2011年9月12日月曜日

極私的2010年代考(仮)……今日的な“アメリカ的表現”の行方

そもそも「アメリカーナ」というタームがどういう経緯で浮上したのか詳しくは知らない。

一方でそれは、ウィルコやジェイホークスといったカントリー~フォークの流れを汲む非正統派(オルタナティヴ)なロック・バンドを指すジャンルとして、他方でそれは、たとえばジム・オルークの『バッド・タイミング』が再評価の機会を与えたジョン・フェイヒィやヴァン・ダイク・パークスらに象徴されるアメリカ音楽の原風景的な意匠として、1990年代後半から2000年代にかけてメジャー/インディを架け橋的にクローズアップされた。

ジムがプロデュースを手掛けたウィルコの4作目『ヤンキー・ホテル・フォックストロット』は、いわばその両義的なアプローチから「アメリカーナ」のモダナイズを提示した決定的な作品で、ポスト・ロック~音響派以降のプロダクションを通過した“ディスカヴァリー・アメリカ”の達成のひとつだった。そこに通底しているのは、アメリカン・ルーツ・ミュージックへの憧憬と、その捉え直しの視線であり、それはアメリカ音楽史の“驚くべき恩寵”に魅せられた一種の復興運動を思わせる静かなムーヴメントだった、という印象が強い。


たとえば昨年リリースされたコンピレーション・アルバム『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』は、そうした延長線上に「アメリカーナ」的な主題を今日的な姿で浮かび上がらせた象徴的な作品だった。ザ・ナショナルのアーロン&ブライス・デスナー兄弟が監修を務め、アーケイド・ファイアやダーティー・プロジェクターズを始めとする豪華アーティストの参加で話題を呼んだが、エイズ撲滅のための支援を目的に制作された本来の趣旨とは別に、あのアルバムが伝えるところを一言で表すなら、それは「“アメリカの歌”の再発見」ではないだろうか。

タイトルにも採られたブラインド・ワイリー・ジョンソンの“ダーク・ワズ・ザ・ナイト”やボブ・ディランの“I Was Young When I Left Home”といったブルース/フォークのクラシックに、“アメージング・グレイス”のようなトラディショナル・ソング。それら“アメリカの歌”を、カヴァーという形で新たに書き起こし、USインディの現在地図にその相貌を重ね描く。かたや先行したフリー・フォークが、最終的には「音」の実験へと収斂を見せたのに対し、それは、あくまで「歌/声」に主眼の置かれたアメリカン・ルーツ・ミュージックの(リ)プレゼンスであり、他に収録されたオリジナル曲も含めて、何よりも「歌/声の力」を今の時代に立て直そうとする試みを思わせるものだった。

しかし、そうしたアメリカのルーツ・ミュージックとされるカントリーやブルースやフォークは、そもそもけっして正統的な起源や系譜を持った音楽とは限らない。それらは、元を辿れば(先住民たちの音楽を除けば)移民の音楽であり、海を隔てたヨーロッパやアフリカから持ち込まれ、都市や農村地帯で交配を重ね、吸収と熟成を繰り返しながら伝播された歴史を持つ。

たとえばブルースが、黒人教会の賛美歌を世俗化したものとして誕生し、ヨーロッパの楽器や白人音楽の音階が交わることで発展を遂げてきたように、あるいはカントリーが、アパラチアの伝承音楽とイギリス諸島のバラッドの出会いに始まり、やがてレコードやラジオによってもたらされたラグタイムやジャズなど黒人音楽の影響を受けて大衆化されたように。その国家としての成り立ちを振り返るまでもなく、アメリカとは音楽に関してもまた輸入大国であった。そうした意味で「アメリカーナ」とは、それこそ絶えず再発見と捉え直しの中でオルタネイトされモダナイズされ続けるもの、と言ったほうが正しいかもしれない。



先日、バンド名義の初スタジオ・アルバム『ビフォー・トゥデイ』を4ADからリリースしたアリエル・ピンクことアリエル・マーカス・ローゼンバーグ。彼がデビューを飾ったのは6年前の2004年、アニマル・コレクティヴのレーベル「ポウ・トラックス」からリリースされたアルバム『The Doldrums』がそのきっかけだった。アニマル・コレクティヴのツアー先でアリエルみずから手渡したテープをメンバーが気に入り……という馴れ初めのエピソードは有名だが、そんな背景もあり、当時のアニマル・コレクティヴ(『サング・トングス』/パンダ・ベア『ヤング・プレイヤー』)同様にアリエルもまた、当初はフリー・フォークの括りで語られもした。多重録音でひしゃげた音像から立ち上る声色の弛緩しきった歌声は、ウィアード・フォークとも呼ばれた初期のデヴェンドラ・バンハートよろしく、なるほど「奇妙」でフリークアウトした歌うたいのそれにふさわしい。

けれどアリエルの場合、フォークやブルースといった型通りのアメリカン・ルーツ・ミュージックの面影は思いのほか希薄だ。確かにカントリー~ウエストコースト・ロックの影響や、ご多分に漏れずブライアン・ウィルソン的な何らかも含まれる要素に違いないが、彼のサウンドを特徴付けて聞こえてくるのは、ソフト・ロックやホール&オーツ風のブルーアイド・ソウル、AOR的なキーボードやニューウェイヴの使い古されたポップ趣味など、むしろ近年のアメリカのインディ・ロックが積極的に忘れ去ろうとしてきたものだろう。

バンドを交えた現在も広義の「弾き語り」を軸としているアリエルだが、そのスタイルは当然のごとく一般的なシンガー・ソングライター像とは異なる。それは例えば、かたやティム・バックリィやシド・バレットの系譜に位置づけられ、ヴァシュティ・バニヤンやリンダ・パーハクスと共演を果たしたデヴェンドラに対し、かたやアリエルは、宅録音楽~テープ・ミュージックのグル=R・スティーヴ・ムーアに帰依し、フランク・ザッパ『ランピー・グレイヴィ』も彷彿させる西海岸アンダーグラウンドのいわば伝統破壊的な血筋を受け継いでいる――という違いにも象徴的に表れていると言えるかもしれない。


ここで「アメリカーナ」とは、“ルーツ”の存在を意識しながら、それは絶えずオルタネイトされモダナイズされ続けるという意味で、時代性を反映した“アメリカ的表現”を伝える音楽だと定義を拡大解釈するとするなら、現代の「アメリカーナ」を象徴するロック/ポップとは、はたしてどんな類の音楽を指すのだろうか。いや、そもそも今の時代に「アメリカーナ」というコンセプトは成立可能なのだろうか。

アリエル・ピンクの音楽について誤解を恐れずに言えば、そこにいわゆる“新しさ”はあまり感じられないということだ。それは、「フォーク」という枠を越えて膨大な音楽ジャンルの折衷を試みたフリー・フォークや、アニコレやダーティー・プロジェクターズなどポップと実験精神の旺盛なブルックリン勢といった近年のアメリカのインディ・シーンにあって、どこかノスタルジックでレイドバックした印象も受ける。とはいえそれは、特定の時代を想起させたり、また自分の世界に耽溺するような停滞感とも異なる。むしろ、多重録音よろしく様々な時代のエコーが折り畳まれたものであり、どこかに留まるというよりは、あてどなく彷徨うような浮遊感に近い。

そこには、音楽的な“新しさ”や変化を求めて漸進した2000年代以降のアメリカのインディ・シーンの流れに対する、明らかな反動の感覚があるようだ。それと同じようなことは、たとえばガールズやドラムス、あるいはグローファイ/チルウェイヴと呼ばれる音楽についても言えるかもしれない。

「僕達はレトロ・バンドを目指しているわけでもなければ、50年代や60年代を現代に蘇らせようと思っているわけでもない。ただ、すでに存在している音楽を単に昔のサウンドだからと、過去のものにするのはおかしいと抵抗しているんだ。(略)僕達は、特別だと思えるものはそう簡単に手放しちゃいけないと、そう思ってるだけなんだよ。世界は前へ、前へと突き進んでいるようだけど、少なくとも僕達はそういう考え方には一切興味がわかないんだ」。そう語ったドラムスのジェイコブの言葉は、その辺りの微妙なニュアンスを素直に表現していてとても象徴的だ。彼らにとって「過去」は、あらかじめ失われた憧憬の対象だが、しかしそれは「昔のサウンド」などではなく、特別な「現在」なのであるという。

またジェイコブは、おそらくは最近のブルックリンの音楽について「オリジナリティばかり追求しているせいで、純粋な曲の良さというか、単純に良いなあと感じられる何かを忘れてしまってるように見えるんだよね」とも語っている。ドラムスにとってのサーフ・ミュージックやガールズ・ポップ。あるいはガールズにとってのフィル・スペクター~ウォール・オブ・サウンドや60年代のカントリー・ポップ。そしてアリエルにとっての奇天烈なテープ・ミュージックや、ベビーシッター代わりに聴いていたというMTVから流れる80年代のポップス……。つまり、彼らにとってはそれこそが“ルーツ”であり、いわばアメリカ音楽の原風景、すなわち再発見され捉え直された「アメリカーナ(的な何物か)」なのだろう。



興味深いのは、彼らのようなサウンドが、今日的なロック/ポップのトレンドのひとつとして、現在のアメリカのインディ・シーンにおいて台頭を見せている点だ。それらは、たとえばCapturede TracksやWoodsistといったレーベル周辺のローファイなガレージ・ポップやシットゲイズを含む形で、ゆるやかなシーンを形成している。なるほどそこでは、“新しさ”やオリジナリティの追求よりも、彼らが“特別だと思えるもの”へのある種の執着が何よりも大切で優先されているようだ。

そしてその光景は、やはり2000年代のそれとの断層を強く意識させるものだ。フリーク・フォークの折衷主義もブルックリン勢の文化横断的なアプローチも、それはつまりルーツとしてのアメリカを対象化/異化する行為だったが、彼らの音楽にそのような批評性を読み取ることは難しい。そこにはいわば、彼ら自身が幻視するアメリカと自らを重ね合わせるような、甘美な瞬間がある。「アメリカ」をオルタネイトしモダナイズするような意思はあまり感じられない。

しかし、それらもまた、何らかの時代性が反映された、今日的な“アメリカ的表現”のひとつであることに違いない。はたして、彼らが描く「アメリカ」が伝えるものとは何なのか。彼らの音楽は現代の「アメリカーナ」と呼び得るものなのか――その行方を注視したい。



(2010/08)

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