2011年10月3日月曜日

極私的2000年代考(仮)……シガー・ロス『( )』(無題)再考

「聴いたひとそれぞれが、それぞれの曲にタイトルをつけてくれたり、歌詞を書いたりしてくれればいいなあと思ってね。もちろん、それは多少の混乱も招くわけだけど。リスナーひとりひとりが、それぞれの人生や経験、それぞれのエモーションを、僕らの曲を下敷きにして描いてくれたらいいなあと思ったんだ」

シガー・ロスのヨンシーは、アルバム『( )』(無題)が、アルバム・タイトルも曲名も、歌詞(という伝達可能な言葉)ももたない理由について語っている。

このアルバムは未完成の音楽である。それを完成させるのは、アルバムを聴いたあなたであり、あなたの想像力である。アルバムに収められた音楽をどう受け止めるか、解釈はあなたの自由。聴いたひとの数だけ、リスニングの回数だけ、アルバムの完成形は存在しうる。なんなら、好きなように歌詞を書き加えて、タイトルをつけてもらっても構わない。そうして僕たちは、音楽のみを通して、リスナーである「君」と濃密なコミュニケーションを結ぶことができる……と、彼らは、まるですべてを託すように『( )』を聴き手の前に差し出してみせる。

それは果たして、リスナーに対する信頼ゆえか、それとも自分たちの音楽に対する自信ゆえか、それこそ解釈はさまざまだろうが、少なくとも彼らが音楽というものを、ただ与えて与えられるだけの“確かな”ものではなく、触発され喚起を促すことで初めて像を結ぶ“不確かな(誤配される不安も孕んだ、しかしそれゆえ幾通りものコミュニケーションの可能性を秘める)”ものとして、この『( )』において捉えていることは明らかである。そして、そうした発想は、いわゆる純音楽的とも異なる純音楽的なニュアンスを帯びたもので、また単に作品から意味性を排除するものではなく、むしろ複数の意味性を同時に立ち上げていくものであるという……「無題」なるタイトルとは裏腹に、きわめて強い作家性を感じさせる点において興味深い。


思えばシガー・ロスほど、その音楽性、あるいは喚起されるイメージにおいて実態の掴みづらいバンドは珍しいかもしれない。あるときはポスト・ロックのヴァリエーションとして、あるときはスロウコア/サッドコアの新鋭として、またあるときはプログレ/サイケデリック・ロックの変種として、モグワイやゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーといった同時代のバンドから宗教音楽(ヒーリング/環境音楽)やクラシックまで引き合いに出されながら彼らの音楽は語られてきた(個人的にはアンビエント/ディスクリート以降のブライアン・イーノが比較対象として相応しいとも考えるが)。一方、サウンドが与えるイメージも、希望や祝福といったポジティヴなものから、悲しみや畏怖といったネガティヴなものまで、光と闇を併せ呑むようにさまざまである。2000年にファットキャットから再発されたサード・アルバム『アゲイティス・ビリュン』以降、作品がワールドワイドにリリースされるようになり、またインタヴュー等で彼らの発言に触れられる機会は増えたものの、その存在(の核心部分)はいまだヴェールに包まれたままである、という印象がある。

いや、というかそもそも、そうした彼らの捉えがたさ、そしてあらゆる解釈も許容してしまう『( )』に集約されるスタンスというのは、裏を返せば、ある種の秘密主義にも近い態度なのではないだろうか。

たとえば、『( )』で歌われている、「ホープランド語」と呼ばれる彼らが作った実在しない国の言葉は、それゆえ聴き手に自由な解釈を促すものでありながら、同時に、どこまでいっても理解しえない(意思の疎通の不可能な)、彼らとの間の壁や隔たりを強く意識させる。あるいは、作品の完成を聴き手にゆだねるという行為は、結局のところ、「君」の思う『( )』と「僕ら」の思う『( )』は永遠に異なるという、コミュニケーションのねじれを際立たせるものではないか。そこには、音楽というものを、誰もが等しく享受できるアートだと考える一方、究極的には創造主たる我のみぞ知る“語りえぬもの”として「君」と「僕ら」の間に一線を引く、そんなアンビバレントな感情が透けて見える。

いや、さらに踏み込んでいえば、音楽を「現実からの逃避手段だった」と語るヨンシーにとって、そうしたある種、究極的には理解されることを拒むようなメッセージは、これまで自分が受けてきた偏見や差別(といった過剰なコミットメント)による疎外感ゆえに生まれた、彼ならではの世界/他者に対するささやかだが断固たる抵抗だったのではないだろうか。『( )』にはそんな、音楽だけによって誰彼とも繋がり合いたいという無垢な願望と、せめて音楽だけは誰の手にも触れさせまいという潔癖な苛立ちとが激しくせめぎ合っている。そう思えてならない。


唐突だが、たとえばリチャード・ヘルは、有名な「ブランク・ジェネレーション」というフレーズについてこう説明する。

「すべてのものごとを『空白』と考えれば、頭に浮かぶものすべての辻褄が合うっていう意味があるんだよね。それってつまりは……誰だって自分がなりたい姿になれるっていうことなんだ。空白なら既存の枠にはまる必要もないわけだから、自分を好きなように作り上げられるっていうね。あのフレーズのいいところは、こうやっていかようにも解釈できるところでさ、それがその美しさでもあるんだ」

1970年代初頭、ヴェトナム戦争による不安と恐怖、メディアがまき散らす夥しい量の情報にさらされ、アイディンティティ・クライシスに陥ったというヘルは、アンディ・ウォーホルのポップ・アートやサミュエル・ベケットの前衛劇をヒントに、空虚さや無感覚といった病理を対象化するアイディアを得る。そうして生まれたのが「ブランク・ジェネレーション」における「空白(ブランクネス)」という概念だった。それはまた、「ロックンロールとは自分を創造し、作り変えることである」と考えたヘルのロックンロール観を明文化したステイトメントでもあった(※なお、こうしたヘルの理念がすでにロンドン・パンクのアティチュードを先行するものだったことはいうまでもない)。

変身願望とは、つまり現実逃避のヴァリエーションである。ヘルは、ロックンロールによって本名リチャード・メイヤーズという現実を葬り、「ブランク・ジェネレーション」を合言葉にパンク・ロッカーとしての自己像を新たに作り上げた。そして、この「空白」であることを、「いかようにも解釈できる」自由(であり美しさ)であると読み替えていく視線は、いうまでもなくヨンシーが『( )』に求めたものと重なるだろう。また、そうした発想が、純粋にクリエイティヴの問題というよりも、ある種アイデンティティに関わる対処療法的な発想のなかから生まれたものである点においても、「ブランク・ジェネレーション」と『( )』は共通点を感じさせて興味深い(※ちなみに、ウォーホールのポップ・アートや、彼がファクトリーに集めた「スーパースター」と呼ばれるセレブリティこそ、そんな変身願望や「いかようにも解釈できる」ものの最たる例であった)。

とはいえ、果たしてヨンシーのなかに、はっきりと変身願望と呼べるものがあったかどうかは、わからない。しかし、音楽とは現実からの逃避を意味したヨンシーにとって、いい換えれば、唯一音楽だけが、自分を自分のままたらしめてくれる(=より自分らしい自分になる、という変身願望を満たしてくれる)場所であったことは想像に難くない。つまり、ヨンシーにとっては、逆に音楽こそが「現実」であり、自分以外の世界と自分とを繋ぐ唯一の手段でもあったはずだ。

そして、そんな唯一の現実でもあるはずの音楽を、あえて未完成のまま、「いかようにも解釈できる」ものとしてリスナーに差し出してしまう『( )』とは、あらためていったい何なのだろう。世界から身を守るシェルターでありながら、世界に向けて開け放たれた扉でもある音楽。あるいは、どこまでも「個」に閉じていながら、すべての決定権を「他」にゆだねられている音楽。そうした祖語や矛盾を抱えた、きわめて不安定な状態に『( )』は宙づりされているようだ。しかもヘルのように、それこそそれを、あえて「美しい」と呼んでしまうようなあやうさが『( )』にはある。


たとえば、同郷アイスランドの先輩ビョークのパートナーであり、先日まで新作『拘束のドローング9』が日本で公開されていた現代アートの鬼才マシュー・バーニーが、8年の歳月をかけて完成させた大作『クレマスター』。クレマスターとは、医学用語で「睾丸に繋がる腱を包み込む筋肉」、つまり胎児期に性の分化を左右するクレマスター筋を指し、転じて存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する過程を表すメタファーとしてそれは使われている。その『クレマスター』で描かれているのは、いわば男性性と女性性(的寓意)に引き裂かれた一種の神話的世界であり、オブセッシヴなヴィジュアル・イメージによって映し出されるのは、その不安定で曖昧な状態をひとつの通過儀礼として変化していく「生(と死とエロス)」のありようである。……のだが、視点を変えれば、『( )』もまた、そうしたある種の「存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する」何かを記録した作品、といえるのではないだろうか。アンビバレンスや矛盾を孕みながら、それゆえ生々しく濃密な世界を描き出していくシガー・ロスの音楽は、そのスケールの大きさとは裏腹に、『クレマスター』に倣えばどこか胎児期の未分化な性を思わせるイノセントさがある。

思えば『( )』は、そのクリエイティヴの面のみならず、バンドの環境も大きく変化していく途上に作られた作品だった。レディオヘッドをはじめビッグ・バンドからのツアー・サポートのオファーやワールド・ツアーの敢行、メジャーとの契約やそれに伴うビジネス面での煩わしさ、周囲の注目とメディアへの対応など、『アゲイティス・ビリュン』から『( )』の完成にいたる過程は、それは戸惑いの絶えない困難なものだったに違いない。――そう、ヨンシーは最新のインタヴューで振り返りながら、あらためて『( )』について、それは「時を超えた沈黙の時期」であり「ティーンエイジャーが迎えたカオティックな世界」である、と表現する。

「時を超えた沈黙」が、『( )』のクリエイティヴ面における開放性(=いかようにも解釈できる)と閉鎖性(=ホープランド語)を、そして「ティーンエイジャーが迎えたカオティックな世界」が、『( )』制作期におけるバンドの未分化でイノセント(=思春期的)な状態をいい表すレトリックであることは明らかだろう、そうしたフレーズからは、『( )』がいかに産みの苦しみを伴う作品だったかが伝わってくる。

そして同時に、『( )』は、つまり「個」としての彼らが、そうしたカオス(未確定な状態)を克服し、より普遍的で(「他」と関係性を結びうる)、成熟した(確定的な状態)音楽を奏でるバンドへと変化を遂げていくためのレッスンであり、通過儀礼のようなものであったのではないだろうか。続く最新作『Takk…』を作り終えて、「それでも世界は思っていたほど悪くないかもしれない、って大人になって少し気づいた」「すべてのひとにありがとう(Takk)っていいたいんだ」と、その心境を語るヨンシーの言葉はとても象徴的である。ヨンシーにとって、音楽こそが「現実」であり世界との結び目であったように、『( )』は、ひとつの過渡期を迎えていたバンドにとって、ふたたび自分たちと音楽との関係を補正するための、いわばリハビリテーションだったのかもしれない。それはさまざまな矛盾や混乱を孕んだものだったが、そうしたすべてをさらけ出すことが彼らには必要だったのだなと、『Takk…』が奏でる翳りのまるでない澄んだサウンドを聴いていると痛感させられる。


もしかしたら彼らは、『Takk…』によって初めて、自分たちの手で音楽を「完成」させることができたのかもしれない。まるで『( )』の円環が閉じるように……そんな実感があるのではないか。そしてヨンシーは、『Takk…』によって初めて、ようやく世界と和解することができたのではないだろうか。


(2005/11)


(※『ANTONY AND THE OHNOS ―魂の糧―』 に続く)
(※ビョーク『Biophilia』論<近日公開>に続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿