぎると思うほど、やりたいことはいっぱいあるんだ。本当に短すぎるよ。なにしろ、まだ買わなきゃいけないレコードが死ぬほどあるんだから」


●(笑)。

T「レコード収集ってかなり時間がかかるんだよね。しかも、そのために実際に音楽に取り組んでる時間が制限されちゃうっていう」


●聴くのも大変そうだし。

T「うん。それと整理するのもね。これが一番、時間を食う作業なんじゃないかなあ」

M「そうそう。話してるだけで気が遠くなっちゃうよな」

T「本当に何時間もかかるんだよ。でも、いつだって音楽のことは考えてるって(笑)」

J「そうそう、新たに買ったレコードを聴きながら、前に買ったレコードを仕分けるっていう」

T「へへへ、そうなんだけど。でも、色んなプロジェクトに誘われるんだけど、結構断らなくちゃいけないことが多いんだ。本当はできるだけ多くの人達と演りたいから、ウンザリするんだけど、しょうがないんだよね。もう独身じゃないからさ。家族に対する責任も果たさなきゃいけないんだよ」

M「でも、それだからこそ、さっきのように自分の決断っていうのも、すごく積極的じゃなくちゃいけないんだよね。優先順位を付けて、一番やりたいことに専念するっていう。そうじゃなくちゃ、やってられないよ」

T「そうだよね」


●では、最後にこの前終ったばかりのオール・トゥモローズ・パーティーズについて聞きたいんですけど――

M「(ATPのTシャツを見せ付けて)最高だったよ」

T「マジで楽しかったよ。本当に上手くいったと思うんだけど。で、何が知りたいって言うんだよ、君?」

全員「(爆笑)」


●(笑)いや、今回のラインアップはヒップホップとか電子音楽の最先端のアーティストがいたのと同時に――

T「電子音楽なんかあったっけ?」


●エイフェックス・ツインとかフェネズとか……

T「フェネズは出演しなかったよ」


●そうなの?

J「うん、無理だったんだ」


●あとピータ・レバーグは?

T「でも、ピータって電子音楽とは思わないよ」

J「フェネスもね」


●まあ、そういう新しい音楽と同時にジェラルド・マランガやアンガス・マクリーズが出演したことが――

T「おいおい、アンガス・マクリーズは死んでるぞ。もう70年代にとっくに死んだって」

J「はははは」

●ああ、すいません、トニー・コンラッドと間違えました……

T「トニーは最高だったよ」


●あとテレヴィジョンも。

J「テレヴィジョンは出てたよ」

T「テレヴィジョン? うん、良かったよ。ていうか、全部良かったよ。ぼくたちだって、あまりにも色んなミュージシャンが集まったもんで、どうなるか予想できなかったんだけど、みんな最高のパフォーマンスだったね。みんなリラックスしてたし、うざったいロック・スターのエゴみたいなのは皆無だった。マネージャーやエージェントやレコード会社の連中とか、そういう業界人はまったくいなかったんだ。だって、呼ばなかったもん」

M「本当にいい環境だったよなあ」

T「だから、アーティストがアーティストのために演ってるって感じで。みんなお互いのアートを尊敬していて、フェスにありがちないざこざとかなくてさ。面白いことだよね、それって。別にぼくたちはみんなにそういう態度を強制したたわけじゃなくて、自然とそういう雰囲気になったんだよね。で、音楽も最高だったから」


●ラインアップはサウーストンが選んだんですか。

T「そうだよ。すごく大変だったんだよね。だって、4日分のアーティストなんか、1年あっても選べないって。あと、ギャラもそんな払えるわけじゃないし。テレヴィジョンとかセシル・テイラーは伝説的な存在なんで、それなりのお金を払ったけど」


●何かコンセプトがあって組んだラインアップだったのでしょうか。

T「まあ、“いい音楽”を披露したかったってことだよ。確かに出演したミュージシャンは仲の良い連中が多かったけど。でも、それは音楽も好きだからなんだけどさ。もちろん、初対面のアーティストもいたよ、アレックス・チルトンとかね。だけど、全員、尊敬してるアーティストだよ。例えば、N―シンク好きだったら、呼ぶことを躊躇するとは思わないんだよね」

J「なんじゃ、それ?」

T「いや、努力はしたと思うよ。それがコンセプトだったんだよ、真に好きなパフォーマーに出演してもらうっていうのが。だから、ぼくたちの理想フェスだったわけだよ。とはいえ、チケットを売ることも念頭に置いてるわけで、あまり無名なアーティストばっかり呼ぶわけにもいかなかった。フェスとして成り立たないからね。でも、別に人気あるバンドで好きなのは多いから問題はなかったよ。ニール・ヤングにだって声をかけたんだけど、CSN&Yで忙しかったから無理だったんだ。あと、ボブ・ディランとパティ・スミスも勧誘してみたんだけど。でも、みんな忙しかったから」


●なるほど。では最後にもうひとつ、ソニック・ユースの新作についてお聞きしたいのですが、もうレコーディングが終ったと聞いてるんですが。

T「そうだよ。『ムーレイ・ストリート』っていうタイトルなんだ。ニューヨークにあるスタジオがある通りの名前なんだよ。ジャケットはぼくが撮ったその通りの標識になるんだ」


●そうなんだ。

T「うそ。実はそれは裏ジャケになる。表はイチゴ狩りをしてる2人の女の子の写真になるはずだよ」


●音はどんな感じなんでしょうか。

T「んー、なんだろう。マウンテンっていうバンド知ってる?」


●えっ、あの太った人がいたハード・ロック・バンド?

T「(笑)そうそう、超太ったレズリー・ウエストが率いてたバンド。そのマウンテンとマグマ(フランスのプログレ・バンド)が混ざったようなバンド」


●マグマってなんか独自の言語を作ってたけど、もしかして英語じゃなかったりするんですか?

T「(笑)いやいや、英語だよ。うーん、だからマグマらしくはないかも。マウンテンのことも忘れて。えーと、どっちかっていうと、モット・ザ・フープルが――」

J「クロズビー・スティルズ&ナッシュ」

T「はははは。そんな感じかも」


●(笑)別にMが頭文字のバンドにこだわってるわけじゃないんですね?

T「(笑)いやいや。7曲あるんだけど、えーと、説明し難いな。全部、新曲なんだけど、前の何作よりかロックしてるっていうか」

J「オールマン・ブラザーズは好き?」


●(笑)オールマン・ブラザーズみたいなの?

T「そうそう、そんな感じ」

J「ぎゃはははははは」

T「わかんないなあ、どういうアルバムなんだろう? でも、きっと気に入ると思うよ。ぼくたちの音楽が好きじゃない連中はみんな気に入ってるみたいだし。いいアルバムなんじゃない。少なくとも、ぼくは好きだよ」


●いつリリースされるんでしょう?

T「7月だよ。日本じゃユニバーサルからリリースされるはずだよ」


●そう言えば、9.11事件はこのアルバムのレコーディング中の出来事でしたよね?

T「ああ、そうだよ。色々と大変だったよ。2ヵ月ぐらい作業を中止しなきゃいけなかったんだ」


●音楽は影響されたんでしょうか。

T「音楽? まあ、音楽が周りの環境に影響されるのは当たり前だからね。でも、このアルバムを聴いて、あの事件を思い出させるようなことはないと思うよ。もちろん、個人としてはすごく影響されたわけだし、ぼくたちだけに限らず音楽やアートを追求してる連中はみんな影響されてるはずだよ。それがあからさまじゃないとしても」

M「一部となるんだよね」

T「別にあの事件を見て見ぬフリをしたいわけじゃないし、あれを体験したっていうヴァイブは今作で聴き取れるかもしれない。ぼくたちのライヴを見た人もそれを感じたとか言ってたし。でも、別にメソメソしたアルバムじゃないし、どっちかっていうと楽天的で、前向きなアルバムなんじゃないかなあ」



(2002/03)

2011年11月11日金曜日

極私的2000年代考(仮)……ダニエル・ジョンストンとの対話

1980年代後半から90年代前半のアメリカのインディ・シーンをリアルタイムで体験したリスナーであれば、彼の偉大さについて、あらためて触れるまでもないと思う。カート・コバーンを虜にし、パステルズやヨ・ラ・テンゴ、バットホール・サーファーズやソニック・ユースといった同時代のミュージシャンから熱烈な支持を得たダニエル・ジョンストン。いびつだが愛と温もりにあふれた歌声とメロディに、今も多くのファンが魅了されてやまないSSWである。

一時は健康上の理由により、多作で知られる創作活動もストップしていたダニエルだが、前作『リジェクティッド・アンノウン』を機に再開。新バンドでの活動やジャド・フェアらとの共作をへて、先頃ニュー・アルバム『フィア・ユアセルフ』がリリースされた。そして今月末には、ファンにとって夢にまで見た初来日公演が行われる。しかもダニエルたっての希望により、今回は特別にピアノが用意されるそうだ。


●まずは一ファンとして、こうしてあなたに話を伺える機会に恵まれたことに心から感謝しています。

「うん」


●というのも、80年代後半から90年代前半のアメリカのインディ・シーンに音楽リスナーとしての原体験を持つ自分にとって、カート・コバーンやジャド・フェアやソニック・ユースと並んで、あなたは今も憧れの存在なもので……。

「へえ」


●さて。新作『FEAR YOURSELF』が先日リリースされたばかりですが、最近はどんな生活を送っているのですか? 

「えっと、でも、こっちでの発売はもうあと何週間か先なんだ。今、ようやく見本盤が届いてきてるから、もうすぐリリースできると思うんだけど…………それで、今、もうドキドキドキドキしてるんだよ。今度のアルバムはスパークルホースのマーク・リンカスのプロデュースにしてもらってて、出来にも本当に満足してるんだ……うん、だから、たくさんの人に気に入ってもらえるといいなって思ってるよ」


●じゃあ、今はプロモーションで大忙しってですか。

「うん。こないだも、ロンドンに行って帰ってきたばっかりなんだよ。ぼくとお父さんとでロンドンに行って、インタヴューだのフォト・セッションだので、まるでスター並みに忙しかったよ(笑)。それはそれで楽しかったんだけどね。うん、ロンドンは本当に楽しかったよ。買い物したり、観光したり、ビートルズゆかりの場所を訪ねたりしてね。道を歩いてるときも、『もしかして、ビートルズがここを通ったかもしれない』なんてドキドキしながら(笑)」


●プロモーションの後はツアーでまた忙しかったりするんですか。

「もちろん、ツアーもするし、そう、それに今回は日本にも行くんだよ! 今から本当に楽しみにしてるんだ。日本は、ぼくが今まで行ったどの国とも違ってるだろうし、きっとものすごく貴重な体験になるんじゃないかなあ……それに、日本ではピアノを弾くから、それも楽しみにね! 普通は、コンサートではピアノを弾けないんだけど、今回、ピアノが用意できることになって、今からすごく楽しみにしてるんだ。何しろ、初めての日本だし、今からドキドキしてるよ。本当はバンドも連れていけたらいいんだけど、それにはお金がかかりすぎるから、ツアーはいつもひとりなんだよね……うーん、でも、もしかして、来年頃にはバンドでツアーできるかもしれない。うん、来年こそ、きっと! でも、来年じゃなくても、いつかぼくがバンドと一緒にツアーできるくらい有名になって、バンドを連れて日本に行けるようになったら最高だよね」


●今回の『FEAR YOURSELF(己を恐れよ)』というタイトルには、どんな意味が込められているのですか? ジャケットの中にあるイラストには、「FEAR YOURSELF」という言葉と一緒に「LOVE YOUR ENEMIES(汝の敵を愛せ)」という言葉も添えられていますが。

「えっと、たとえば、誰かが何かをするときに……何かを達成しようとして一生懸命になってるときって、自分のことしか見えなくなりがちだよね。中には、自分は何をやっても許されるんだって思って、まわりのことなんかお構いなしに、自分のやりたいことだけをどんどんやっちゃう人もいるんだよ。ただ、僕が思うのは、何て言うか、もうちょっと……もうちょっと、自分の行動に気をつけたほうがいいよっていう」


●ちなみに、ジャケットのイラスト、今回の一連のアート・ワークのモチーフは?

「えーっと、あれはただ、ぼくが書き貯めたイラストの中から、お気に入りのを選んだだけなんだ。ジャケットになってるあのキャラクターも、キュートでかわいいなって思って……。実は、もともと別の絵をジャケットにする予定だったんだけど、レコード会社の人に『怖い』って言われちゃったんだよね。男が猛犬に囲まれて恐怖におののいてるっていう絵だったんだけど、レコード会社の人が『これじゃ、怖すぎるから』って言って、代わりに内ジャケに使う予定だったあのイラストをカバーにできないかって言ってきて、それで、あのおかしなキャラクターの顔がアルバム・ジャケットになったんだ。だから、あの絵は、レコード会社の人が選んだんだよ」


●あのキャラクターは、何を象徴してるんですか。

「というか、本当にただのイラストで、ぼくが子供の頃に好きだったTVアニメのキャラクターとか、要はディズニーのキャラクターみたいなものなんだけど……というか、ぼくが自分で発明したディズニーのキャラクターみたいなものなんだけどね(笑)。ジャケットのあのイラストも、もともとはあの黄色のモンスターが“アイ・ラヴ・エヴリバディ(ぼくはみんなが大好き)”って書いてある風船を持ってる絵だったんだけど、レコード会社の人が風船ははずして、モンスターの顔だけを切り取ってジャケットにしちゃったんだよ」


●へえ、もったいないですね。

「ふふふふふふふ、ねえ、残念だよね(笑)」


●あなたの描く絵には、キャスパーやキャプテン・アメリカといったコミックのキャラクターが多く登場しますが、彼らのどんなところに惹かれるのですか。 

「うん。っていうのも、子供の頃はずっとコミック作家になりたいと思ってて。それで、ヒマさえあればキャプテン・アメリカの絵ばっかり描いてたんだよ。だから、そのときの癖がいまだに抜けないのかなあ……それに、ぼくはキャプテン・アメリカと同じ、アメリカ出身だし……へへへへへへへ。うん、それにアメリカ人だから、もともとコミック好きなんだよ。ジョン・カービー(※キャプテン・アメリカの作者)が好きで、気がつくとジョン・カービーのコミック本ばかり買い漁ってたよ。キャスパーもぼくのお気に入りのキャラクターで、よく真似して描いてたんだ」


●絵を書き始めたのは何歳ごろから?

「えーっと、もうずーっと、ぼくの生涯を通じてだよ。小さい頃から、ヒマさえあれば落書きを描いたり、イラストを描いてたりしてたし……最近では、アート・ギャラリーで個展を開いたりもしてるんだよ。アメリカ中をくまなく廻ったし、それにヨーロッパにも行ったし。あと、インターネットで、イラストの販売もしていて、今ではイラストでも生計が立つまでなってるんだ」


●(『FUN』から)5年ぶりの新作となった前作『REJECTED UNKNOWN』を聴いたときにも感じたのですが、今回の『FEAR YOURSELF』を聴いて一番強く感じたのは、(ふたたび)歌をうたえることへのあなたのピュアな喜びです。90年代の終わり頃から数年、しばらく体調が優れない時期がつづいたと聞きますが、このアルバムには、あなたのどんな思いが込められているといえますか。

「うん、何て言うか、今、すごく調子がいいんだよ。前に比べてずいぶん楽になったし、いろいろ活発に動いてるんだ。ダニエル・ジョンストン名義のほかにも、ダニー・アンド・ザ・ナイトメアズっていうバンドをやってるんだけど、バンドで演奏するのがすごく楽しくてね。今回のアルバムも、バンドの空き時間に、自分の楽しみとして曲を書きはじめたんだ。そしたら、突然、マーク・リンカスとアルバムを作る話が舞い込んできて、ただ、そのときにはアルバム用の曲が全部出揃ってたっていう。自分でも、いつのまにこんなにたくさんの曲を書いてたんだろうって感じでね。しかも、レコーディングがまた楽しくて、もう興奮のしっぱなしだったよ。だから、ぼくとしては、ただただ楽しかったっていうだけなんだけど、それでも、アルバムはちゃんとできちゃったんだから、すごいよね。だから、きっと楽しんで正解だったってことだよ(笑)」


●もう大忙しですね。

「うん。でも、レコーディングがあるなしに関係なく、曲はいつも書いてるし、そうでなければ絵を描いてるから、結局、年中無休になっちゃうんだよ(笑)。ただ、一時期、曲も書かないし、絵も描いてない時期があったけど……でも、今では、曲を書いたり絵を描いたりすることで生計を立ててるし、これが自分の一番やりたいことでもあるんだよね。それに、お金がもらえれば、レコードを買ったり、コミック本を買ったりもできるしさ。ぼくは……100万長者とは決して言わないけど、(小声で)……10万長者なんだよ。(照れながら)そうだ、ぼくは10万長者なんだ!」


●あははははは。

「へへへへへへへ。うん、だって、マクドナルドの店員だった頃とは比べものにならないくらいお金持ちになったし。あの頃なんか、マクドナルドのバイト代が唯一の収入源だったんだよ? それが今ではさ……うーん、我ながら、大したもんだと思うよ。だって、86年から、仕事らしき仕事もしてないのに、こうして立派に生活できてるんだから、夢みたいな話だよ。ぼくにしてみれば、ものすごく大金持ちになった気分で……もう、『車でも買っちゃおうかな』っていうくらいの、『ついでに、今すぐガールフレンドも作っちゃおうかな』っていうくらい大船に乗った気持ちで(笑)。もしかしたら、両方手に入れられるかもしれない。そうでなくても、今、ほんとに幸せで、毎日が楽しくて、薬物療法もうまくいってるし、ようやく鬱状態からも解放されたんだ。ぼくは長いこと鬱病に悩まされてて、5年も鬱状態が続いたこともあったんだよ。それが、父さんがぼくのマネージャーになってくれてからは、徐々に回復してきたというか、父さんがいろんなお医者さんのところをまわって、ぼくに合う薬を探してきてくれたんだ。体調が良くなってからは、父さんと一緒にあちこち旅行して、ドイツや南アフリカにも行ったんだよ。ツアーもいっぱいやったし、ロスやニューヨークやロンドンみたいな大きな街でショウをやったりして、すごくいい経験になったよ。ツアーをしたり、曲を書いたり、音楽をやることが本当に楽しくて、自分がずっとやりたいって思ってることを、今ようやくできるようになったんだ。だから、出だしは遅れちゃったけど……っていうのも、ぼくがツアーをするようになったのって、ここ5年ぐらいのことだし。それでも、こうしていろいろやってることが、すごく楽しくて、子供の頃からの夢を、今になって実現してるような気持ちなんだ。スターでも、ミュージシャンでも、アーティストでも、肩書きは何であれ、なりたい自分に近づいてるような気がするんだよね。今は毎日が楽しくて、その上、こうしてニュー・アルバムまでリリースされるんだから、ほんとに恵まれてるよね。あとは、みんなが気に入ってもらえさえすれば……って、そのことばかり、日々祈ってるよ。しかも、新曲もどんどんできてて、毎日のようにレコーディングしてるし、自分のまわりでいろいろまわり始めてる気がするんだ。今度のアルバムは、本当にみんなに気に入ってもらえるといいと思うんだ。まだまだ続きがあるし、ぼくとしては、これからももっと、アルバムをリリースしていくつもりなんだよ。今でも新曲をいっぱい書いてるし、それから、前に自主制作でリリースしたテープも今度CDの形にして発表する予定もあるんだ。『Song OF Pain』っていう、もともとテープで出してた作品なんだけど、こないだCD化が決まって、レコード会社とも契約済みなんだ。それは2枚組みになる予定で、もうすぐにでもリリースできると思うよ。それに、ダニー・アンド・ザ・ナイトメアズのアルバムも出していきたいし……でも、ダニー・アンド・ザ・ナイトメアズは、ライヴ活動のほうが忙しくて、なかなかアルバムを作るまで手がまわらないんだけど、とりあえず、曲だけはいつも作ってるから、今すぐにではなくても、いつか実現できるといいよね。ただ、ぼくもメンバーも同じ町に住んでるから、スケジュールさえ合えばすぐにでも出せるかもしれない。だから、今、自分のまわりで、いろいろ動き始めてる感じなんだよね」


●ちなみに、その体調が優れない状態がつづいた期間は、どのような生活を過ごしていられたのですか。 多作で知られるあなたにしては珍しくリリースの間隔が空いたので、とても心配していたのですが。

「さっき曲を書いてない時期があったって言ったけど、それが今言った時期にあたるんだ……すごいよ、だって、3ヶ月もベッドに寝てたんだから。ベッドに寝る以外には何もしてなかったし、ものすごく落ち込んでて、ベッドから起き上がることすらしようとしなかったんだ。そしたらある晩、夜中に突然目が醒めて、“Devil Town”って曲を書き上げたんだ。それが、その一年間で書いた唯一の曲になるんだけど、それがのちの『1999』っていうアルバムに繋がってるんだ。それからしばらくして、抗うつ剤を飲むんだけど、飲んだ次の日にはベッドから起き上がって、母屋からピアノの置いてある家に行って、曲を書き始めたんだ。そこで出来たのが『1999』っていうアルバムなんだよ。だから、抗うつ剤と巡り会うまでは、本当に大変だったんだよ」


●今回のアルバムにも、“LOVE ENCHANTED”や“POWER OF LOVE”、“LOVE NOT DEAD”といった愛や愛するひとを歌った曲が収められていますが、あなたの書くメロディや歌声には常に愛や温もりが溢れているにも関わらず、実際に歌われる世界は、愛の喪失感や他者とのコミュニケーション不全を描いたものが多いですよね。もちろん、そうした葛藤や悲しみは誰もが抱える普遍的なものであるわけですが、なぜあなたの歌はとりわけそうした感情に強く惹かれてしまうのだと思いますか。

「うーん、わかんない、へへへへへへへへ、どうしてなんだろうね。でも、ミュージシャンはみんなラヴ・ソングを歌ってるからさ。ラジオから流れてくる曲の半分はラヴ・ソングだと思うよ。今、きっと、ラジオをつけたら、♪オー、マイ・ラ~ヴ、ラ~~ヴ、ラ~~~ヴ、ラ~~~~~って流れてくるはずだし(笑)、それと同じで、ぼくがギターを弾きだしたら、♪ラヴ・ユア・ベイビ~、オール・ナイト・ロング~ってなっちゃうんだよ(笑)。誰かが歌をうたい始めたら、6割方がラヴ・ソングなんだよ。だから、曲を書いたらどうしたってラヴ・ソングになるというか、ラヴ・ソングを書かないでいることのほうがかえって難しいのかも……うーん、でも、君の言ってることの意味もわかるよ。ぼくもラヴ・ソング以外の曲を書こうとしてるんだけど、どうしてか最後にはラヴ・ソングになっちゃうんだ。努力はしてるんだけど、すごく難しい……どうしてなのかなあ……ははははは。ピアノの前に辞書を置いておいて、“ラヴ”って言葉が飛び出してきたら、パッと辞書を開いて別の単語を探したほうがいいのかもしれない(笑)」


●これはあくまで想像なのですが、あなたは自分の感情や思いを曲(または絵)にすることによってはじめて素直に相手に伝えることができるタイプなのではないでしょうか。

「うーん、でも、曲を書くのって、ぼくにとっては一種のセラピーみたいなところがあるんだよね。曲を書くことで、わかってくることもあるし、いろいろ考えるし……うーん、あと、映画を作ってるような気分にもなる。ぼくが映画スターにでもなって、音楽にのって♪ジャーンって登場して、『今日はこういうこと言うぞー』みたいな(笑)。だから、映画や小説を作るみたいに自分でストーリーを作り上げてる部分もあるんだけど、それと同時に、自分でもわからない部分があって……もちろん、書いてるのは自分なんだけど、でも、書かされてるっていうか……自分で曲を書きながらも、どこに向かってるんだかわからない。えーっと、だから、たとえば、ここでこういう音が鳴って、次にこういう展開が来るってときに、ぼくのほうが曲に合わせていってるっていうか……ある意味、ゲームをしてるみたいな感覚に近いのかな。いや、ゲームじゃないな……だからって、チャネリングみたいなものでもないし…………えーっと、だから、イラストを描くときと同じかもしれない。何も考えずに、ただ思いつくままに手を動かしていって、あっちこっち寄り道して、最後にはひとつの作品が完成するっていう。だから、曲を書く場合でも、まずはピアノを弾いてみなくちゃ始まらないっていうか……ぼくが曲を書いてるのって、ピアノに頼ってる部分がすごく大きいと思うんだ。実際、ピアノで曲を書くほうが、イラストを描くよりも簡単なんだよね」


●絵を描く場合と曲を書く場合とでは、やはり違った充足感が得られるものですか。 それとも、絵を描くことと曲を書くことは、あなたの表現の中で切っても切り離せない関係なのでしょうか。

「うーん…………でも、結局のところ、ぼくにとって、歌も絵も同じなんだよね。アルバムにはいつもぼくの絵を使ってるし。たしかに、イラストのほうも売れてるんだけど、でも、自分のお気に入りの絵は、いつも手元に残して置いて、アルバム用に使うことにしてるんだよ。それで、お気に入りのイラストの中から、アルバムの中身に合うのをいくつかピック・アップして使ってるんだ。だから、お気に入りの絵はアルバムに使うからって言って、売らないで自分用に取っておくんだよ。だから、すごくおかしな絵が描けたときには、『あ、これはあの曲に合うな』って、いろいろ考えたりしてね。ふふふふふふ」


●ヨ・ラ・テンゴやパステルズ、バットホール・サーファーズやソニック・ユースの面々、そしてジャド・フェアや今は亡きカート・コバーンなど、あなたの音楽のファンを公言するミュージシャンは尽きないわけですが――。

「ビートルズも、ぼくのファンなんだよ(笑)」


●(笑)、ご自身では、あなたの音楽のどんなところが彼らを惹きつけてやまないのだと思いますか。

「うーん、それは何て言うか………………ふーむ…………ぼくって歌と伴奏がちょっとズレてて、それがおかしいのかなあ……うん、おかしくて、シリアスで、でも、じーっと聴いてると、うたの中に込められた気持ちとか、ユーモアとかがじわっと滲み出てきて、それが聴く人にとっては楽しいんじゃないかな。うん、なんか、そんな感じ……きっと、何かあるんだろうね。ぼくにはわからないけど、何かあるんだよ。でも、ぼくにはそれは何なのかわからないんだ。はははは」


●自分で自分の曲を聴いてても、そういう気持ちになったりしますか。

「うん、ぼくも自分の曲はすごく好きだと思うんだ。それに、アルバムを作ること自体が好きで、いつもいつも次に出すアルバムのことばかり考えてるんだ……うーん……うーん……えーっと、そう言えば、85年のことだけど、地元のテキサス州オースティンで、ベスト・ソングライターに選ばれたことがあるよ。あははははははは。それから、92年だったかにも賞をもらったよ。そのときも、やっぱり、テキサス州オースティンの代表としてね(笑)。でも、それも今となっては、ずいぶん昔の話だよ。だって、ダニエル・ジョンストンという人はもうすでに死んでしまったんだから……」


●へ?

「いずれにしろ、ぼくの曲が好きな人もいれば、好きじゃない人もいるってことで、ぼくにはよくわからないよ」


●聞くところによると、10代になるかならないかの頃にはすでに作曲をされていたそうですが、いつ頃から、曲を書き始めたんですか。

「今みたいに、ちゃんとテーマを絞って曲を書き始めたのは、80年頃なんだ。ただ、その前から努力はしてたんだよ。ビートルズの曲をお手本にして、なんとか自分でも曲を書こうとしてね。そんなとき、たまたまある女の子と出会って、その子のボーイフレンドも音楽をやってたんだけど、ぼくはその子のことがすごく好きで、彼女のためにピアノで曲を書いたんだ。そしたら、その子がぼくに『(女声で)あなたの曲のほうがずっと上手よ』って言ってくれて、それからは朝から晩まで一日も欠かさずピアノに向かったよ! ぼくはその子のことが本当に好きで、ぼくにとって永遠の理想の女性なんだけど、その子のためにピアノに向かって曲を書いて、ダニエルと言えばピアノっていうくらいピアノばっかり弾いてたんだ。止めようと思っても、指が止まらないんだよ。ぼくにもどうしてかわからないんだけど、あのとき、その女の子の魔法にかかかっちゃったんだね。ほんとに、獲りつかれたようにピアノに向かって曲を作り続けて、そんな状態が3年ぐらい続いたのかなあ……そのあと85年に、ぼくの住んでるテキサスのオースティンに、MTVが取材に来たんだよ。それが、ミュージシャンとしての転機になるんだけど、今でもぼくの人生のハイライトなんだ……ふふふふ、だってさ、80年に曲を書き始めて、5年後の85年にはもうMTVに出演を果たしたんだからね、これはなかなかの出世だよ(笑)。へへへへへへへ……で、MTVに出演を果たしてから3年後に、ようやくメジャー・デビューを果たしたんだ。レコード会社と契約が決まるまでの3年間を振り返ると、よく続いてたなって思うんだけど、実際、すごく大変だったし、苦労もあったし……もちろん、音楽は作り続けてたんだけど、それでもずっとアンダーグラウンドのままだったしね。それでも、今ようやく、こうして成功を手にして……いや、成功まではあともう一歩かな(笑)。もうちょっと、がんばらないとっていうふうには思ってるんだけど……うん、いつか。いつか、ぼくも成功するといいんだけどね。うーん……でも、そのためには、まずは技術的な課題をクリアしていかないと……もっとこう、プロの何恥じない音を出せるようにならないとと思ってて……そのへんのプロ意識はちゃんとあるんだよ」


●はじめて書いた曲を覚えていますか。 それはどんな曲ですか。

「うーんと、今までにも曲はたくさん書いたけど、最初に作った曲は、ピアノで作ったインストゥルメンタルで……あとになってタイトルをつけたんだけど“Dead Dog’s Eye Balls’ Theme(死んだ犬の目玉のテーマ・ソング)”っていう曲なんだ」


●それって、悲しい歌ですか。

「そうなんだよ。ははははは」


●そのとき飼ってた犬が死んじゃったとか。

「いや、タイトルは、ビートルズの“アイ・アム・ザ・ウォレス”の歌詞に、“死んだ犬の目玉”って言葉が出てきて、そこから拝借したんだけど。でも、最初にこの曲のアイディアを思いついたのは、5歳か6歳とか、そのくらいのときなんだけど、曲の形にするのに何年もかかって……というか、実はいまだに取り組んでるんだよ。だから、はじめて書いた曲なんだけど、まだ完成してないんだよ。はははははは」


●曲作りのインスピレーションは、どんなものから得ているのですか。

「ビートルズだね。うん、一番のインスピレーションはビートルズかな。それから、聖書に、お気に入りの映画に……うん、好きな映画とか、ぼくの好きなもの全部が、ぼくにとってのインスピレーションだよ。えーっと、そろそろお別れしなくちゃ。このあと、またレコーディングをしなくちゃいけないんだ」


●最後に。今年6月にLAで行われるオール・トゥモローズ・パーティーズに出演されるそうですね。これはどういった経緯から? 主催者が『ザ・シンプソンズ』の生みの親であるマット・グロウニングであるというのも関係しているのでしょうか。

「えーーーーーー!! マット・グロウニングも、観に来てくれるって!? それ、本当?」


●だって、彼が呼びかけてるイベントだから。

「ぼく、『シンプソンズ』は大好きなんだよね! へえ! マット・グロウニングが観に来てくれるんなら、体調を整えて、何が何でも演奏しに行かなくちゃ。えーっと、今日は話を聞いてくれてありがとう。日本でまた会おうね!」


●最後の最後に。今のあなたにとって「FUN(※94年のアルバム・タイトル)」と「WISH(※今作の収録曲のタイトル)」とは何ですか。

「“FUN”ねえ……ぼくが楽しいと思うことだよね……うーん、なんだろう……ぼくはまだ本当の楽しみっていうものを知らないんじゃないかって気がするんだ。ぼくもとにはまだ訪れていないっていうか……えーっとだから“FUN”=“未来”ってことになるのかな。楽しみは未来まで取ってあるんだよ。それがぼくの夢かなあ……いつか、富と名声を手にして、初めて本当の楽しみを知るのかもしれない。だから、ぼくにとって“FUN”=“未来”だね。それから、“FUN”=“ピース&ラヴ”でもあるかな」


●あなたにとって“WISH”は?

「すべての人にとって平和が訪れますように」



(2003/2)

極私的2000年代考(仮)……電子音楽は“夏”に思いをはせる――フェネスとの対話

1995年にウィーンのMEGOよりデビューして以来、ソロ、ユニット(ジム・オルークらと組んだフェノバーグ)、プロジェクト参加(MIMEO)などさまざまな形態で数々の傑作を発表し、現在の進化/深化を見せるエレクトロニック・ミュージックを象徴する一人として評価を得るフェネス。なかでも2001年発表の『エンドレス・サマー』は、従来的なエレクトロニック・ミュージックへの先入観を覆す、新しい「何か」の誕生を感じさせる画期作だった。

繊細に練り上げられた電子音の層はエモーションに溢れ、昂揚感と抒情性を喚起する美しいメロディーが、その背後をゆっくりと漂い流れていく――。そこには、彼いわく「ソフトウェアを隠れのみにして、自分の思いを語ろうとしない」既存のエレクトロニック・ミュージックには到底達成しえない(そして同時代の意義あるアーティストたちが模索する)、先鋭性とポップの奇跡的な調和が刻まれていた。

そして以下に紹介する彼の発言は、そうした『エンドレス・サマー』の達成が、けっして偶然ではなく明確な意図のもとでなされたものであることを証明している。現在のエレクトロニック・ミュージックに対する違和感と、10代の頃から親しんだポップ・ミュージックへの深い愛情――それらを溶け合わせ、かつ乗り越える音楽を作るために彼が必要としたのは、みずからのプライヴェートな記憶や心情と向き合う作業だった。だからこそ『エンドレス・サマー』は、耳を傾ける者すべての心に訴えかけてくる。



●ソロ・アーティストとして活動を始める前は、マイシェというロック・バンドをやっていたんですよね。

「というか、僕が音楽活動を始めたのは80年代の終わりから90年代の初めごろなんだけど、いろんなバンドをやっていて、マイシェはそのひとつなんだ。たぶん、一番名前が知られてるバンドだとは思うけどね。僕はもともとギタリストで、当然だけどその当時は他のミュージシャンと一緒にやらないと曲は作れなかったし、スタジオ代も高いから、1人じゃ借りられなくて、まあ、仕方なく他の人と組んでやっていたっていう感じだね。でも、できあがった作品には全然満足できなくて。だから、今から振り返っても、僕にとっては決して楽しい思い出じゃないんだよ(笑)」


●あ、そうでしたか。

「でも、サンプラーを買って、ひとりで音楽を作るようになってからは、そういう思いをすることもなくなったけどね。バンドで演奏するってことは、僕にとっては妥協以外のなにものでもなかったんだ。他のメンバーもいる以上、僕のアイディアがそのまま作品になることはありえなかったから。マイシェに関して言えば、サウンドは初期のソニック・ユースに似てたかな。すごくノイジーなポップ・ロックだった。曲っていう形式にあまりこだわっていなくて、演奏もほとんどが即興だったよ」


●じゃあ、アバンギャルドな感じだったんですか。

「うん、それもあるけど、ポップ寄りの要素もあるっていう」



●今の話だと、バンド時代はずいぶん不満を抱えていて、サンプラーを買ったのがソロ活動を始めるきっかけだったということですけど、その経緯についてもう少し詳しく教えてもらえますか。

「まず、サンプラーとミキシング・デスクを買った。あれは確か、そう、90年代の初めだったな。そういう機材もずいぶん安くなって、僕でも手の届く値段になっていたんだ。ちょうどそのころ、ウィーンではテクノ・シーンが盛り上がり始めていて、僕もDJやプロデューサーの知り合いが増えてきていてね。そういう人たちが自宅のベッドルームで曲を作っているっていう話を聞いて、僕もやってみたんだ。それで、『そうか、この方法なら自分のアイディアを簡単にかたちにできるんだ』ってわかって、それからはすっかり宅録にはまっていったよ。メゴのピーター・リーバーグ(ピタ)と知り合ったのもそのころで、一緒にレコードを作り始めたんだけど、そっちは完全にギターがメインだった。サウンド面で言うと、僕は今でもテクノ・アーティストではないね。テクノ系の人と付き合いがあるのも、どちらかと言うとロックとは違うプロデュースのやり方やレコードの出し方に興味があるっていうだけだし。それと、オーストリアのロックシーンは完全に国内限定で、国外で自分の曲を聴いてもらうことなんて、まずできない。だから、僕がエレクトロニック系の音楽に惹かれた理由を挙げるなら、まずは何でもひとりでできるっていうこと。あとひとつは、オーストリア以外の国からも注目される可能性があったことだね。僕は、こういう音楽をやることで、それまでのいろんな制限から解放されたんだ」
●サンプラーを買った当時から、自分のやるべきサウンドの具体像はしっかりあったわけですか。
「かなりはっきりと見えていたと思う。新しい機材を買って、ギターとサンプラー、エフェクターとかを使っていろいろ試してたら、割とすぐに、サンプラーこそ僕に必要な物だ、これで今までバンドでは絶対やれなかったことができる、って思ったよ。新しい可能性が見えて、どんどんはまっていった。その時から、こういうサウンドがやりたいっていうのは、具体的にしっかり見えていたと思う。でも、他にこういう音楽を作っている人がいるとは知らなくて、世界で僕だけだと思いこんでいたね(笑)。他にもいるって知ったのはあとになってからだよ。ピーター・リーバーグがDJをやってるクラブに行ったら、僕がやってるような曲がかかっていて、その時に『ああ、他にもいるんだ』ってやっとわかったっていう。あれは93年か94年ごろだったかな、それまで僕は1人きりで音楽を作っていたから」


●その時作っていたものって、具体的にはどういうサウンドだったんですか。

「基本的には、ギターがメインだった。それは変えたくなかったんだ。でも、新しく買った機材でいろいろ試してみたいっていう気持ちも強かった。あとになってコンピュータとかも入れたけど、最初はサンプラーしか手元になくて……そうだなあ、かなりノイズが入っていたけれど、それでいてどこかメランコリックな感じがするものだったね。両極端な要素を楽しんでいるところもあったのかな。僕は確かに、アバンギャルドな、実験色の強いものに興味がある。でも、そんな曲の中にも、どこかポップな感じが絶対に必要だとも思うんだ。僕の音楽には、ポップやロックに深く影響された面もあるから、そういうことを多少なりとも聴いた人にわかってもらいたいしね」


●そのころ作っていた曲と、今回日本でもリリースされる『エンドレス・サマー』のサウンドは、かなり近いんでしょうか、それともだんだん変わっていって、あのアルバムに至ったという感じなんでしょうか。

「うーん、最初のころに作ってたものの方がもっとノイズの要素が強かったね。それでいて、ビートが独特だった。僕が最初にメゴからリリースした“Instrument”っていう12インチ・シングルがあるんだけど、あの時は、テクノとか、ごくごく初期のドラムンベースにまだ興味があったから、そういう要素もいくらかは入っている。でも、ちょっと聴いただけじゃわからないくらい、わずかなものだけどね。で、そのシングルをリリースした後、さらにいろいろなサウンドを試したり、コンピュータを買ったりして、曲作りに使うようになったから、そこでまた大きく変わったと思う。コンピュータのソフトを使うと、当然、サウンドも変わってくるわけだけど、曲作りのやり方もだいぶ変わってくる。そういう意味では『エンドレス・サマー』はソロ活動を始めたころの曲とは違う。でも、それでいて、初期の作品とどこかつながっているところもある。自分が音楽を作り始めた、ごく最初のころを振り返るっていうのも、『エンドレス・サマー』のテーマの1つだったからね。僕にとっては、自分の人生を振り返る、すごく個人的なアルバムなんだよ(笑)。あのアルバムにはビーチ・ボーイズとかの影響もあるし、僕がずっと好きだった、70年代の映画音楽の面影もあるしね」


●ソロ・デビューした当時、刺激を受けたアーティストというと誰になるんでしょうか。

「いや、そういう人は全然いない。さっきも言ったけど、ソロ活動を始めたころ、僕はほんとに孤立してたから。テクノ・アーティストの存在は知っていたけれど、僕みたいに新しい機材やソフトを使って、実験的なサウンドを作ってる人がいるっていうのは全く知らなかった。例えば、メインみたいなユニットが、僕にすごく近いことをやってるって知ったのはずっとあとだよ。今ではメインのメンバーのロバート・ハンソンとは友達だけど、話をしてると、僕たちは同じ時期に同じことをやってたんだって気がつくことが、今でもあるよ。まあ、リリースは向こうの方が先だったけどね(笑)。どちらかというと、お手本にしたのは、昔から大好きで、音楽を聴き始めた10代のころに夢中になったアーティストだった。例えば、ブライアン・イーノとか、ビーチ・ボーイズとか、ニール・ヤング。あとは、80年代だとトーク・トークとか、ジャパンとか。ほんと、僕の場合、好きなものは全然変わってないね」


●じゃあ、そのころ影響を受けたのは昔のロックで、いわゆるエレクトロニックやラップトップ・ミュージックじゃないんですね。

「うん。というか、今でもそういうものは聴かない(笑)。エレクトロニック系のアーティストにも、本当に大好きなアーティストだったら、何人かはいるよ。ピモンは本当にすばらしいと思うし、オーレン・アンバーチとか……あとは、メゴのアーティストは今でもよく聴く。でも、いわゆるラップトップ・ミュージックは、正直言って、死ぬほど退屈だと思ってる(笑)。だったら昔から好きなレコードを聴く方がずっといい。得るものだってずっとたくさんあるし。あ、そうだ、日本のものだと坂本龍一は聴くよ、もちろん、YMOもね。僕が好きなのは、メロディーがきちんとあるもなんだ。それと、ブラジリアン・ミュージックも好きだな」


●ロックとエレクトロニック・ミュージックをクロスオーヴァーさせるアーティストというと、最近の代表的な例としてはビョークやレディオヘッドが挙げられますが、彼らについてはどう思っていますか。

「実は、今名前が出たふたつのアーティストが最高だと思ってる。ビョークの『ヴェスパタイン』は、ほんとにすばらしい、あれこそ傑作だよ。レディオヘッドもそうで、いろんな要素を組み合わせる、そのやり方がすごくうまい。レディオヘッドの曲を聴いてると、ずいぶんラップトップ・ミュージックを聴いたんだろうなっていうのはわかるよ。そう言えば、この前読んだインタビューでは、僕やピーター・リーバーグの曲も聴いていて、影響を受けてるかもしれないって言ってくれてたね。レディオヘッドはすごく間口が広くて、いろんなサウンドを聴いて、いつも前を見ている。ビョークもそうで、プロダクション・スタイルにしても何にしても、いつも最先端を走ってるよね。完璧なアーティストだと思う」


●既に多くの人が指摘されているとは思うのですが、僕は『エンドレス・サマー』を聴いて、エレクトロニック・ミュージックというものが、これほどまでもエモーショナルで、叙情性やそこはかとない情感みたいなものを音にして表現することができるのかと、ただただ感動してしまったんです。まず、あの作品が生まれた背景や経緯についてお訊きしたいのですが。

「今君も言ってくれたけど、音楽を通じて、エモーショナルな面を伝えるっていうのは、僕にとって、とても大事なことなんだ。実はあのアルバムを作り始めた時、僕には不満で仕方ないことがあった。エレクトロニック・ミュージックが向かっている方向が、どうも僕には間違ってるような気がしたんだ。悪い意味ですごく抽象的な方向に向かってたっていうか、ただソフトウェアを操作しているだけで、“音楽”が聞こえてこなくてね。だからこそ、僕はもっと別の方向を目指さないといけないと思って、自分の過去の思い出とか、その当時のエレクトロニック・ミュージックに欠けていた物に焦点を当てようって決めたんだ。そう決めたら、曲を作っている間にもどんどん感情があふれてきた。それがかえってつらかったりもしたんだけど、曲だけは次から次へと生まれたんだ。つらいっていうのは、つまり、そういう自分の感情を丸出しにするようなものを発表してもいいんだろうかって、自信がなかったっていう意味でね。あの当時は、エレクトロニック・ミュージックのジャンルでこういうタイプのアルバムを出すのは、それほど一般的じゃなかった。みんな、ソフトウェアを隠れみのにして、自分の思いを語ろうとはしないっていう。このアルバムで、僕はそういう殻を破ろうとしたんだ」


●そういう経緯があったんですね。

「それと、『エンドレス・サマー』っていうアルバム・タイトルも、ひとつひとつの曲名も、あとはジャケットの写真も、全部ポップ・ミュージックのフォーマットを意識したものになっている。どうしてかというと、それまでのエレクトロニック・ミュージックと違って、聴いてくれる人を具体的に思い描いて作ったからなんだ。それまでは、人を寄せ付けない、どんな人がこんな曲聴くか、全くわからないようレコードが多かったからね。でも僕は、それじゃ良くない、もっと取っつきやすいものにしたっていいだろうって思った。結局、こんなにセンチメンタルなレコードになってしまったっていう(笑)。でも……自分ではよくわからないけど、とにかく、よそよそしいとだけは思われなかったんじゃないかな」


●あなたが言うとおり、すごくプライヴェートで親密なムードがこのアルバムのサウンドからは感じられるんですが、あなた自身「夏」という季節に何か特別な思い入れがあったりするのでしょうか。

「実はそうなんだ。すごく簡単に言うなら、夏は楽に暮らせる季節だからね。だから、いつも夏を待ちわびているし、いつまでも続けばいいのに、って思ってしまう(笑)」


●まさにこのアルバムのタイトル通りですね。

「うん。夏を待ちわびる気持ちっていうのは、完璧なものを求める気持ちに似ている。でも、どんなに望んでも、決して手に入れられないんだけどね。このアルバムには、完璧さを求めるっていうテーマもあるんだ。幸せを求める気持ちと言ってもいい。でも、それと同時に、そういう完璧なものが手に入らないってことも心のどこかでわかっていたりする。ちょっと姿を見せるだけで、決して手は届かないっていう。みんな、そういう気持ちはわかるはずだよ。このアルバムは、そういう気持ちであふれている。希望もあるけど、同時に失望もつきまとう、そういう感じだね」


●そういう、夏を待ちわびる気持ちって、なんだかすごくヨーロッパ的ですね。

「まあ、僕はヨーロッパに住んでるから(笑)。オーストリアとパリで過ごすことが多いんだけど、特にオーストリアは、季節の変化がとても激しくて。冬はすごく寒くて、雪もたくさん降る。でも夏はかなり暑くなるし、とても美しい季節なんだ。僕は子供時代を大きな湖のほとりで過ごしたんだけど、そのころのことを懐かしく思い出すことは、今でもよくあるよ。すばらしい思い出だからね。そういう思い出もこのアルバムには詰まっているから、ほんとにこれは僕の個人的な思いを述べたアルバム、というふうに言えるんじゃないのかな」


●先ほどあなた自身もそれまでのエレクトロニック・ミュージック・シーンには不満があったとおっしゃっていましたが、そうしたシーンをこのアルバムが変えたという思いはありますか。

「うーん、それは自分ではわからないし、僕がどうこう言えることでもないよ。でもこのアルバムが出た後、エモーショナルな方向を目指すアーティストがシーンに増えたかもしれない。それはいいことだと思う。まあ、それで具体的に何が変わったのかはわからないけれど。ただ、僕自身にとっては、あのアルバムを出したことで、確かにいろんな変化があった(笑)。それが一番大事なことなんだと思う。僕はこのアルバム以降は、自分の感情を隠す必要がなくなった。今でも、すごく概念的な音楽を作ろうと思えばできるんだけど、気がつくと結局『エンドレス・サマー』みたいなものに立ち返ってしまうんだよ」


●あなた自身のキャリアにとっても、最も重要な作品とは言えますか。

「うん、そうだね。内容的には、このアルバムと7インチ・シングルで、カヴァー曲を収めた“Fennesz Plays”が、僕にとって一番大事な作品なんだ。今作ってる新作も、このふたつくらいいいものになるといいと思ってるんだけど、まだできあがってないからね(笑)」


●この作品のどんなところが、リスナーに強く訴えたのだと思いますか?

「うーん、どうなのかな……前に読んだレコード評では、『このアルバムは、エレクトロニック・ミュージック・シーンの門戸を、ポップ、ロックといった他の音楽を聴いていたリスナーへ開いた』とか書いてあったね。それだけ、いろんな要素が入っていたんだと思うよ。コンピュータ好きの子たちにとっても、ソフトウェアの使い方とかがわかるから面白かっただろうし、1曲1曲、聴きやすいかたちにまとめられているから、いい曲が聴きたいっていう人にも受けたと思う。だから、両極端の人に受け入れられる面があったってことになるのかな。そんなにエレクトロニック・ミュージックを聴かない人でも、何かピンと来るものを感じてくれたんだね。それと、ライヴでこのアルバムの曲がかかると、お客さんがすごく盛り上がる。あとは、わりと女の人も気に入ってもらえたし(笑)。この手の音楽って、ふつう、あんまり女性受けが良くないんだけどね。抽象的で、小難しい音楽は、女性を退屈させてしまうらしくて。まあ、実は僕もそうなんだけど(笑)。でも、このアルバムは別みたいで、それは僕もすごくうれしく思ってる。そう言えば、子供にも受けたし、僕の母も気に入ってくれたよ(笑)」


●(笑)。ところで、例えばあなたの『エンドレス・サマー』のように、ジャンルを超えて広くリスナーに支持される作品が生まれたり、「SONAR」を始めとする音楽イベントが各地で行なわれていたりと、現在エレクトロニック・ミュージックは、音楽的にも環境的にもとても面白い状況にあるように思いますが、こうした現状についてはどのような印象をお持ちですか?

「いや、今のシーンがどうなっているのか、僕はあまりよく知らないんだ。もう何ヵ月も自分の新作にかかりきりで、ちょっと状況には疎くなってるから。今、こういうシーンが大きくなってるのかどうか、僕には何とも言えないな。SONARにしても、何千人もの人が2ヵ月にわたって集まるわけだから、もう単なるイベントの枠を超えている気がするし。ただ、この手の音楽にはふたつの流れがあるとは思う。ひとつはダンス・ミュージックで、こっちはいつでもコンスタントに売れてるし、シーンとしてもすごく健全だ。でも、僕はそんなに関心がない。で、もうひとつ、ダンス・シーンほどかっちりとしたジャンルになっていない、抽象性の高いエレクトロニック・ミュージックのシーンがある。で、こっちも今のところ受けてるよね。でも、僕自身は、エレクトロニック・シーンは変に孤立するべきでないと思っている。もっといろんなジャンルのアーティストともどんどん一緒にやっていくべきだよ。さっき話に出たビョークとか、レディオヘッドはまさにそういうことをしているわけだし。僕も最近はいろんなアーティストとコラボレーションを始めていて、例えばスパークルホースっていうアメリカのバンドと組んだりしている。僕のサウンドと、スパークルホースのギターやドラムのサウンドを合わせて、何か面白いものができないかなと思って。僕はこういうことが面白いと思っている。だから、エレクトロニック・ミュージックのシーンで何が流行っているかはよく知らないし、正直、そんなに興味もないんだよ。好きなアーティストが何人かいるけれど、そのアーティストがどういうカテゴリーに入ってるかどうかは、僕にとってはあんまり意味がない。ただ“いいアーティスト”っていうだけでね。例えば、オーレン・アンバーチはギタリストで、バンドもやったりするけれど、エレクトロニック系の作品もリリースしてる。フィリップ・ジェックにしても、ターンテーブルを駆使した音楽をやってて、ふつうに考えるとエレクトロニック系のアーティストなんだろうけど、ジャー・ウブルと一緒に演奏したりしてるし。そんなふうに、みんなもう少しオープンになって、いろんなアーティストと組んでみたらいいと思うよ」


●コラボレーションといえば、デヴィッド・シルヴィアンの新作『Blemish』に参加されたらしいですが、これはどういった経緯だったんですか。

「今僕が作ってるアルバムは“Venice”(ベネチア)っていうタイトルになる予定なんだけど、このアルバムでは、どうしてもデヴィッド・シルヴィアンに参加してもらいたかったんだ。今回は1、2曲、ヴォーカル・トラックを入れる予定なんだけど、ぜひ彼に歌ってほしいと思ってね。『エンドレス・サマー』で切り開いた道、それはつまりダンス・ビートを使わないエレクトロニック・ミュージックで、それでいて、いわゆるポップ・ソングのフォーマットに従っているものっていうことなんだけど、その路線を今回はさらに推し進めたかった。だったら最高のヴォーカリストに参加してもらわないといけなかった。それは誰だろうと考えたら、僕にとってはそれがデヴィッド・シルヴィアンだったんだよ。お願いしてみたら『いいけれど、その代わり、僕のレコードにも参加してくれないか』っていう返事が来て(笑)。それから、ずっとメールでやりとりをして、なんだかすごく仲良くなっちゃったんだけどね。彼のアルバムの方は、僕に与えられた時間は1週間半くらいだったのかな。彼の声と、ギターの音がぽつぽつ入ってるだけの音源が送られてきて、そこに僕がいろんな音を付け足していったんだけど、僕にとってはデヴィッド・シルヴィアンってとても偉大な存在だったから、いいものを作ろうと思いすぎて、精神的にかなり追いつめられたよ。ただ、最終的にできあがったものにはすごく満足してるし、彼も満足してくれたんじゃないかと思う。でも、なんだか思い入れたっぷりな曲になっちゃったね(笑)。で、その後もコラボレーションは進めてるから、これからももっといろいろリリースできるはずだよ。まずは僕のアルバムに参加してもらってるし……長いつきあいになるかもしれないね、そんな話もしているから」


●今の話だと、メールとかのやりとりだけで、実際には会っていないんですか。

「そう、実はまだ会ってないんだよ。最初は僕が彼のスタジオに行って作業をする予定だったんだ。もっと時間が取れるはずだったから、スタジオで顔を合わせて話をして、曲を作っていこうと思っていて。それが、急に予定が変わって、1週間ちょっとで曲を完成させなくちゃいけないことになった。それだと僕がスタジオに行く時間はとても取れないって言ったら、『じゃあ、音源を全部送るから、そっちでやってもらえないか』って言われて。それから2日後に荷物が届いて、作業を始めたっていう」


●そうだったんですか。

「でも、9月には会えるはずなんだけどね(笑)」


●それから、最近あなたは『60 SOUND ARTISTS PROTEST THE WAR』という対イラク戦争反対の意思表明を目的に製作された作品に参加されましたが、こちらはどういった経緯だったのでしょう?

「いや、メールが送られてきて、『1分の音源ファイルか、曲を送ってくれませんか』と頼まれたので、すばらしいプロジェクトだと思って、参加を決めたんだ。その時やるはずだった仕事をいったん棚上げにして、このプロジェクト用の曲を作って、またメールで送り返したっていう」


●じゃあ、このプロジェクトでも相手には会ってないんですね。

「そういうことだね。今の僕は、完全にサイバースペースの住人と化してるんだよ(笑)」


●なるほど(笑)。先ほども話したように、僕は『エンドレス・サマー』を聴いて、エレクトロニック・ミュージックが「感情」を伝えるエモーショナルでオーガニックな表現形態であることを再確認しました。同時に音楽が、作り手の思想やメッセージを伝えるメディアとしても有効だと思いますか。

「うん、絶対にそうだと思う。音楽のいいところは、表現の形としてはすごく抽象的なものなのに、ちゃんと聴いた人に思いを伝えられるところだと思う。音楽の中に、それとはわからないかたちで、作り手の気持ちを潜り込ませることだってできる。それでいて、音楽にはどこか抽象的な部分があるから、生々しい表現にはならないっていう。僕は音楽のそういうところに惹かれるし、逆に言うと音楽でしか僕は自分自身を表現できないんだ」


●なるほど。それから、先ほども制作中という話が出た新作は、どのようなものになりそうですか。

「うーん、今までの僕の作品を全部合わせたようなものになるのかな。でも、もちろん新しい展開もあって、例えば、今回は初めて他のミュージシャンに参加してもらっている。さっきも話が出たけど、デヴィッド・シルヴィアンには1、2曲歌ってもらうつもりだし、あとは、トランペット奏者も入る。それと、僕以外にもう1人、やっぱりエレクトロニック・ミュージックが好きなギタリストも参加しているし。その人は、やってることは僕と近いんだけど、サウンドはもっと実験色が強いんだ。そういう要素も、今回のアルバムには加えていきたいと思ってね。だから、『エンドレス・サマー』に似た曲もあれば、ノイズ系の、実験的な曲もあるっていう感じになると思う。もしうまくいけば、いろんな要素があって、それでいてみんなが面白く聴ける作品になるんじゃないかな。実は明日から、ベネチアに行くんだ。アパートを借りて、1、2週間暮らしてみるつもりでいる。あの街に行けば何かひらめくんじゃないかと思ってね。できればベネチアで全部完成させてしまいたいけれど、どうなるかな。とにかく、まだできあがってないんだ。たぶん9月には完全に仕上がると思うから、10月には聴いてもらえるんじゃないかな」


●今から楽しみです。では、最後にお訊きしますが、『エンドレス・サマー』の成功は、あなたが音楽人生にどういう影響を与えたと思いますか。

「うーん、どうかな、自分ではそういうことって、なかなかわからないんだ。いいアルバムができれば、その時はうれしいものだけど、次のアルバムを作ろうと思ったとたん、かえってそれが障害になってしまうからね。どうにかして、前のアルバムを超えるものを作らないといけなくなるから。あるいは、全く違う方向を目指すという手もあるけど、いずれにせよ、ちょっと悩ましいところではあるね。でも今の僕にとっては、とりあえずは自分が今作っている作品に集中して、とにかく手を止めないっていうだけだから。『これって前作った曲に似てるかな?』なんて考えてはいられない。とにかく、これからが肝心だね。ただもちろん、生活ってことでいえば、ずいぶん楽になったよ。前よりずっと注目されるし、レコードだって売れるようになったわけだから。そういう意味では、『エンドレス・サマー』の成功は、僕にとってはずいぶんプラスになった。それまではレコードの売り上げがあんまり思わしくなくて、大変だったんだ。そう考えるとと、今こうしていられるのも、あのアルバムのおかげなんだけどね(笑)」



(2003/9)

2011年11月6日日曜日

極私的2000年代考(仮)……ジェームス・チャンスとの対話

ジェームス・チャンス。

1970年代最末期のニューヨークに吹き荒れた「未遂の革命」、ノー・ウェイヴが誇る伝説の、いや悪魔のサキソフォニスト。コントーションズ、ジェームス・ホワイト&ザ・ブラックスetcを率い、ファンクとパンクとフリー・ジャズを火だるまにして血祭りにあげたイギー・ポップとアルバート・アイラーの混血児(=Off White)は、「退屈に対してNO、画一性に対してNO、それから……気取りに対してNO」――そう、かつての自分を振り返る。

しかし、そんなあらゆる「NO」に対してさえさらなる「NO」を突き付け、既成事実を裏切り=「Contortion(曲解、歪曲)」続ける生き様こそジェームス・チャンスであり、反面、音楽への情熱までは否定することのできなかった不器用な音楽家としての肖像こそジェームス・チャンスではないか、と思う。

自分が観た東京公演二日目(オープニングはレック+大友良英+中村達也)は、後で聞けば賛否両論のライヴだったらしい。が、まるで呂律が回らぬ酔っ払いのような、サックスを吹き荒らし喚き散らしながら周囲を威圧するその姿は、学生時代にマイケル・マクラードのフィルムで観た1979年のライヴと違わない、想像どおりサイコ・アニマルだった(オフステージの彼はあんなにチャーミングなのに……)。


●そもそもジャズ・ミュージシャンを目指していたあなたが、どんな紆余曲折をへてあのようなサウンドに行き着いたのか、とても興味深いのですが。

「君の言うとおり、ニューヨークに来る前は有名なジャズ・ミュージシャンになることが夢だったんだ。実際、音楽学校で3~4年、ジャズを勉強してたしね。ニューヨークに来て、ジャズ・グループで活動したり、ジャム・セッションをしたりして、結構頑張ったんだよ。でもそれを1年ぐらいやったところで、自分が有名なジャズ・ミュージシャンになることはないだろう、って悟ったんだ。まず第一に、競争率が高すぎる。ニューヨークにはジャズ・ミュージシャンが多すぎたんだ。そして、親しいジャズ・ミュージシャンもいなくはなかったけど、一般的なジャズ・シーンには受け入れられなかったんだ。うまく溶け込めなかったんだよね。見かけも、態度も、考え方も、ジャズ・ミュージシャンらしくなかったから。音楽とは別の部分で相容れなかったんだ。さらに、CBGBとMax's Kansas Cityによく行くようになって、そっちの方が居心地良くなって。自分と考え方が似てる人たちがいたからね。その頃にリディア・ランチに出会って、自作の曲を紹介してくれて。多くの人がノイズとして片付けてしまうだろうタイプの音楽だったけど、僕は面白いと思ったから続けるように促してたんだ。そうしたら彼女がティーンエイジ・ジーザスを始めて、僕はそのバンドでサックスを吹くようになった。それは彼女の音楽で、僕の音楽じゃなかったけどね。6ヶ月ぐらい続けて、彼女のサウンドにサックスは要らないってことになって解雇され た。その時に自分のバンドを組むことに決めたんだ。主にロックンロールを聴く観客にアピールするような音楽をやろうと思った。もちろん、商業的に妥協したものじゃなくて、自分らしさを保ったものでなければならなかったけど。僕が好きなタイプの音楽の要素がいろいろ詰まってて、しかも踊れるようなものがやりたかったんだ。たとえばジェイムス・ブラウンのような。昔からジェイムス・ブラウンのファンだったんだ。あんな感じのリズムで、その上にフリー・ジャズの要素が加えられていて、パンクのアティチュードがあって。音楽性としてのパンクじゃなくて、アティチュードとしてパンク。そういう音楽がやりたかったんだよ」


●自分を受け入れなかったジャズ・シーンと比べて、パンクのアティチュードというと――

「もっとずっと反抗的で、アグレッシヴで、ってところに惹かれたね。当時のジャズ・ミュージシャンはすごくレイドバックしてて、考え方がまだヒッピー時代を引きずってるところがあったんだよ。音楽としてのジャズは好きだったけど、そういう面は嫌いだったんだ。僕は音楽に暴力性を求めてたし、観客に対して暴力的に作用して欲しいと思ってたからね。ニューヨークでの初期のショーに来てたオーディエンスは、 主にソーホーの芸術家タイプが多かったんだよ。自分たちがクールだと思って気取ってるような。何があっても微動だにせず突っ立ってた。だから、僕がフロアに飛び降りてオーディエンスを攻撃するようになったのは、彼らの反応の鈍さに腹が立ってたからなんだよね。パンク的なものが気に入ってたもう一つの理由は、テンポの速さなんだ。他のミュージシャンたちから文句が出るくらいに速くプレイしてたよ」


●自分がやろうとしてた音楽に最初から確信があったのか、それとも最初はちょっと不安定で手探りなところもあったのか、どっちだったんでしょう。

「最初からほぼ決まってたね。最初から自分一人で全部曲を書いてたし、他のミュージシャンのパートも全部書いて、どういう風にプレイすべきか指定してたし。自由に解釈してもらってた部分もあるけど、基本的には僕が作ってた。はじめは自分で歌うかどうか迷ったんだ。実は最初、女性ボーカルを入れるアイディアもあったんだよ。結局うまくいかなかったけどね。オーディションしたヴォーカリストに、スーサイドのアラン・ヴェガの恋人がいたりしたよ。どれもうまくいかなくて、自分で試してみることにしたんだ。それまでまったく歌ったことがなくて、訓練も受けてなかったから、どうかと思ったけどね。でも、たとえばリチャード・ヘルのような、決して上手くはないけど歌ってる人たちを見て『自分にもできるかもしれない』と考えたんだ。バンドのメンバーが固まるまでは手探りだったけど、いったんメンバーが決まってからは、やりたいことができる確信があったよ。僕の音楽を理解してくれる、いいミュージシャンたちが集まったからね。自分たちで出した音を聴いて、『よし、これは新しい、これでいける』と感じられた瞬間があって、そこから迷いはなかったんだ」


●なるほど。

「周りの人たちにも評判がよかったしね。たとえば、リディア・ランチなんかは聴くまで半信半疑だったんだ。もっとジャズっぽいものを想像したんだろうけど。でも実際にコントーションズを聴いて、ぶっ飛んでたよ」


●ジャズ・シーンではあまり受け入れられてなかったというあなたが、その後、コントーションズを結成して『NO NEW YORK』というアルバムに参加するなど、いわゆるノー・ウェイヴ・シーンの一部として今でも語り継がれているわけですけれども、実際そのシーンにいたバンドには共通する何かがあったと思いますか。

「あったと思うよ。アティチュードの面で似てたと思う。まぁ、僕だけが違う面もあったけどね。あのシーンのほとんどのアーティストは、アート方面出身の人たちで、もともと音楽を専門としてなかったんだ。音楽的なトレーニングはまったくないまま、いきなり演奏を始めてた。僕はもともと音楽の勉強をしてきてたから、そういう意味でバックグラウンドは違ってたね」


●なまじっか音楽の素養があったということが、逆のコンプレックスになったりとかってありました?

「そう、実際そういうのはあって、コントーションズで取材を受け始めた頃は、音楽学校に行ってたことは誰にも言わなかったんだ。あらかじめ知ってる人にそのことについて尋ねられることもあったけど、否定してた。『音楽学校へなんか行ってないよ』ってね。間違ったイメージを植え付けるんじゃないかって心配してたわけ」


●(笑)。

「まぁ、音楽学校に通ってたと言っても、優等生だったわけじゃないけどね。教師に向かって悪態を付いて退学させられそうになったり」


●(笑)。NO NEW YORKにしろNO WAVEにしろ、自分たちがやってることに対して「NO」というレッテルというか、冠が付けられることについて、何か思うことはありませんか?

「それは単なる語呂合わせで……NEW WAVEよりもNEWなものといえば? NO WAVEだ!って具合に始まったんだよね。もともとネガティヴなことが好きだから構わなかったけど。いつでもポジティヴな人間というよりはネガティヴな人間だったし。それに、 僕達にとってニュー・ウェイヴって、特に新しいものに感じられなかったんだ。普通に保守的なものに思えてた。だから、ニュー・ウェイヴに対してNOとも言ってたんだよ」


●ちょっと抽象的な訊き方になってしまいますが、何に対する「NO」だったと思いますか?

「退屈に対してNO、画一性に対してNO、それから……気取りに対してNO。何でもいいんだ。とにかくあらゆるムカつくことに対してNOを突きつけるってことだったと思う」


●なるほど。

「あの頃の僕達は、ただ自分たちのリアルな気持ちを表現したかっただけなんだけどね。検閲なしに。荒々しすぎるとか、暴力的すぎるとか、そんなこと誰にも言わせずにやってみせる覚悟だったよ」


●ジャズ・シーンに対する反抗心はありましたか。

「ああ、あったね。嫌われたり、拒否されたりしたら、やっぱりそいつらを見返してやりたいと思うのは自然で、かなり強烈なモチベーションになるんだ。実際、コントーションズが成功してからは、それを見たジャズ・ミュージシャン達が真似したがったよ(笑)。俺もロックのクラブでプレイして儲けたい、ってね。まぁ、ジャズのミュージシャン達全員に無視されたわけじゃなくて、僕とプレイしてのちにディファン
クトを始めたジョー・ボウイとか、Bobo Shawってやつとか、僕を受け入れてくれた人たちもいたよ」


●先ほど方にジェイムス・ブラウンの名前も出てきましたが、今の自分の音楽観だったり、アティチュードを作ってくれた、ルーツになったようなアーティストなりレコードっていうのは、どういうものになりますか。

「12、13歳頃に初めて大好きになった音楽はロックンロールだったんだ。1965年前後の、特にイギリスのグループだね。ローリング・ストーンズ、ヤードバーズ、アニマルズ、スペンサー・デイヴィス・グループ。どれも黒人音楽に影響されてるグループだった。それとアメリカではヤング・ラスカルズ、ミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズ、クエスチョン・マーク&ザ・ミステリオンズ……。ロックンロール 以外ではジェイムス・ブラウンを聴いてたんだけど、特に入れ込んだのは数年後、17、18歳頃だったんだ。特に気に入ってた曲は“Super Bad”だった。ファンクのビートの上に、フリージャズ風のサックスソロが乗せてあって。もしコントーションズの元となったものを一つだけ挙げるとしたら、その曲になるんじゃないかな」


●当時のあなたのライヴは凶暴というか強烈なものだったと聞いていますが、その頃のエピソードで一番「無茶やったな」というか、思い出したくもない強烈な(笑)ものっていうのがあれば教えて欲しいんですけれども。

「ええっと、そうだな……。よく言われるのは、ある音楽評論家を殴った時のことかな。ロバート・クリストゴー(Robert Christgau)という、アメリカでは有名なロック評論家がガールフレンドと一緒に僕のショーを観に来てて、僕がオーディエンスの中へ入って彼女の方を小突いたんだ。そしたら、そいつが彼女をかばってやり返してきて。この時のことは結構、語りぐさになったみたいだよ。それとか……ある時、逆に客に打ちのめされてね。ニタッと笑いながら殴ってきて、しばらく気を失ったんだ。そのことがあってから、もう観客を攻撃するのはほどほどにしよう、って思ったよ」


●アハハ。

「特に最低なことを思い出したけど、ロンドンで大きなショーがあった時、若い黒人ばかりのバンドとやってて――まだ一緒にやり始めたばかりで、ニューヨークを出たこともないようなやつらだったんだけど――なんと空港に誰も来なかったんだ。何の連絡もなしに、いきなり全員バンドを辞めてしまった。だからロンドンに着いたら、一日でミュージシャンをかき集めなくちゃならなくなって。あれは悪夢だったな。ただ実際、キース・レヴィンっていうギタリストを知ってる? P.I.L.の。その時のショーでは彼がギターを弾いてくれたんだよね」


●へえ。もしかして、ジョン・ライドンと交流とかあったんですか。

「いや、彼とは会ったことないんだ」


●今回は初来日ということなんですけれど、少なくともブランクはあったと思うんですよ、ミュージシャ
ンとして。再びやろうと思い立ったきっかけというのは、何だったんでしょうか?

「90年代の半ばにヘンリー・ロリンズが立ち上げたレーベルで、僕の古い作品が何枚かリイシューされたのが、また音楽をやってみる口実というか理由になってくれた感じだね。基本的に、音楽以外のことをやりたい気持ちはあまりないんで、必然的な結果だったんじゃないかな。永久的に引退することは考えてなかったよ」


●今日は初めてライヴを観させてもらうんですけれども、70年代、80年代にあったコントーションズと、2000年代のコントーションズでは、どの辺が変わっていますか?

「オリジナル・バンドであることは変わらないんだ。ジョディ・ハリス、ドラマーのドン・クリスチャンセン、パット・プレイス。みんな一番最初のコントーションズにいたメンバーだよ。ベースだけはオリジナル・メンバーが1980年に亡くなってるんで変わってるけどね。生存メンバーは全員揃ってる」


●一番の違いと、逆に変わらないものは何でしょうか。

「音楽的に?」


●音楽的にも、つまり自分の気持ちの中での。

「ああ、そうだな……。オリジナル・バンドは、とげとげしい関係になって解散したんだ。喧嘩が絶えなくなってね。それが今では、またいい友人同士に戻ってる。昔のことは、もうずいぶん時間が経ってるんだし、すっかり水に流してしまったよ。いい状態になれたと思う」


●昔喧嘩別れして、また再び集まって音を鳴らした瞬間というのはどうだったんでしょう? 何か感慨深いものがありましたか?

「問題なく、また一緒になれた感じだったね。ことの発端は、サンフランシスコに住んでるファンの女の子がニューヨークに来て、オリジナル・メンバーでのショーをサンフランシスコで実現させたい、と言ってきてね。その決意の固さは、メンバー全員に個別に直接電話をかけてしまうほどだったんだ。その子にみんな言いくるめられて本当に実現しちゃったってわけ。やってみたら、意外とお互いにうまくやっていけたんだよね。それから数年経って、あっちこっちのフェスティバルとかからオファーが来るようになって、集まるようになった。そんなにしょっ中じゃないけどね。年に数回っていうペースでの活動だから」


●本人の中では、コントーションズが戻ってきたという感じなんでしょうか。それとも、まったく新しいバンドとして今やってるんだ、ということなんでしょうか、感覚的には。

「まぁ、コントーションズが戻ってきた、って感じだね。プレイしてるのはほとんどが昔の曲だし。でもいつか新しいレコードを作りたいと思ってるよ。新曲を書いてこのバンドでレコーディングしたいね。このバンド以外でも、ターミナル・シティとか、他のプロジェクトはいろいろやってて、そっちではコントーションズとはまったく違う音楽をやってるんだけどね」


●今回の来日が決まった一つの要因だと思うんですが、最近はニュー・ウェイヴとかあの時代の音楽が若いリスナーに再評価されるとか、若いバンドがリスペクトしたりとか、そういった、一昔前だったら考えられないような状況が今あると思うんですが。そういった再評価に関してはどういう風に受けとめていますか。

「もちろん嬉しいことだと思ってるよ。ただ、ミュージシャンだったらもっと遡って聴くべきだとも思うんだよね。60年代とか……さらにもっと古いものとか。僕自身……なるべく自分の音楽をピュアに保つために、いつもルーツに遡ってる。例えば、個人的には、1975年以降に作られた音楽はほとんど聴いてないんだ」


●ああ、そうなんですか。ぶっちゃけ、その……自分は早すぎた存在だったと思いますか。ようやく周りの評価が追いついた、みたいな。

「そうともいえるかもしれないね。思い出すのは、僕が最初の成功を味わってから、その後の音楽業界は、80年代から90年代にかけて、ものすごく保守的になってたことで、その頃は僕のようなアーティストに対する関心は薄れてたんだ。今また関心を持ってくれる人たちが出てきて、よかったなって思ってるよ。僕としても音楽活動を続けていきたいからね」


●さっき1975年以降は聴いてないと言っていたけど、なんで聴いてないんですか。

「75年以前の音楽が好きだからだよ。自分にとって意味のある音楽は、75年以前の音楽なんだ。今はバンドの数も多いし……新しい音楽を吟味してたら日が暮れてしまう。それだけでフルタイムの仕事になるよ。本当に好きなものが見つかるのは稀だしね。自分にとって意味のある音楽に集中してたいんだよ」


●今自分がコントーションズとしてやっているものは、1975年以前の音楽のフィーリングを再現してる
というか、音楽が純粋なものだった時代のものを自分なりに表現してる、という感覚なんでしょうか。

「いや、僕の音楽は僕の音楽だよ。他の誰の音楽とも関係がない。僕自身のヴィジョンを再現したもので、特に定義とかは……何かのムーヴメントに属してるとは思ってないしね。ただ……自分を定義するとすればエンターテイナーだと思ってる。ビシッと衣装を決めて、踊ったりもして、人々のためにショーを繰り広げる、っていう、古い意味での。ただステージに立って演奏するだけじゃなくてね。今は多くのバンド が、エンターテインメント性を失ってしまってると思う。僕としては、イノヴェイターであることよりも、エンターテイナーであることの方に誇りをもってるんだ」


●では、最後の質問になります。今度、ターミナル・シティの新作が出ると伺ったんですけれども、それはどういったものになるのか、教えてください。

「うん。コントーションズよりジャズの要素が強いものになるよ。楽器もアコースティックで。アコースティック・ベース、ビブラフォン、アコースティック・ピアノ、テナーサックスが入っていて……そして僕自身はアルトサックスとピアノを担当してるんだ。ジャズ以外に、40年代~50年代のR&Bにも影響された音楽なんだ。スクリーミン・ジェイ・ホーキンズとか、いわゆるブルース・シャウターと呼ばれた人たちに ね。さらに、フィルム・ノワールというジャンルの映画をイメージした音楽でもあるんだ。アメリカの40年代から50年代初めの白黒映画で、犯罪サスペンスが多い、暗いものなんだけどね」


●ありがとうございました。今日はライヴを楽しみにしています。

「どういたしまして」


(2005/10)


極私的2000年代考(仮)……ポスト・ノー・ウェイヴはアンダーグラウンドを疾駆する)
極私的2000年代考(仮)……ノー・ウェイヴの記録)

2011年11月5日土曜日

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑩

・ 麓健一/コロニー
・ Perfume/JPN
・ The Big Pink/Future This
・ Rangers/Pan Am Stories
・ Tycho/Dive
・ She & Him/A Very She & Him Christmas
・ Goldmund/All Will Prosper
・ Youth Lagoon/The Year Of Hibernation
・ Korallreven/As Young As Yesterday
・ Bill Orcutt/How the Thing Sings
・ ALIAS/Fever Dream
・ Mikal Cronin/Mikal Cronin
・ The Juan Maclean/Everybody Get Close
・ Slow Club/Paradise
・ Lydia Lunch & Big Sexy Noise/Trust The Witch
・ Patten/GLAQJO XAACSSO
・ Julianna Barwick/Matrimony Remixes
・ シャムキャッツ/Gum

(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑨)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑧)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑦)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑥)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑤)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)④)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)③)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)②)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...))