2013年1月19日土曜日

極私的2000年代考(仮)……パティ・スミスの盟友が語る、NYパンク、CBGBについて


※アイヴァン・クラール(Ivan Kral、1948年 - )は、チェコ(出生当時はチェコスロバキア)出身のギタリスト、シンガーソングライター。アメリカに渡り、主にニューヨーク・パンクのシーンで活動。1994年にはチェコに戻る。
プラハ出身。1960年代中期にはSazeというバンドのメンバーとして活動するが、1968年にはチェコ事件の影響でアメリカのニューヨークに移る。1971年から1972年にかけて、アップル・レコードで働いていた。
ブロンディの前身バンドであるAngel and the Snakeに短期間籍を置いた後、パティ・スミスと出会い、1975年から1979年にかけて、パティのサポート・ギタリストとして活動。作曲面でも貢献し、パティとアイヴァンが共作した「Dancing Barefoot」(1979年のアルバム『ウェイヴ』に収録)は、後にU2やシンプル・マインズ等にカヴァーされた。また、1976年公開のドキュメンタリー映画『ブランク・ジェネレーション』では監督を務めた。
パティが結婚のため引退すると、アイヴァンはイギー・ポップのサポート・ギタリストとなり、イギーとアイヴァンが共作した「Bang Bang」は、後にデヴィッド・ボウイが『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』でカヴァーした。また、ジョン・ウェイトのアルバム『Ignition』(1982年)にも参加。1980年代中期にはEastern Blocというバンドを結成し、1987年にセルフ・タイトルのアルバムを発表。
1994年、故郷のプラハに戻る。1995年にはノエル・レディングのプラハ公演に参加し、当時のライヴ音源は、後にライヴ・アルバム『Live from Bunk R - Prague』として発表された。
1996年、初のソロ・アルバム『Nostalgia』発表。その後は、主にソングライターや音楽プロデューサーとして活動し、Trinyという女性コーラス・グループのデビュー作『Gipsy Streams』(2001年)等を手がけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイヴァン・クラール


●当時のCBGB、そしてニューヨークはあなたから見てどんな場所でしたか。
「今と違って、当時のニューヨークにはクラブってものが少なくてね。地元のバンドがプレイできるクラブは5軒ぐらいしかなかった。CBGB以外では、CLUB 100、MAX'S KANSAS CITY、クイーンズにあったCOVENTRYが主なクラブで、そういう所で演奏するバンド自体、ずっと少なかった。今のようにごまんといる状態ではなかったんだ (笑)。覚えてるのはニューヨーク・ドールズ、キッス、ブロンディー、パティ・スミス、テレヴィジョン、そして突如として現れたトーキング・ヘッズ。サーキットの限られた狭い世界だったから、バンド同士が固い友情で結ばれた親密な関係にあったんだよね。メジャーと契約しようとする奴もいなかったし……『知り合いがプレイす るんだけど、観に行かない?』って、誘い合ってライヴに行ったりする世界だったよ。
当時のCBGB界隈は、まるでネズミの巣のように酷くて。路上で強盗に遭うような、昼間は近寄れない場所だった。隣にはホームレスの宿泊 施設があったりね。その辺を酔っぱらいとヤク中がうろついてたし。CBGBの中でも、一日中入り浸って酒を飲んでるアル中が常時5人くらいいて。なかなか怖い所だったんだよ」

●当時の出来事でいちばん強烈に残っているエピソードは何ですか。またパティ・スミスも含めて、印象に残っているステージは?
「たくさんあるね……。思い出話をして自惚れに浸ることならいくらでもできてしまうな(笑)。あの頃は、最先端のクラブといえばMAX'S KANSAS CITYで、音楽業界の重要人物、アンディ・ウォーホールと取り巻き達、デヴィッド・ボウイ、イギー、ルー・リード……そういう人達がみんな通っていた。デカダンっぽくて、キラキラしてるのが MAX'S KANSAS CITYだったんだよ。下の階では席について飲食ができて、上の階には小さなステージがあった。そこではブロンディもイギーもプレイしたし、いつでもいきのいいバンドを観ることができたんだ。チープ・トリックなんかも出たばっかりの時にそこでやってたね。
一方CBGBは、内輪でしか知らないような場所だった。過度に有名になってしまうまではいつも5~10人位しか客がいなかったから、2ドル払えば必ず入れて、テレヴィジョンの一風変わったサウンドに魅了されることができた。あるいは、パティ・スミスが詩の朗読をしてた。あるいは、デボラ・ハリーがやっていたAngel and the Snakeを観ることができた。そんな場所だったから、彼らに気軽に話しかけられる雰囲気があって、ある日僕が『ギタリストいらない?』って言ったら『どうぞ』って(笑)。みんな自然に親しくなって、仲がよかったからね。まだ誰も知らない、隠れたシーンだったんだ。ある種秘密結社のような感じ(笑)。そんなところがエキサイティングだったよ。
その頃、10th Street and Broadwayにある教会で、パティ・スミスとヨーコ・オノのパフォーマンスを観て、それが僕にとってのターニング・ポイントとなったんだ。14人ぐらいの詩人が次々に朗読していったんだけど、その中で、男の子か女の子か分からないけど、そんなことどうだっていいと思えるような人が、クレイジーなジェスチャーを交えながら、詩の断片を投げ散らかしてた。僕が強い衝撃を受けたその人がパティ・スミスだったんだ。その時はCBGBではなくて、CBGBから数ブロック離れた教会だったけどね。CBGBでの思い出といえば、例えばAC/DCがプレイしたのを覚えてるし、ポリスもプレイしてた。振り返ってみて一番ロマンティックに感じるのは、今は有名になってるバンドが、ほんの数人の観客の前で演奏してる光景を思い出すときだね。フロアに足を踏み入れた瞬間を思い出すんだ。いいバンドだなぁ、いつかビッグになるんじゃないか……と思いながら観てて、実際彼らはビッグになった。僕にとって本当に大切な思い出なんだ。……喋り過ぎたかな(笑)?」

●そんなことないです(笑)。実際、友人であるアーティストがビッグになっていくのを目撃するのは、どんな気持ちでしたか。
「チェコからの移民である僕にとっては、自分の名前がクレジットされてるアルバムを初めて手にとって見た時が、自分の夢が実現した瞬間だったんだよね(笑)。それが、それまでの人生のすべてだった。パティ・スミスと仕事をして、彼女がとんでもなくオリジナルなアーティストだってことを思い知ったんだ。彼女の詩、イメージ、カリスマ性、すべてが前代未聞だった。レコーディングから30年経った今でも、自分 にとって重要な作品だよ。個人的には、アメリカでレコーディングができたこと自体、本当にラッキーだったと思ってるよ」

●パティ・スミスとのエピソードで、なにかとっておきのものがあれば教えてください。
「パティと出会えたのはこの上ない幸運だったね。音楽業界で仕事をし始めるきっかけを作ってくれたのは彼女だし、一緒にいた5年間は、様々な思い出に彩られてるよ。1974年から始めて、彼女が家庭を持つことを決めた1979年まで一緒だったんだ。世界のいろんな国々を旅して回って、ステージに立って、大勢の人を楽しませることができたんだからね。僕は小さいころから、そして今でも、ローリング・ストーンズの大ファンなんだけど、ジョージア州のアトランタで、ストーンズのオープニングを務めたことがあってね。キャパが3000人ぐらいのフォックス・シアターという所で。ストーンズのためにセットアップされたステージに上がるっていうのは、なんとも感慨深い経験だった(笑)。大スターの前で緊張してるガキのような気分になったね。彼らは楽屋に挨拶に来てくれたし。一番の思い出だよ」

●あなたにとって、ターニング・ポイントになったと思われる出来事やライヴを挙げるとするなら?
「数え切れないよ。子供の頃に尊敬してた人達、例えばルイ・アームストロング、ペギー・リー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、ストーンズ……。ビートルズにも会えたんだよね。デヴィッド・ボウイやイギーと仕事ができたのも感慨深かったし、ボノとU2の人達とも親しくなれた。『Dancing Barefoot』を作ることができた。一部のシーンだけでなく、音楽業界そのものに関わることができたことを、すごく幸運に思ってる。今でも、いいバンドのメッカであるこのデトロイトで、ヴェルヴェット・リヴォルヴァーとかテッド・ニュージェント、ホワイト・ストライプスを観ることができて……我ながら本当に恵まれた男だと思ってる(笑)」

●今では伝説として語られているNYパンクですが、客観的に振り返ってもすごいシーン/時代だったと思いますか。
「パンク・ムーヴメントの一部としてとらえられるのは嬉しいことではあるんだけど、一方で、『ワン・コードしか知らないんだ』と自動的に思われてしまうのはちょっとね。確かに、僕らの仲間にはギターの弾けない奴が多かった。それは社会に対する怒りとかと関係あるんだけど。僕自身はそういう部分には共感できなかったんだ」

●そうなんですか。
「うん。まったくね。僕は音楽が好きなだけで、社会的なムーヴメントに関わることには興味がなかったんだよね。例えば、あの頃のバンドの内部についてニック・ケントが書いてる本なんかを読むと、恥ずかしくなっちゃうんだ。ライヴで演奏することにエキサイトしてたんだよ。パンクのライフスタイルに対してじゃない。鼻にピアスをすることがエキサイティングだとは、僕には思えなかった (笑)」

●NYパンクは、アートであり、ロックンロールでありパンクであり、文学であるという、 その後に起きたロンドン・パンクとも、現在にいたるまでのあらゆるシーンやムーヴメントとも異なるユニークなものだったと思いますが、当事者であるあなたから見て、NYパンクのもっとも革新的だったところ、ユニークだったところは何だと思いますか。
「もっとも革新的だったのは、パティの存在だね。彼女はオリジナルだったし、あのシーン全体を体現してた。耐久力もすごいしね。多くのバンドは、メンバーが亡くなった場合を除くと、自己破壊な行為で自滅していったけど、彼女は今でも活躍してる。僕がパティに惹かれたのは、詩の才能ももちろんだけど、3コード・ソングに留まらず、幅広い分野の芸術に興味を持ってたことが大きかったんだ。絵も書けば、本も書くし、僕と同じく仏詩、英詩、米文学にも造詣が深くて、写真にも興味を持っていた。退屈してる暇がない人なんだ(笑)。僕は同じような人間には一人しか会ったことがないんだけど、それはデヴィッド・ボウイだった。彼も文学や映画の話がいくらでもできる人でね。とにかくパティは、レコーディングだけじゃなくて他にも常にいろいろやってて、本当にすごい人だと思う」

●ニューヨークという街、CBGBという場所がなければ、あのシーンは誕生し得なかった?
「CBGBでなかったら他のクラブで同じようなことが行われたんじゃないかな。無名のバンドに演奏するチャンスを与えてくれたクラブは他にもいくつかあったから。でも、CBGBは特にオープンなクラブだったね。レコード契約をして去っていくバンドもあれば、新しいバンドが次々に入ってきて。才能あるバンドにとって扉を開けてくれるクラブだったんだ。ロングアイランド、クイーンズ、ブルックリンを含めたニューヨークのバンドが出演するハコだった。それが今では、一晩に5~6バンド演奏するのが普通だからね(笑)。クレイジーだよ。トーキング・ヘッズやブロンディー、パティがレコード会社とサインしてからは、すべてが変わったんだよね」

●ニューヨーク・シティの特殊性のようなものが影響したと思いますか。
「生き残るのがタフな都市、ってことはあると思う。学歴がないといい仕事に就けなかったり。たぶん、当時より今の方がタフになっているだろうけど……時代が違うから。あの頃は、ディスコに対する反発の意味もあったんだ。当時のパンク・バンドは、ディスコ・ブームのハッピーでヤッピーなスタイルに対抗して、自分達のファッションを編み出してたからね。そして、同じ志のバンドがCBGBに集まった。そういうことだよ。レコード契約がないバンドがプレイできるハコは限られてたからね。クラブが限りなくある今では信じられない話だけど(笑)。覚えてるのがCOVENTRYで同じ日に、キッスと、僕がやってたルーガーというバンドと、ビッチというバンドがプレイしたんだけど、ビッチというのは驚くなかれ、ジョーイ・ラモーンがフロントマンだったんだ(笑)。後で知ったんだけどね」

●あなたにとって“パンク”とは、どんな考えだったり価値、行動や生き方を指しますか。
「僕にとっては……うまく説明しにくいんだな。生い立ちからして、みんなと違うんだ。秩序を重んじる家庭環境に育ったもんでね。両親や社会を拒絶する必要性を感じることがなくて(笑)。ヨーロッパから移民してきて、ニューヨークの大学に行って、音楽活動をしながら常に他の仕事もしてた。だからクラッシュやセックス・ピストルズに共感することはなかったんだ。破壊活動や暴力には反対だったし、ドラッグにもアルコールにも同意できなかった。パティ・スミスのバンドでプレイしたのは何故かというと、彼女が知性的だったからだよ。パンク・ムーヴメントの一環として、ドラッグをやらなきゃならないとか、酔っぱらってステージに上がらなければならないとか、そういう考え方が理解できなかった。パンク哲学のそういう面とはまったく意見を異にしていたんだよ。ハイになってた方がいいプレイができるなんて、僕は信じてなかったからね。逆に、そういう危ない状態でステージに上がらない方がいい、と考えてたよ。彼らがその後どうなったか見てごらんよ。シド・ヴィシャスにしても、情けないじゃない。彼らは自分で自分を傷つけてた。僕はジョニー・サンダースがドラッグをやってたって当時は知らなかったよ。アシッドが蔓延してたなんて思わなかった。ギターを壊すための音楽なんて、さっぱり理解できなかったね。とてもじゃないけど。パティと一緒にやってたのは、彼女が真にオリジナルなことをやってたからなんだ。パンクの自己破壊性に未来はなかった。完全な袋小路だったんだよ。僕の友達の多くも悲劇的な末路を辿って……思い出すべきことが何もない。悲しいことにね……」

●パティ・スミスをはじめ、テレヴィジョンやリチャード・ヘル、デボラ・ハリー、デヴィッド・バーン、あるいはイギー・ポップなど、『ブランク・ジェネレーション』に収められているアーティストがあれから30年近くが過ぎた今でも音楽をやっている、表現に携わっているという事実について感慨はありますか? もちろん、ラモーンズのメンバーをはじめ失われたものも、またこの30年の間で大きかったわけですが……。
「もちろん、心からよかったなと思うよ。最初は可愛いだけだと思われてたのにあんなに成功したデビー・ハリーや、周辺の人達の死を乗り越えて立派に子育てをして今も活躍してるパティを見て、本当に嬉しく思うね。デヴィッドバーンにはプラハで会ったばかりなんだけど、素晴らしい仕事をしてると思う。イギーには最近もニューヨークで会ってハグを交わした。サヴァイヴしてきてる古い友人がいるのは本当に素晴らしいことだよ。死なずに頑張ってくれてくことが嬉しいね(笑)。そして6月にはロンドンでパティと会う予定なんだ。MELTDOWN FESTIVALに招かれてね。彼女の『HORSES』のリリース30周年を記念するライヴもあるんだ。だから……僕は今すごくハッピーだよ(笑)」

●最後に、あなたにとってCBGBとは、ニューヨークとは、あるいはNYパンクという時代とは、どういった存在/記憶であるのか、教えてください。
「僕の人生における、とてもロマンティックな時代。チェコからの移民である自分に、プロの音楽家としてやってみる機会が与えられ、アメリカで初めてのアルバムを制作することができたんだからね。ロマンティックかつノスタルジックな気分で思い出されるよ」


(2005/03)


(極私的2000年代考(仮)……リチャード・ヘルが語る26年目の“ブランク・ジェネレーション”)
(極私的2000年代考(仮)……ジョン・ケイル、語る。)
(極私的2000年代考(仮)……ジェームス・チャンスとの対話)

0 件のコメント:

コメントを投稿