2011年10月22日土曜日

極私的2010年代考(仮)……2010年代レディオヘッド序論

ニュー・アルバムの『ザ・キング・オブ・リムス』がリリースされて約半年。先日にはリミックス・アルバムのリリースも発表されたばかりだが、一方でバンド側の「言葉」はいまだ伝えられてこない。CD版のリリースに伴い、『The Universal Sigh』なる無料新聞が各地のレコード店で配布されたが、これを書いている現時点で、今回のニュー・アルバムに関するメンバーの具体的なコメントや取材等のプロモーション的な活動は一切なし。「これはどういうアルバムかという文脈でバンドの歴史がしつこく繰り返されなくてもいいこと。作品の真価そのものによって聴いてもらえるんじゃないかと」。以前、トム・ヨークは前作『イン・レインボウズ』のリリースに際して、ゲリラ的なデジタル配信のメリットをそのように語っていたが、真相はともかく、その意図を今回も踏まえてか、『ザ・キング・オブ・リムス』は制作のプロセスや背景のストーリーについてはまだわからない部分が多い。


「ロック・バンド」としてのトータリティーや王道感を漂わせた『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』や『イン・レインボウズ』に比べると、実験性に富みアーティスト・エゴを押し出した印象は『キッドA』や『アムニージック』にも近い。が、その後者の2作でさえ聴けた、いわゆるギター・ロック的なサウンドは皆無に等しく、とくにアルバムの前半部などバンド・アンサンブルはエディットされた電子音やビートに溶け込むかたちに抽象化/微分化されている。対照的に、カンの“スプーン”のポスト・ダブステップ・ヴァージョンのような“ロータス・フラワー”で折り返す後半部では、ピアノやアコギがメインをとるオーガニックなサウンドを見せ、トムのヴォーカルも独唱のように深く声帯を震わす。つまり大雑把にいってしまえば、近年のフライング・ロータスやブリアルといった気鋭のトラック・メイカーとトムとの交流に顕著なダンス・ミュージックからの影響と、“ギヴ・アップ・ザ・ゴースト”や“セパレイター”など元々はトムの弾き語りで披露された事実が物語るソングオリエンテッドな作風とのミックスであり、ここにはふたつの対照的なレディオヘッド像が均衡するようにコントラストをなしている。もしくは、「僕にとって完璧な状態というのはラップトップもアコギもまったく平等に扱って、どちらも美しいものが作れてっていう状態で、自分達はどんどんそこに近づきつつあると思う」と『イン・レインボウズ』に際して語っていたジョニー・グリーンウッドの言葉を受ければ、『ザ・キング・オブ・リムス』はある意味では理想的な作品といえるのかもしれない。


現在もレディオヘッドにおける顕然たるメイン・ソングライターはトム・ヨークなのだろう。そのことは今回の『ザ・キング・オブ・リムス』にも色濃く反映されたトムの近況が物語るとおりだが、その点で興味深いのが、アトムス・フォー・ピースの位置づけである。

アトムス・フォー・ピースとはご存知のとおり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーやナイジェル・ゴドリッチを迎えて始動したトムの新たなプロジェクトで、一昨年の結成からこれまで世界各地でツアーが行われてきた。その演目はひとつに、トムのソロ・アルバム『ジ・イレイザー』のナンバーを「バンド」で演奏するというもので、つまり簡略していうと、アルバムではサンプリングやプログラミングで代用された加工音を生音でアップデートし再構築するという試みである。一方、先日レコード・ストア・デイに限定リリースされた“Supercollider”もそうだが、『ザ・キング・オブ・リムス』の収録曲も含む新曲の多くは、バンド演奏ではなくピアノやアコギによるトムの弾き語りというかたちで披露された。いわば、ソロ・ワークの延長線にあるレディオヘッドの「代替案」であり、またレディオヘッドに導線を引く「原案」としてのソロ・ワークの場でもあるという、トムにとってアトムス・フォー・ピースとは入れ子のようにふたつの異なる性格を帯びたトライアルといえるかもしれない。そして重要なのは、もちろんタイミングの問題もあるが、その試みが、たとえばレディオヘッドのライヴ・セットに組み込まれるというかたちではなく、わざわざ新しい「バンド/場」を用意してまで行われたということだろう。


トムを始めバンドのメンバーが、長らくレディオヘッドという「案件」の取扱いに苦慮し試行錯誤を重ねてきたことは知られたとおりである。『ザ・ベンズ』以降の世界的なブレイクをへて、評価やセールスの急上昇に従い巨大化の一途を辿ったレディオヘッドを取り巻く現象は、彼らの重荷となり、バンド活動の継続は次第に苦痛を伴うナーヴァスな様相を呈した。そのストレスは、『OKコンピューター』前後のパニックや『キッドA』完成までの紆余曲折が物語るように、創作と運営の両面において彼らに切迫した事態をもたらした。それはある意味、彼らに限らずビッグ・バンドの宿命であるとはいえ、その致し難さは最近までトムがレディオヘッドを「怪物」呼ばわりしていたことにも象徴的なように深刻で、例えば以前トムは『キッドA』完成直後のインタヴューで、「もうギターを持ちたくない」と吐露するほど疲労と緊張がピークに達した『OKコンピューター』後の長いスランプ期を振り返りこう語っていた。「それなりに時間をかけて、自分たちがなろうとしている姿、他人に期待されている姿、そうしたものを捨てて、もう一度人間になる方法を学習したんだ。化け物でなく、人間にね」。

そうした中、この10余年において彼らがリリースの度に起こしてきた、ときに物議を醸し反動的にも映った様々なアクションとは、いわば“レディオヘッドの世界”と“レディオヘッドと世界”の関係を清算し、新たに修復するためのメソッドだったのだろう。

『キッドA』と『アムニージアック』の2枚のアルバムで彼らは、「ロック・ミュージシャンはみんな家に帰って、生活を取り戻すべきだよ。そして何か別のものを聴くんだ。ロックなんて退屈だ」という当時のトムの発言にも集約される「ロック・バンド」のルーティンやクリシェの否定の意志を、脱ギター・ロックというかたちで果たした。『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』で見せたロック・アンサンブルの再構築は、つまり前2作でそれまでのレディオヘッドのルーティンやクリシェの否定という荒療治をへてソングライティングの手応えを回復した結果ゆえのブレイクスルーだった。そして、メジャーとの契約が終結しフリーランスの身となった彼らは、『イン・レインボウズ』で業界の慣習を破りネットを利用したゲリラ的なプロモーションとオープンプライスの先行リリースを敢行する。『ザ・ギング・オブ・リムス』の展開は、そのやり方を踏襲しつつ、より戦略的に進めたかたちといえるだろう。

振り返れば彼らは、そうして段階的な手順を踏みながら、バンドをめぐる内圧/外圧の緊張を解きほぐし、一時は自らの手に負えなくなるほど肥大化した末に制御不順に陥ったレディオヘッドというシステムを解体し、再生するための作業を進めてきたことがわかる。とりわけ『ザ・ギング・オブ・リムス』の展開を見るかぎり、“世界一有名なインディ・バンド”になった『イン・レインボウズ』以降の彼らは、「YES」といえる自由を手にしたと同時に、「NO」といえる自由をその行動によって示してきた――といえるかもしれない。

一方、その間トム・ヨークは、レディオヘッド本体の活動と並行して課外活動を活発化させてきた。前述のソロ・アルバムやアトムス・フォー・ピースもその一環だが、とりわけ顕著なのは、2000年代の後半から近年にかけて積極的な動きを見せる、共演や客演などのコラボレーション・ワークである。

それまでのトムのコラボレーションは、まず機会自体がごく稀で、共演者もビョークやPJハーヴェイといったヴォーカリストが相手の限られたものだった。それは例えば、ゴリラズにおける多彩な交遊録を始め、かたや現代音楽からアフリカ音楽のフィールドまで創作の人脈を広げてきたデーモン・アルバーンのケースとは対照的でもある。けれど最近のトムを見ると、先日もコラボ・シングルをリリースしたブリアルやフォー・テット、チャリティ企画で共演したマーク・ロンソン、そして『コスモグランマ』のフライング・ロータスなど、いわゆるトラック・メイカーとの積極的な交流が目立つ。きっかけは、ブリアルやフォー・テットも参加した『ジ・イレイザー』のリミックス・アルバム(※フィールド、ザ・バグ、モードセレクターetc)だろうが、まだまだ範囲は限定的とはいえ、フットワークは以前に比べてとても軽い。課外活動の活発化はジョニー・グリーンウッドやフィル・セルウェイについてもいえるが、フロントマンのそれは意味合いが違う。何より『ザ・ギング・オブ・リムス』のサウンド面しかり、始動した同作のリミックス・プロジェクトなど、レディオヘッド本体の活動にフィードバックされた影響力の大きさは、トムの課外活動に見られる変化の重要性をひときわ物語るものだろう。


「バンドってある地位まで到達してしまうと、それ以上自分たちを作り替えていく能力を失ってしまう」。以前デーモンがレディオヘッドを評した言葉だが、『キッドA』以降の数々のアクションとは、まさに自分たちを作り替えていく過程だったといえる。それは、かたやブラーが作り替えることを諦め解散を迎えたのと対照的に、バンドの存続のためトム以下が自身に課した必然的な選択だった。興味深いのは、彼らの場合、自分たちを作り替える過程で周りの環境も作り替えてきたことで、むしろ後者が前者を促したきらいがある。近作のリリース方法や今回のプロモーション戦略に顕著だが、つまり冒頭で挙げたトムの発言にあるように「作品の真価そのものによって聴いてもらえる」環境を用意し、そのことがクリエイティヴィティを担保するようなクオリティ・コントロールを可能にすることこそ、彼らがこの10年取り組んできた改革の真意だといえる。

では、その自分たちを作り替えていく過程でトムが新たに作り上げたアトムス・フォー・ピースとは、あらためてどんな「環境」だったんだろう。例えばデーモンにとってのゴリラズと対比したとき、ゴリラズが当初のコンセプトいわくアニメキャラクターに扮するメンバーによる架空のバンド=仮想世界(ヴァーチャル)であるとするなら、アトムス・フォー・ピースはいわば並行世界(パラレル・ワールド)であると位置づけられるかもしれない。

アトムス・フォー・ピースはあくまでレディオヘッドという基本世界に隣接するもうひとつの現実としてあり、かつ前述のとおりトムのソロ・アルバム『ジ・イレイザー』の二次創作(=並行世界)としての性格を持つ。加えてさらにアトムス・フォー・ピースと『ザ・キング・オブ・リムス』は、楽曲をシェアしているという点で二次創作的/入れ子構造的な関係を指摘することもできる。つまりデーモンにとってはゴリラズに限らずソロも含め、現代音楽やアフリカ音楽、はたまた西遊記のオペラで見せた中国伝統音楽への関心などすべてはブラーと乖離した別次元(オルタナティヴ)としてあるのに対して、トムの場合はソロにしろアトムス・フォー・ピースにしろ軸足はレディオヘッドにあり、それらはレディオヘッドと同一の次元で展開するヴァリエーションとしてあるということなんだろう。そして、今回の『ザ・キング・オブ・リムス』でレディオヘッドは初めてオフィシャルなプロジェクトとして「リミックス」に乗り出したように(※『イン・レインボウズ』でもリミックスのフリー・ダウンロードや公募はあったが)、どうやら彼らの関心は、外側からレディオヘッドを見ること――いわば“並行世界としてのレディオヘッド”あるいは“並行世界から見るレディオヘッド”というものに向けられているようなのだ。


『ザ・キング・オブ・リムス』のリリースから約半年。いまだ作品について自ら語ろうとしない彼らの動向は、予断を許さないものがある。彼ら自身も『ザ・キング・オブ・リムス』の意味を手探りの状態なのかもしれない。しかし、「レディオヘッドでありたいと感じているメンバーは誰一人といないんだ」とトムが話していた数年前とは異なり、彼らは個々に手応えを感じ、何よりレディオヘッドを続けることの可能性を信じているようだ。スタジオ・ライヴでの唐突な新曲披露、そして噂されるブライアン・イーノとのレコーディング――。レディオヘッドによるレディオヘッドの改革は今も続いている。(続く)



(2011/08)

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