ジョン・マッケンタイアがガスター・デル・ソル/トータス以前に在籍していたバンド、バストロの作品が再発される(※ファーストとセカンドをコンパイルした『シング・ザ・トラブルド・ビースト+バストロ・ディアブロ・グアポ』、初作品化となるライヴ盤『アントラーズ:ライヴ1991』)。活動期間はわずか4年と短命に終わったバストロだったが、しかし、このスリントと並び称されるUSポスト・ハードコア伝説のグループで活動し培われた経験が、現在のジョンの血肉となりミュージシャンとしての下地を相応に築いたことは間違いない。事実、この度の来日公演であらためて目の当たりにしたジョンのアグレッシヴなドラム・プレイは、バストロ時代の面影をたしかに想像させるものがあった。果たして現在のジョンは、この爆音に身を焦がした過去を、いかに総括するのだろうか。
●一昨日のライヴですが、とても素晴らしかったです。本人としてはいかがですか。
「うん、よかったよね。楽しかったし。最近まではライヴもあまりやっていなくて、たまに数回やるくらいだったから、今はちょうど、ツアーをやるようなモードに戻りつつあるところなんだ。だから、こういう形で始められたのはすごくよかったんじゃないかな」
●去年、新作(『イッツ・オール・アラウンド・ユー』)について伺った際、すごく達成感があるとか、今まではそんなことなかったけれど、今度のアルバムは家でも聴いているといった話がありましたよね。そういう充実した感じが、ライヴにも表われているんじゃないかなと、観ていて思ったんですが。
「んー、それはどうかなあ。僕たちの場合、ライヴの演奏は、レコードを作っていくやり方とはかなり違うからね。だから、その2つは平行していて、別々にやらないといけないことっていう感じだね。ただ、このツアーは去年から始めてるんだけど、みんなの演奏もかみ合って、よくなってきてるとは思う。それはもちろん、10年間やってきたことの結果なんだけどね。ツアーもずいぶんやってきたし、やればやるほどよくなっているから」
●ライヴに映像を流すっていうアイディアは、どういうところから生まれたんですか。
「あれは……どういうふうに始まったのかは、はっきり覚えてないんだけど、普通の照明だけじゃないライヴをやろうという気持ちは、もともとあったんだ。それで、たしか最初は、ロンドンから来た友達が、グラフィック・デザイナーというか、テクノロジーを使ったビジュアル的な仕事をしてたんだよね。僕たちのレコードのジャケットのデザインなんかも、ずいぶんやってもらっていて。で、その人がビデオもやってるのを知ってたから、ライヴ用にビジュアルもお願いして、しばらくは彼がそういうものを担当してたんだ。それから、僕たちのエンジニア、というか当時エンジニアだったケイシー・ライスが後を引き継いで、何年かはケイシーがやってくれていたよ。で、今はオシェイがやってるっていう。ああいう映像があると、ライヴのサウンドとの相乗効果があると思うんだよね。見に来てくれたお客さんに、伝えられるものも増えるし。僕たちの場合はヴォーカルがないぶん、映像でライヴ体験をより深いものにしてるというか」
●では、本題に入りますが、まず、なぜこの時期にバストロ時代の音源が再発されることになったのか、その経緯から教えていただけますか。
「なんというか……それは、デイヴィッド・(グラブス、バストロのメンバー)に聞いてもらわないと(笑)。最初にリリースされてからかなりになるけど、今度再発になるレコードに対して、デイヴはずっと、どこか微妙な感情を抱いていたんだよね。でも今はだいぶ時間も経ったから、少しはゆとりを持って聞けたんじゃないかな。それで、あのころの作品を表に出すのも自然なことだっていう気になったんだろうね。基本的には、そういうことだと思うよ」
●その、“微妙な気持ち”っていうのは、どういうことなんでしょう?
「僕にもわからないな、たぶん彼も……大人になったっていうふうにはいいたくないんだけど、あのレコードを作っていた時と、その後とを比べると、彼の音楽へのアプローチやセンスが、がらっと変わってしまったんだよね。だから、それ以前のレコードは、まったく時代の違うものっていうふうに見ていたんじゃないのかな。青臭くて、アグレッシヴで、叫んでるだけ、というような。だから、その後、ガスター・デル・ソルでやってることと整合性がないと思ったんだろうね。バストロ以後作品はもっと内省的だし、ヴォーカルにしてももっと細やかになってる。だから、そこの食い違いに折り合いをつけるのに時間がかかったんじゃないかな。まあ、あくまで推測だけど」
●じゃあ、今はそこに折り合いがついたという感じなんでしょうか?
「うん、もちろん。もしそうじゃなかったら、今度も再発なんてしなかっただろうし」
●今回、音はジョンがリマスタリングしたと聞いたんですけど……。
「いや、その場にはいたけれど、実際の作業をやったのはエンジニアだよ」
●あ、そうでしたか。でも、久しぶりに聴いたバストロの音はどうでしたか。若いころの自分のプレイを聴いて思うところなどありましたか。
「いや、確かになかなか興味をそそられるものではあったよ。ずいぶん長い間、聴いてなかったからね。聴き直して、ショックを受けたというか(笑)。ま、どんなものであれ、21曲を全部、ぶっ通しで何度も聴かなくちゃいけないわけだから、それは、なかなか大変だよ。でもある意味、驚いたね」
●10数年前にやっていたことを改めて聴いてみて、新鮮な感じというのはありました。
「確かに、昔の自分の演奏を聴いて、個人的に思うところはあったよ。今なら当時より、客観的に見られるし。曲作りにしても、これだけ時間が経ってから聴くと、改めて結構いい曲書いてたんだ、とかって思ったりしたね。作っていた時は、とにかく演奏にしか頭がいってなくて、少し引いた視線で見るようなことはできなかったんだけど。うん、それが一番大きいかな」
●自分の演奏についてはどう感じましたか。
「あんなに速く、ヴォリューム全開で弾いてたなんて、すっかり忘れてたよ。あんなに高速でやかましかったんだ、って」
●そもそも、バストロに入ったきっかけはどういったものだったんですか。
「あれはたしか、2年目……いや、大学に入って最初の年だったな。僕はそのころ、オハイオに住んでいたんだけど、友達に、マイ・ダッド・イズ・デッドのマーク・エドワーズと友達だっていうやつがいたんだ。で、マイクがツアーをやるのでドラマーを探してて、それで僕が参加して短いツアーに出たんだよ。その時のメンツは、マイ・ダッド・イズ・デッドとバストロと、あとはメンブレンズだったね。で、そのうちにバストロのデイヴとクラークと友達になって。その当時は、ふたりはドラム・マシーンを入れて演奏してたんだけど、たぶんあのツアーの後に、ドラム・マシーンを使うのはそろそろやめようって思ったんじゃないのかな。それで二人から電話が来たんで、僕がシカゴに行ったんだ。シカゴで何度かリハーサルをやって、ライヴもやってみたら、これはすごくいいって全員が思ったんで、それからずっと、僕も入ってやることになったんだよ」
●初めてバストロの演奏を聴いたとき、どんな印象をもちましたか。
「それは……なかなか説明しにくいな。最初聴いた時は、何だかこう、信じられないくらいアグレッシヴだなって思ったけれど(笑)。ドラム・マシーンは“カカカカカ”って、超高速だったし、デイヴのギターにしてもあのころはケンカ腰で、クラークのベースも“ゴゴゴゴゴ”なんて音を立ててたからね。でもすごく気に入ったよ。すごくかっこいいと思ったし、ああいうサウンドって、他にはなかったからね。そこに興味を惹かれたんだ」
●ジョンがバストロに入って、サウンドはどう変わりましたか。
「そうだね、曲作りの面で、デイヴはかなり楽になったのは確かだと思う。僕が入ったおかげで、ドラム・マシーンのパートを考えなくてもよくなったから(笑)。それに、実験できる幅が広がったね。音の感触にしても、テンポにしても、思いついたことは何でもやるようになっていったんだ。もちろん、バンドとして一緒にやれた期間は短かったけど、その間にすごく成長したと思う。もしあのまま、ドラム・マシーンと二人、っていう構成だったら、成長の幅はもっと限られたものになっていたと思うよ」
●今もちらっと大学の話が出ましたけど、大学では音楽理論を勉強したとか、録音技術を学んだと聞いてるんですが。
「うん」
●そうしたある種アカデミックな領域から、バストロのようなそれまでと180度異なる方向へ進まれたという、そこがとても興味深いところでもあるわけですが。
「自分では別に、変だと思ったことはないよ。僕が興味を持つものって、昔から脈絡なかったし。逆に、極端に違うものをやるのがいいって思ってたからね。かっちりした形式がある、アカデミックなものを勉強して、アートの世界に片足を突っ込みつつ、実社会、たとえばクラブでお客さんを相手に音楽をやってる人たちと付き合うような、まったく別の生活も送っているっていう、それが僕にとってはよかったんだ。両方できたことで、いいバランス感覚が生まれたんだと思うよ」
●そうしたアカデミックなことをやっていたという経験は、バストロとしての活動にも生かされていたんでしょうか。
「いや、直接の影響はなかったよ。でも、無意識の世界では、分けて考えられないからね。直接関連しているところがなかったとしても、日々考えることとか、やっていることに何らかの影響は与えてたんじゃないかな。でもそれは、あくまでいろんな要素の一つにすぎないけど」
●なるほど。
「たぶん、デイヴがガスター・デル・ソルをやるようになってからの方が、現代音楽的な作曲法とか、そういう要素が取り入れられていたと思う。ジム・オルークと組んだ作品は特にはっきりとそういうものが出ていたね。そんなふうに、影響がはっきり出てきたのはガスター・デル・ソルになってからで、バストロのころはまだ時期が早すぎて、出てくるまでには至らなかった気がするよ」
●バストロに加入した当時は、ミュージシャンとしてどんな青写真というか、ヴィジョンを持ってやっていたんですか?
「いや、特にこれっていうのはなかったと思う。あのグループは、完全にデイヴのヴィジョンで出来上がったもので、僕は純粋にプレイヤーとして参加していたわけだから。そのぶん、グループの一員として、貢献しようという気持ちはあったけど、僕が何かヴィジョンを持ってやっていたわけじゃないよ。自分なりに、このグループのサウンドをよくしたいっていう、それだけだった」
●たとえばトータスでは、実験的な試みやコンセプチュアルな目的を意識的に掲げていたと思うんですが、バストロは違っていたわけですね。
「うん、違うよ。バストロの場合は、デイヴとクラークがずっと積み重ねてきたものの延長線上にあったわけだから。それこそ、バストロの前身のスクイレル・ベイトに遡るような。ただバストロを始めた時は前と同じようにロック的な曲をやろうと思っていたはずだけど、それがバストロの後期になると、ちょっと変わりつつあったとは思う。そのへんの変化は、今度出るライヴ盤を聴いてもらえればわかるよ。バンドも最後の方になると、かなり実験的な要素が入ってるから」
●では、バストロ時代のことで、何か印象に残っているエピソードとかはありますか。ツアーでのこととか、何でもいいのですが。
「そうだなあ……あんまりないんだよね。僕にとっては初めてのバンドで、しかも真剣に音楽を追究するバンドだったし、レコードも出すところまでいったわけで、それは大きかったけど。最初のレコードを作った後、ヨーロッパにツアーに行ったりもしたし。そんなことするのも初めてで、ものすごくわくわくしたよ。そういう、新しい世界が開けていくっていう感覚が本当によかったな。正式なメンバーになって、いろんなところに行って、自分の音楽を聴いてもらえるっていう。バストロ時代で、何が一番残っているかっていったら、そういうことだね」
●ところで、バストロに対する当時の評価って、どういうものだったんですか。
「いや……基本的には、無視されてた」
●(笑)。今では、アメリカのハードコア・シーンの文脈のなかで評価されているわけですが……。
「そうだね。あのころから、どのカテゴリーにも属さない、一種独特のバンドだったとは思っているんだけど。たとえば、僕が加入してから、バストロは3回、ヨーロッパ・ツアーをやってる。でも、アメリカは一度も回ってないんだ。なぜかというと、あの時期、まだヨーロッパには、こういうバンドを受け入れる下地が、まだ残っていたからなんだよ。ダイナソーJr.とか、ホームステッドやSSTみたいなレーベルのアメリカのバンドが、アンダーグラウンドなレベルで人気があった、本当に最後の時期でね。そういうバンドを見に来るお客さんって、ヨーロッパには多くて。僕たちが出てきたのは、もうそういう盛り上がりも終わりかけのころだったけど、ホームステッドのアーティストだからって、見に来るようなお客さんはまだいたんだよ。だから、ヨーロッパではそれなりに期待できるものがあったんだけど、アメリカでは、まったく無名もいいところだった。変な話、前身のスクイレル・ベイトはアメリカでもすごく人気があったから、バストロは『あ、スクイレル・ベイトの人がやってるバンドだよね』っていうような扱いで。そんなもんだったよ(笑)」
●当時のアメリカのアンダーグラウンド・シーンというのは、あなたにとって共感できるものだったんですか。
「うん、もちろん。あの時は、本当にいろんなことが始まってたからね。そのぶん、僕たちはどこか一つのカテゴリーに収まってるっていう感じじゃなくて。それは、当時のバンドの多くに当てはまる話だと思うけど。どのバンドも、独自のサウンドを持っていて、スタイル的にもそれぞれまったく別物で。そう、あのころの方が面白いことがどんどん起きていて、いい予感があったし、これから何が起きるんだろうって、期待がものすごく高まってたんだ。90年代前半の、トータスを始めたころはそんな雰囲気だったよ。いろんなことが変わり始めてたっていう」
●その、予感っていうのはどういうものだったんですか?
「そうだなあ……このアルバムについて言ったことともダブるんだけど、あのころに、曲の書き方が、まるっきり異なる要素を一つの曲に取り込んでいくっていうふうに、がらっと変わり始めていたんだ。それは、僕たちだけに限った話じゃなくて、スリントみたいなバンドもそうで。みんな、少なくとも当時としては、ロック・バンドがやるべきことはこうだ、っていう基準の外で活動していたバンドだったよ。で、当時の人が持っていた、既存のバンド観とか、思いこみを打ち破るようになってきていて。そういう流れは、あのころからずっと続いてるんだと思う」
●その、変わってきた部分っていうのを、もっと具体的に教えてもらうことはできますか。
「それは、全体的に、アイディアがふくれあがってきて、ただのラウドなギター・サウンドをやってるだけじゃ済まなくなってきたっていうことなんだ。ヴォーカルがいて、あとはギターとベースとドラム、というのが、いわゆる伝統的なロック・バンドの形なわけだけど、そういう形式が、少なくとも僕たちの周りでは、重要性を失いつつあって。逆に、結果はあんまり気にせず、新しいものをどんどん試していこうっていう考えが受け入れられるようになっていったんだよね」
●だとすると、なぜバストロが解散してしまったのか、単純な疑問があるんですよね。その予感を、トータスやガスター・デル・ソルではなくバストロで実現する、という選択肢はなかったのでしょうか。
「あれは……その件については、デイヴィッドがライナーノーツで語ってることに尽きると思う。僕たちはとにかくいつもテンションが高くて、毎回ばかでかい音で演奏して、たいていは超高速で弾きまくってたし、まるで火の玉みたいだった(笑)。で、そういうものは燃え尽きるのも早いんだよ。実際、そうなったしね。バストロのフォーマット、同じアイディアでこのまま続けるのは難しいって思い知るところまで行き着いてしまって。それで、全部一度チャラにして一からやり直すことにしたんだ。だからもちろん、性格が合わなかったとか、そういうことじゃぜんぜんないよ。事実、その後も一緒にバンドをやってたわけだからね。ただ、フォーマットを変えて、今までと違うことをやる必要があるって言うのは、僕たちみんなが感じてたんだ。それに、いい年にもなってきたから、ステージでいつも暴れ回ってるのもつらいっていうのもあったし(笑)」
●では逆に、バストロとトータスの間で一貫して変わっていないところといったら、どこになりますか。
「そうだね、次のバンドになったガスター・デル・ソルは特に、デイヴィッドが歌詞を書いてたから、そこはバストロを引き継いでいたよね。それは大きかった。デイヴィッドの歌詞のスタイルっていうのは、だんだん進化はしているけど、基本的には同じだし。ほんとに、初期のころか、書き方は同じで、スクイレル・ベイトの歌詞にもすごくいいものがあるよ。あのころはたぶん、まだ17歳とか、そのくらいだったはずなのにね。じゃあ、僕の中の変わっていないところは何かっていうと、バストロの最後の時期から今までは直接つながってるものがあるなって、ほんとそう思う。あのころやっていたものとトータスには、共通点がたくさんあるよ。特に、バンディと僕はトータスになってからも、一緒にやってたわけだから、それは一つ、つながってるところと言えるんじゃないかな」
●精神的な意味での継続性というのはありますか。
「それは、何とも言えないなあ。言葉でどう説明していいのかわからないんだけど、バストロからこっち、スタイル的にはだいぶ違ってきたとしても、実はそれはたいした問題じゃないんだ。それってすごく表面的なものだから。メンバー一人一人は、個人的なレベルではまったく変わってない。信じているものとか、アートに対するヴィジョンとか、そういうものは変わらないよ。僕たちにとってはスタイル的なものって、あんまり重要じゃないんだよ。それはあくまで、何かを表現するための一時的な形式にすぎないからね。その後ろにあるものは一貫していて、いつも同じなんだ」
●今回のライヴを観させていただいて、あなたのハードコア・スピリットはまだ息づいているんじゃないかと思いました。
「そうか(笑)。や、もちろんそうだよ」
●ハードコアというのは、音楽の形なのか、スピリットなのか、はたしてどちらなんだろうと疑問もありますが。
「それは僕にもわからないな。もっと広い意味で、パンク・ロックには僕たちみんな、すごく影響を受けているわけだし。少なくとも僕たちの考えるパンク・ロックっていうのは、今までの決まりなんて全部忘れちまえ、ってことなんだ。自由に、何でもやりたいことをやる、それがパンク・ロックなんだよ。それに比べるとハードコアはもっとスタイル寄りのものだね。確かに僕たちは、“疑似ハードコア”的なものをやってはいたけれど、それだって、パンク・ロックの思想とある程度つながりがあったからなんだよ。ただ、もちろん、そこに僕たちなりの、知的な要素っていうのがさらに加わってはいたけれど。特に、デイヴの書くものに、そういう要素が濃かったね。そこがとても大事なところで、ただただ激しいビートに乗せて叫んでる、っていうものではなかったんだ。ほんと、デイヴの歌詞には実に興味をそそるものがあったし。少なくとも僕にとっては、そこが魅力だった。別々だと思われていたものを一つにして、今までのお約束を好きなようにいじり倒すのが楽しかったんだ」
●ハードコア云々というよりは、パンク・スピリッツの方がもっと身近だし、バストロのころからトータスにいたる今まで、ずっと流れているものっていう感じなんでしょうか。
「そうだと思うよ、うん」
●バストロをやっていた期間というのは、あなたのキャリアの中で、どういう時期だったといえますか。
「それは、さっきも話に出たけど、個人的には、最初のバンドだったっていう意味で、とても大事なんだ。自分がやったことがちゃんと形になったのは、あれが初めてだったからね。それに、バンドで演奏するのってこんなに楽しいのかって思ったのもあったし。スタイルを決めて、それをひたすら演奏するっていう。ああいう体験が、懐かしくなる時が今でもあるんだよね。あれからこっちは、あんまりそういう状況になることがないから。僕が今やってるのは、ほら、違うし」
●じゃあ、今は楽しくない?
「いや、今でも楽しいよ。ただ、前とは違うよね」
●バストロの頃は、おもちゃのように音楽に接することができる時期だったんですか。
「うん。ほんと……そう思うよ。あのころはまだすごく若かったし、今の僕たちが抱えてるような心配事もなかった。ただ音楽をやってればよくて、金はどうしようとか、そういうことは全く頭になくて、ほんとに好きで、楽しいからやってるっていうだけだった。楽しかったというのには、そういう部分もあると思うよ」
●今は結構、大変だなと思う時もありますか。
「大変だ、ってどういう意味?」
●新しいことに挑戦し続けなくちゃいけないとか、ご自身の中にハードルを抱えながらやっているのかな、という気がしたんですが。
「うん、それは確かにあるね。長年やってれば、そうなっていくんだよ。誰でも同じだと思うけど。やればやるほど、期待されるもののレベルは高くなっていくわけだから、それに応えていかないとね」
●僕自身、あなたにこうしてお会いして直接話すというのは今回が初めてなんですが、すごくこう、柔和というか親切な方で、たとえばバストロをやっていたころのあなたっていうのは、どんな感じだったんですか。もっとこう、とげとげしてたりしていたんでしょうか。
「や、ずっとこんなふうだよ」
●ほんと?
「でも、演奏してる時は別だけど。人が変わるから」
●去年、新作の話をした時に、すごく達成感があって、具体的にはまだよくわからないけれど、次のアルバムでは、何か新しい展開があるんじゃないかっていう予感も確実にあると話されていましたよね。そういう意味で、ツアーとかをやるなかで見えてきた部分っていうのは何かありますか。
「いや、そういうのはないね。僕たちは、実際に取りかかる前に、意図的にコンセプトを立てようとは思わない方だから。だから、何かが起き始めるのは、だいたい、レコードの制作に取りかかってからだよ。そして、テーマが何かとか、どういう感じかっていうのは、作っているプロセスの中でだんだん見えてくるんだ。だから今の時点では、次に何が来るかはまだ見えていないね」
●では、最後の質問になりますが、ずばり、バストロの再結成の可能性は今の時点でどのくらいあるのでしょうか。
「もちろん、やってもいいよ。でもそれは全部、デイヴ次第だね」
●じゃあ、あなたはやってもいいと思ってるんですか。
「できたら最高だよね」
●本当ですか。
「うん、バンディと僕はやる気だよ。デイヴが声かけてくれるのを待ってるんだ」
●「再結成の可能性高し」と記事に書いても構いませんか。
「……でも、それが当たってるかどうか、僕には何とも言えないな(笑)」
●具体的にデイヴとは、再結成について話はしたことないんですか。
「冗談では、そんな話ばかりしてるんだけどね。でもデイヴは、こっちがジョークで話を振っても、反応がよろしくないので、あいつが今いったいどう思ってるのか、よくわからないんだよ」
●想像の話でしかないんですが、お互い、別々にキャリアを積んできた今の時点でバストロを再結成すると、どんなサウンドになるんでしょう?
「それは、ほんとに何とも言えないなあ。ライヴ盤に入ってるようなのは今でもやれると思うけど、あれより前の曲がどのくらいやれるものなのか、見当もつかない。ま、でも、何でもできないことはないよ」
●やっぱり、やるとなったら昔の写真みたいに、上半身裸になったりするんですか?
「ふぅー。どうかな。やらないと思うけど」
●いいニュースを待ってますので。
「うん(笑)」
(2005/03)
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