たとえば、エレクトロニカ~フォークトロニカ以降ともいえる地平と共振した、エレクトロニクスとアコースティックが紡ぎだす緻密にしてオブスキュアな感情表現。あるいは、昨今注目を集めるアヴァン/フリー(ク)・フォーク勢とも響きあう、ルーツ・オリエンテッドかつ先鋭的な「歌」と「音(響)」をめぐる試み。さらには、アフリカンやブラジル音楽などワールド・ミュージックへのアプローチにうかがえる越境的な志向も含め、そこには、現在の多様な音楽の潮流と交わる参照点や痕跡が示されるとともに、そうした周囲の状況と微妙な距離を保ち自らの音楽表現の枝葉を広げていくヴィニ・ライリーの創作的な営みが鮮やかな筆致で描き出されていた。
「25年間で初めて、自分のアルバムの出来に満足できた作品」とはヴィニ本人の弁だが、キャリアを積み重ねて円熟に向う過程で、感性が硬直したり磨耗することなく、まさに「Keep Breathing(呼吸し続ける)」というタイトルの通り、伸びやかに成長し続ける不断の音楽的達成がそこには刻まれている。その意味で『キープ・ブリージング』は、ドゥルッティ・コラムの最高傑作にして、映画『24アワー・パーティー・ピープル』絡みの再評価や最近のニュー・ウェイヴ/ポスト・パンク・リヴァイヴァルとはまったく異なる文脈で、その才能を時代が「再発見」した作品だった、と言えるかもしれない。
もっとも、ヴィニ自身にとって、そうした同時代的な評価はあくまで結果的なものであり、あらかじめ意図していたものではけっしてない。そもそも1980年に発表されたファースト・アルバム『The Return Of The Durutti Column』の時点から、リズム・ボックス/シンセサイザーとエレクトリック・ギターを操り、現在の原型となるアンビエント的な音響空間を創り上げていたドゥルッティ・コラムのサウンドは、その後1990年代に入り本格化するテクノ/ポスト・ロックの潮流を予告していたという意味でも、むしろ先駆的な存在といえる。ヴィニは、自身の音楽と「時代」との関係性について、きわめて慎重な立場をとる。
「時代性というのは、音楽を作る際の矛盾点だと思うんだ。というのも、自分が生きているその時代を反映するのはごく自然で・・・・・なぜなら今の世界に生きている一人でもあるわけだからね。その一方で、アートというのはそうした時代性に関係のないところで創造しなくてはいけないわけで、つまり自分の中の奥深くにそうした場所を見つけ出さないといけない。自分だけのエモーションやフィーリングをね。僕にとって音楽を作るというのは、直感と本能が中心で、とても原理的な行為なんだよ。同時に、そうしたエモーショナルな反応はごく個人的なもので、言ってみれば、周りで起きていることに対する自分なりの感想、自分がどう影響を受けたかの記録、みたいなものなんだよね。まあ、矛盾していると言えば、矛盾しているんだけど」
つまり、ヴィニにとって音楽とは、きわめてパーソナルな視点に根差したものであり、かつ、そのパーソナルな視点をフィルターに濾過された「時代性」の反映として輪郭が与えられるものでもある。ドゥルッティ・コラムのサウンドが、たとえば四半世紀前の作品と現在を違和感なく結ぶようにタイムレスな美しさをたたえながら、「周りで起きていること」を参照させる多くの音楽的な示唆を含んだものとして聴かれうるのは、それゆえにほかならない。
本作『リベリオン』は、2001年に発表された通算十数作目となるオリジナル・アルバムである。その最大の特徴は、多くの曲でフィーチャーされたゲスト・ヴォーカルの存在と、フィドルやバンジョーなど多彩なサブ・インストゥルメントの導入、そして(部分的だが)ヒップホップ/ブレイクビーツを含めたアフロ・ミュージックへの接近、だろう。
ケルト・ソングの清冽なメロディにのせて女性ヴォーカリストのヴィック・A・ウッドが楽園的な歌声を聴かせる「The Fields Of Athenry」。ゲストMCのラガ・フレイヴァーなラップを交えた艶かしく猥雑なゴスペル「Overlord Part One」。南国の黄昏どきをたゆたう子守唄のような「Mello Part One」。ガット・ギターとポリネシアン・ビートが夢幻的な余韻を演出する「Longsight Romance」。チベタン・バンジョーが郷愁を誘う「Protest Song」。ヴィニのエレクトリック・ギターと盟友ブルース・ミッチェルのトライバルなドラムが織り成す勇壮なファンファーレ「Meschucana」。デビュー当時の作風や最新作の『キープ・ブリージング』が纏う内省的で静謐なイメージとは対照的に、そのサウンドはきわめて情熱的で官能的な印象さえ受ける。まるで世界中を旅しながら制作でもされたかのような、カラフルで多国籍/無国籍的な色香の漂う音色が魅力だ。
そして、音楽家ヴィニ・ライリーの才能とその音楽言語の多様さに、あらためて感じ入らざるにはいられない。ドゥルッティ・コラムらしいゆらめくようなギター・アンビエンスを聴かせる「4 Sophia」。ハワイアンとトロピカリズモが波間で溶け合うような「Mello Part One」「Cek Cak Af En Yam」。ブルージーなギターがヴィックの歌声に寄り添い潤色を与える「Voluntary Arrangement」。ヴィニ流フラメンコ/マリアッチとも呼べそうな「Mello Part One」。様々なルーツ=音楽的記憶が散り散りと混在する異境のアシッド・フォーク「Longsight Romance」。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテが世界でもっとも偉大なギタリストの一人としてリスペクトを寄せているのは有名な話だが、本作を聴けば、シド・バレットやカエターノ・ヴェローゾまでさかのぼり、アート・リンゼイからデヴェンドラ・バンハートにいたるギタリスト/ソングライターの系譜にヴィニ・ライリーもまた位置していることを再確認できるのではないだろうか。自身の世界観と向き合い洗練をきわめる孤高の求道精神と、インスピレーションに逆らわず自由に表現の領域が開け放たれている先進的な創作精神。そのふたつが表裏をなし、あるいは交じり合うところこそがドゥルッティ・コラムの音楽であり、ヴィニ・ライリーの作家性だとするなら、本作『リベリオン』は、その本領をあますところなく堪能できる作品と言えるだろう。
ドゥルッティ・コラムという名前が、1930年代に起きたスペイン内乱の際にアナーキスト部隊を率いた革命家ブエナヴェントゥラ・ドゥルッティから取られているように、「反乱」とタイトルに冠せられた本作『リベリオン』もまた、ヴィニにとってきわめて政治的な意味合いを持つ作品であることは想像に難くない。当時のインタヴュー記事によれば、そのものずばり「Protest Song」をはじめ本作の背景には、アフリカのエイズ問題や飢餓・貧困問題に触発されたヴィニの葛藤が反映されているようだ(ちなみに本作がリリースされたのは9・11テロ事件の約一ヶ月前)。
来年で結成30年目を迎えるドゥルッティ・コラム。「僕たちはパンク・ムーヴメントを見ながら、自分たちなら音楽業界を変えられると信じていたんだよ。レーベルを運営しているビジネスマンたちの手から音楽を奪い返して、純粋に自分たちのものにできるってね」。そうして始まったヴィニ・ライリーの「革命」は、現状を見る限り残念ながら成就したとは言い難いが、その音楽は、今も聴く者すべての心に爪痕を残し続けている。
「『その音楽は何かの役に立ったのか? この世界にどんな貢献をもたらしたんだい?』と訊ねられたら、僕はこう答えるよ。『僕の音楽が良いものだったのか悪いものだったか、あるいはこの世の中で何か意味を持つものだったか、変化をもたらしたかとか、そういうことは僕にはさっぱりわからない。ただ僕が唯一確信を持って言えることは、僕が作った音楽は正直でストレートで、嘘がないということだ。そこにはほんの少したりとも、金儲けや成功を狙った部分はなくて、ありのままの自然なプロセスで生まれたものだ。最初から最後までね』って」
(2007/05)
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