2013年1月23日水曜日
2013年の小ノート(仮)……事の次第の私的雑感
年末に出たWIRE誌の2012年の総括特集にNot Not Funの主催者で自身もRobedoor名義で活動するブリット・ブラウン(※アマンダ・ブラウンの夫)がコラムを寄せていて、「最近はバンドよりもソロ・アーティストの方が活躍目覚ましい」と。いわくその理由は大雑把にふたつあり、ひとつは経済的な問題。音楽産業がビジネスとして縮減していく近年、「バンド」という複数の人間が時間的・物理的に拘束される(だけの対価や費用が必要とされる)活動形態を維持することの難しさ。そして、もうひとつがテクノロジーの進歩。プロトゥールズしかりソフトウェアや宅録機材の向上および安価で簡便な入手が可能となり(高額なスタジオ費用や人手を要することなく)もたらされた制作環境の充実。つまり今のご時世、音楽を始めようと思ったら、小遣いを貯めてギターを手に入れて、さらに音楽の趣味が合う、かつ楽器を持っていて弾ける(※それ相応の経済力が伴うということでもある)知り合いを探して声をかけるよりも、中古のシンセをカスタマイズしたり、それこそフリー・ソフトをダウンロードしてネットにアクセスした方が、誰に気兼ねすることもなく自分のペースで自由(ノマド?)に好きなことができるし手っ取り早い、と。舞台はガレージからベッドルームへ。おまけに、YoutubeやMyspaceが主流のプラットフォームだった頃とは違い、レコード会社や誰かのフックアップを待つまでもなく、BandcampやSoundCloudを通じて自分で音源を販売して収入を得たり流通網を開拓することもできる――。ちなみにブリットは、そうした背景に関連して、最近のアンダーグラウンド・シーンでは夫婦で活動するミュージシャンが増えていることについても触れていて、また同誌には(※JandekやGrouperなど)近年注目を集めるリトルプレスや自主リリースされる作品の現状についてレポートした記事も掲載されていて興味深い。
はたしてブリットの指摘は、海外の音楽シーン全般もしくは現在のUSアンダーグラウンド・シーンについてのみ言及されたものなのか。そういえば、最近は話題を集めるのは専らソロ・アーティストだけでロック・バンドは不遇の時代だ、みたいな記事も身の回りで見かけたりした。まあそれはともかく、このブリットのコラムを読んでいて思ったのは、もしかしたらこれはけっして海の向こう側に限った話ではなく、今、目の前で起きていることについても多少なりとも当てはまる部分があるのでは、ということだった。
たとえばそれは、かつて音楽だけで飯が食えた時代があり……実際にそれがいつ頃までの時期のことなのか、という話はさて置き……そうした将来を、おぼろげながらも夢見ることができた頃とは状況が変わり、今のご時世、「バンド」がメンバーの足並みを揃えながら活動を継続することが相当にシビアであることは想像に難くない。もちろんその厳しさは「バンド」に限らずソロ・アーティストだって、音楽に関わるすべての職業について言えることかもしれないが、ともかく、バンドの解散やメンバーの脱退等の背景からは、ブリットのコラムにもあるように経済的な問題だったり家族の都合、それに伴う精神的なストレス……とさまざまな事情が透けて見える。
ただ、そうした話とはまた全く別に、あくまで外野の立場から目の前で起きている出来事を見ていて思うのは、そうしてバンド・メンバーが欠けたり個々の都合でライヴにメンバーが揃わなかったりといった際に、たとえば誰か他所のミュージシャンがそこにサポートで参加したり、バンド側が共演者を迎えたり、あるいはその穴を埋めるために残りのメンバーが新たな楽器演奏の技術を習得したり、その度に従来とは異なる楽器編成で演奏することが続いたり、またヘルプとして他のバンドで客演を重ねる過程でマルチ・インストゥルメンタリストになったり……といったような、図らずも促された流動的な人の繋がりや複数化されたミュージシャンシップが、結果的にそこで生れる音楽自体の中身をより多彩でオリジナルなものへと活性化させている側面があるのでは、と。つまり可能性の話として、仮に誰もかけることなく安定して「バンド」活動を継続することができていたとしたらあり得なかっただろう、想像もできなかった“豊かさ”が、今目の前にはあるんじゃないか。
もちろんこれはあくまで自分の想像で、実際に誰かに聞いて確かめてみたわけでもなく、当事者からすればいやいや自分たちはそんなつもりじゃないし、なりゆきだったり、フレンドシップや純音楽的な動機からそうなったわけで……ということなのかもしれないけど、繰り返すがあくまで外野の人間によるひとつの見立てとして……あえて言葉を選ばずにいえば、ある種の“貧しさ”が“豊かさ”を育んでいる、というか、ある意味“貧しさ”が“豊かさ”を担保している、というような状況があるようにも個人的には思っている。だからといってブリットが指摘するように、「バンド」よりもソロ・アーティストの方が活況だ、というわけではけっしてないし、むしろ魅力的で目覚ましい「バンド」は枚挙に暇がないわけだけど、ただ見ていて、「バンド」という形態が従来とは違ってより自由でフリーフォームなものとして捉え直されている、という傾向はもしかしたら言えるのかもしれない、とか。環境が質を変える……じゃないが、話は変わるけどたとえば昨今の宅録系アーティストの活況というのも、引き籠り云々とかいった作り手の内面の問題というよりは(「ストリートの生存競争に敗れて彼らはベッドルームに~」とかなんとかみたいな意見も見かけたけど)、単純に自室にいながらにして音楽が作れて作品を発表できるインフラの整備がもたらしたものと見た方が、やはり自然だしと思うわけで。
そういえば少し前の話になるが、MM誌に掲載された、いわゆる“東京のインディー・シーン”についての特集記事を読んだ。立ち読みなので細かい内容まで覚えていないし、何をどう捉えようが個人の主観で勝手という前提の上であの記事に個人的な感想を言えるとしたら……それは70年代生まれの30代の自分には80年代生まれの20代の世代感覚とやらなど思いも寄らない、ということぐらいで、醒めてるとか諦念を抱えているとか平熱とか自意識がどうとかこうとか、そうした内面の問題には正直あまり興味がない。自分の関心は取り急ぎ上記のポイントに尽きるものであり(あくまで“東京のインディー・シーン”という話をザックリするなら。もちろん個別のアーティストやバンドへの関心は別にある。)、そもそも直近の出来事を世代で括ることに意味があるとは思えず、これは前にも書いたことだけど(※※※)、むしろ、世代もローカリティも超えた出会いや気づきにこそ今の東京の、いや“日本のインディー・シーン”の面白さや醍醐味はあるんじゃないかと個人的には思っている(敢えて言わせてもらえば、東京の30代のミュージシャンも相当に面白い)。それに余談だが、今の東京の80年代生まれの20代による音楽が「あくまでわかりやすくカジュアルで、誰でも楽しめてしまうポップスを最終的に目指そうとしている」とも自分には思えない。もちろん、状況をある程度整理するために焦点を絞り見取り図的なものを作ることは有意義ではあるだろうけど、そのためにはまだまだ聴かなければいけないし、見なければいけない、というのが自分の立場(まあだからといって、さも“現場”に回数足を運べば発言権が得られて説得力を増すかのような、アーティストとのバディ的な関係性をテコに語られる言葉については個人的に違和感を覚えるところでもあるわけだけど)。いや、今は“東京のインディー・シーン”という言葉の下に見失われてしまっている音楽に興味がある。
それと例の特集原稿についてもう一言いわせてもらえば、今の“東京のインディー・シーン”のアナロジーとして、(おそらくは90年代の)シカゴやアセンズ、あるいは2000年代のブルックリンのインディー・シーンが挙げられている点。というのも、例に挙げられた都市のインディー・シーンが、たとえばシカゴならトータスとか、アセンズならニュートラル・ミルク・ホテルやオブ・モントリオールとか、ブルックリンならアニマル・コレクティヴやダーティー・プロジェクターズといった顔役と呼べるようなバンドやアーティストがいて、さらに旗艦となるレーベル(Thrill Jockey、Elephant 6 etc)を中心に、そこからツリー状に伸びたり周りを同心円状に広がるようなイメージだとするなら、今の“東京のインディー・シーン”は――あえて比較するならまさにブリットがレポートした現在のUSアンダーグラウンドと似た、様々なレーベルを跨いでひとやミュージシャンシップをシェアしながら(つまりそうした“出会い”や“出入り”や“繋がり”を可能とする「場所」を自ら用意し、運営することで)個性的なバンドやアーティストが波状網状に群生している(もちろん現在のUSアンダーグラウンドにもNot Not FunやWoodsist、The Smellといった象徴的なスポットは存在するが)イメージに近い、と個人的には思う。それを“シーン”と呼んでいいのか(“磁場”という言葉も感覚的には近い気もするが)、その是非はさておき(というかこの種の議論は古今東西繰り返されてきたので意味がないと思う)、ある種の“コミュニティ”とも呼べそうな緩やかな連帯の光景がそこにありそうなことは外野から見ていて感じる正直なところ(そういえば以前ダーティー・プロジェクターズが“フリー・フォーク以降”のUSインディー・シーンについて「脱中心化が進んでいると思う」と話していたことを思い出す。それと当時のキーマンの一人だったクリス・コルサーノがフリー・フォークについて「地政学的な現象だ」と語っていたことも)。だから逆にいえば、個々のバンドやアーティストをピックアップして括ってしまうと全体が見なくなってしまうのでは、という気もする。
以上、2012年の個人的な総括。ベスト・ディスクの選出にかえて。
(※それと「私の2012年を告白」というお題で今回もスッパバンドのBBSに参加させてもらった)
“東京のインディー・シーン”を想像するときに個人的に思い返すのは、あるミュージシャンがブログに綴った「引き出しの引き出し合い」という言葉。これは他のミュージシャンと共演する際の心得らしきものなのだが、「引き出しの見せ合い」ではなく、あくまで「引き出し合い」というところに、今の“東京のインディー・シーン”の豊かさの源泉があるように思う。
ところで、去年の2月にシングル『期待』のリリース・イベントの一環で行ったホライズン山下宅配便のインタヴューが、ようやく形になりそうな見通しとのことです。
(2013/01)
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