1970年代最末期のニューヨークに吹き荒れた「未遂の革命」、ノー・ウェイヴが誇る伝説の、いや悪魔のサキソフォニスト。コントーションズ、ジェームス・ホワイト&ザ・ブラックスetcを率い、ファンクとパンクとフリー・ジャズを火だるまにして血祭りにあげたイギー・ポップとアルバート・アイラーの混血児(=Off White)は、「退屈に対してNO、画一性に対してNO、それから……気取りに対してNO」――そう、かつての自分を振り返る。
しかし、そんなあらゆる「NO」に対してさえさらなる「NO」を突き付け、既成事実を裏切り=「Contortion(曲解、歪曲)」続ける生き様こそジェームス・チャンスであり、反面、音楽への情熱までは否定することのできなかった不器用な音楽家としての肖像こそジェームス・チャンスではないか、と思う。
自分が観た東京公演二日目(オープニングはレック+大友良英+中村達也)は、後で聞けば賛否両論のライヴだったらしい。が、まるで呂律が回らぬ酔っ払いのような、サックスを吹き荒らし喚き散らしながら周囲を威圧するその姿は、学生時代にマイケル・マクラードのフィルムで観た1979年のライヴと違わない、想像どおりサイコ・アニマルだった(オフステージの彼はあんなにチャーミングなのに……)。
●そもそもジャズ・ミュージシャンを目指していたあなたが、どんな紆余曲折をへてあのようなサウンドに行き着いたのか、とても興味深いのですが。
「君の言うとおり、ニューヨークに来る前は有名なジャズ・ミュージシャンになることが夢だったんだ。実際、音楽学校で3~4年、ジャズを勉強してたしね。ニューヨークに来て、ジャズ・グループで活動したり、ジャム・セッションをしたりして、結構頑張ったんだよ。でもそれを1年ぐらいやったところで、自分が有名なジャズ・ミュージシャンになることはないだろう、って悟ったんだ。まず第一に、競争率が高すぎる。ニューヨークにはジャズ・ミュージシャンが多すぎたんだ。そして、親しいジャズ・ミュージシャンもいなくはなかったけど、一般的なジャズ・シーンには受け入れられなかったんだ。うまく溶け込めなかったんだよね。見かけも、態度も、考え方も、ジャズ・ミュージシャンらしくなかったから。音楽とは別の部分で相容れなかったんだ。さらに、CBGBとMax's Kansas Cityによく行くようになって、そっちの方が居心地良くなって。自分と考え方が似てる人たちがいたからね。その頃にリディア・ランチに出会って、自作の曲を紹介してくれて。多くの人がノイズとして片付けてしまうだろうタイプの音楽だったけど、僕は面白いと思ったから続けるように促してたんだ。そうしたら彼女がティーンエイジ・ジーザスを始めて、僕はそのバンドでサックスを吹くようになった。それは彼女の音楽で、僕の音楽じゃなかったけどね。6ヶ月ぐらい続けて、彼女のサウンドにサックスは要らないってことになって解雇され た。その時に自分のバンドを組むことに決めたんだ。主にロックンロールを聴く観客にアピールするような音楽をやろうと思った。もちろん、商業的に妥協したものじゃなくて、自分らしさを保ったものでなければならなかったけど。僕が好きなタイプの音楽の要素がいろいろ詰まってて、しかも踊れるようなものがやりたかったんだ。たとえばジェイムス・ブラウンのような。昔からジェイムス・ブラウンのファンだったんだ。あんな感じのリズムで、その上にフリー・ジャズの要素が加えられていて、パンクのアティチュードがあって。音楽性としてのパンクじゃなくて、アティチュードとしてパンク。そういう音楽がやりたかったんだよ」
●自分を受け入れなかったジャズ・シーンと比べて、パンクのアティチュードというと――
「もっとずっと反抗的で、アグレッシヴで、ってところに惹かれたね。当時のジャズ・ミュージシャンはすごくレイドバックしてて、考え方がまだヒッピー時代を引きずってるところがあったんだよ。音楽としてのジャズは好きだったけど、そういう面は嫌いだったんだ。僕は音楽に暴力性を求めてたし、観客に対して暴力的に作用して欲しいと思ってたからね。ニューヨークでの初期のショーに来てたオーディエンスは、 主にソーホーの芸術家タイプが多かったんだよ。自分たちがクールだと思って気取ってるような。何があっても微動だにせず突っ立ってた。だから、僕がフロアに飛び降りてオーディエンスを攻撃するようになったのは、彼らの反応の鈍さに腹が立ってたからなんだよね。パンク的なものが気に入ってたもう一つの理由は、テンポの速さなんだ。他のミュージシャンたちから文句が出るくらいに速くプレイしてたよ」
●自分がやろうとしてた音楽に最初から確信があったのか、それとも最初はちょっと不安定で手探りなところもあったのか、どっちだったんでしょう。
「最初からほぼ決まってたね。最初から自分一人で全部曲を書いてたし、他のミュージシャンのパートも全部書いて、どういう風にプレイすべきか指定してたし。自由に解釈してもらってた部分もあるけど、基本的には僕が作ってた。はじめは自分で歌うかどうか迷ったんだ。実は最初、女性ボーカルを入れるアイディアもあったんだよ。結局うまくいかなかったけどね。オーディションしたヴォーカリストに、スーサイドのアラン・ヴェガの恋人がいたりしたよ。どれもうまくいかなくて、自分で試してみることにしたんだ。それまでまったく歌ったことがなくて、訓練も受けてなかったから、どうかと思ったけどね。でも、たとえばリチャード・ヘルのような、決して上手くはないけど歌ってる人たちを見て『自分にもできるかもしれない』と考えたんだ。バンドのメンバーが固まるまでは手探りだったけど、いったんメンバーが決まってからは、やりたいことができる確信があったよ。僕の音楽を理解してくれる、いいミュージシャンたちが集まったからね。自分たちで出した音を聴いて、『よし、これは新しい、これでいける』と感じられた瞬間があって、そこから迷いはなかったんだ」
●なるほど。
「周りの人たちにも評判がよかったしね。たとえば、リディア・ランチなんかは聴くまで半信半疑だったんだ。もっとジャズっぽいものを想像したんだろうけど。でも実際にコントーションズを聴いて、ぶっ飛んでたよ」
●ジャズ・シーンではあまり受け入れられてなかったというあなたが、その後、コントーションズを結成して『NO NEW YORK』というアルバムに参加するなど、いわゆるノー・ウェイヴ・シーンの一部として今でも語り継がれているわけですけれども、実際そのシーンにいたバンドには共通する何かがあったと思いますか。
「あったと思うよ。アティチュードの面で似てたと思う。まぁ、僕だけが違う面もあったけどね。あのシーンのほとんどのアーティストは、アート方面出身の人たちで、もともと音楽を専門としてなかったんだ。音楽的なトレーニングはまったくないまま、いきなり演奏を始めてた。僕はもともと音楽の勉強をしてきてたから、そういう意味でバックグラウンドは違ってたね」
●なまじっか音楽の素養があったということが、逆のコンプレックスになったりとかってありました?
「そう、実際そういうのはあって、コントーションズで取材を受け始めた頃は、音楽学校に行ってたことは誰にも言わなかったんだ。あらかじめ知ってる人にそのことについて尋ねられることもあったけど、否定してた。『音楽学校へなんか行ってないよ』ってね。間違ったイメージを植え付けるんじゃないかって心配してたわけ」
●(笑)。
「まぁ、音楽学校に通ってたと言っても、優等生だったわけじゃないけどね。教師に向かって悪態を付いて退学させられそうになったり」
●(笑)。NO NEW YORKにしろNO WAVEにしろ、自分たちがやってることに対して「NO」というレッテルというか、冠が付けられることについて、何か思うことはありませんか?
「それは単なる語呂合わせで……NEW WAVEよりもNEWなものといえば? NO WAVEだ!って具合に始まったんだよね。もともとネガティヴなことが好きだから構わなかったけど。いつでもポジティヴな人間というよりはネガティヴな人間だったし。それに、 僕達にとってニュー・ウェイヴって、特に新しいものに感じられなかったんだ。普通に保守的なものに思えてた。だから、ニュー・ウェイヴに対してNOとも言ってたんだよ」
●ちょっと抽象的な訊き方になってしまいますが、何に対する「NO」だったと思いますか?
「退屈に対してNO、画一性に対してNO、それから……気取りに対してNO。何でもいいんだ。とにかくあらゆるムカつくことに対してNOを突きつけるってことだったと思う」
●なるほど。
「あの頃の僕達は、ただ自分たちのリアルな気持ちを表現したかっただけなんだけどね。検閲なしに。荒々しすぎるとか、暴力的すぎるとか、そんなこと誰にも言わせずにやってみせる覚悟だったよ」
●ジャズ・シーンに対する反抗心はありましたか。
「ああ、あったね。嫌われたり、拒否されたりしたら、やっぱりそいつらを見返してやりたいと思うのは自然で、かなり強烈なモチベーションになるんだ。実際、コントーションズが成功してからは、それを見たジャズ・ミュージシャン達が真似したがったよ(笑)。俺もロックのクラブでプレイして儲けたい、ってね。まぁ、ジャズのミュージシャン達全員に無視されたわけじゃなくて、僕とプレイしてのちにディファン
クトを始めたジョー・ボウイとか、Bobo Shawってやつとか、僕を受け入れてくれた人たちもいたよ」
●先ほど方にジェイムス・ブラウンの名前も出てきましたが、今の自分の音楽観だったり、アティチュードを作ってくれた、ルーツになったようなアーティストなりレコードっていうのは、どういうものになりますか。
「12、13歳頃に初めて大好きになった音楽はロックンロールだったんだ。1965年前後の、特にイギリスのグループだね。ローリング・ストーンズ、ヤードバーズ、アニマルズ、スペンサー・デイヴィス・グループ。どれも黒人音楽に影響されてるグループだった。それとアメリカではヤング・ラスカルズ、ミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズ、クエスチョン・マーク&ザ・ミステリオンズ……。ロックンロール 以外ではジェイムス・ブラウンを聴いてたんだけど、特に入れ込んだのは数年後、17、18歳頃だったんだ。特に気に入ってた曲は“Super Bad”だった。ファンクのビートの上に、フリージャズ風のサックスソロが乗せてあって。もしコントーションズの元となったものを一つだけ挙げるとしたら、その曲になるんじゃないかな」
●当時のあなたのライヴは凶暴というか強烈なものだったと聞いていますが、その頃のエピソードで一番「無茶やったな」というか、思い出したくもない強烈な(笑)ものっていうのがあれば教えて欲しいんですけれども。
「ええっと、そうだな……。よく言われるのは、ある音楽評論家を殴った時のことかな。ロバート・クリストゴー(Robert Christgau)という、アメリカでは有名なロック評論家がガールフレンドと一緒に僕のショーを観に来てて、僕がオーディエンスの中へ入って彼女の方を小突いたんだ。そしたら、そいつが彼女をかばってやり返してきて。この時のことは結構、語りぐさになったみたいだよ。それとか……ある時、逆に客に打ちのめされてね。ニタッと笑いながら殴ってきて、しばらく気を失ったんだ。そのことがあってから、もう観客を攻撃するのはほどほどにしよう、って思ったよ」
●アハハ。
「特に最低なことを思い出したけど、ロンドンで大きなショーがあった時、若い黒人ばかりのバンドとやってて――まだ一緒にやり始めたばかりで、ニューヨークを出たこともないようなやつらだったんだけど――なんと空港に誰も来なかったんだ。何の連絡もなしに、いきなり全員バンドを辞めてしまった。だからロンドンに着いたら、一日でミュージシャンをかき集めなくちゃならなくなって。あれは悪夢だったな。ただ実際、キース・レヴィンっていうギタリストを知ってる? P.I.L.の。その時のショーでは彼がギターを弾いてくれたんだよね」
●へえ。もしかして、ジョン・ライドンと交流とかあったんですか。
「いや、彼とは会ったことないんだ」
●今回は初来日ということなんですけれど、少なくともブランクはあったと思うんですよ、ミュージシャ
ンとして。再びやろうと思い立ったきっかけというのは、何だったんでしょうか?
「90年代の半ばにヘンリー・ロリンズが立ち上げたレーベルで、僕の古い作品が何枚かリイシューされたのが、また音楽をやってみる口実というか理由になってくれた感じだね。基本的に、音楽以外のことをやりたい気持ちはあまりないんで、必然的な結果だったんじゃないかな。永久的に引退することは考えてなかったよ」
●今日は初めてライヴを観させてもらうんですけれども、70年代、80年代にあったコントーションズと、2000年代のコントーションズでは、どの辺が変わっていますか?
「オリジナル・バンドであることは変わらないんだ。ジョディ・ハリス、ドラマーのドン・クリスチャンセン、パット・プレイス。みんな一番最初のコントーションズにいたメンバーだよ。ベースだけはオリジナル・メンバーが1980年に亡くなってるんで変わってるけどね。生存メンバーは全員揃ってる」
●一番の違いと、逆に変わらないものは何でしょうか。
「音楽的に?」
●音楽的にも、つまり自分の気持ちの中での。
「ああ、そうだな……。オリジナル・バンドは、とげとげしい関係になって解散したんだ。喧嘩が絶えなくなってね。それが今では、またいい友人同士に戻ってる。昔のことは、もうずいぶん時間が経ってるんだし、すっかり水に流してしまったよ。いい状態になれたと思う」
●昔喧嘩別れして、また再び集まって音を鳴らした瞬間というのはどうだったんでしょう? 何か感慨深いものがありましたか?
「問題なく、また一緒になれた感じだったね。ことの発端は、サンフランシスコに住んでるファンの女の子がニューヨークに来て、オリジナル・メンバーでのショーをサンフランシスコで実現させたい、と言ってきてね。その決意の固さは、メンバー全員に個別に直接電話をかけてしまうほどだったんだ。その子にみんな言いくるめられて本当に実現しちゃったってわけ。やってみたら、意外とお互いにうまくやっていけたんだよね。それから数年経って、あっちこっちのフェスティバルとかからオファーが来るようになって、集まるようになった。そんなにしょっ中じゃないけどね。年に数回っていうペースでの活動だから」
●本人の中では、コントーションズが戻ってきたという感じなんでしょうか。それとも、まったく新しいバンドとして今やってるんだ、ということなんでしょうか、感覚的には。
「まぁ、コントーションズが戻ってきた、って感じだね。プレイしてるのはほとんどが昔の曲だし。でもいつか新しいレコードを作りたいと思ってるよ。新曲を書いてこのバンドでレコーディングしたいね。このバンド以外でも、ターミナル・シティとか、他のプロジェクトはいろいろやってて、そっちではコントーションズとはまったく違う音楽をやってるんだけどね」
●今回の来日が決まった一つの要因だと思うんですが、最近はニュー・ウェイヴとかあの時代の音楽が若いリスナーに再評価されるとか、若いバンドがリスペクトしたりとか、そういった、一昔前だったら考えられないような状況が今あると思うんですが。そういった再評価に関してはどういう風に受けとめていますか。
「もちろん嬉しいことだと思ってるよ。ただ、ミュージシャンだったらもっと遡って聴くべきだとも思うんだよね。60年代とか……さらにもっと古いものとか。僕自身……なるべく自分の音楽をピュアに保つために、いつもルーツに遡ってる。例えば、個人的には、1975年以降に作られた音楽はほとんど聴いてないんだ」
●ああ、そうなんですか。ぶっちゃけ、その……自分は早すぎた存在だったと思いますか。ようやく周りの評価が追いついた、みたいな。
「そうともいえるかもしれないね。思い出すのは、僕が最初の成功を味わってから、その後の音楽業界は、80年代から90年代にかけて、ものすごく保守的になってたことで、その頃は僕のようなアーティストに対する関心は薄れてたんだ。今また関心を持ってくれる人たちが出てきて、よかったなって思ってるよ。僕としても音楽活動を続けていきたいからね」
●さっき1975年以降は聴いてないと言っていたけど、なんで聴いてないんですか。
「75年以前の音楽が好きだからだよ。自分にとって意味のある音楽は、75年以前の音楽なんだ。今はバンドの数も多いし……新しい音楽を吟味してたら日が暮れてしまう。それだけでフルタイムの仕事になるよ。本当に好きなものが見つかるのは稀だしね。自分にとって意味のある音楽に集中してたいんだよ」
●今自分がコントーションズとしてやっているものは、1975年以前の音楽のフィーリングを再現してる
というか、音楽が純粋なものだった時代のものを自分なりに表現してる、という感覚なんでしょうか。
「いや、僕の音楽は僕の音楽だよ。他の誰の音楽とも関係がない。僕自身のヴィジョンを再現したもので、特に定義とかは……何かのムーヴメントに属してるとは思ってないしね。ただ……自分を定義するとすればエンターテイナーだと思ってる。ビシッと衣装を決めて、踊ったりもして、人々のためにショーを繰り広げる、っていう、古い意味での。ただステージに立って演奏するだけじゃなくてね。今は多くのバンド が、エンターテインメント性を失ってしまってると思う。僕としては、イノヴェイターであることよりも、エンターテイナーであることの方に誇りをもってるんだ」
●では、最後の質問になります。今度、ターミナル・シティの新作が出ると伺ったんですけれども、それはどういったものになるのか、教えてください。
「うん。コントーションズよりジャズの要素が強いものになるよ。楽器もアコースティックで。アコースティック・ベース、ビブラフォン、アコースティック・ピアノ、テナーサックスが入っていて……そして僕自身はアルトサックスとピアノを担当してるんだ。ジャズ以外に、40年代~50年代のR&Bにも影響された音楽なんだ。スクリーミン・ジェイ・ホーキンズとか、いわゆるブルース・シャウターと呼ばれた人たちに ね。さらに、フィルム・ノワールというジャンルの映画をイメージした音楽でもあるんだ。アメリカの40年代から50年代初めの白黒映画で、犯罪サスペンスが多い、暗いものなんだけどね」
●ありがとうございました。今日はライヴを楽しみにしています。
「どういたしまして」
(2005/10)
(※極私的2000年代考(仮)……ポスト・ノー・ウェイヴはアンダーグラウンドを疾駆する)
(※極私的2000年代考(仮)……ノー・ウェイヴの記録)
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