2011年9月30日金曜日

極私的2000年代考(仮)……ガールズとヴァンパイア・ウィークエンド

「今じゃどんな音楽でも、誰もが本当に簡単に手に入れられてすぐ自分のものにできるし、他人が何と思おうが関係ないんだよね。そのお陰で、音楽は他のものと何ら変わらない、単なる生活の一部になったんだ。そこには自由があったよ――みんな“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”といった縛りから解放されて、そしていきなり、“これまで経験してきた音楽の集大成が、自分のパーソナリティを形作るんだ”とされるようになった」。


昨年、ソロ・アルバム『セントラル・マーケット』リリース時のインタヴューでタイヨンダイ・ブラクストンがそのように語った実感は、それが今日的なところのポスト・モダンな精神に根ざした――おそらく彼に限らず同時代のアーティストの多くが共有するだろうリアリティを象徴しているようで印象的だった。2000年代を通じ、音楽環境の物理的/技術的変化がもたらした聴取体験の多様化は、先行世代の教養主義的なスノビズムやレア・グルーヴ的な趣味性といった“付加価値”をショートカットして“音楽そのもの”へのアクセスを解放し、ジャンルも時系列もランダムな音源を一望にブラウジングするようなパースペクティヴを可能にした。そこでは「音楽を聴くこと」は、もはや音楽史を参照することも、その存在を意識して逡巡することも必要としない。僕たちが今迎えているのはそういう現実であり、そうした「自由」が、作り手であるアーティストの意識も解き放ち、創造性豊かな音楽を生みだす環境を醸成している――と、タイヨンダイは感慨を込めて語る。
 
たとえばヴァンパイア・ウィークエンドのエズラ・クーニングはインタヴューでこんなことを語っている。

「破壊とかニヒリズムとか、そういうことを歌うことは、自己表現としてすごくあの時点(※初期のパンクの頃)では必要とされていたことだったんだよ。でも、それはもう30年以上も前の話なんだよ。で、そのアティテュードっていうのは確かに力強いものではあるけど、今現在、それが役に立って、なおかつなんか意味があるのかというと、そうではないと思うんだ。だから、そういう時代に僕たちが怒りに身を任せて破壊的な曲をわざわざ書いてたとしたら、それはやっぱり見せかけでやっているっていうことになるよね。特にそんなことを本当は感じてないわけだからさ」。

エズラはそんなふうに、“パンクを「パンク」たらしめているとされているもの”の有効性に疑問を投げかけながら、そこにデビュー以来バンドに貼られてきたレッテルへのリアクションという意図も織り込むかたちで、自分たちの立場を端的に表明してみせた。エズラがここで問うているのは、「パンク=ニヒリズムや破壊衝動の表出」と考えて疑わないような、いわば“ステレオタイプな思考が生む音楽の思想化”であり、そうした30年以上も前の価値基準で現在の音楽を品定めしてしまうような思考/思想に対する、その至極まっとうな違和感こそ、ヴァンパイア・ウィークエンドというバンドが拠って立つリアリティを雄弁に物語っているように思う。そこに窺える、音楽の受容をめぐる冷静さと柔軟さ、あるいは最新作『コントラ』でも相変わらずなアフリカ音楽への躊躇いのなさは、彼らもまた「“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”といった縛りから解放されて」自由に自身のパーソナリティを音楽で発露している点で、冒頭のタイヨンダイの実感を共有するものだろう。そして、そこにはやはり、彼らならではの“音楽史との関係性/遠近感”というものが象徴されているようで興味深い。
 

タイヨンダイもエズラも、両者の発言に共通して示されているのは、さまざまな要因が重なり音楽をめぐる価値の相対化が進むなかで、アーティストはいかなる態度で音楽と対峙するか――という問題意識のようなものだ。それはつまり、音楽史的な枠組みが揺らぎ、“音楽の思想化”を担保する「物語」も困難な時代に、アーティストが自身の音楽を支える根拠や必然性どう見出すのか――ということかもしれない。そうした前提に立って、タイヨンダイは、むしろ根拠や必然性の有無を逡巡することからの解放こそが今の時代のあるべきアーティストの姿だと逆説的に説き、エズラは、「今こういう時代において一番有効だと思えるのは、分析的に考えることと、人の気持を理解することだと思う」と、その“中産階級のパンク”としてのリアリティを語る。

一方、その音楽自体が根拠であり必然性であり、「物語」そのものであるようなのが、ガールズだろう。

両親と暮らしたカルト教団のコミューンを16歳で脱走し、流れ着いたサンフランシスコで友人とバンドを結成……というソングライターのクリストファー・オーウェンスのエピソードは、今やあまりに有名だが、そんな彼が「日記をつけるみたいな感じで、すごく個人的な話をしている」というアルバム『アルバム』は、当然ながら今の時代に異質な存在感を放っている。

その複雑な生い立ちと数奇な半生が影を落したクリストファーの歌は、喪失感や痛み、ゆえに美しいものへの憧れや“希望という幻想”が入り混じったひどく混濁したもので、しかしそれが、あの呆けるようなメロディと投げやりなノイズで歌われたとき、その切実さはいっそう魅惑的に際立つ。クリストファーは文字通りの(元)アウトサイダー/ドロップアウターであり、その彼が望む世界/社会、信じる音楽のありようは当然、タイヨンダイやエズラのそれと異なることはいうまでもない。「自分の人生を何もかも変えたかったんだよ。普通になりたかっただけ。普通の10代がやってるようなことがしたかった」と語り、「人間がくだらないことをするのって重要だと思ってるんだ」「音楽をやることは、すべてのくだらないことの、俺のほんの小さな担当分なんだよ。そこからいろんな思想が生まれて発展していくだろうし、そうやって人と人が関わっていくだろうし」と続けられるその実感は、まさに世界/社会の外側にいたことがある者だけのものだろう。

しかし、おそらくクリストファーの歌が抱えている本質的な切実さは、その歌詞に綴られた彼の告白以上に、もはやそこで何がどう歌われようとも、それは“切実なもの”として聴かれてしまうことを宿命づけられてしまっているという、その不可逆性のようなものではないだろうか。ガールズの音楽とクリストファーの私的なエピソードを切り離して語ることは困難だろうし、クリストファーの歌は、たとえ彼がどんなに願おうともけっして「普通」や「くだらないこと」に辿り着くことはない。そこで描かれているのは、共感なんて安易なコミュニケーションで贖えるようなものではなく、叫んだ傍からどこまでも「個」に還元され収斂され続けるような孤絶したモノローグであり、せいぜい感情移入ができるとするなら、それは誰とも分かち合えないからこそ愛や希望や美しいものに飢えてしまうというようなクリストファーの、詰まるところはどうしようもない人間臭さ――ではないだろうか。そして、これはあくまで個人的な印象だが、クリストファーは、そんな自分の歌がどこまでも“切実なもの”として響かざるを得ないことを承知の上で、それでも自分には歌うしかないことをどこか諦念にも近い気持ちで受け入れているような、そんな気がガールズの音楽を聴いているとしてならない。


ヴァンパイア・ウィークエンドとガールズ。このキャラクターの対照的な両者は、一見、90年代におけるペイヴメントとニルヴァーナの関係を思わせなくもない。模範的なWASPの家庭に育った中流階級出身のスティーヴン・マルクマスと、あらためて記すまでもなく、アメリカの典型的なドロップアウト的環境で少年時代を過ごしたカート・コバーン。退屈な郊外の「ごく平均的な人間」(スティーヴン)が、その漠然と満たされた環境のなかから世界を観察するように知性と創造力を立ち上げ音楽的才気を爆発させていった前者と、その音楽の核には怒りや苦悩、痛みといった強烈な感情が激しく渦巻いていた後者という対比は、現在のエズラとクリストファーの対比に少なからず当てはまることがあるように思う。実際、ペイヴメントはヴァンパイア・ウィークエンドに限らず現在のアメリカのインディ・バンドへの影響力がたびたび指摘される存在だし、かたやニルヴァーナを始めとする当時の「グランジ」が醸し出していたムードやその情動喚起のフックは、聴き手のリアクション(感情移入)も含めたガールズの在り方とその近似性が頷けるところではないだろうか。

けれどニルヴァーナとガールズ、カート・コバーンとクリストファー・オーウェンスは当然ながらまったく異なる。それは別人なのだから異なるのはもちろんだが、端的にいって両者における象徴的な相違――それは冒頭のタイヨンダイの発言とも関連した、いわば音楽史的なものや価値に対する態度ではないだろうか。つまり前者はそれを信じていたが、後者はそんなものどうでもよかった、という違いである。


カート・コバーンの直筆の日記をまとめた『Journals』を読み返してみて思うのは、それが単なるひとりのアーティストの個人的なドキュメントである以上に、ひとつの「時代」を切り取った音楽史のリアルタイムな記録である、ということだ。すなわちそれは、カート・コバーンというアーティストの個人史を通じて語られた同時代の音楽史、を意味する。そこに綴られているのは、ニルヴァーナの結成前夜からカート・コバーンが自ら命を絶つまで、つまり80年代の終わりから90年代の前半にかけてアメリカのロック・シーンに起こった地殻変動をもっとも間近で捉えた、まさに肉声のレポートだ。

そんなシーンや時代の変化のなかで、カート・コバーンが、バンドを成功させるためのさまざまな舵取りと同時に、自身の音楽的な立ち位置やミュージシャンシップの拠りどころのようなものをつねに意識していたことが、その日記や『Heavier Than Heaven』を始めとするバイオ本からは窺える。言い回しや表現を微妙に書き換えながら繰り返し登場する自筆のバイオグラフィーや、バンド名や固有名詞が列挙された“お気に入りリスト”。そしてパンク以降の流れを踏まえた冷静な自己分析。あるいは「ソングライターの性格には、モリッシーやマイケル・スタイプやロバート・スミスみたいな惨めな夢想家か、何もかも忘れてパーティーしようぜというヴァン・ヘイレンみたいなクソ・ヘヴィ・メタルな連中か、2つの選択肢しかないらしい」「ニルヴァーナはパンクになりたいのか、REMになりたいのか決められないでいる」と逡巡し、「企業という家主の支配体制の下で店子として暮らすよりも、マッドハニーやジーザス・リザード、メルヴィンズ、ビート・ハプニングといった良質のバンドたちと一緒に貧民街で暮らしたい」とつぶやく彼にとって音楽とは、アーティスティックな自己実現と同時に、もっと実存的な問題に深く根を下ろすようなアート行為だった。とりわけライオット・ガールやオリンピアのインディ・シーンに対して見せた屈託を抱えた憧憬からは、そこにはきわめてプライヴェートな事情も関わっていたにせよ、彼が音楽というアート行為にどんな価値や可能性を見出し、自身をアイデンティファイさせようとしていたかがよくわかる。そして、そうした契機に直面するたびにカート・コバーンは、その日記に言葉を吐き出しながら、“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”と自問自答を重ねただろうことは想像に難くない。

対して、クリストファーやガールズの音楽には、そうした逡巡や屈託は感じられない。音楽への情熱や愛情はあふれているが、その「音楽と自分」を結ぶ関係を俯瞰で捉えるような批評的な視点や関心は、おそらくクリストファーのなかにはないのではないだろうか。それはひどく簡単にいってしまえば、彼が少年時代を過ごした環境ゆえに同時代のリアルタイムな音楽史を欠いている、ということなのかもしれないし、代わりにビートルズ(66年のジョンのキリスト発言より前だろうから『ラバーソウル』以前?)やフィル・スペクター、エヴァリー・ブラザーズなんてカントリー・ルーツのオールド・ポップスを集めたミックス・テープを聴いていたというエピソードも、そのサウンドを聴けば痛いほど頷ける。クリストファーにあるとするなら、それは失われるより先に与えられもしなかったものへの憧憬であり、それどころか、あの当時への思慕の念のようなものさえも残響のように相まって聴こえてくるところに、ガールズの音楽の切実さはある。そこには、“ガールズの世界”があふれているが、“ガールズと世界”という感覚がすっぽりと抜け落ちているようなのだ。


UNCUTは昨年末号の記事で、アニマル・コレクティヴを筆頭にグリズリー・ベアやダーティ・プロジェクターズが躍進を見せた2009年を、「アメリカのラディカルなアンダーグラウンドのインディ・ロックがメインストリームを侵略した年」と伝えた。しかし、音楽産業のビジネスモデスが大きな変化を迎え、さまざまな現場で音楽を取り巻くインフラの整備が進むなか、そもそもメジャーかインディかなんて二項対立的な棲み分けにどれだけの意味があるのか、疑わしい。メジャーとの契約が必ずしもサクセスやステップアップを意味するとは限らず、またインディがインディであるというだけで何かの立場表明たりえた時代も終わった。かつてカート・コバーンが抱えたような、アンダーグラウンドの精神とメジャーの論理の狭間で板挟みされる苦悩は、間違いなく今の時代には成立しないものだろう。そしてそこには、おそらくタイヨンダイが感じた“自由”がある。あるいはカートが「パンク・ロックは解放だ」といった、本当の“解放”がある。


スプーンのニュー・アルバム『トランスファレンス』。「reference(参照)」じゃなくて「transference(移動・移転)」。このタイトル、実際のところはよくわかりませんが、かなり意味深だと思う。2010年代を感じた。



(2010/03)

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