2011年9月3日土曜日

極私的2000年代考(仮)……ジョン・ゾーンというアマルガム

もともとは、1970年代最後半から80年代初期のニューヨークのダウンタウンで興った、主に白人のミュージシャンによる新しい即興音楽~フリー・ジャズの動きを象徴する存在として登場したジョン・ゾーン。その詳しい背景については、すでに多くの書物がそれぞれ専門分野の批評家によって書かれているので割愛するが、つまり、当時のエリート化し定型化に陥った即興/ジャズ・シーンの状況――アップタウンでは正統派の現代音楽が幅を利かせ、ダウンタウンではフィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックがもてはやされていた――に対するカウンターとして、そもそも彼のキャリアはスタートしたわけだ。

しかし、これはちょうど同じころに同じニューヨークのダウンタウンで起きたノー・ウェイヴにも言えることだが、ジョン・ゾーンをはじめ当時の若き前衛の担い手たちの多くは、メンタリティの上でミュージシャンというよりはアーティストとしての意識のほうがはるかに先行していた。ゆえに彼らの活動やサウンドは、即興音楽やジャズの新たな歴史を作り上げるというよりも、そうした伝統主義の破壊や否定、もしくはまったく別の表現の地平を切り拓く方向へとおのずと流れていった、と指摘したほうが正しいかもしれない(※ここでの「即興音楽」や「ジャズ」という言葉を「ロック」に置き換えれば、それはそのままノー・ウェイヴの性格を指していることに気づく)。


たとえば、レスラーのような巨体を揺らしながらシンバルやドラムを高速で叩きまくり、あるときは空中に放り上げた米粒やビー玉が雨あられに落ちてくるその衝撃でリズムを奏でたりしながら、口に咥えた小型マイクで叫び声を上げたりビート詩人のようなポエトリー・リーディングを披露したデヴィッド・モス。ギターとヴァイオリン、テープ・コラージュや二分したドラム・セット(※一方にベース・ドラムとトップ・シンバル、もう一方にハイ・ハットとスネア・ドラムを配置)で構成された変則フリー・インプロヴァイズド・ユニット「スケルトン・クルー」を組織し、ロックにフリー・ジャズ、カントリー・ミュージックや政治的アジテーションなどを織り交ぜたユニークな即興音楽を繰り広げたフレッド・フリスとトム・コラ(※後にビョークの『ヴェスパタイン』で知られる女性ハープ奏者のジーナ・パーキンスが参加)。そして、クラシックからジャズ、ロックにラテン、シャンソンや日本の伝統音楽などあらゆるジャンルを網羅した100枚以上のレコードと4台のレコード・プレイヤーを駆使し、スクラッチや盤に釘で傷をつけるなど細工を施した(多重)再生方法で、壮大かつ特異なコラージュ・ミュージック(『Record Without A Cover』)を完成させたクリスチャン・マークレイ。他にも、ブラジル帰りのアート・リンゼイやビル・ラズウェル、エリオット・シャープやネッド・ローゼンバーグなど、金はないが反骨精神だけは旺盛な芸術家の卵や無名の若いミュージシャンたちの手によって、「ニューヨーク新即興派」(※『Improvised Music New York 1981』はまさにそのドキュメント盤といえる)とでもいうべきラディカルなシーンがダウンタウンを中心に当時のニューヨークで形成されていた。

彼らがやろうとしたこと、また実際に成し遂げたことは、明らかに音楽家としての一般的な常識や発想、振る舞いからは大きくかけ離れた無謀で独創性に溢れたものだった。


そして――ジョン・ゾーンである。彼もまた、先の名前たちと同じように、型にとらわれない旺盛な創造性を誇るニューヨーク新即興派の旗手のひとりだった。と同時に、幼少の頃からピアノに親しみ、オーネット・コールマンなどフリー・ジャズへの関心に加え、大学時代には現代音楽の作曲を学びながらアンソニー・ブラクストン(※元バトルスのタイヨンダイの父親)やレオ・スミスの音楽によって即興音楽の世界にも精通していたゾーンは、早くからみずからが音楽家になることを自覚していた表現者であった、ともいえる。しかし、彼が抱える表現への欲求は、ほかの誰よりも飛び抜けて奔放かつパラノイアックに過ぎていた、といわざるをえない。


ゾーンの関心はじつに多岐にわたる。音楽に限っていえば、フリー・ジャズに即興音楽、クラシックや現代音楽の類はいうまでもなく、ロックはもちろんパンク/ハードコアにデス・メタル、エンニオ・モリコーネなどの映画音楽、ユダヤ音楽、カートゥーン・ミュージック(※ちなみに彼が大学の卒論のテーマに選んだのは、1940年代にワーナー・ブラザーズのアニメ映画の音楽を担当したカール・W・スターリングだった)、果ては日本の歌謡曲から津軽三味線や浪花節まで。音楽以外にも、ゴダールやノワール作家のミッキー・スピレインのマニアとして、また鈴木清順の映画や神代辰巳による日活映画や宍戸錠、エノケンの熱烈なファンとして1960/70年代の日本の大衆文化に造詣が深いことでも知られている(※一時期、彼は高円寺で暮らしていた)。

そして、こうした複雑化し収集がつかないほどに膨れ上がった対象への関心と愛情は、そのまま途方もない量と質に及ぶディスコグラフィーに投影されている。もちろん、ここですべてを挙げることはできないが、ジョン・ゾーン名義をはじめ、「コブラ」、「マサダ」、「ペインキラー」、「ネイキッド・シティ」など様々な名前を持つプロジェクトを指揮し、この20数年の間に彼が手がけた作品は、アルバムやコンピレーションを合せてじつに100タイトル近く。そのなかには、E・モリコーネをカヴァーした『The Big Gundown』、M・スピレイン、ゴダールを題材にした『Spillane』、『Godard-Spillane』、玖保キリコのアニメの音楽を手がけた『Cynical Hysteric - Hour』、O・コールマンをハードコアに加速させた『Spy vs Spy』といった彼の趣味性がストレートに反映された個性的な作品も並ぶ。

さらに、それらのプロジェクトや作品で共演したコラボレーターとなると、これまた尋常ではない数にのぼり、有名なところだけでも、先ほど名前を挙げた顔ぶれに加えて、デレク・ベイリーや元DNAのイクエ・モリ、マイク・パットン、ラウンジ・リザーズのジョン・ルーリー、ネイキッド・シティで組んだビル・フリーゼル、現在のNY即興シーンを牽引するスージー・イバラ、ボアダムスのEYEや灰野敬二などじつに多種多様。とにかくゾーンの周りにはあらゆる人材、アート、カルチャーが避雷針のように吸い寄せられ集まるのだ。

そうしたゾーンの性格をもっとも象徴的に映し出しているのが、「コブラ」なる一連のプロジェクトだ。コブラとは、彼が編み出した集団即興のアイデアを組織化・法則化したゲームの呼称のようなものであり、その内容を簡単に説明すると(これがとても説明しづらいのだけど……)、①「プロンプター」と呼ばれる指揮者(?)を中心にそれぞれ異なる楽器をもった演奏者が半円形状に並び、②演奏中に演奏者Aが、あらかじめ決められたさまざまな「演奏方法」を意味するボディ・アクションでプロンプターに指示を伝え、③プロンプターはその受けた指示を、あらかじめ用意されたさまざまな「演奏方法」を色彩や記号で表したサイン・カードで、その他B以下の演奏者たちに伝える――といったやりとりを繰り返し行うもの。サインの種類は「私だけのソロ」「弦楽器のみの即興合奏」というものから、「右から左に一人ずつ短いソロ」「いま演奏しているフレーズを記憶して次に『メモリー・カード』が示されたらそれを演奏せよ」という「メモリー」なるものまでじつに豊富だ。

即興演奏を志すものであれば、ロックだろうがジャズだろうが、クラシックだろうが民族音楽だろうが誰もが参加自由であり、しかもそれぞれが「演奏者」であり「指揮者」であり「コンポーザー」を兼ねるという、恐ろしく自律性の高い演奏集団としてコブラは展開する。そして、サインの数だけ異なる演奏パターン・即興のスタイルが立ち上がり、その目まぐるしく変転を繰り返す細切れのサウンドがモザイク状に構成されることで、無数の演奏ヴァリエーションが生まれる。あらゆるジャンルの音楽が衝突と混交を果たし、それでいてクロニカル的に統制されたカオスが渦巻くその光景は、まさにジョン・ゾーンの脳内と感性を視覚的・機能的に具現化したものといえるだろう。


結局、ジョン・ゾーンとは何者なのか――。たしかに彼の表現の足場となるのは「即興/フリー・ジャズ」に他ならないのだが、あらためて言うまでもなく、その実態はきわめて奇想天外で、とてもひとつのジャンルで括ることのできない複雑に入り組んだものだ。しかも、ポップなものもアンダーグラウンドなものも、あらゆるアートがヒエラルキーを作ることなく等価に扱われ、きわめて具体的かつ明確なコンセプトのもと、ひとつの自律した表現スタイルとして機能している。さらに加えて、「一演奏家」としてフリーキーかつ卓抜なスキルを誇るサックス・プレイヤーでありながら、同時に「一作曲家/一編曲者」として精度の高い統制力と創意に溢れた手腕を発揮する、多才かつ異能のアーティスト・シップ……。結局、ジョン・ゾーンとは、そうして彼の抱える特質を端から書き上げた末にようやく姿を現す才能(と、ここでは仮にしておく)の集合体、とでもしか形容のできない存在なのかもしれない。

こうした彼の多重人格的なキャラクターは、NYという都市の姿そのものを映し出している、ともいえるだろう。あらゆる文化が独立したかたちのまま混在した状態で共生し、まさにモザイク状の様相を呈したNYのストリートから生まれた必然的な表現のありようとして、ゾーンのあの坩堝的なスタイルは誕生した、と。事実、彼以外にも、多作・多能を誇るミュージシャンはNYではけっして珍しくなく、また彼と同時代に登場した新即興派の面々も少なからずそうであった。
しかし、ゾーンほど、そのすべての対象に愛情を注ぎ、偏執的(変質的?)なまでの凝りようでそれぞれの道を究めながら、いまなお表現への欲求の赴くまま作品を量産し続けているタイプは、やはりいない。しかも、こうしているいまも精力的に世界中を飛び回り、各国のさまざまなアーティストと共演を果たし、そのコネクションを広げている。この、尽きないヴァイタリティとイマジネーションの持ち主、いや、見たまんま感じたまんまあるがままのコレこそが、ジョン・ゾーンなのだ――。そうとしか理解の仕様がない。


去る12月7、8日、新宿ピットインでジョン・ゾーンの4年ぶりの来日公演が行われた。共演はビル・ラズウェルとイクエ・モリ(7日)、山本秀夫(8日)。自分が観た7日は、特別ゲストとして元ヒカシューの巻上公一と元ブランキー・ジェット・シティの中村達也が参加した。

馬の嘶きのような高音を響かせ疾走するゾーンのサックスと、フリーキーというよりはテクニカルに刻むビル・ラズウェルのベース、そしてラップトップと対峙し、的確な位置とタイミングにノイズや電子音を挿入するイクエ・モリ。奇怪なヴォイス・パフォーマンスを披露した巻上公一に、鋼のように強靭でしなやかなグルーヴを叩き出す中村達也。短い即興パートが立ち現われては消え、その繰り返しがしばらく続いたかと思うと、突然、炎に包まれたように全パートが怒濤のインプロヴィゼーションに突入する。秒刻みで目まぐるしく表情を変え、逆巻くように輪廻するアンサンブル。終始鳥肌が立ちっぱなしで、本格的な即興演奏を生で観たのは初めてだったのだけど、それがこれほどまで身体的な快楽をもたらすものだとは知らなかった。そして、ときおり演奏を休め、他の演奏者がプレイする様子を眺めながら「たまんねえな……」とでもいいたそうな笑みを浮かべるゾーンの姿が印象に残った。きっと今日もどこかで、ゾーンはニヤニヤと嬉しそうに笑っているんだろうな。


(2002/12)

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