2011年10月22日土曜日

極私的2010年代考(仮)……2010年代レディオヘッド序論

ニュー・アルバムの『ザ・キング・オブ・リムス』がリリースされて約半年。先日にはリミックス・アルバムのリリースも発表されたばかりだが、一方でバンド側の「言葉」はいまだ伝えられてこない。CD版のリリースに伴い、『The Universal Sigh』なる無料新聞が各地のレコード店で配布されたが、これを書いている現時点で、今回のニュー・アルバムに関するメンバーの具体的なコメントや取材等のプロモーション的な活動は一切なし。「これはどういうアルバムかという文脈でバンドの歴史がしつこく繰り返されなくてもいいこと。作品の真価そのものによって聴いてもらえるんじゃないかと」。以前、トム・ヨークは前作『イン・レインボウズ』のリリースに際して、ゲリラ的なデジタル配信のメリットをそのように語っていたが、真相はともかく、その意図を今回も踏まえてか、『ザ・キング・オブ・リムス』は制作のプロセスや背景のストーリーについてはまだわからない部分が多い。


「ロック・バンド」としてのトータリティーや王道感を漂わせた『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』や『イン・レインボウズ』に比べると、実験性に富みアーティスト・エゴを押し出した印象は『キッドA』や『アムニージック』にも近い。が、その後者の2作でさえ聴けた、いわゆるギター・ロック的なサウンドは皆無に等しく、とくにアルバムの前半部などバンド・アンサンブルはエディットされた電子音やビートに溶け込むかたちに抽象化/微分化されている。対照的に、カンの“スプーン”のポスト・ダブステップ・ヴァージョンのような“ロータス・フラワー”で折り返す後半部では、ピアノやアコギがメインをとるオーガニックなサウンドを見せ、トムのヴォーカルも独唱のように深く声帯を震わす。つまり大雑把にいってしまえば、近年のフライング・ロータスやブリアルといった気鋭のトラック・メイカーとトムとの交流に顕著なダンス・ミュージックからの影響と、“ギヴ・アップ・ザ・ゴースト”や“セパレイター”など元々はトムの弾き語りで披露された事実が物語るソングオリエンテッドな作風とのミックスであり、ここにはふたつの対照的なレディオヘッド像が均衡するようにコントラストをなしている。もしくは、「僕にとって完璧な状態というのはラップトップもアコギもまったく平等に扱って、どちらも美しいものが作れてっていう状態で、自分達はどんどんそこに近づきつつあると思う」と『イン・レインボウズ』に際して語っていたジョニー・グリーンウッドの言葉を受ければ、『ザ・キング・オブ・リムス』はある意味では理想的な作品といえるのかもしれない。


現在もレディオヘッドにおける顕然たるメイン・ソングライターはトム・ヨークなのだろう。そのことは今回の『ザ・キング・オブ・リムス』にも色濃く反映されたトムの近況が物語るとおりだが、その点で興味深いのが、アトムス・フォー・ピースの位置づけである。

アトムス・フォー・ピースとはご存知のとおり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーやナイジェル・ゴドリッチを迎えて始動したトムの新たなプロジェクトで、一昨年の結成からこれまで世界各地でツアーが行われてきた。その演目はひとつに、トムのソロ・アルバム『ジ・イレイザー』のナンバーを「バンド」で演奏するというもので、つまり簡略していうと、アルバムではサンプリングやプログラミングで代用された加工音を生音でアップデートし再構築するという試みである。一方、先日レコード・ストア・デイに限定リリースされた“Supercollider”もそうだが、『ザ・キング・オブ・リムス』の収録曲も含む新曲の多くは、バンド演奏ではなくピアノやアコギによるトムの弾き語りというかたちで披露された。いわば、ソロ・ワークの延長線にあるレディオヘッドの「代替案」であり、またレディオヘッドに導線を引く「原案」としてのソロ・ワークの場でもあるという、トムにとってアトムス・フォー・ピースとは入れ子のようにふたつの異なる性格を帯びたトライアルといえるかもしれない。そして重要なのは、もちろんタイミングの問題もあるが、その試みが、たとえばレディオヘッドのライヴ・セットに組み込まれるというかたちではなく、わざわざ新しい「バンド/場」を用意してまで行われたということだろう。


トムを始めバンドのメンバーが、長らくレディオヘッドという「案件」の取扱いに苦慮し試行錯誤を重ねてきたことは知られたとおりである。『ザ・ベンズ』以降の世界的なブレイクをへて、評価やセールスの急上昇に従い巨大化の一途を辿ったレディオヘッドを取り巻く現象は、彼らの重荷となり、バンド活動の継続は次第に苦痛を伴うナーヴァスな様相を呈した。そのストレスは、『OKコンピューター』前後のパニックや『キッドA』完成までの紆余曲折が物語るように、創作と運営の両面において彼らに切迫した事態をもたらした。それはある意味、彼らに限らずビッグ・バンドの宿命であるとはいえ、その致し難さは最近までトムがレディオヘッドを「怪物」呼ばわりしていたことにも象徴的なように深刻で、例えば以前トムは『キッドA』完成直後のインタヴューで、「もうギターを持ちたくない」と吐露するほど疲労と緊張がピークに達した『OKコンピューター』後の長いスランプ期を振り返りこう語っていた。「それなりに時間をかけて、自分たちがなろうとしている姿、他人に期待されている姿、そうしたものを捨てて、もう一度人間になる方法を学習したんだ。化け物でなく、人間にね」。

そうした中、この10余年において彼らがリリースの度に起こしてきた、ときに物議を醸し反動的にも映った様々なアクションとは、いわば“レディオヘッドの世界”と“レディオヘッドと世界”の関係を清算し、新たに修復するためのメソッドだったのだろう。

『キッドA』と『アムニージアック』の2枚のアルバムで彼らは、「ロック・ミュージシャンはみんな家に帰って、生活を取り戻すべきだよ。そして何か別のものを聴くんだ。ロックなんて退屈だ」という当時のトムの発言にも集約される「ロック・バンド」のルーティンやクリシェの否定の意志を、脱ギター・ロックというかたちで果たした。『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』で見せたロック・アンサンブルの再構築は、つまり前2作でそれまでのレディオヘッドのルーティンやクリシェの否定という荒療治をへてソングライティングの手応えを回復した結果ゆえのブレイクスルーだった。そして、メジャーとの契約が終結しフリーランスの身となった彼らは、『イン・レインボウズ』で業界の慣習を破りネットを利用したゲリラ的なプロモーションとオープンプライスの先行リリースを敢行する。『ザ・ギング・オブ・リムス』の展開は、そのやり方を踏襲しつつ、より戦略的に進めたかたちといえるだろう。

振り返れば彼らは、そうして段階的な手順を踏みながら、バンドをめぐる内圧/外圧の緊張を解きほぐし、一時は自らの手に負えなくなるほど肥大化した末に制御不順に陥ったレディオヘッドというシステムを解体し、再生するための作業を進めてきたことがわかる。とりわけ『ザ・ギング・オブ・リムス』の展開を見るかぎり、“世界一有名なインディ・バンド”になった『イン・レインボウズ』以降の彼らは、「YES」といえる自由を手にしたと同時に、「NO」といえる自由をその行動によって示してきた――といえるかもしれない。

一方、その間トム・ヨークは、レディオヘッド本体の活動と並行して課外活動を活発化させてきた。前述のソロ・アルバムやアトムス・フォー・ピースもその一環だが、とりわけ顕著なのは、2000年代の後半から近年にかけて積極的な動きを見せる、共演や客演などのコラボレーション・ワークである。

それまでのトムのコラボレーションは、まず機会自体がごく稀で、共演者もビョークやPJハーヴェイといったヴォーカリストが相手の限られたものだった。それは例えば、ゴリラズにおける多彩な交遊録を始め、かたや現代音楽からアフリカ音楽のフィールドまで創作の人脈を広げてきたデーモン・アルバーンのケースとは対照的でもある。けれど最近のトムを見ると、先日もコラボ・シングルをリリースしたブリアルやフォー・テット、チャリティ企画で共演したマーク・ロンソン、そして『コスモグランマ』のフライング・ロータスなど、いわゆるトラック・メイカーとの積極的な交流が目立つ。きっかけは、ブリアルやフォー・テットも参加した『ジ・イレイザー』のリミックス・アルバム(※フィールド、ザ・バグ、モードセレクターetc)だろうが、まだまだ範囲は限定的とはいえ、フットワークは以前に比べてとても軽い。課外活動の活発化はジョニー・グリーンウッドやフィル・セルウェイについてもいえるが、フロントマンのそれは意味合いが違う。何より『ザ・ギング・オブ・リムス』のサウンド面しかり、始動した同作のリミックス・プロジェクトなど、レディオヘッド本体の活動にフィードバックされた影響力の大きさは、トムの課外活動に見られる変化の重要性をひときわ物語るものだろう。


「バンドってある地位まで到達してしまうと、それ以上自分たちを作り替えていく能力を失ってしまう」。以前デーモンがレディオヘッドを評した言葉だが、『キッドA』以降の数々のアクションとは、まさに自分たちを作り替えていく過程だったといえる。それは、かたやブラーが作り替えることを諦め解散を迎えたのと対照的に、バンドの存続のためトム以下が自身に課した必然的な選択だった。興味深いのは、彼らの場合、自分たちを作り替える過程で周りの環境も作り替えてきたことで、むしろ後者が前者を促したきらいがある。近作のリリース方法や今回のプロモーション戦略に顕著だが、つまり冒頭で挙げたトムの発言にあるように「作品の真価そのものによって聴いてもらえる」環境を用意し、そのことがクリエイティヴィティを担保するようなクオリティ・コントロールを可能にすることこそ、彼らがこの10年取り組んできた改革の真意だといえる。

では、その自分たちを作り替えていく過程でトムが新たに作り上げたアトムス・フォー・ピースとは、あらためてどんな「環境」だったんだろう。例えばデーモンにとってのゴリラズと対比したとき、ゴリラズが当初のコンセプトいわくアニメキャラクターに扮するメンバーによる架空のバンド=仮想世界(ヴァーチャル)であるとするなら、アトムス・フォー・ピースはいわば並行世界(パラレル・ワールド)であると位置づけられるかもしれない。

アトムス・フォー・ピースはあくまでレディオヘッドという基本世界に隣接するもうひとつの現実としてあり、かつ前述のとおりトムのソロ・アルバム『ジ・イレイザー』の二次創作(=並行世界)としての性格を持つ。加えてさらにアトムス・フォー・ピースと『ザ・キング・オブ・リムス』は、楽曲をシェアしているという点で二次創作的/入れ子構造的な関係を指摘することもできる。つまりデーモンにとってはゴリラズに限らずソロも含め、現代音楽やアフリカ音楽、はたまた西遊記のオペラで見せた中国伝統音楽への関心などすべてはブラーと乖離した別次元(オルタナティヴ)としてあるのに対して、トムの場合はソロにしろアトムス・フォー・ピースにしろ軸足はレディオヘッドにあり、それらはレディオヘッドと同一の次元で展開するヴァリエーションとしてあるということなんだろう。そして、今回の『ザ・キング・オブ・リムス』でレディオヘッドは初めてオフィシャルなプロジェクトとして「リミックス」に乗り出したように(※『イン・レインボウズ』でもリミックスのフリー・ダウンロードや公募はあったが)、どうやら彼らの関心は、外側からレディオヘッドを見ること――いわば“並行世界としてのレディオヘッド”あるいは“並行世界から見るレディオヘッド”というものに向けられているようなのだ。


『ザ・キング・オブ・リムス』のリリースから約半年。いまだ作品について自ら語ろうとしない彼らの動向は、予断を許さないものがある。彼ら自身も『ザ・キング・オブ・リムス』の意味を手探りの状態なのかもしれない。しかし、「レディオヘッドでありたいと感じているメンバーは誰一人といないんだ」とトムが話していた数年前とは異なり、彼らは個々に手応えを感じ、何よりレディオヘッドを続けることの可能性を信じているようだ。スタジオ・ライヴでの唐突な新曲披露、そして噂されるブライアン・イーノとのレコーディング――。レディオヘッドによるレディオヘッドの改革は今も続いている。(続く)



(2011/08)

2011年10月10日月曜日

極私的2000年代考(仮)……ドゥルッティ・コラム再評価

ドゥルッティ・コラムが昨年発表した最新アルバム『キープ・ブリージング』は、彼の熱心なファンのみならずとも、聴く者を惹きつけてやまない刮目すべき作品だった。ヴィニ・ライリーが弾く繊細なギター・フレーズを軸に、アフリカのヒップホップ、ユダヤの伝承曲、1930年代のジャズのピアノ曲など様々なインスピレーションを散りばめながら、端整に綴られる色彩豊かでアトモスフェリックなサウンド・スケープ。そこに息づく透徹した美意識と、おごそかで宗教的/霊的な高揚感さえ喚起させるスピリチュアルな叙情性。それは、まぎれもないドゥルッティ・コラム=ヴィニ・ライリーの屹立した音楽世界を写実したものでありながら、偶然か必然か、同時代的な音楽風景さえも内包し描写したものでもあった。

たとえば、エレクトロニカ~フォークトロニカ以降ともいえる地平と共振した、エレクトロニクスとアコースティックが紡ぎだす緻密にしてオブスキュアな感情表現。あるいは、昨今注目を集めるアヴァン/フリー(ク)・フォーク勢とも響きあう、ルーツ・オリエンテッドかつ先鋭的な「歌」と「音(響)」をめぐる試み。さらには、アフリカンやブラジル音楽などワールド・ミュージックへのアプローチにうかがえる越境的な志向も含め、そこには、現在の多様な音楽の潮流と交わる参照点や痕跡が示されるとともに、そうした周囲の状況と微妙な距離を保ち自らの音楽表現の枝葉を広げていくヴィニ・ライリーの創作的な営みが鮮やかな筆致で描き出されていた。

「25年間で初めて、自分のアルバムの出来に満足できた作品」とはヴィニ本人の弁だが、キャリアを積み重ねて円熟に向う過程で、感性が硬直したり磨耗することなく、まさに「Keep Breathing(呼吸し続ける)」というタイトルの通り、伸びやかに成長し続ける不断の音楽的達成がそこには刻まれている。その意味で『キープ・ブリージング』は、ドゥルッティ・コラムの最高傑作にして、映画『24アワー・パーティー・ピープル』絡みの再評価や最近のニュー・ウェイヴ/ポスト・パンク・リヴァイヴァルとはまったく異なる文脈で、その才能を時代が「再発見」した作品だった、と言えるかもしれない。

もっとも、ヴィニ自身にとって、そうした同時代的な評価はあくまで結果的なものであり、あらかじめ意図していたものではけっしてない。そもそも1980年に発表されたファースト・アルバム『The Return Of The Durutti Column』の時点から、リズム・ボックス/シンセサイザーとエレクトリック・ギターを操り、現在の原型となるアンビエント的な音響空間を創り上げていたドゥルッティ・コラムのサウンドは、その後1990年代に入り本格化するテクノ/ポスト・ロックの潮流を予告していたという意味でも、むしろ先駆的な存在といえる。ヴィニは、自身の音楽と「時代」との関係性について、きわめて慎重な立場をとる。

「時代性というのは、音楽を作る際の矛盾点だと思うんだ。というのも、自分が生きているその時代を反映するのはごく自然で・・・・・なぜなら今の世界に生きている一人でもあるわけだからね。その一方で、アートというのはそうした時代性に関係のないところで創造しなくてはいけないわけで、つまり自分の中の奥深くにそうした場所を見つけ出さないといけない。自分だけのエモーションやフィーリングをね。僕にとって音楽を作るというのは、直感と本能が中心で、とても原理的な行為なんだよ。同時に、そうしたエモーショナルな反応はごく個人的なもので、言ってみれば、周りで起きていることに対する自分なりの感想、自分がどう影響を受けたかの記録、みたいなものなんだよね。まあ、矛盾していると言えば、矛盾しているんだけど」

つまり、ヴィニにとって音楽とは、きわめてパーソナルな視点に根差したものであり、かつ、そのパーソナルな視点をフィルターに濾過された「時代性」の反映として輪郭が与えられるものでもある。ドゥルッティ・コラムのサウンドが、たとえば四半世紀前の作品と現在を違和感なく結ぶようにタイムレスな美しさをたたえながら、「周りで起きていること」を参照させる多くの音楽的な示唆を含んだものとして聴かれうるのは、それゆえにほかならない。


本作『リベリオン』は、2001年に発表された通算十数作目となるオリジナル・アルバムである。その最大の特徴は、多くの曲でフィーチャーされたゲスト・ヴォーカルの存在と、フィドルやバンジョーなど多彩なサブ・インストゥルメントの導入、そして(部分的だが)ヒップホップ/ブレイクビーツを含めたアフロ・ミュージックへの接近、だろう。

ケルト・ソングの清冽なメロディにのせて女性ヴォーカリストのヴィック・A・ウッドが楽園的な歌声を聴かせる「The Fields Of Athenry」。ゲストMCのラガ・フレイヴァーなラップを交えた艶かしく猥雑なゴスペル「Overlord Part One」。南国の黄昏どきをたゆたう子守唄のような「Mello Part One」。ガット・ギターとポリネシアン・ビートが夢幻的な余韻を演出する「Longsight Romance」。チベタン・バンジョーが郷愁を誘う「Protest Song」。ヴィニのエレクトリック・ギターと盟友ブルース・ミッチェルのトライバルなドラムが織り成す勇壮なファンファーレ「Meschucana」。デビュー当時の作風や最新作の『キープ・ブリージング』が纏う内省的で静謐なイメージとは対照的に、そのサウンドはきわめて情熱的で官能的な印象さえ受ける。まるで世界中を旅しながら制作でもされたかのような、カラフルで多国籍/無国籍的な色香の漂う音色が魅力だ。

そして、音楽家ヴィニ・ライリーの才能とその音楽言語の多様さに、あらためて感じ入らざるにはいられない。ドゥルッティ・コラムらしいゆらめくようなギター・アンビエンスを聴かせる「4 Sophia」。ハワイアンとトロピカリズモが波間で溶け合うような「Mello Part One」「Cek Cak Af En Yam」。ブルージーなギターがヴィックの歌声に寄り添い潤色を与える「Voluntary Arrangement」。ヴィニ流フラメンコ/マリアッチとも呼べそうな「Mello Part One」。様々なルーツ=音楽的記憶が散り散りと混在する異境のアシッド・フォーク「Longsight Romance」。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテが世界でもっとも偉大なギタリストの一人としてリスペクトを寄せているのは有名な話だが、本作を聴けば、シド・バレットやカエターノ・ヴェローゾまでさかのぼり、アート・リンゼイからデヴェンドラ・バンハートにいたるギタリスト/ソングライターの系譜にヴィニ・ライリーもまた位置していることを再確認できるのではないだろうか。自身の世界観と向き合い洗練をきわめる孤高の求道精神と、インスピレーションに逆らわず自由に表現の領域が開け放たれている先進的な創作精神。そのふたつが表裏をなし、あるいは交じり合うところこそがドゥルッティ・コラムの音楽であり、ヴィニ・ライリーの作家性だとするなら、本作『リベリオン』は、その本領をあますところなく堪能できる作品と言えるだろう。


ドゥルッティ・コラムという名前が、1930年代に起きたスペイン内乱の際にアナーキスト部隊を率いた革命家ブエナヴェントゥラ・ドゥルッティから取られているように、「反乱」とタイトルに冠せられた本作『リベリオン』もまた、ヴィニにとってきわめて政治的な意味合いを持つ作品であることは想像に難くない。当時のインタヴュー記事によれば、そのものずばり「Protest Song」をはじめ本作の背景には、アフリカのエイズ問題や飢餓・貧困問題に触発されたヴィニの葛藤が反映されているようだ(ちなみに本作がリリースされたのは9・11テロ事件の約一ヶ月前)。

来年で結成30年目を迎えるドゥルッティ・コラム。「僕たちはパンク・ムーヴメントを見ながら、自分たちなら音楽業界を変えられると信じていたんだよ。レーベルを運営しているビジネスマンたちの手から音楽を奪い返して、純粋に自分たちのものにできるってね」。そうして始まったヴィニ・ライリーの「革命」は、現状を見る限り残念ながら成就したとは言い難いが、その音楽は、今も聴く者すべての心に爪痕を残し続けている。

「『その音楽は何かの役に立ったのか? この世界にどんな貢献をもたらしたんだい?』と訊ねられたら、僕はこう答えるよ。『僕の音楽が良いものだったのか悪いものだったか、あるいはこの世の中で何か意味を持つものだったか、変化をもたらしたかとか、そういうことは僕にはさっぱりわからない。ただ僕が唯一確信を持って言えることは、僕が作った音楽は正直でストレートで、嘘がないということだ。そこにはほんの少したりとも、金儲けや成功を狙った部分はなくて、ありのままの自然なプロセスで生まれたものだ。最初から最後までね』って」


(2007/05)

2011年10月5日水曜日

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑨

・ 坂本慎太郎/幻とのつきあい方
・ Atlas Sound/Parallax
・ Real Estate/Days
・ Speculator/Nice
・ Veronica Falls/Veronica Falls
・ KUKL/The Eye
・ Zola Jesus/Conatus
・ Tonstartssbandht/Now I Am Become
・ Feist/Metals
・ Ju Sei /コーン・ソロ
・ のっぽのグーニー/賛歌賛唱
・ Sebadoh/Ⅲ





(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑧)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑦)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑥)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑤)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)④)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)③)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)②)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...))

極私的2000年代考(仮)……トータスの源流、バストロを振り返る

ジョン・マッケンタイアがガスター・デル・ソル/トータス以前に在籍していたバンド、バストロの作品が再発される(※ファーストとセカンドをコンパイルした『シング・ザ・トラブルド・ビースト+バストロ・ディアブロ・グアポ』、初作品化となるライヴ盤『アントラーズ:ライヴ1991』)。活動期間はわずか4年と短命に終わったバストロだったが、しかし、このスリントと並び称されるUSポスト・ハードコア伝説のグループで活動し培われた経験が、現在のジョンの血肉となりミュージシャンとしての下地を相応に築いたことは間違いない。事実、この度の来日公演であらためて目の当たりにしたジョンのアグレッシヴなドラム・プレイは、バストロ時代の面影をたしかに想像させるものがあった。果たして現在のジョンは、この爆音に身を焦がした過去を、いかに総括するのだろうか。


●一昨日のライヴですが、とても素晴らしかったです。本人としてはいかがですか。

「うん、よかったよね。楽しかったし。最近まではライヴもあまりやっていなくて、たまに数回やるくらいだったから、今はちょうど、ツアーをやるようなモードに戻りつつあるところなんだ。だから、こういう形で始められたのはすごくよかったんじゃないかな」


●去年、新作(『イッツ・オール・アラウンド・ユー』)について伺った際、すごく達成感があるとか、今まではそんなことなかったけれど、今度のアルバムは家でも聴いているといった話がありましたよね。そういう充実した感じが、ライヴにも表われているんじゃないかなと、観ていて思ったんですが。

「んー、それはどうかなあ。僕たちの場合、ライヴの演奏は、レコードを作っていくやり方とはかなり違うからね。だから、その2つは平行していて、別々にやらないといけないことっていう感じだね。ただ、このツアーは去年から始めてるんだけど、みんなの演奏もかみ合って、よくなってきてるとは思う。それはもちろん、10年間やってきたことの結果なんだけどね。ツアーもずいぶんやってきたし、やればやるほどよくなっているから」


●ライヴに映像を流すっていうアイディアは、どういうところから生まれたんですか。

「あれは……どういうふうに始まったのかは、はっきり覚えてないんだけど、普通の照明だけじゃないライヴをやろうという気持ちは、もともとあったんだ。それで、たしか最初は、ロンドンから来た友達が、グラフィック・デザイナーというか、テクノロジーを使ったビジュアル的な仕事をしてたんだよね。僕たちのレコードのジャケットのデザインなんかも、ずいぶんやってもらっていて。で、その人がビデオもやってるのを知ってたから、ライヴ用にビジュアルもお願いして、しばらくは彼がそういうものを担当してたんだ。それから、僕たちのエンジニア、というか当時エンジニアだったケイシー・ライスが後を引き継いで、何年かはケイシーがやってくれていたよ。で、今はオシェイがやってるっていう。ああいう映像があると、ライヴのサウンドとの相乗効果があると思うんだよね。見に来てくれたお客さんに、伝えられるものも増えるし。僕たちの場合はヴォーカルがないぶん、映像でライヴ体験をより深いものにしてるというか」


●では、本題に入りますが、まず、なぜこの時期にバストロ時代の音源が再発されることになったのか、その経緯から教えていただけますか。

「なんというか……それは、デイヴィッド・(グラブス、バストロのメンバー)に聞いてもらわないと(笑)。最初にリリースされてからかなりになるけど、今度再発になるレコードに対して、デイヴはずっと、どこか微妙な感情を抱いていたんだよね。でも今はだいぶ時間も経ったから、少しはゆとりを持って聞けたんじゃないかな。それで、あのころの作品を表に出すのも自然なことだっていう気になったんだろうね。基本的には、そういうことだと思うよ」


●その、“微妙な気持ち”っていうのは、どういうことなんでしょう?

「僕にもわからないな、たぶん彼も……大人になったっていうふうにはいいたくないんだけど、あのレコードを作っていた時と、その後とを比べると、彼の音楽へのアプローチやセンスが、がらっと変わってしまったんだよね。だから、それ以前のレコードは、まったく時代の違うものっていうふうに見ていたんじゃないのかな。青臭くて、アグレッシヴで、叫んでるだけ、というような。だから、その後、ガスター・デル・ソルでやってることと整合性がないと思ったんだろうね。バストロ以後作品はもっと内省的だし、ヴォーカルにしてももっと細やかになってる。だから、そこの食い違いに折り合いをつけるのに時間がかかったんじゃないかな。まあ、あくまで推測だけど」


●じゃあ、今はそこに折り合いがついたという感じなんでしょうか?

「うん、もちろん。もしそうじゃなかったら、今度も再発なんてしなかっただろうし」


●今回、音はジョンがリマスタリングしたと聞いたんですけど……。

「いや、その場にはいたけれど、実際の作業をやったのはエンジニアだよ」


●あ、そうでしたか。でも、久しぶりに聴いたバストロの音はどうでしたか。若いころの自分のプレイを聴いて思うところなどありましたか。

「いや、確かになかなか興味をそそられるものではあったよ。ずいぶん長い間、聴いてなかったからね。聴き直して、ショックを受けたというか(笑)。ま、どんなものであれ、21曲を全部、ぶっ通しで何度も聴かなくちゃいけないわけだから、それは、なかなか大変だよ。でもある意味、驚いたね」


●10数年前にやっていたことを改めて聴いてみて、新鮮な感じというのはありました。

「確かに、昔の自分の演奏を聴いて、個人的に思うところはあったよ。今なら当時より、客観的に見られるし。曲作りにしても、これだけ時間が経ってから聴くと、改めて結構いい曲書いてたんだ、とかって思ったりしたね。作っていた時は、とにかく演奏にしか頭がいってなくて、少し引いた視線で見るようなことはできなかったんだけど。うん、それが一番大きいかな」


●自分の演奏についてはどう感じましたか。

「あんなに速く、ヴォリューム全開で弾いてたなんて、すっかり忘れてたよ。あんなに高速でやかましかったんだ、って」


●そもそも、バストロに入ったきっかけはどういったものだったんですか。

「あれはたしか、2年目……いや、大学に入って最初の年だったな。僕はそのころ、オハイオに住んでいたんだけど、友達に、マイ・ダッド・イズ・デッドのマーク・エドワーズと友達だっていうやつがいたんだ。で、マイクがツアーをやるのでドラマーを探してて、それで僕が参加して短いツアーに出たんだよ。その時のメンツは、マイ・ダッド・イズ・デッドとバストロと、あとはメンブレンズだったね。で、そのうちにバストロのデイヴとクラークと友達になって。その当時は、ふたりはドラム・マシーンを入れて演奏してたんだけど、たぶんあのツアーの後に、ドラム・マシーンを使うのはそろそろやめようって思ったんじゃないのかな。それで二人から電話が来たんで、僕がシカゴに行ったんだ。シカゴで何度かリハーサルをやって、ライヴもやってみたら、これはすごくいいって全員が思ったんで、それからずっと、僕も入ってやることになったんだよ」


●初めてバストロの演奏を聴いたとき、どんな印象をもちましたか。

「それは……なかなか説明しにくいな。最初聴いた時は、何だかこう、信じられないくらいアグレッシヴだなって思ったけれど(笑)。ドラム・マシーンは“カカカカカ”って、超高速だったし、デイヴのギターにしてもあのころはケンカ腰で、クラークのベースも“ゴゴゴゴゴ”なんて音を立ててたからね。でもすごく気に入ったよ。すごくかっこいいと思ったし、ああいうサウンドって、他にはなかったからね。そこに興味を惹かれたんだ」


●ジョンがバストロに入って、サウンドはどう変わりましたか。

「そうだね、曲作りの面で、デイヴはかなり楽になったのは確かだと思う。僕が入ったおかげで、ドラム・マシーンのパートを考えなくてもよくなったから(笑)。それに、実験できる幅が広がったね。音の感触にしても、テンポにしても、思いついたことは何でもやるようになっていったんだ。もちろん、バンドとして一緒にやれた期間は短かったけど、その間にすごく成長したと思う。もしあのまま、ドラム・マシーンと二人、っていう構成だったら、成長の幅はもっと限られたものになっていたと思うよ」


●今もちらっと大学の話が出ましたけど、大学では音楽理論を勉強したとか、録音技術を学んだと聞いてるんですが。

「うん」


●そうしたある種アカデミックな領域から、バストロのようなそれまでと180度異なる方向へ進まれたという、そこがとても興味深いところでもあるわけですが。

「自分では別に、変だと思ったことはないよ。僕が興味を持つものって、昔から脈絡なかったし。逆に、極端に違うものをやるのがいいって思ってたからね。かっちりした形式がある、アカデミックなものを勉強して、アートの世界に片足を突っ込みつつ、実社会、たとえばクラブでお客さんを相手に音楽をやってる人たちと付き合うような、まったく別の生活も送っているっていう、それが僕にとってはよかったんだ。両方できたことで、いいバランス感覚が生まれたんだと思うよ」


●そうしたアカデミックなことをやっていたという経験は、バストロとしての活動にも生かされていたんでしょうか。

「いや、直接の影響はなかったよ。でも、無意識の世界では、分けて考えられないからね。直接関連しているところがなかったとしても、日々考えることとか、やっていることに何らかの影響は与えてたんじゃないかな。でもそれは、あくまでいろんな要素の一つにすぎないけど」


●なるほど。

「たぶん、デイヴがガスター・デル・ソルをやるようになってからの方が、現代音楽的な作曲法とか、そういう要素が取り入れられていたと思う。ジム・オルークと組んだ作品は特にはっきりとそういうものが出ていたね。そんなふうに、影響がはっきり出てきたのはガスター・デル・ソルになってからで、バストロのころはまだ時期が早すぎて、出てくるまでには至らなかった気がするよ」


●バストロに加入した当時は、ミュージシャンとしてどんな青写真というか、ヴィジョンを持ってやっていたんですか? 

「いや、特にこれっていうのはなかったと思う。あのグループは、完全にデイヴのヴィジョンで出来上がったもので、僕は純粋にプレイヤーとして参加していたわけだから。そのぶん、グループの一員として、貢献しようという気持ちはあったけど、僕が何かヴィジョンを持ってやっていたわけじゃないよ。自分なりに、このグループのサウンドをよくしたいっていう、それだけだった」


●たとえばトータスでは、実験的な試みやコンセプチュアルな目的を意識的に掲げていたと思うんですが、バストロは違っていたわけですね。

「うん、違うよ。バストロの場合は、デイヴとクラークがずっと積み重ねてきたものの延長線上にあったわけだから。それこそ、バストロの前身のスクイレル・ベイトに遡るような。ただバストロを始めた時は前と同じようにロック的な曲をやろうと思っていたはずだけど、それがバストロの後期になると、ちょっと変わりつつあったとは思う。そのへんの変化は、今度出るライヴ盤を聴いてもらえればわかるよ。バンドも最後の方になると、かなり実験的な要素が入ってるから」


●では、バストロ時代のことで、何か印象に残っているエピソードとかはありますか。ツアーでのこととか、何でもいいのですが。

「そうだなあ……あんまりないんだよね。僕にとっては初めてのバンドで、しかも真剣に音楽を追究するバンドだったし、レコードも出すところまでいったわけで、それは大きかったけど。最初のレコードを作った後、ヨーロッパにツアーに行ったりもしたし。そんなことするのも初めてで、ものすごくわくわくしたよ。そういう、新しい世界が開けていくっていう感覚が本当によかったな。正式なメンバーになって、いろんなところに行って、自分の音楽を聴いてもらえるっていう。バストロ時代で、何が一番残っているかっていったら、そういうことだね」


●ところで、バストロに対する当時の評価って、どういうものだったんですか。

「いや……基本的には、無視されてた」


●(笑)。今では、アメリカのハードコア・シーンの文脈のなかで評価されているわけですが……。

「そうだね。あのころから、どのカテゴリーにも属さない、一種独特のバンドだったとは思っているんだけど。たとえば、僕が加入してから、バストロは3回、ヨーロッパ・ツアーをやってる。でも、アメリカは一度も回ってないんだ。なぜかというと、あの時期、まだヨーロッパには、こういうバンドを受け入れる下地が、まだ残っていたからなんだよ。ダイナソーJr.とか、ホームステッドやSSTみたいなレーベルのアメリカのバンドが、アンダーグラウンドなレベルで人気があった、本当に最後の時期でね。そういうバンドを見に来るお客さんって、ヨーロッパには多くて。僕たちが出てきたのは、もうそういう盛り上がりも終わりかけのころだったけど、ホームステッドのアーティストだからって、見に来るようなお客さんはまだいたんだよ。だから、ヨーロッパではそれなりに期待できるものがあったんだけど、アメリカでは、まったく無名もいいところだった。変な話、前身のスクイレル・ベイトはアメリカでもすごく人気があったから、バストロは『あ、スクイレル・ベイトの人がやってるバンドだよね』っていうような扱いで。そんなもんだったよ(笑)」


●当時のアメリカのアンダーグラウンド・シーンというのは、あなたにとって共感できるものだったんですか。

「うん、もちろん。あの時は、本当にいろんなことが始まってたからね。そのぶん、僕たちはどこか一つのカテゴリーに収まってるっていう感じじゃなくて。それは、当時のバンドの多くに当てはまる話だと思うけど。どのバンドも、独自のサウンドを持っていて、スタイル的にもそれぞれまったく別物で。そう、あのころの方が面白いことがどんどん起きていて、いい予感があったし、これから何が起きるんだろうって、期待がものすごく高まってたんだ。90年代前半の、トータスを始めたころはそんな雰囲気だったよ。いろんなことが変わり始めてたっていう」


●その、予感っていうのはどういうものだったんですか?

「そうだなあ……このアルバムについて言ったことともダブるんだけど、あのころに、曲の書き方が、まるっきり異なる要素を一つの曲に取り込んでいくっていうふうに、がらっと変わり始めていたんだ。それは、僕たちだけに限った話じゃなくて、スリントみたいなバンドもそうで。みんな、少なくとも当時としては、ロック・バンドがやるべきことはこうだ、っていう基準の外で活動していたバンドだったよ。で、当時の人が持っていた、既存のバンド観とか、思いこみを打ち破るようになってきていて。そういう流れは、あのころからずっと続いてるんだと思う」


●その、変わってきた部分っていうのを、もっと具体的に教えてもらうことはできますか。

「それは、全体的に、アイディアがふくれあがってきて、ただのラウドなギター・サウンドをやってるだけじゃ済まなくなってきたっていうことなんだ。ヴォーカルがいて、あとはギターとベースとドラム、というのが、いわゆる伝統的なロック・バンドの形なわけだけど、そういう形式が、少なくとも僕たちの周りでは、重要性を失いつつあって。逆に、結果はあんまり気にせず、新しいものをどんどん試していこうっていう考えが受け入れられるようになっていったんだよね」


●だとすると、なぜバストロが解散してしまったのか、単純な疑問があるんですよね。その予感を、トータスやガスター・デル・ソルではなくバストロで実現する、という選択肢はなかったのでしょうか。

「あれは……その件については、デイヴィッドがライナーノーツで語ってることに尽きると思う。僕たちはとにかくいつもテンションが高くて、毎回ばかでかい音で演奏して、たいていは超高速で弾きまくってたし、まるで火の玉みたいだった(笑)。で、そういうものは燃え尽きるのも早いんだよ。実際、そうなったしね。バストロのフォーマット、同じアイディアでこのまま続けるのは難しいって思い知るところまで行き着いてしまって。それで、全部一度チャラにして一からやり直すことにしたんだ。だからもちろん、性格が合わなかったとか、そういうことじゃぜんぜんないよ。事実、その後も一緒にバンドをやってたわけだからね。ただ、フォーマットを変えて、今までと違うことをやる必要があるって言うのは、僕たちみんなが感じてたんだ。それに、いい年にもなってきたから、ステージでいつも暴れ回ってるのもつらいっていうのもあったし(笑)」


●では逆に、バストロとトータスの間で一貫して変わっていないところといったら、どこになりますか。

「そうだね、次のバンドになったガスター・デル・ソルは特に、デイヴィッドが歌詞を書いてたから、そこはバストロを引き継いでいたよね。それは大きかった。デイヴィッドの歌詞のスタイルっていうのは、だんだん進化はしているけど、基本的には同じだし。ほんとに、初期のころか、書き方は同じで、スクイレル・ベイトの歌詞にもすごくいいものがあるよ。あのころはたぶん、まだ17歳とか、そのくらいだったはずなのにね。じゃあ、僕の中の変わっていないところは何かっていうと、バストロの最後の時期から今までは直接つながってるものがあるなって、ほんとそう思う。あのころやっていたものとトータスには、共通点がたくさんあるよ。特に、バンディと僕はトータスになってからも、一緒にやってたわけだから、それは一つ、つながってるところと言えるんじゃないかな」


●精神的な意味での継続性というのはありますか。

「それは、何とも言えないなあ。言葉でどう説明していいのかわからないんだけど、バストロからこっち、スタイル的にはだいぶ違ってきたとしても、実はそれはたいした問題じゃないんだ。それってすごく表面的なものだから。メンバー一人一人は、個人的なレベルではまったく変わってない。信じているものとか、アートに対するヴィジョンとか、そういうものは変わらないよ。僕たちにとってはスタイル的なものって、あんまり重要じゃないんだよ。それはあくまで、何かを表現するための一時的な形式にすぎないからね。その後ろにあるものは一貫していて、いつも同じなんだ」


●今回のライヴを観させていただいて、あなたのハードコア・スピリットはまだ息づいているんじゃないかと思いました。

「そうか(笑)。や、もちろんそうだよ」


●ハードコアというのは、音楽の形なのか、スピリットなのか、はたしてどちらなんだろうと疑問もありますが。

「それは僕にもわからないな。もっと広い意味で、パンク・ロックには僕たちみんな、すごく影響を受けているわけだし。少なくとも僕たちの考えるパンク・ロックっていうのは、今までの決まりなんて全部忘れちまえ、ってことなんだ。自由に、何でもやりたいことをやる、それがパンク・ロックなんだよ。それに比べるとハードコアはもっとスタイル寄りのものだね。確かに僕たちは、“疑似ハードコア”的なものをやってはいたけれど、それだって、パンク・ロックの思想とある程度つながりがあったからなんだよ。ただ、もちろん、そこに僕たちなりの、知的な要素っていうのがさらに加わってはいたけれど。特に、デイヴの書くものに、そういう要素が濃かったね。そこがとても大事なところで、ただただ激しいビートに乗せて叫んでる、っていうものではなかったんだ。ほんと、デイヴの歌詞には実に興味をそそるものがあったし。少なくとも僕にとっては、そこが魅力だった。別々だと思われていたものを一つにして、今までのお約束を好きなようにいじり倒すのが楽しかったんだ」


●ハードコア云々というよりは、パンク・スピリッツの方がもっと身近だし、バストロのころからトータスにいたる今まで、ずっと流れているものっていう感じなんでしょうか。

「そうだと思うよ、うん」


●バストロをやっていた期間というのは、あなたのキャリアの中で、どういう時期だったといえますか。

「それは、さっきも話に出たけど、個人的には、最初のバンドだったっていう意味で、とても大事なんだ。自分がやったことがちゃんと形になったのは、あれが初めてだったからね。それに、バンドで演奏するのってこんなに楽しいのかって思ったのもあったし。スタイルを決めて、それをひたすら演奏するっていう。ああいう体験が、懐かしくなる時が今でもあるんだよね。あれからこっちは、あんまりそういう状況になることがないから。僕が今やってるのは、ほら、違うし」


●じゃあ、今は楽しくない?

「いや、今でも楽しいよ。ただ、前とは違うよね」


●バストロの頃は、おもちゃのように音楽に接することができる時期だったんですか。

「うん。ほんと……そう思うよ。あのころはまだすごく若かったし、今の僕たちが抱えてるような心配事もなかった。ただ音楽をやってればよくて、金はどうしようとか、そういうことは全く頭になくて、ほんとに好きで、楽しいからやってるっていうだけだった。楽しかったというのには、そういう部分もあると思うよ」


●今は結構、大変だなと思う時もありますか。

「大変だ、ってどういう意味?」


●新しいことに挑戦し続けなくちゃいけないとか、ご自身の中にハードルを抱えながらやっているのかな、という気がしたんですが。

「うん、それは確かにあるね。長年やってれば、そうなっていくんだよ。誰でも同じだと思うけど。やればやるほど、期待されるもののレベルは高くなっていくわけだから、それに応えていかないとね」


●僕自身、あなたにこうしてお会いして直接話すというのは今回が初めてなんですが、すごくこう、柔和というか親切な方で、たとえばバストロをやっていたころのあなたっていうのは、どんな感じだったんですか。もっとこう、とげとげしてたりしていたんでしょうか。

「や、ずっとこんなふうだよ」


●ほんと?

「でも、演奏してる時は別だけど。人が変わるから」


●去年、新作の話をした時に、すごく達成感があって、具体的にはまだよくわからないけれど、次のアルバムでは、何か新しい展開があるんじゃないかっていう予感も確実にあると話されていましたよね。そういう意味で、ツアーとかをやるなかで見えてきた部分っていうのは何かありますか。

「いや、そういうのはないね。僕たちは、実際に取りかかる前に、意図的にコンセプトを立てようとは思わない方だから。だから、何かが起き始めるのは、だいたい、レコードの制作に取りかかってからだよ。そして、テーマが何かとか、どういう感じかっていうのは、作っているプロセスの中でだんだん見えてくるんだ。だから今の時点では、次に何が来るかはまだ見えていないね」


●では、最後の質問になりますが、ずばり、バストロの再結成の可能性は今の時点でどのくらいあるのでしょうか。

「もちろん、やってもいいよ。でもそれは全部、デイヴ次第だね」


●じゃあ、あなたはやってもいいと思ってるんですか。

「できたら最高だよね」


●本当ですか。

「うん、バンディと僕はやる気だよ。デイヴが声かけてくれるのを待ってるんだ」


●「再結成の可能性高し」と記事に書いても構いませんか。

「……でも、それが当たってるかどうか、僕には何とも言えないな(笑)」


●具体的にデイヴとは、再結成について話はしたことないんですか。

「冗談では、そんな話ばかりしてるんだけどね。でもデイヴは、こっちがジョークで話を振っても、反応がよろしくないので、あいつが今いったいどう思ってるのか、よくわからないんだよ」


●想像の話でしかないんですが、お互い、別々にキャリアを積んできた今の時点でバストロを再結成すると、どんなサウンドになるんでしょう?

「それは、ほんとに何とも言えないなあ。ライヴ盤に入ってるようなのは今でもやれると思うけど、あれより前の曲がどのくらいやれるものなのか、見当もつかない。ま、でも、何でもできないことはないよ」


●やっぱり、やるとなったら昔の写真みたいに、上半身裸になったりするんですか?

「ふぅー。どうかな。やらないと思うけど」


●いいニュースを待ってますので。

「うん(笑)」


(2005/03)


極私的2000年代考(仮)……ポスト・ハードコアの“亡霊” )
極私的2000年代考(仮)……ジョーン・オブ・アークというシカゴの重心 )
極私的2000年代考(仮)……トータスは健在する(増補版) )
極私的2000年代考(仮)……Battles )

2011年10月3日月曜日

極私的2000年代考(仮)……シガー・ロス『( )』(無題)再考

「聴いたひとそれぞれが、それぞれの曲にタイトルをつけてくれたり、歌詞を書いたりしてくれればいいなあと思ってね。もちろん、それは多少の混乱も招くわけだけど。リスナーひとりひとりが、それぞれの人生や経験、それぞれのエモーションを、僕らの曲を下敷きにして描いてくれたらいいなあと思ったんだ」

シガー・ロスのヨンシーは、アルバム『( )』(無題)が、アルバム・タイトルも曲名も、歌詞(という伝達可能な言葉)ももたない理由について語っている。

このアルバムは未完成の音楽である。それを完成させるのは、アルバムを聴いたあなたであり、あなたの想像力である。アルバムに収められた音楽をどう受け止めるか、解釈はあなたの自由。聴いたひとの数だけ、リスニングの回数だけ、アルバムの完成形は存在しうる。なんなら、好きなように歌詞を書き加えて、タイトルをつけてもらっても構わない。そうして僕たちは、音楽のみを通して、リスナーである「君」と濃密なコミュニケーションを結ぶことができる……と、彼らは、まるですべてを託すように『( )』を聴き手の前に差し出してみせる。

それは果たして、リスナーに対する信頼ゆえか、それとも自分たちの音楽に対する自信ゆえか、それこそ解釈はさまざまだろうが、少なくとも彼らが音楽というものを、ただ与えて与えられるだけの“確かな”ものではなく、触発され喚起を促すことで初めて像を結ぶ“不確かな(誤配される不安も孕んだ、しかしそれゆえ幾通りものコミュニケーションの可能性を秘める)”ものとして、この『( )』において捉えていることは明らかである。そして、そうした発想は、いわゆる純音楽的とも異なる純音楽的なニュアンスを帯びたもので、また単に作品から意味性を排除するものではなく、むしろ複数の意味性を同時に立ち上げていくものであるという……「無題」なるタイトルとは裏腹に、きわめて強い作家性を感じさせる点において興味深い。


思えばシガー・ロスほど、その音楽性、あるいは喚起されるイメージにおいて実態の掴みづらいバンドは珍しいかもしれない。あるときはポスト・ロックのヴァリエーションとして、あるときはスロウコア/サッドコアの新鋭として、またあるときはプログレ/サイケデリック・ロックの変種として、モグワイやゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーといった同時代のバンドから宗教音楽(ヒーリング/環境音楽)やクラシックまで引き合いに出されながら彼らの音楽は語られてきた(個人的にはアンビエント/ディスクリート以降のブライアン・イーノが比較対象として相応しいとも考えるが)。一方、サウンドが与えるイメージも、希望や祝福といったポジティヴなものから、悲しみや畏怖といったネガティヴなものまで、光と闇を併せ呑むようにさまざまである。2000年にファットキャットから再発されたサード・アルバム『アゲイティス・ビリュン』以降、作品がワールドワイドにリリースされるようになり、またインタヴュー等で彼らの発言に触れられる機会は増えたものの、その存在(の核心部分)はいまだヴェールに包まれたままである、という印象がある。

いや、というかそもそも、そうした彼らの捉えがたさ、そしてあらゆる解釈も許容してしまう『( )』に集約されるスタンスというのは、裏を返せば、ある種の秘密主義にも近い態度なのではないだろうか。

たとえば、『( )』で歌われている、「ホープランド語」と呼ばれる彼らが作った実在しない国の言葉は、それゆえ聴き手に自由な解釈を促すものでありながら、同時に、どこまでいっても理解しえない(意思の疎通の不可能な)、彼らとの間の壁や隔たりを強く意識させる。あるいは、作品の完成を聴き手にゆだねるという行為は、結局のところ、「君」の思う『( )』と「僕ら」の思う『( )』は永遠に異なるという、コミュニケーションのねじれを際立たせるものではないか。そこには、音楽というものを、誰もが等しく享受できるアートだと考える一方、究極的には創造主たる我のみぞ知る“語りえぬもの”として「君」と「僕ら」の間に一線を引く、そんなアンビバレントな感情が透けて見える。

いや、さらに踏み込んでいえば、音楽を「現実からの逃避手段だった」と語るヨンシーにとって、そうしたある種、究極的には理解されることを拒むようなメッセージは、これまで自分が受けてきた偏見や差別(といった過剰なコミットメント)による疎外感ゆえに生まれた、彼ならではの世界/他者に対するささやかだが断固たる抵抗だったのではないだろうか。『( )』にはそんな、音楽だけによって誰彼とも繋がり合いたいという無垢な願望と、せめて音楽だけは誰の手にも触れさせまいという潔癖な苛立ちとが激しくせめぎ合っている。そう思えてならない。


唐突だが、たとえばリチャード・ヘルは、有名な「ブランク・ジェネレーション」というフレーズについてこう説明する。

「すべてのものごとを『空白』と考えれば、頭に浮かぶものすべての辻褄が合うっていう意味があるんだよね。それってつまりは……誰だって自分がなりたい姿になれるっていうことなんだ。空白なら既存の枠にはまる必要もないわけだから、自分を好きなように作り上げられるっていうね。あのフレーズのいいところは、こうやっていかようにも解釈できるところでさ、それがその美しさでもあるんだ」

1970年代初頭、ヴェトナム戦争による不安と恐怖、メディアがまき散らす夥しい量の情報にさらされ、アイディンティティ・クライシスに陥ったというヘルは、アンディ・ウォーホルのポップ・アートやサミュエル・ベケットの前衛劇をヒントに、空虚さや無感覚といった病理を対象化するアイディアを得る。そうして生まれたのが「ブランク・ジェネレーション」における「空白(ブランクネス)」という概念だった。それはまた、「ロックンロールとは自分を創造し、作り変えることである」と考えたヘルのロックンロール観を明文化したステイトメントでもあった(※なお、こうしたヘルの理念がすでにロンドン・パンクのアティチュードを先行するものだったことはいうまでもない)。

変身願望とは、つまり現実逃避のヴァリエーションである。ヘルは、ロックンロールによって本名リチャード・メイヤーズという現実を葬り、「ブランク・ジェネレーション」を合言葉にパンク・ロッカーとしての自己像を新たに作り上げた。そして、この「空白」であることを、「いかようにも解釈できる」自由(であり美しさ)であると読み替えていく視線は、いうまでもなくヨンシーが『( )』に求めたものと重なるだろう。また、そうした発想が、純粋にクリエイティヴの問題というよりも、ある種アイデンティティに関わる対処療法的な発想のなかから生まれたものである点においても、「ブランク・ジェネレーション」と『( )』は共通点を感じさせて興味深い(※ちなみに、ウォーホールのポップ・アートや、彼がファクトリーに集めた「スーパースター」と呼ばれるセレブリティこそ、そんな変身願望や「いかようにも解釈できる」ものの最たる例であった)。

とはいえ、果たしてヨンシーのなかに、はっきりと変身願望と呼べるものがあったかどうかは、わからない。しかし、音楽とは現実からの逃避を意味したヨンシーにとって、いい換えれば、唯一音楽だけが、自分を自分のままたらしめてくれる(=より自分らしい自分になる、という変身願望を満たしてくれる)場所であったことは想像に難くない。つまり、ヨンシーにとっては、逆に音楽こそが「現実」であり、自分以外の世界と自分とを繋ぐ唯一の手段でもあったはずだ。

そして、そんな唯一の現実でもあるはずの音楽を、あえて未完成のまま、「いかようにも解釈できる」ものとしてリスナーに差し出してしまう『( )』とは、あらためていったい何なのだろう。世界から身を守るシェルターでありながら、世界に向けて開け放たれた扉でもある音楽。あるいは、どこまでも「個」に閉じていながら、すべての決定権を「他」にゆだねられている音楽。そうした祖語や矛盾を抱えた、きわめて不安定な状態に『( )』は宙づりされているようだ。しかもヘルのように、それこそそれを、あえて「美しい」と呼んでしまうようなあやうさが『( )』にはある。


たとえば、同郷アイスランドの先輩ビョークのパートナーであり、先日まで新作『拘束のドローング9』が日本で公開されていた現代アートの鬼才マシュー・バーニーが、8年の歳月をかけて完成させた大作『クレマスター』。クレマスターとは、医学用語で「睾丸に繋がる腱を包み込む筋肉」、つまり胎児期に性の分化を左右するクレマスター筋を指し、転じて存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する過程を表すメタファーとしてそれは使われている。その『クレマスター』で描かれているのは、いわば男性性と女性性(的寓意)に引き裂かれた一種の神話的世界であり、オブセッシヴなヴィジュアル・イメージによって映し出されるのは、その不安定で曖昧な状態をひとつの通過儀礼として変化していく「生(と死とエロス)」のありようである。……のだが、視点を変えれば、『( )』もまた、そうしたある種の「存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する」何かを記録した作品、といえるのではないだろうか。アンビバレンスや矛盾を孕みながら、それゆえ生々しく濃密な世界を描き出していくシガー・ロスの音楽は、そのスケールの大きさとは裏腹に、『クレマスター』に倣えばどこか胎児期の未分化な性を思わせるイノセントさがある。

思えば『( )』は、そのクリエイティヴの面のみならず、バンドの環境も大きく変化していく途上に作られた作品だった。レディオヘッドをはじめビッグ・バンドからのツアー・サポートのオファーやワールド・ツアーの敢行、メジャーとの契約やそれに伴うビジネス面での煩わしさ、周囲の注目とメディアへの対応など、『アゲイティス・ビリュン』から『( )』の完成にいたる過程は、それは戸惑いの絶えない困難なものだったに違いない。――そう、ヨンシーは最新のインタヴューで振り返りながら、あらためて『( )』について、それは「時を超えた沈黙の時期」であり「ティーンエイジャーが迎えたカオティックな世界」である、と表現する。

「時を超えた沈黙」が、『( )』のクリエイティヴ面における開放性(=いかようにも解釈できる)と閉鎖性(=ホープランド語)を、そして「ティーンエイジャーが迎えたカオティックな世界」が、『( )』制作期におけるバンドの未分化でイノセント(=思春期的)な状態をいい表すレトリックであることは明らかだろう、そうしたフレーズからは、『( )』がいかに産みの苦しみを伴う作品だったかが伝わってくる。

そして同時に、『( )』は、つまり「個」としての彼らが、そうしたカオス(未確定な状態)を克服し、より普遍的で(「他」と関係性を結びうる)、成熟した(確定的な状態)音楽を奏でるバンドへと変化を遂げていくためのレッスンであり、通過儀礼のようなものであったのではないだろうか。続く最新作『Takk…』を作り終えて、「それでも世界は思っていたほど悪くないかもしれない、って大人になって少し気づいた」「すべてのひとにありがとう(Takk)っていいたいんだ」と、その心境を語るヨンシーの言葉はとても象徴的である。ヨンシーにとって、音楽こそが「現実」であり世界との結び目であったように、『( )』は、ひとつの過渡期を迎えていたバンドにとって、ふたたび自分たちと音楽との関係を補正するための、いわばリハビリテーションだったのかもしれない。それはさまざまな矛盾や混乱を孕んだものだったが、そうしたすべてをさらけ出すことが彼らには必要だったのだなと、『Takk…』が奏でる翳りのまるでない澄んだサウンドを聴いていると痛感させられる。


もしかしたら彼らは、『Takk…』によって初めて、自分たちの手で音楽を「完成」させることができたのかもしれない。まるで『( )』の円環が閉じるように……そんな実感があるのではないか。そしてヨンシーは、『Takk…』によって初めて、ようやく世界と和解することができたのではないだろうか。


(2005/11)


(※『ANTONY AND THE OHNOS ―魂の糧―』 に続く)
(※ビョーク『Biophilia』論<近日公開>に続く)