2013年1月31日木曜日

2013年の熟聴盤①


・ Atoms For Peace/AMOK
・ Doldrums/Lesser Evil
・ Vinyl Williams/Lemniscate
・ Sculpture/Slime Code
・ Simon12345 & The Lazer twins/If I stay here, I'll be alone
・ Motion Sickness Of Time Travel/The Perennials
・ Noveller/Artifact
・ Chelsea Light Moving/Chelsea Light Moving
・ Buke and Gase/General Dome
・ Ela Orleans/Tumult In Clouds
・ Grouper/The Man Who Died In His Boat
・ Forma/OFF/ON
・ A$AP Rocky/LongLiveA$AP
・ Sculpture/Slime Code
・ Nick Cave & The Bad Seeds/Push The Sky Away
・ Extra Life/Dream Seeds
・ The Slaves/Ocean on Ocean
・ Thao & the Get Down Stay Down/We the Common
・ Foals/Holy Fire
・ Greg Fox/キツネ外人
・ 坂本慎太郎/まともがわからない
・ mori wa ikiteiru/Foam of the Daze
・ Mister Lies/Mowgli
・ cokiyu/Haku
・ Iceage/You're Nothing
・ Mountains/Centralia

2013年1月23日水曜日

2013年の小ノート(仮)……事の次第の私的雑感


年末に出たWIRE誌の2012年の総括特集にNot Not Funの主催者で自身もRobedoor名義で活動するブリット・ブラウン(※アマンダ・ブラウンの夫)がコラムを寄せていて、「最近はバンドよりもソロ・アーティストの方が活躍目覚ましい」と。いわくその理由は大雑把にふたつあり、ひとつは経済的な問題。音楽産業がビジネスとして縮減していく近年、「バンド」という複数の人間が時間的・物理的に拘束される(だけの対価や費用が必要とされる)活動形態を維持することの難しさ。そして、もうひとつがテクノロジーの進歩。プロトゥールズしかりソフトウェアや宅録機材の向上および安価で簡便な入手が可能となり(高額なスタジオ費用や人手を要することなく)もたらされた制作環境の充実。つまり今のご時世、音楽を始めようと思ったら、小遣いを貯めてギターを手に入れて、さらに音楽の趣味が合う、かつ楽器を持っていて弾ける(※それ相応の経済力が伴うということでもある)知り合いを探して声をかけるよりも、中古のシンセをカスタマイズしたり、それこそフリー・ソフトをダウンロードしてネットにアクセスした方が、誰に気兼ねすることもなく自分のペースで自由(ノマド?)に好きなことができるし手っ取り早い、と。舞台はガレージからベッドルームへ。おまけに、YoutubeやMyspaceが主流のプラットフォームだった頃とは違い、レコード会社や誰かのフックアップを待つまでもなく、BandcampやSoundCloudを通じて自分で音源を販売して収入を得たり流通網を開拓することもできる――。ちなみにブリットは、そうした背景に関連して、最近のアンダーグラウンド・シーンでは夫婦で活動するミュージシャンが増えていることについても触れていて、また同誌には(※JandekやGrouperなど)近年注目を集めるリトルプレスや自主リリースされる作品の現状についてレポートした記事も掲載されていて興味深い。
はたしてブリットの指摘は、海外の音楽シーン全般もしくは現在のUSアンダーグラウンド・シーンについてのみ言及されたものなのか。そういえば、最近は話題を集めるのは専らソロ・アーティストだけでロック・バンドは不遇の時代だ、みたいな記事も身の回りで見かけたりした。まあそれはともかく、このブリットのコラムを読んでいて思ったのは、もしかしたらこれはけっして海の向こう側に限った話ではなく、今、目の前で起きていることについても多少なりとも当てはまる部分があるのでは、ということだった。
たとえばそれは、かつて音楽だけで飯が食えた時代があり……実際にそれがいつ頃までの時期のことなのか、という話はさて置き……そうした将来を、おぼろげながらも夢見ることができた頃とは状況が変わり、今のご時世、「バンド」がメンバーの足並みを揃えながら活動を継続することが相当にシビアであることは想像に難くない。もちろんその厳しさは「バンド」に限らずソロ・アーティストだって、音楽に関わるすべての職業について言えることかもしれないが、ともかく、バンドの解散やメンバーの脱退等の背景からは、ブリットのコラムにもあるように経済的な問題だったり家族の都合、それに伴う精神的なストレス……とさまざまな事情が透けて見える。
ただ、そうした話とはまた全く別に、あくまで外野の立場から目の前で起きている出来事を見ていて思うのは、そうしてバンド・メンバーが欠けたり個々の都合でライヴにメンバーが揃わなかったりといった際に、たとえば誰か他所のミュージシャンがそこにサポートで参加したり、バンド側が共演者を迎えたり、あるいはその穴を埋めるために残りのメンバーが新たな楽器演奏の技術を習得したり、その度に従来とは異なる楽器編成で演奏することが続いたり、またヘルプとして他のバンドで客演を重ねる過程でマルチ・インストゥルメンタリストになったり……といったような、図らずも促された流動的な人の繋がりや複数化されたミュージシャンシップが、結果的にそこで生れる音楽自体の中身をより多彩でオリジナルなものへと活性化させている側面があるのでは、と。つまり可能性の話として、仮に誰もかけることなく安定して「バンド」活動を継続することができていたとしたらあり得なかっただろう、想像もできなかった“豊かさ”が、今目の前にはあるんじゃないか。
もちろんこれはあくまで自分の想像で、実際に誰かに聞いて確かめてみたわけでもなく、当事者からすればいやいや自分たちはそんなつもりじゃないし、なりゆきだったり、フレンドシップや純音楽的な動機からそうなったわけで……ということなのかもしれないけど、繰り返すがあくまで外野の人間によるひとつの見立てとして……あえて言葉を選ばずにいえば、ある種の“貧しさ”が“豊かさ”を育んでいる、というか、ある意味“貧しさ”が“豊かさ”を担保している、というような状況があるようにも個人的には思っている。だからといってブリットが指摘するように、「バンド」よりもソロ・アーティストの方が活況だ、というわけではけっしてないし、むしろ魅力的で目覚ましい「バンド」は枚挙に暇がないわけだけど、ただ見ていて、「バンド」という形態が従来とは違ってより自由でフリーフォームなものとして捉え直されている、という傾向はもしかしたら言えるのかもしれない、とか。環境が質を変える……じゃないが、話は変わるけどたとえば昨今の宅録系アーティストの活況というのも、引き籠り云々とかいった作り手の内面の問題というよりは(「ストリートの生存競争に敗れて彼らはベッドルームに~」とかなんとかみたいな意見も見かけたけど)、単純に自室にいながらにして音楽が作れて作品を発表できるインフラの整備がもたらしたものと見た方が、やはり自然だしと思うわけで。
そういえば少し前の話になるが、MM誌に掲載された、いわゆる“東京のインディー・シーン”についての特集記事を読んだ。立ち読みなので細かい内容まで覚えていないし、何をどう捉えようが個人の主観で勝手という前提の上であの記事に個人的な感想を言えるとしたら……それは70年代生まれの30代の自分には80年代生まれの20代の世代感覚とやらなど思いも寄らない、ということぐらいで、醒めてるとか諦念を抱えているとか平熱とか自意識がどうとかこうとか、そうした内面の問題には正直あまり興味がない。自分の関心は取り急ぎ上記のポイントに尽きるものであり(あくまで“東京のインディー・シーン”という話をザックリするなら。もちろん個別のアーティストやバンドへの関心は別にある。)、そもそも直近の出来事を世代で括ることに意味があるとは思えず、これは前にも書いたことだけど()、むしろ、世代もローカリティも超えた出会いや気づきにこそ今の東京の、いや“日本のインディー・シーン”の面白さや醍醐味はあるんじゃないかと個人的には思っている(敢えて言わせてもらえば、東京の30代のミュージシャンも相当に面白い)。それに余談だが、今の東京の80年代生まれの20代による音楽が「あくまでわかりやすくカジュアルで、誰でも楽しめてしまうポップスを最終的に目指そうとしている」とも自分には思えない。もちろん、状況をある程度整理するために焦点を絞り見取り図的なものを作ることは有意義ではあるだろうけど、そのためにはまだまだ聴かなければいけないし、見なければいけない、というのが自分の立場(まあだからといって、さも“現場”に回数足を運べば発言権が得られて説得力を増すかのような、アーティストとのバディ的な関係性をテコに語られる言葉については個人的に違和感を覚えるところでもあるわけだけど)。いや、今は“東京のインディー・シーン”という言葉の下に見失われてしまっている音楽に興味がある。
それと例の特集原稿についてもう一言いわせてもらえば、今の“東京のインディー・シーン”のアナロジーとして、(おそらくは90年代の)シカゴやアセンズ、あるいは2000年代のブルックリンのインディー・シーンが挙げられている点。というのも、例に挙げられた都市のインディー・シーンが、たとえばシカゴならトータスとか、アセンズならニュートラル・ミルク・ホテルやオブ・モントリオールとか、ブルックリンならアニマル・コレクティヴやダーティー・プロジェクターズといった顔役と呼べるようなバンドやアーティストがいて、さらに旗艦となるレーベル(Thrill Jockey、Elephant 6 etc)を中心に、そこからツリー状に伸びたり周りを同心円状に広がるようなイメージだとするなら、今の“東京のインディー・シーン”は――あえて比較するならまさにブリットがレポートした現在のUSアンダーグラウンドと似た、様々なレーベルを跨いでひとやミュージシャンシップをシェアしながら(つまりそうした“出会い”や“出入り”や“繋がり”を可能とする「場所」を自ら用意し、運営することで)個性的なバンドやアーティストが波状網状に群生している(もちろん現在のUSアンダーグラウンドにもNot Not FunやWoodsist、The Smellといった象徴的なスポットは存在するが)イメージに近い、と個人的には思う。それを“シーン”と呼んでいいのか(“磁場”という言葉も感覚的には近い気もするが)、その是非はさておき(というかこの種の議論は古今東西繰り返されてきたので意味がないと思う)、ある種の“コミュニティ”とも呼べそうな緩やかな連帯の光景がそこにありそうなことは外野から見ていて感じる正直なところ(そういえば以前ダーティー・プロジェクターズが“フリー・フォーク以降”のUSインディー・シーンについて「脱中心化が進んでいると思う」と話していたことを思い出す。それと当時のキーマンの一人だったクリス・コルサーノがフリー・フォークについて「地政学的な現象だ」と語っていたことも)。だから逆にいえば、個々のバンドやアーティストをピックアップして括ってしまうと全体が見なくなってしまうのでは、という気もする。


以上、2012年の個人的な総括。ベスト・ディスクの選出にかえて。
それと「私の2012年を告白」というお題で今回もスッパバンドのBBSに参加させてもらった)


“東京のインディー・シーン”を想像するときに個人的に思い返すのは、あるミュージシャンがブログに綴った「引き出しの引き出し合い」という言葉。これは他のミュージシャンと共演する際の心得らしきものなのだが、「引き出しの見せ合い」ではなく、あくまで「引き出し合い」というところに、今の“東京のインディー・シーン”の豊かさの源泉があるように思う。


ところで、去年の2月にシングル『期待』のリリース・イベントの一環で行ったホライズン山下宅配便のインタヴューが、ようやく形になりそうな見通しとのことです。

(2013/01)

2013年1月19日土曜日

極私的2000年代考(仮)……パティ・スミスの盟友が語る、NYパンク、CBGBについて


※アイヴァン・クラール(Ivan Kral、1948年 - )は、チェコ(出生当時はチェコスロバキア)出身のギタリスト、シンガーソングライター。アメリカに渡り、主にニューヨーク・パンクのシーンで活動。1994年にはチェコに戻る。
プラハ出身。1960年代中期にはSazeというバンドのメンバーとして活動するが、1968年にはチェコ事件の影響でアメリカのニューヨークに移る。1971年から1972年にかけて、アップル・レコードで働いていた。
ブロンディの前身バンドであるAngel and the Snakeに短期間籍を置いた後、パティ・スミスと出会い、1975年から1979年にかけて、パティのサポート・ギタリストとして活動。作曲面でも貢献し、パティとアイヴァンが共作した「Dancing Barefoot」(1979年のアルバム『ウェイヴ』に収録)は、後にU2やシンプル・マインズ等にカヴァーされた。また、1976年公開のドキュメンタリー映画『ブランク・ジェネレーション』では監督を務めた。
パティが結婚のため引退すると、アイヴァンはイギー・ポップのサポート・ギタリストとなり、イギーとアイヴァンが共作した「Bang Bang」は、後にデヴィッド・ボウイが『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』でカヴァーした。また、ジョン・ウェイトのアルバム『Ignition』(1982年)にも参加。1980年代中期にはEastern Blocというバンドを結成し、1987年にセルフ・タイトルのアルバムを発表。
1994年、故郷のプラハに戻る。1995年にはノエル・レディングのプラハ公演に参加し、当時のライヴ音源は、後にライヴ・アルバム『Live from Bunk R - Prague』として発表された。
1996年、初のソロ・アルバム『Nostalgia』発表。その後は、主にソングライターや音楽プロデューサーとして活動し、Trinyという女性コーラス・グループのデビュー作『Gipsy Streams』(2001年)等を手がけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイヴァン・クラール


●当時のCBGB、そしてニューヨークはあなたから見てどんな場所でしたか。
「今と違って、当時のニューヨークにはクラブってものが少なくてね。地元のバンドがプレイできるクラブは5軒ぐらいしかなかった。CBGB以外では、CLUB 100、MAX'S KANSAS CITY、クイーンズにあったCOVENTRYが主なクラブで、そういう所で演奏するバンド自体、ずっと少なかった。今のようにごまんといる状態ではなかったんだ (笑)。覚えてるのはニューヨーク・ドールズ、キッス、ブロンディー、パティ・スミス、テレヴィジョン、そして突如として現れたトーキング・ヘッズ。サーキットの限られた狭い世界だったから、バンド同士が固い友情で結ばれた親密な関係にあったんだよね。メジャーと契約しようとする奴もいなかったし……『知り合いがプレイす るんだけど、観に行かない?』って、誘い合ってライヴに行ったりする世界だったよ。
当時のCBGB界隈は、まるでネズミの巣のように酷くて。路上で強盗に遭うような、昼間は近寄れない場所だった。隣にはホームレスの宿泊 施設があったりね。その辺を酔っぱらいとヤク中がうろついてたし。CBGBの中でも、一日中入り浸って酒を飲んでるアル中が常時5人くらいいて。なかなか怖い所だったんだよ」

●当時の出来事でいちばん強烈に残っているエピソードは何ですか。またパティ・スミスも含めて、印象に残っているステージは?
「たくさんあるね……。思い出話をして自惚れに浸ることならいくらでもできてしまうな(笑)。あの頃は、最先端のクラブといえばMAX'S KANSAS CITYで、音楽業界の重要人物、アンディ・ウォーホールと取り巻き達、デヴィッド・ボウイ、イギー、ルー・リード……そういう人達がみんな通っていた。デカダンっぽくて、キラキラしてるのが MAX'S KANSAS CITYだったんだよ。下の階では席について飲食ができて、上の階には小さなステージがあった。そこではブロンディもイギーもプレイしたし、いつでもいきのいいバンドを観ることができたんだ。チープ・トリックなんかも出たばっかりの時にそこでやってたね。
一方CBGBは、内輪でしか知らないような場所だった。過度に有名になってしまうまではいつも5~10人位しか客がいなかったから、2ドル払えば必ず入れて、テレヴィジョンの一風変わったサウンドに魅了されることができた。あるいは、パティ・スミスが詩の朗読をしてた。あるいは、デボラ・ハリーがやっていたAngel and the Snakeを観ることができた。そんな場所だったから、彼らに気軽に話しかけられる雰囲気があって、ある日僕が『ギタリストいらない?』って言ったら『どうぞ』って(笑)。みんな自然に親しくなって、仲がよかったからね。まだ誰も知らない、隠れたシーンだったんだ。ある種秘密結社のような感じ(笑)。そんなところがエキサイティングだったよ。
その頃、10th Street and Broadwayにある教会で、パティ・スミスとヨーコ・オノのパフォーマンスを観て、それが僕にとってのターニング・ポイントとなったんだ。14人ぐらいの詩人が次々に朗読していったんだけど、その中で、男の子か女の子か分からないけど、そんなことどうだっていいと思えるような人が、クレイジーなジェスチャーを交えながら、詩の断片を投げ散らかしてた。僕が強い衝撃を受けたその人がパティ・スミスだったんだ。その時はCBGBではなくて、CBGBから数ブロック離れた教会だったけどね。CBGBでの思い出といえば、例えばAC/DCがプレイしたのを覚えてるし、ポリスもプレイしてた。振り返ってみて一番ロマンティックに感じるのは、今は有名になってるバンドが、ほんの数人の観客の前で演奏してる光景を思い出すときだね。フロアに足を踏み入れた瞬間を思い出すんだ。いいバンドだなぁ、いつかビッグになるんじゃないか……と思いながら観てて、実際彼らはビッグになった。僕にとって本当に大切な思い出なんだ。……喋り過ぎたかな(笑)?」

●そんなことないです(笑)。実際、友人であるアーティストがビッグになっていくのを目撃するのは、どんな気持ちでしたか。
「チェコからの移民である僕にとっては、自分の名前がクレジットされてるアルバムを初めて手にとって見た時が、自分の夢が実現した瞬間だったんだよね(笑)。それが、それまでの人生のすべてだった。パティ・スミスと仕事をして、彼女がとんでもなくオリジナルなアーティストだってことを思い知ったんだ。彼女の詩、イメージ、カリスマ性、すべてが前代未聞だった。レコーディングから30年経った今でも、自分 にとって重要な作品だよ。個人的には、アメリカでレコーディングができたこと自体、本当にラッキーだったと思ってるよ」

●パティ・スミスとのエピソードで、なにかとっておきのものがあれば教えてください。
「パティと出会えたのはこの上ない幸運だったね。音楽業界で仕事をし始めるきっかけを作ってくれたのは彼女だし、一緒にいた5年間は、様々な思い出に彩られてるよ。1974年から始めて、彼女が家庭を持つことを決めた1979年まで一緒だったんだ。世界のいろんな国々を旅して回って、ステージに立って、大勢の人を楽しませることができたんだからね。僕は小さいころから、そして今でも、ローリング・ストーンズの大ファンなんだけど、ジョージア州のアトランタで、ストーンズのオープニングを務めたことがあってね。キャパが3000人ぐらいのフォックス・シアターという所で。ストーンズのためにセットアップされたステージに上がるっていうのは、なんとも感慨深い経験だった(笑)。大スターの前で緊張してるガキのような気分になったね。彼らは楽屋に挨拶に来てくれたし。一番の思い出だよ」

●あなたにとって、ターニング・ポイントになったと思われる出来事やライヴを挙げるとするなら?
「数え切れないよ。子供の頃に尊敬してた人達、例えばルイ・アームストロング、ペギー・リー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、ストーンズ……。ビートルズにも会えたんだよね。デヴィッド・ボウイやイギーと仕事ができたのも感慨深かったし、ボノとU2の人達とも親しくなれた。『Dancing Barefoot』を作ることができた。一部のシーンだけでなく、音楽業界そのものに関わることができたことを、すごく幸運に思ってる。今でも、いいバンドのメッカであるこのデトロイトで、ヴェルヴェット・リヴォルヴァーとかテッド・ニュージェント、ホワイト・ストライプスを観ることができて……我ながら本当に恵まれた男だと思ってる(笑)」

●今では伝説として語られているNYパンクですが、客観的に振り返ってもすごいシーン/時代だったと思いますか。
「パンク・ムーヴメントの一部としてとらえられるのは嬉しいことではあるんだけど、一方で、『ワン・コードしか知らないんだ』と自動的に思われてしまうのはちょっとね。確かに、僕らの仲間にはギターの弾けない奴が多かった。それは社会に対する怒りとかと関係あるんだけど。僕自身はそういう部分には共感できなかったんだ」

●そうなんですか。
「うん。まったくね。僕は音楽が好きなだけで、社会的なムーヴメントに関わることには興味がなかったんだよね。例えば、あの頃のバンドの内部についてニック・ケントが書いてる本なんかを読むと、恥ずかしくなっちゃうんだ。ライヴで演奏することにエキサイトしてたんだよ。パンクのライフスタイルに対してじゃない。鼻にピアスをすることがエキサイティングだとは、僕には思えなかった (笑)」

●NYパンクは、アートであり、ロックンロールでありパンクであり、文学であるという、 その後に起きたロンドン・パンクとも、現在にいたるまでのあらゆるシーンやムーヴメントとも異なるユニークなものだったと思いますが、当事者であるあなたから見て、NYパンクのもっとも革新的だったところ、ユニークだったところは何だと思いますか。
「もっとも革新的だったのは、パティの存在だね。彼女はオリジナルだったし、あのシーン全体を体現してた。耐久力もすごいしね。多くのバンドは、メンバーが亡くなった場合を除くと、自己破壊な行為で自滅していったけど、彼女は今でも活躍してる。僕がパティに惹かれたのは、詩の才能ももちろんだけど、3コード・ソングに留まらず、幅広い分野の芸術に興味を持ってたことが大きかったんだ。絵も書けば、本も書くし、僕と同じく仏詩、英詩、米文学にも造詣が深くて、写真にも興味を持っていた。退屈してる暇がない人なんだ(笑)。僕は同じような人間には一人しか会ったことがないんだけど、それはデヴィッド・ボウイだった。彼も文学や映画の話がいくらでもできる人でね。とにかくパティは、レコーディングだけじゃなくて他にも常にいろいろやってて、本当にすごい人だと思う」

●ニューヨークという街、CBGBという場所がなければ、あのシーンは誕生し得なかった?
「CBGBでなかったら他のクラブで同じようなことが行われたんじゃないかな。無名のバンドに演奏するチャンスを与えてくれたクラブは他にもいくつかあったから。でも、CBGBは特にオープンなクラブだったね。レコード契約をして去っていくバンドもあれば、新しいバンドが次々に入ってきて。才能あるバンドにとって扉を開けてくれるクラブだったんだ。ロングアイランド、クイーンズ、ブルックリンを含めたニューヨークのバンドが出演するハコだった。それが今では、一晩に5~6バンド演奏するのが普通だからね(笑)。クレイジーだよ。トーキング・ヘッズやブロンディー、パティがレコード会社とサインしてからは、すべてが変わったんだよね」

●ニューヨーク・シティの特殊性のようなものが影響したと思いますか。
「生き残るのがタフな都市、ってことはあると思う。学歴がないといい仕事に就けなかったり。たぶん、当時より今の方がタフになっているだろうけど……時代が違うから。あの頃は、ディスコに対する反発の意味もあったんだ。当時のパンク・バンドは、ディスコ・ブームのハッピーでヤッピーなスタイルに対抗して、自分達のファッションを編み出してたからね。そして、同じ志のバンドがCBGBに集まった。そういうことだよ。レコード契約がないバンドがプレイできるハコは限られてたからね。クラブが限りなくある今では信じられない話だけど(笑)。覚えてるのがCOVENTRYで同じ日に、キッスと、僕がやってたルーガーというバンドと、ビッチというバンドがプレイしたんだけど、ビッチというのは驚くなかれ、ジョーイ・ラモーンがフロントマンだったんだ(笑)。後で知ったんだけどね」

●あなたにとって“パンク”とは、どんな考えだったり価値、行動や生き方を指しますか。
「僕にとっては……うまく説明しにくいんだな。生い立ちからして、みんなと違うんだ。秩序を重んじる家庭環境に育ったもんでね。両親や社会を拒絶する必要性を感じることがなくて(笑)。ヨーロッパから移民してきて、ニューヨークの大学に行って、音楽活動をしながら常に他の仕事もしてた。だからクラッシュやセックス・ピストルズに共感することはなかったんだ。破壊活動や暴力には反対だったし、ドラッグにもアルコールにも同意できなかった。パティ・スミスのバンドでプレイしたのは何故かというと、彼女が知性的だったからだよ。パンク・ムーヴメントの一環として、ドラッグをやらなきゃならないとか、酔っぱらってステージに上がらなければならないとか、そういう考え方が理解できなかった。パンク哲学のそういう面とはまったく意見を異にしていたんだよ。ハイになってた方がいいプレイができるなんて、僕は信じてなかったからね。逆に、そういう危ない状態でステージに上がらない方がいい、と考えてたよ。彼らがその後どうなったか見てごらんよ。シド・ヴィシャスにしても、情けないじゃない。彼らは自分で自分を傷つけてた。僕はジョニー・サンダースがドラッグをやってたって当時は知らなかったよ。アシッドが蔓延してたなんて思わなかった。ギターを壊すための音楽なんて、さっぱり理解できなかったね。とてもじゃないけど。パティと一緒にやってたのは、彼女が真にオリジナルなことをやってたからなんだ。パンクの自己破壊性に未来はなかった。完全な袋小路だったんだよ。僕の友達の多くも悲劇的な末路を辿って……思い出すべきことが何もない。悲しいことにね……」

●パティ・スミスをはじめ、テレヴィジョンやリチャード・ヘル、デボラ・ハリー、デヴィッド・バーン、あるいはイギー・ポップなど、『ブランク・ジェネレーション』に収められているアーティストがあれから30年近くが過ぎた今でも音楽をやっている、表現に携わっているという事実について感慨はありますか? もちろん、ラモーンズのメンバーをはじめ失われたものも、またこの30年の間で大きかったわけですが……。
「もちろん、心からよかったなと思うよ。最初は可愛いだけだと思われてたのにあんなに成功したデビー・ハリーや、周辺の人達の死を乗り越えて立派に子育てをして今も活躍してるパティを見て、本当に嬉しく思うね。デヴィッドバーンにはプラハで会ったばかりなんだけど、素晴らしい仕事をしてると思う。イギーには最近もニューヨークで会ってハグを交わした。サヴァイヴしてきてる古い友人がいるのは本当に素晴らしいことだよ。死なずに頑張ってくれてくことが嬉しいね(笑)。そして6月にはロンドンでパティと会う予定なんだ。MELTDOWN FESTIVALに招かれてね。彼女の『HORSES』のリリース30周年を記念するライヴもあるんだ。だから……僕は今すごくハッピーだよ(笑)」

●最後に、あなたにとってCBGBとは、ニューヨークとは、あるいはNYパンクという時代とは、どういった存在/記憶であるのか、教えてください。
「僕の人生における、とてもロマンティックな時代。チェコからの移民である自分に、プロの音楽家としてやってみる機会が与えられ、アメリカで初めてのアルバムを制作することができたんだからね。ロマンティックかつノスタルジックな気分で思い出されるよ」


(2005/03)


(極私的2000年代考(仮)……リチャード・ヘルが語る26年目の“ブランク・ジェネレーション”)
(極私的2000年代考(仮)……ジョン・ケイル、語る。)
(極私的2000年代考(仮)……ジェームス・チャンスとの対話)

2013年1月9日水曜日

2013年1月のカセット・レヴュー(随時更新予定)


◎Coyote Clean Up/Frozen Solid
デトロイトの100%シルカー。女性Voを乗っけたシンセ・ポップというレーベル・カラーを押さえつつ、ドローンやダブやアシッドハウス、さらにMachinedrumも連想させるベース・ミュージックを展開しながら地熱を上げるようなピークの持続感がナイス。

◎Water Lily Jaguar/Kipona Aloha For The Reef Spirits
シンセと波の音が揺らめきながら交差するDolphins Into The Future系のフローティング/アンビエント。深海と成層圏の間を漂うようなエアリアル・ドローン。

◎Pan/Discovery Plane
去年もDigitalisは楽しませてくれた。そこの限定ラインから。レトロ・フューチャー、という言葉が醸し出すどうしようもなくチープで古臭いSF映画のサウンドトラックというか、チップチューンや8ビットのゲーム音楽に感覚は近い。ピコピコのポワンポワン。シンセの音ってどうデコレートしたところ致命的に安くて軽い。

◎Felicia Atkinson/A River
昨年は例年以上の繁忙期を迎えた、パリ~ブリュッセルを往来する女性アンビエント作家。Motion Sickness Of Time Travelと並んで彼女の場合も量が質を支えているような節があり、レイヤーを重ねた鈍く眩いアンビエントは底の見えない深い河を陶然と曳航するよう。

◎Miami Angels In America/a Public Ranking
ボルチモアの男女デュオ。Night Peopleのレーベル・オーナーでもあるRaccoo-oo-oonをアンビエント/ドローンのペーストでどろどろと煮込んだような混沌。鍋底にこびり付いた澱にはSunburned Hand Of The Manを思わせるフリー・フォークの残滓も感じられ、思いのほか芳醇。

◎Angelo Harmsworth/Silent Orgasm
静かなる性的絶頂、か。Batheticのレーベル・カラーにふさわしく(去年でいえばPadang Food Tigersのアルバムが素晴らしかった)ややフォーキー・テイストなミニマル~エレクトロニック・ミュージックのやわらかな美観を描きながら、フェネスも引き合いに出されるアンビエント~ギター・シューゲイズとの臨界点を示す。前作が『Endless Summer』なら今作は『Venice』という例えにも頷ける。

◎Netherfriends/Alap
本名をShawn Rosenblattという男性ドローン作家。正規作品ではなくアウトトラック/デモ集的な趣きが強く、なんでもシカゴのヨガ教室での体験にインスピレーションを得て制作されたというアンビエント~ドローンの断片をコンパイル。

◎Nag Dolly/Pomander
テープ・エコーとループを操りポップスの砂上の楼閣を作り上げる愉快犯。初期のアリエル・ピンクとVaporwaveの間隙を突くような脱力した匙加減。





◎The Aloha Spirit/Under Wild Skies
“オースチンのPanabrite”ことBrad Barryのプロジェクト。シンセのループをひたすら重ねた微睡の瞑想音楽。アロハとは「息の存在」や「生命の息」の意、その精神とは「自己完全に達し、自己の愛と精神を理解するということ」とか。


◎Brother Sun, Sister Moon/S/T

個々でも活動する(たぶん)男女デュオ。アンビエントなピーター・ポール&マリーというか、チョップド&スクリュードなCeler、というか。アートワークもよい。

◎Femminielli/Carte Blanche Aux Desirs
Night Peopleからカセットで再発されたモントリオールのシンセ奏者。Digitalis100%Silkを繋ぐ……といったら見積もり高過ぎかもだが、、 ポップ/ダンスへの誘惑がアンダーグラウンドの様々な場所で花咲き始めていることがあらためて窺えるモダン・シンセ・ディスコ。


◎Mohave Triangles/Eternal Light Of The Desert Plateaus
Hooker Visionの豊作を物語るRobert Thompsonの新作。砂漠のBarn Owlか荒野のSix Organs of Admittanceか。濃厚極まるモダン・サイケデリック・ドローン。


◎Thoughts On Air/Glow On
Hobo Cultからのリリースでお馴染みScott Johnsonによるプロジェクト。ギター・ループやエフェクト、シンセを絡めて紡ぐ『Endless Summer』のエアリアル・ヴァージョン。

◎hamaYôko/La Tour des crânes
アントワープに拠点を置くMale Bondingから。おそらくは日系女性アーティストの作品。フィーヴァー・レイとベス・ギボンズと吉田美奈子?の間を埋めるperformer/vocalist/choreographer/dancer。真夜中のゴシック・ダーク・ブルース。



◎Lazy Magnet/Crystal Cassette

ライトニング・ボルトを輩出したプロヴィデンス・ロードアイランドから。リリースはNight People。ゲイリー・ニューマンがトランザムのフィル・マンレイのプロデュースで100 Silkからリリースしちゃったような、ダウナーなアンダーグラウンド・シンセ・ディスコ。

◎Dozens/Ultraseamatic
Francis (Hobo Cubes) & Ryan (Sundrips) によるコラボ。しゅわしゅわーと喉の仏を潤す微炭酸のような、鈍色でドリーミーなエレクトロ・シューゲ~ギター・アンビエント。




◎Europa Rural/Berlenga/Split

イルカとプーチンのレーベルEXO TAPESから。ボンゴやカリンバがビートを叩く亜熱帯のフローティング・アンビエント。黄昏時のビーチを漂うUniversal Studios Floridaというか。

◎Bedroom Bear/Wind In Willows/Split
hooker visionから。 ロシアのふた組によるスプリット。日本語のスピーチがループするフォーキー・アンビエント。シンセが絡み合うピーキーなエレクトロ・チューンも。


















(2012年の熟聴盤(カセット・リリースBEST 30+α))
2012年12月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年11月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年10月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年9月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年8月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年7月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年6月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年5月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年4月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年3月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年2月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2012年1月のカセット・レヴュー(随時更新予定))
2011年の熟聴盤(カセット・リリースBEST 30+2))
極私的2010年代考(仮)……“カセット・カルチャー”について)
極私的2010年代考(仮)……2010年夏の“彼女たち”について)