2011年9月30日金曜日

極私的2000年代考(仮)……ガールズとヴァンパイア・ウィークエンド

「今じゃどんな音楽でも、誰もが本当に簡単に手に入れられてすぐ自分のものにできるし、他人が何と思おうが関係ないんだよね。そのお陰で、音楽は他のものと何ら変わらない、単なる生活の一部になったんだ。そこには自由があったよ――みんな“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”といった縛りから解放されて、そしていきなり、“これまで経験してきた音楽の集大成が、自分のパーソナリティを形作るんだ”とされるようになった」。


昨年、ソロ・アルバム『セントラル・マーケット』リリース時のインタヴューでタイヨンダイ・ブラクストンがそのように語った実感は、それが今日的なところのポスト・モダンな精神に根ざした――おそらく彼に限らず同時代のアーティストの多くが共有するだろうリアリティを象徴しているようで印象的だった。2000年代を通じ、音楽環境の物理的/技術的変化がもたらした聴取体験の多様化は、先行世代の教養主義的なスノビズムやレア・グルーヴ的な趣味性といった“付加価値”をショートカットして“音楽そのもの”へのアクセスを解放し、ジャンルも時系列もランダムな音源を一望にブラウジングするようなパースペクティヴを可能にした。そこでは「音楽を聴くこと」は、もはや音楽史を参照することも、その存在を意識して逡巡することも必要としない。僕たちが今迎えているのはそういう現実であり、そうした「自由」が、作り手であるアーティストの意識も解き放ち、創造性豊かな音楽を生みだす環境を醸成している――と、タイヨンダイは感慨を込めて語る。
 
たとえばヴァンパイア・ウィークエンドのエズラ・クーニングはインタヴューでこんなことを語っている。

「破壊とかニヒリズムとか、そういうことを歌うことは、自己表現としてすごくあの時点(※初期のパンクの頃)では必要とされていたことだったんだよ。でも、それはもう30年以上も前の話なんだよ。で、そのアティテュードっていうのは確かに力強いものではあるけど、今現在、それが役に立って、なおかつなんか意味があるのかというと、そうではないと思うんだ。だから、そういう時代に僕たちが怒りに身を任せて破壊的な曲をわざわざ書いてたとしたら、それはやっぱり見せかけでやっているっていうことになるよね。特にそんなことを本当は感じてないわけだからさ」。

エズラはそんなふうに、“パンクを「パンク」たらしめているとされているもの”の有効性に疑問を投げかけながら、そこにデビュー以来バンドに貼られてきたレッテルへのリアクションという意図も織り込むかたちで、自分たちの立場を端的に表明してみせた。エズラがここで問うているのは、「パンク=ニヒリズムや破壊衝動の表出」と考えて疑わないような、いわば“ステレオタイプな思考が生む音楽の思想化”であり、そうした30年以上も前の価値基準で現在の音楽を品定めしてしまうような思考/思想に対する、その至極まっとうな違和感こそ、ヴァンパイア・ウィークエンドというバンドが拠って立つリアリティを雄弁に物語っているように思う。そこに窺える、音楽の受容をめぐる冷静さと柔軟さ、あるいは最新作『コントラ』でも相変わらずなアフリカ音楽への躊躇いのなさは、彼らもまた「“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”といった縛りから解放されて」自由に自身のパーソナリティを音楽で発露している点で、冒頭のタイヨンダイの実感を共有するものだろう。そして、そこにはやはり、彼らならではの“音楽史との関係性/遠近感”というものが象徴されているようで興味深い。
 

タイヨンダイもエズラも、両者の発言に共通して示されているのは、さまざまな要因が重なり音楽をめぐる価値の相対化が進むなかで、アーティストはいかなる態度で音楽と対峙するか――という問題意識のようなものだ。それはつまり、音楽史的な枠組みが揺らぎ、“音楽の思想化”を担保する「物語」も困難な時代に、アーティストが自身の音楽を支える根拠や必然性どう見出すのか――ということかもしれない。そうした前提に立って、タイヨンダイは、むしろ根拠や必然性の有無を逡巡することからの解放こそが今の時代のあるべきアーティストの姿だと逆説的に説き、エズラは、「今こういう時代において一番有効だと思えるのは、分析的に考えることと、人の気持を理解することだと思う」と、その“中産階級のパンク”としてのリアリティを語る。

一方、その音楽自体が根拠であり必然性であり、「物語」そのものであるようなのが、ガールズだろう。

両親と暮らしたカルト教団のコミューンを16歳で脱走し、流れ着いたサンフランシスコで友人とバンドを結成……というソングライターのクリストファー・オーウェンスのエピソードは、今やあまりに有名だが、そんな彼が「日記をつけるみたいな感じで、すごく個人的な話をしている」というアルバム『アルバム』は、当然ながら今の時代に異質な存在感を放っている。

その複雑な生い立ちと数奇な半生が影を落したクリストファーの歌は、喪失感や痛み、ゆえに美しいものへの憧れや“希望という幻想”が入り混じったひどく混濁したもので、しかしそれが、あの呆けるようなメロディと投げやりなノイズで歌われたとき、その切実さはいっそう魅惑的に際立つ。クリストファーは文字通りの(元)アウトサイダー/ドロップアウターであり、その彼が望む世界/社会、信じる音楽のありようは当然、タイヨンダイやエズラのそれと異なることはいうまでもない。「自分の人生を何もかも変えたかったんだよ。普通になりたかっただけ。普通の10代がやってるようなことがしたかった」と語り、「人間がくだらないことをするのって重要だと思ってるんだ」「音楽をやることは、すべてのくだらないことの、俺のほんの小さな担当分なんだよ。そこからいろんな思想が生まれて発展していくだろうし、そうやって人と人が関わっていくだろうし」と続けられるその実感は、まさに世界/社会の外側にいたことがある者だけのものだろう。

しかし、おそらくクリストファーの歌が抱えている本質的な切実さは、その歌詞に綴られた彼の告白以上に、もはやそこで何がどう歌われようとも、それは“切実なもの”として聴かれてしまうことを宿命づけられてしまっているという、その不可逆性のようなものではないだろうか。ガールズの音楽とクリストファーの私的なエピソードを切り離して語ることは困難だろうし、クリストファーの歌は、たとえ彼がどんなに願おうともけっして「普通」や「くだらないこと」に辿り着くことはない。そこで描かれているのは、共感なんて安易なコミュニケーションで贖えるようなものではなく、叫んだ傍からどこまでも「個」に還元され収斂され続けるような孤絶したモノローグであり、せいぜい感情移入ができるとするなら、それは誰とも分かち合えないからこそ愛や希望や美しいものに飢えてしまうというようなクリストファーの、詰まるところはどうしようもない人間臭さ――ではないだろうか。そして、これはあくまで個人的な印象だが、クリストファーは、そんな自分の歌がどこまでも“切実なもの”として響かざるを得ないことを承知の上で、それでも自分には歌うしかないことをどこか諦念にも近い気持ちで受け入れているような、そんな気がガールズの音楽を聴いているとしてならない。


ヴァンパイア・ウィークエンドとガールズ。このキャラクターの対照的な両者は、一見、90年代におけるペイヴメントとニルヴァーナの関係を思わせなくもない。模範的なWASPの家庭に育った中流階級出身のスティーヴン・マルクマスと、あらためて記すまでもなく、アメリカの典型的なドロップアウト的環境で少年時代を過ごしたカート・コバーン。退屈な郊外の「ごく平均的な人間」(スティーヴン)が、その漠然と満たされた環境のなかから世界を観察するように知性と創造力を立ち上げ音楽的才気を爆発させていった前者と、その音楽の核には怒りや苦悩、痛みといった強烈な感情が激しく渦巻いていた後者という対比は、現在のエズラとクリストファーの対比に少なからず当てはまることがあるように思う。実際、ペイヴメントはヴァンパイア・ウィークエンドに限らず現在のアメリカのインディ・バンドへの影響力がたびたび指摘される存在だし、かたやニルヴァーナを始めとする当時の「グランジ」が醸し出していたムードやその情動喚起のフックは、聴き手のリアクション(感情移入)も含めたガールズの在り方とその近似性が頷けるところではないだろうか。

けれどニルヴァーナとガールズ、カート・コバーンとクリストファー・オーウェンスは当然ながらまったく異なる。それは別人なのだから異なるのはもちろんだが、端的にいって両者における象徴的な相違――それは冒頭のタイヨンダイの発言とも関連した、いわば音楽史的なものや価値に対する態度ではないだろうか。つまり前者はそれを信じていたが、後者はそんなものどうでもよかった、という違いである。


カート・コバーンの直筆の日記をまとめた『Journals』を読み返してみて思うのは、それが単なるひとりのアーティストの個人的なドキュメントである以上に、ひとつの「時代」を切り取った音楽史のリアルタイムな記録である、ということだ。すなわちそれは、カート・コバーンというアーティストの個人史を通じて語られた同時代の音楽史、を意味する。そこに綴られているのは、ニルヴァーナの結成前夜からカート・コバーンが自ら命を絶つまで、つまり80年代の終わりから90年代の前半にかけてアメリカのロック・シーンに起こった地殻変動をもっとも間近で捉えた、まさに肉声のレポートだ。

そんなシーンや時代の変化のなかで、カート・コバーンが、バンドを成功させるためのさまざまな舵取りと同時に、自身の音楽的な立ち位置やミュージシャンシップの拠りどころのようなものをつねに意識していたことが、その日記や『Heavier Than Heaven』を始めとするバイオ本からは窺える。言い回しや表現を微妙に書き換えながら繰り返し登場する自筆のバイオグラフィーや、バンド名や固有名詞が列挙された“お気に入りリスト”。そしてパンク以降の流れを踏まえた冷静な自己分析。あるいは「ソングライターの性格には、モリッシーやマイケル・スタイプやロバート・スミスみたいな惨めな夢想家か、何もかも忘れてパーティーしようぜというヴァン・ヘイレンみたいなクソ・ヘヴィ・メタルな連中か、2つの選択肢しかないらしい」「ニルヴァーナはパンクになりたいのか、REMになりたいのか決められないでいる」と逡巡し、「企業という家主の支配体制の下で店子として暮らすよりも、マッドハニーやジーザス・リザード、メルヴィンズ、ビート・ハプニングといった良質のバンドたちと一緒に貧民街で暮らしたい」とつぶやく彼にとって音楽とは、アーティスティックな自己実現と同時に、もっと実存的な問題に深く根を下ろすようなアート行為だった。とりわけライオット・ガールやオリンピアのインディ・シーンに対して見せた屈託を抱えた憧憬からは、そこにはきわめてプライヴェートな事情も関わっていたにせよ、彼が音楽というアート行為にどんな価値や可能性を見出し、自身をアイデンティファイさせようとしていたかがよくわかる。そして、そうした契機に直面するたびにカート・コバーンは、その日記に言葉を吐き出しながら、“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”と自問自答を重ねただろうことは想像に難くない。

対して、クリストファーやガールズの音楽には、そうした逡巡や屈託は感じられない。音楽への情熱や愛情はあふれているが、その「音楽と自分」を結ぶ関係を俯瞰で捉えるような批評的な視点や関心は、おそらくクリストファーのなかにはないのではないだろうか。それはひどく簡単にいってしまえば、彼が少年時代を過ごした環境ゆえに同時代のリアルタイムな音楽史を欠いている、ということなのかもしれないし、代わりにビートルズ(66年のジョンのキリスト発言より前だろうから『ラバーソウル』以前?)やフィル・スペクター、エヴァリー・ブラザーズなんてカントリー・ルーツのオールド・ポップスを集めたミックス・テープを聴いていたというエピソードも、そのサウンドを聴けば痛いほど頷ける。クリストファーにあるとするなら、それは失われるより先に与えられもしなかったものへの憧憬であり、それどころか、あの当時への思慕の念のようなものさえも残響のように相まって聴こえてくるところに、ガールズの音楽の切実さはある。そこには、“ガールズの世界”があふれているが、“ガールズと世界”という感覚がすっぽりと抜け落ちているようなのだ。


UNCUTは昨年末号の記事で、アニマル・コレクティヴを筆頭にグリズリー・ベアやダーティ・プロジェクターズが躍進を見せた2009年を、「アメリカのラディカルなアンダーグラウンドのインディ・ロックがメインストリームを侵略した年」と伝えた。しかし、音楽産業のビジネスモデスが大きな変化を迎え、さまざまな現場で音楽を取り巻くインフラの整備が進むなか、そもそもメジャーかインディかなんて二項対立的な棲み分けにどれだけの意味があるのか、疑わしい。メジャーとの契約が必ずしもサクセスやステップアップを意味するとは限らず、またインディがインディであるというだけで何かの立場表明たりえた時代も終わった。かつてカート・コバーンが抱えたような、アンダーグラウンドの精神とメジャーの論理の狭間で板挟みされる苦悩は、間違いなく今の時代には成立しないものだろう。そしてそこには、おそらくタイヨンダイが感じた“自由”がある。あるいはカートが「パンク・ロックは解放だ」といった、本当の“解放”がある。


スプーンのニュー・アルバム『トランスファレンス』。「reference(参照)」じゃなくて「transference(移動・移転)」。このタイトル、実際のところはよくわかりませんが、かなり意味深だと思う。2010年代を感じた。



(2010/03)

2011年9月14日水曜日

極私的2000年代考(仮)……シューゲイズ再興の端緒 : アソビ・セクスの場合

アソビ・セクス。

そんなイロモノめいた名前を初対面のバンドに名乗られた日には、誰だって眉をひそめて苦笑いしたくなるのが大方の日本人のロック・リスナーの反応ではないだろうか。

しかし、その一見イロモノめいた名前を名乗るバンドが、US/UKのインディ事情に精通した耳の早いリスナーの間で最近にわかに注目を集めてきたことは、とりわけ本作を手にしている方にとっては周知の事実かもしれない。

2年前にアルバム『Asobi Seksu』で本格的に活動をスタートさせて以来、地元ニューヨークのバワリー・ボールルームやニッティング・ファクトリーなど名立たるクラブでライヴを行い、西海岸や北米カナダをツアーで回りながら、今年3月には昨年に続いてサウス・バイ・サウス・ウェストに出演。さらにアルバム&シングルがCMJをはじめカレッジ・ラジオでチャートインし話題を呼ぶ一方、楽曲を提供したインディーズ・フィルムが今年のサンダンス映画祭で審査員特別賞を獲得するなど、バンドを取り巻く環境は今、じわじわと熱気を帯びはじめている。
 

そして、こうした状況を決定的なものにしたのが、今年5月に本国でリリースされたセカンド・アルバム『シトラス』である。CMJチャートでトップ10入りするなど、すでに海外のメディア(“インディ界のご意見番”ことPitchforkをはじめ)では好評価を得ている本作だが、今回の邦盤化をきっかけに、今後日本での状況も大きく変わっていくのではないだろうか。
 
英訳すると――というか海外のジャーナリストの解釈によれば「Playful Sex」(陽気なセックス?)なるユニークなネーミングをもつ彼らが結成されたのは、2001年の暮れのニューヨークにて。以前からバンド活動をしていたジェイムス・ハンナ(ギター)と、彼と一緒に曲作りをする間柄だった日本人女性のユキ・チクダテ(ヴォーカル/キーボード)を中心に、グレン・ウォルドマン(ベース)、キース・ホプキン(ドラム)のメンバーでアソビ・セクスはスタートする。結成の当初はジェイムスがリード・ヴォーカルでユキはバック・ヴォーカルだったのだが、「しっくりこない」というジェイムスの意向と、他に誰もなり手がいなかったため、半ば仕方なくユキがリード・ヴォーカルを務めることになったらしい。そして2002年、デビュー・アルバム『Asobi Seksu』を自主制作でリリース。ユキによれば「自分たちのためだけに作ったもので、リリースすることなんて考えてなかった」そうだが、折からのニューヨーク・シーンの盛り上がりも相俟ってアルバムは評判となり、2004年にブルックリンのレーベル「Friendly Fire」(『シトラス』のリリース元でもある)から再発されるのを機に、アソビ・セクスの名前はインディ・ロック・ファンの間で徐々に知られるようになる。

2000年代初頭にデビューを飾ったインディ・バンドにとって、「ニューヨーク出身」という肩書きのアドバンテージは計り知れなく大きい。実際、アソビ・セクスが最初に注目されるようになった背景に、そうした流れ――つまりストロークスやヤー・ヤー・ヤーズらに代表されるニューヨークの新たなムーヴメントが追い風としてあったことは、たとえば「Friendly Fire」との契約の経緯も含めて、まぎれもない事実だろう。

しかし、アソビ・セクスのサウンドは、そうした同時期にニューヨークから登場したバンドのいずれのケースとも異なって映る。彼らが鳴らすのは、ストロークスのようなロックンロールでも、インターポールやラプチャーのようなニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクでも、ブラック・ダイスのようなエクスペリメンタルなノイズ・ロックでもない。夢幻的なフィードバック・ノイズと甘美なメロディ、そしてエコーやリヴァーヴのかかったヴォーカルや浮遊感あふれる音響的なプロダクションが特徴的な……いわゆる90年代初頭に登場した「シューゲイザー」と呼ばれるサウンドに近い感覚のものである。当時の代表格とされるバンド、たとえばマイ・ブラッディ・ヴァレンタインやライド、ジーザス&ザ・メリー・チェインやスロウダイヴ、ラッシュなどを引き合いに出して語られることも多く、また最近では、アイスランドのアミューズメント・パークス・オン・ファイアやノルウェーのセレーナ・マニーシュ、アストロブライトやフリーティング・ジョイズ、あるいはデンマークのレヴォネッツやフランスのM83らと並んで、ここ数年クローズアップされつつある“シューゲイザーの新たな波”を象徴するバンドとして呼び声も高い。


プロデューサーに、レス・サヴィ・ファヴやカラ(デヴェンドラ・バンハートを見出した元スワンズのマイケル・ギラが発掘した)、クラウド・ルームなどニューヨークの気鋭グループを手掛けるクリス・ゼインを迎えて完成された『シトラス』。「バンドとして過ごしたこの2年間の、自然でオーガニックなプロセスが楽曲には反映されている」とユキが語るように、本作のサウンドからは、いわゆる“シューゲイザー”な魅力はもちろん、デビュー以降ライヴやツアーを重ねるなかで培われたのだろう「バンド」としての力強いアンサンブルを前作にも増して感じることができる。その背景には、本作のレコーディング直前に、脱退したグレンとキース(ツアー中にはメンバー間のトラブルから一時解散の危機もあったようだ)の代わりに新ベーシストのハジと新ドラマーのミッチ・スピヴァクを迎えてリズム隊を再編したことも、変化の大きな要因としてあげられるかもしれない。

そして耳を澄ませば、そこには単なるシューゲイザー云々にはとどまらない音楽的なポテンシャル、さまざまな音楽要素の共鳴を感じ取ることができるはずだ。それはたとえば、ジェイムスがリスペクトするスピリチュアライズドやモグワイ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカーやステレオラブ(もしくは初コンサートで見たポイズンやモトリー・クルー?)だったり、あるいはユキが小さい頃から聴き親しんだクリスタルズなど60Sガールズ・ポップやクラシックやジャズだったり、そうした同時代のアーティストからのインスピレーションや多様な音楽の記憶が幾重にも重なり陰影豊かに交じり合うことでアソビ・セクスの音楽世界は生まれている。彼らにとって『シトラス』とは、まさにそのような音楽との出会いや発見をすべて詰め込んだジュークボックスのようなアルバムであり、リスナーにとって喚起されるイマジネーションやエモーショナルな驚きはけっして尽きることはない。

(ちなみに、ボーナス・トラックのM⑬は、12インチで限定リリースされたパス/カルとのスプリット盤『Season's Greetings』収録曲。M⑭はダスティ・スプリングフィールドのカヴァー)


 アソビ・セクス、というバンド・ネームについてユキは、「なんとなく頭に思い浮かんだフレーズ」と前置きしたうえで、結果的に「Visceral(直感的)で、Sensual(官能的)で、Playful(陽気)」な自分たちの音楽的な特徴をとらえていると思う、と語っている。なるほど確かに、あれほどイロモノめいて感じられた名前も、そのサウンドを聴けば、これ以上に彼らの本質を饒舌に言い表したものはないように思えてくる。彼らが自ら銘打つ「ドリーム・ポップ・ワールド」という看板しかり、その言葉に偽りはない。そんなふうに彼らの存在とこの『シトラス』というアルバムが、リスナーやバンド自身の思惑さえも超えて広く愛されてくれればいいな、と思う。


(2006/10)

2011年9月12日月曜日

極私的2010年代考(仮)……今日的な“アメリカ的表現”の行方

そもそも「アメリカーナ」というタームがどういう経緯で浮上したのか詳しくは知らない。

一方でそれは、ウィルコやジェイホークスといったカントリー~フォークの流れを汲む非正統派(オルタナティヴ)なロック・バンドを指すジャンルとして、他方でそれは、たとえばジム・オルークの『バッド・タイミング』が再評価の機会を与えたジョン・フェイヒィやヴァン・ダイク・パークスらに象徴されるアメリカ音楽の原風景的な意匠として、1990年代後半から2000年代にかけてメジャー/インディを架け橋的にクローズアップされた。

ジムがプロデュースを手掛けたウィルコの4作目『ヤンキー・ホテル・フォックストロット』は、いわばその両義的なアプローチから「アメリカーナ」のモダナイズを提示した決定的な作品で、ポスト・ロック~音響派以降のプロダクションを通過した“ディスカヴァリー・アメリカ”の達成のひとつだった。そこに通底しているのは、アメリカン・ルーツ・ミュージックへの憧憬と、その捉え直しの視線であり、それはアメリカ音楽史の“驚くべき恩寵”に魅せられた一種の復興運動を思わせる静かなムーヴメントだった、という印象が強い。


たとえば昨年リリースされたコンピレーション・アルバム『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』は、そうした延長線上に「アメリカーナ」的な主題を今日的な姿で浮かび上がらせた象徴的な作品だった。ザ・ナショナルのアーロン&ブライス・デスナー兄弟が監修を務め、アーケイド・ファイアやダーティー・プロジェクターズを始めとする豪華アーティストの参加で話題を呼んだが、エイズ撲滅のための支援を目的に制作された本来の趣旨とは別に、あのアルバムが伝えるところを一言で表すなら、それは「“アメリカの歌”の再発見」ではないだろうか。

タイトルにも採られたブラインド・ワイリー・ジョンソンの“ダーク・ワズ・ザ・ナイト”やボブ・ディランの“I Was Young When I Left Home”といったブルース/フォークのクラシックに、“アメージング・グレイス”のようなトラディショナル・ソング。それら“アメリカの歌”を、カヴァーという形で新たに書き起こし、USインディの現在地図にその相貌を重ね描く。かたや先行したフリー・フォークが、最終的には「音」の実験へと収斂を見せたのに対し、それは、あくまで「歌/声」に主眼の置かれたアメリカン・ルーツ・ミュージックの(リ)プレゼンスであり、他に収録されたオリジナル曲も含めて、何よりも「歌/声の力」を今の時代に立て直そうとする試みを思わせるものだった。

しかし、そうしたアメリカのルーツ・ミュージックとされるカントリーやブルースやフォークは、そもそもけっして正統的な起源や系譜を持った音楽とは限らない。それらは、元を辿れば(先住民たちの音楽を除けば)移民の音楽であり、海を隔てたヨーロッパやアフリカから持ち込まれ、都市や農村地帯で交配を重ね、吸収と熟成を繰り返しながら伝播された歴史を持つ。

たとえばブルースが、黒人教会の賛美歌を世俗化したものとして誕生し、ヨーロッパの楽器や白人音楽の音階が交わることで発展を遂げてきたように、あるいはカントリーが、アパラチアの伝承音楽とイギリス諸島のバラッドの出会いに始まり、やがてレコードやラジオによってもたらされたラグタイムやジャズなど黒人音楽の影響を受けて大衆化されたように。その国家としての成り立ちを振り返るまでもなく、アメリカとは音楽に関してもまた輸入大国であった。そうした意味で「アメリカーナ」とは、それこそ絶えず再発見と捉え直しの中でオルタネイトされモダナイズされ続けるもの、と言ったほうが正しいかもしれない。



先日、バンド名義の初スタジオ・アルバム『ビフォー・トゥデイ』を4ADからリリースしたアリエル・ピンクことアリエル・マーカス・ローゼンバーグ。彼がデビューを飾ったのは6年前の2004年、アニマル・コレクティヴのレーベル「ポウ・トラックス」からリリースされたアルバム『The Doldrums』がそのきっかけだった。アニマル・コレクティヴのツアー先でアリエルみずから手渡したテープをメンバーが気に入り……という馴れ初めのエピソードは有名だが、そんな背景もあり、当時のアニマル・コレクティヴ(『サング・トングス』/パンダ・ベア『ヤング・プレイヤー』)同様にアリエルもまた、当初はフリー・フォークの括りで語られもした。多重録音でひしゃげた音像から立ち上る声色の弛緩しきった歌声は、ウィアード・フォークとも呼ばれた初期のデヴェンドラ・バンハートよろしく、なるほど「奇妙」でフリークアウトした歌うたいのそれにふさわしい。

けれどアリエルの場合、フォークやブルースといった型通りのアメリカン・ルーツ・ミュージックの面影は思いのほか希薄だ。確かにカントリー~ウエストコースト・ロックの影響や、ご多分に漏れずブライアン・ウィルソン的な何らかも含まれる要素に違いないが、彼のサウンドを特徴付けて聞こえてくるのは、ソフト・ロックやホール&オーツ風のブルーアイド・ソウル、AOR的なキーボードやニューウェイヴの使い古されたポップ趣味など、むしろ近年のアメリカのインディ・ロックが積極的に忘れ去ろうとしてきたものだろう。

バンドを交えた現在も広義の「弾き語り」を軸としているアリエルだが、そのスタイルは当然のごとく一般的なシンガー・ソングライター像とは異なる。それは例えば、かたやティム・バックリィやシド・バレットの系譜に位置づけられ、ヴァシュティ・バニヤンやリンダ・パーハクスと共演を果たしたデヴェンドラに対し、かたやアリエルは、宅録音楽~テープ・ミュージックのグル=R・スティーヴ・ムーアに帰依し、フランク・ザッパ『ランピー・グレイヴィ』も彷彿させる西海岸アンダーグラウンドのいわば伝統破壊的な血筋を受け継いでいる――という違いにも象徴的に表れていると言えるかもしれない。


ここで「アメリカーナ」とは、“ルーツ”の存在を意識しながら、それは絶えずオルタネイトされモダナイズされ続けるという意味で、時代性を反映した“アメリカ的表現”を伝える音楽だと定義を拡大解釈するとするなら、現代の「アメリカーナ」を象徴するロック/ポップとは、はたしてどんな類の音楽を指すのだろうか。いや、そもそも今の時代に「アメリカーナ」というコンセプトは成立可能なのだろうか。

アリエル・ピンクの音楽について誤解を恐れずに言えば、そこにいわゆる“新しさ”はあまり感じられないということだ。それは、「フォーク」という枠を越えて膨大な音楽ジャンルの折衷を試みたフリー・フォークや、アニコレやダーティー・プロジェクターズなどポップと実験精神の旺盛なブルックリン勢といった近年のアメリカのインディ・シーンにあって、どこかノスタルジックでレイドバックした印象も受ける。とはいえそれは、特定の時代を想起させたり、また自分の世界に耽溺するような停滞感とも異なる。むしろ、多重録音よろしく様々な時代のエコーが折り畳まれたものであり、どこかに留まるというよりは、あてどなく彷徨うような浮遊感に近い。

そこには、音楽的な“新しさ”や変化を求めて漸進した2000年代以降のアメリカのインディ・シーンの流れに対する、明らかな反動の感覚があるようだ。それと同じようなことは、たとえばガールズやドラムス、あるいはグローファイ/チルウェイヴと呼ばれる音楽についても言えるかもしれない。

「僕達はレトロ・バンドを目指しているわけでもなければ、50年代や60年代を現代に蘇らせようと思っているわけでもない。ただ、すでに存在している音楽を単に昔のサウンドだからと、過去のものにするのはおかしいと抵抗しているんだ。(略)僕達は、特別だと思えるものはそう簡単に手放しちゃいけないと、そう思ってるだけなんだよ。世界は前へ、前へと突き進んでいるようだけど、少なくとも僕達はそういう考え方には一切興味がわかないんだ」。そう語ったドラムスのジェイコブの言葉は、その辺りの微妙なニュアンスを素直に表現していてとても象徴的だ。彼らにとって「過去」は、あらかじめ失われた憧憬の対象だが、しかしそれは「昔のサウンド」などではなく、特別な「現在」なのであるという。

またジェイコブは、おそらくは最近のブルックリンの音楽について「オリジナリティばかり追求しているせいで、純粋な曲の良さというか、単純に良いなあと感じられる何かを忘れてしまってるように見えるんだよね」とも語っている。ドラムスにとってのサーフ・ミュージックやガールズ・ポップ。あるいはガールズにとってのフィル・スペクター~ウォール・オブ・サウンドや60年代のカントリー・ポップ。そしてアリエルにとっての奇天烈なテープ・ミュージックや、ベビーシッター代わりに聴いていたというMTVから流れる80年代のポップス……。つまり、彼らにとってはそれこそが“ルーツ”であり、いわばアメリカ音楽の原風景、すなわち再発見され捉え直された「アメリカーナ(的な何物か)」なのだろう。



興味深いのは、彼らのようなサウンドが、今日的なロック/ポップのトレンドのひとつとして、現在のアメリカのインディ・シーンにおいて台頭を見せている点だ。それらは、たとえばCapturede TracksやWoodsistといったレーベル周辺のローファイなガレージ・ポップやシットゲイズを含む形で、ゆるやかなシーンを形成している。なるほどそこでは、“新しさ”やオリジナリティの追求よりも、彼らが“特別だと思えるもの”へのある種の執着が何よりも大切で優先されているようだ。

そしてその光景は、やはり2000年代のそれとの断層を強く意識させるものだ。フリーク・フォークの折衷主義もブルックリン勢の文化横断的なアプローチも、それはつまりルーツとしてのアメリカを対象化/異化する行為だったが、彼らの音楽にそのような批評性を読み取ることは難しい。そこにはいわば、彼ら自身が幻視するアメリカと自らを重ね合わせるような、甘美な瞬間がある。「アメリカ」をオルタネイトしモダナイズするような意思はあまり感じられない。

しかし、それらもまた、何らかの時代性が反映された、今日的な“アメリカ的表現”のひとつであることに違いない。はたして、彼らが描く「アメリカ」が伝えるものとは何なのか。彼らの音楽は現代の「アメリカーナ」と呼び得るものなのか――その行方を注視したい。



(2010/08)

2011年9月11日日曜日

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑧

・ Jad Fair and Tenniscoats/Enjoy Your Life
・ Balam Acab/Wander/Wonder
・ Julia Holter/Tragedy
・ Motion Sickness of Time Travel/A Disembodied Voice In the Darkness
・ St. Vincent/Strange Mercy
・ Machinedrum/Room(s)
・ Laddio Bolocko/Life & Times of Laddio Bolocko






・ Muffin/Grapes
・ 大野まどか/DEMO
Harry Partch/Delusion Of The Fury
・ Pauline Oliveros/Deep Listening
・ The Pastels/A Truckload Of Trouble
・ Big Troubles/Romantic Comedy
・ Sun Araw/Ancient Romans
・ Hasidim Against Shabbat/HighSchool Party Mixtape
・ The War on Drugs/Slave Ambient
・ Thurston Moore&Nels Cline/Pillow Wand
・ Apparat/The Devil's Walk


(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑦)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑥)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑤)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)④)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)③)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)②)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...))

2011年9月3日土曜日

極私的2000年代考(仮)……ジョン・ゾーンというアマルガム

もともとは、1970年代最後半から80年代初期のニューヨークのダウンタウンで興った、主に白人のミュージシャンによる新しい即興音楽~フリー・ジャズの動きを象徴する存在として登場したジョン・ゾーン。その詳しい背景については、すでに多くの書物がそれぞれ専門分野の批評家によって書かれているので割愛するが、つまり、当時のエリート化し定型化に陥った即興/ジャズ・シーンの状況――アップタウンでは正統派の現代音楽が幅を利かせ、ダウンタウンではフィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックがもてはやされていた――に対するカウンターとして、そもそも彼のキャリアはスタートしたわけだ。

しかし、これはちょうど同じころに同じニューヨークのダウンタウンで起きたノー・ウェイヴにも言えることだが、ジョン・ゾーンをはじめ当時の若き前衛の担い手たちの多くは、メンタリティの上でミュージシャンというよりはアーティストとしての意識のほうがはるかに先行していた。ゆえに彼らの活動やサウンドは、即興音楽やジャズの新たな歴史を作り上げるというよりも、そうした伝統主義の破壊や否定、もしくはまったく別の表現の地平を切り拓く方向へとおのずと流れていった、と指摘したほうが正しいかもしれない(※ここでの「即興音楽」や「ジャズ」という言葉を「ロック」に置き換えれば、それはそのままノー・ウェイヴの性格を指していることに気づく)。


たとえば、レスラーのような巨体を揺らしながらシンバルやドラムを高速で叩きまくり、あるときは空中に放り上げた米粒やビー玉が雨あられに落ちてくるその衝撃でリズムを奏でたりしながら、口に咥えた小型マイクで叫び声を上げたりビート詩人のようなポエトリー・リーディングを披露したデヴィッド・モス。ギターとヴァイオリン、テープ・コラージュや二分したドラム・セット(※一方にベース・ドラムとトップ・シンバル、もう一方にハイ・ハットとスネア・ドラムを配置)で構成された変則フリー・インプロヴァイズド・ユニット「スケルトン・クルー」を組織し、ロックにフリー・ジャズ、カントリー・ミュージックや政治的アジテーションなどを織り交ぜたユニークな即興音楽を繰り広げたフレッド・フリスとトム・コラ(※後にビョークの『ヴェスパタイン』で知られる女性ハープ奏者のジーナ・パーキンスが参加)。そして、クラシックからジャズ、ロックにラテン、シャンソンや日本の伝統音楽などあらゆるジャンルを網羅した100枚以上のレコードと4台のレコード・プレイヤーを駆使し、スクラッチや盤に釘で傷をつけるなど細工を施した(多重)再生方法で、壮大かつ特異なコラージュ・ミュージック(『Record Without A Cover』)を完成させたクリスチャン・マークレイ。他にも、ブラジル帰りのアート・リンゼイやビル・ラズウェル、エリオット・シャープやネッド・ローゼンバーグなど、金はないが反骨精神だけは旺盛な芸術家の卵や無名の若いミュージシャンたちの手によって、「ニューヨーク新即興派」(※『Improvised Music New York 1981』はまさにそのドキュメント盤といえる)とでもいうべきラディカルなシーンがダウンタウンを中心に当時のニューヨークで形成されていた。

彼らがやろうとしたこと、また実際に成し遂げたことは、明らかに音楽家としての一般的な常識や発想、振る舞いからは大きくかけ離れた無謀で独創性に溢れたものだった。


そして――ジョン・ゾーンである。彼もまた、先の名前たちと同じように、型にとらわれない旺盛な創造性を誇るニューヨーク新即興派の旗手のひとりだった。と同時に、幼少の頃からピアノに親しみ、オーネット・コールマンなどフリー・ジャズへの関心に加え、大学時代には現代音楽の作曲を学びながらアンソニー・ブラクストン(※元バトルスのタイヨンダイの父親)やレオ・スミスの音楽によって即興音楽の世界にも精通していたゾーンは、早くからみずからが音楽家になることを自覚していた表現者であった、ともいえる。しかし、彼が抱える表現への欲求は、ほかの誰よりも飛び抜けて奔放かつパラノイアックに過ぎていた、といわざるをえない。


ゾーンの関心はじつに多岐にわたる。音楽に限っていえば、フリー・ジャズに即興音楽、クラシックや現代音楽の類はいうまでもなく、ロックはもちろんパンク/ハードコアにデス・メタル、エンニオ・モリコーネなどの映画音楽、ユダヤ音楽、カートゥーン・ミュージック(※ちなみに彼が大学の卒論のテーマに選んだのは、1940年代にワーナー・ブラザーズのアニメ映画の音楽を担当したカール・W・スターリングだった)、果ては日本の歌謡曲から津軽三味線や浪花節まで。音楽以外にも、ゴダールやノワール作家のミッキー・スピレインのマニアとして、また鈴木清順の映画や神代辰巳による日活映画や宍戸錠、エノケンの熱烈なファンとして1960/70年代の日本の大衆文化に造詣が深いことでも知られている(※一時期、彼は高円寺で暮らしていた)。

そして、こうした複雑化し収集がつかないほどに膨れ上がった対象への関心と愛情は、そのまま途方もない量と質に及ぶディスコグラフィーに投影されている。もちろん、ここですべてを挙げることはできないが、ジョン・ゾーン名義をはじめ、「コブラ」、「マサダ」、「ペインキラー」、「ネイキッド・シティ」など様々な名前を持つプロジェクトを指揮し、この20数年の間に彼が手がけた作品は、アルバムやコンピレーションを合せてじつに100タイトル近く。そのなかには、E・モリコーネをカヴァーした『The Big Gundown』、M・スピレイン、ゴダールを題材にした『Spillane』、『Godard-Spillane』、玖保キリコのアニメの音楽を手がけた『Cynical Hysteric - Hour』、O・コールマンをハードコアに加速させた『Spy vs Spy』といった彼の趣味性がストレートに反映された個性的な作品も並ぶ。

さらに、それらのプロジェクトや作品で共演したコラボレーターとなると、これまた尋常ではない数にのぼり、有名なところだけでも、先ほど名前を挙げた顔ぶれに加えて、デレク・ベイリーや元DNAのイクエ・モリ、マイク・パットン、ラウンジ・リザーズのジョン・ルーリー、ネイキッド・シティで組んだビル・フリーゼル、現在のNY即興シーンを牽引するスージー・イバラ、ボアダムスのEYEや灰野敬二などじつに多種多様。とにかくゾーンの周りにはあらゆる人材、アート、カルチャーが避雷針のように吸い寄せられ集まるのだ。

そうしたゾーンの性格をもっとも象徴的に映し出しているのが、「コブラ」なる一連のプロジェクトだ。コブラとは、彼が編み出した集団即興のアイデアを組織化・法則化したゲームの呼称のようなものであり、その内容を簡単に説明すると(これがとても説明しづらいのだけど……)、①「プロンプター」と呼ばれる指揮者(?)を中心にそれぞれ異なる楽器をもった演奏者が半円形状に並び、②演奏中に演奏者Aが、あらかじめ決められたさまざまな「演奏方法」を意味するボディ・アクションでプロンプターに指示を伝え、③プロンプターはその受けた指示を、あらかじめ用意されたさまざまな「演奏方法」を色彩や記号で表したサイン・カードで、その他B以下の演奏者たちに伝える――といったやりとりを繰り返し行うもの。サインの種類は「私だけのソロ」「弦楽器のみの即興合奏」というものから、「右から左に一人ずつ短いソロ」「いま演奏しているフレーズを記憶して次に『メモリー・カード』が示されたらそれを演奏せよ」という「メモリー」なるものまでじつに豊富だ。

即興演奏を志すものであれば、ロックだろうがジャズだろうが、クラシックだろうが民族音楽だろうが誰もが参加自由であり、しかもそれぞれが「演奏者」であり「指揮者」であり「コンポーザー」を兼ねるという、恐ろしく自律性の高い演奏集団としてコブラは展開する。そして、サインの数だけ異なる演奏パターン・即興のスタイルが立ち上がり、その目まぐるしく変転を繰り返す細切れのサウンドがモザイク状に構成されることで、無数の演奏ヴァリエーションが生まれる。あらゆるジャンルの音楽が衝突と混交を果たし、それでいてクロニカル的に統制されたカオスが渦巻くその光景は、まさにジョン・ゾーンの脳内と感性を視覚的・機能的に具現化したものといえるだろう。


結局、ジョン・ゾーンとは何者なのか――。たしかに彼の表現の足場となるのは「即興/フリー・ジャズ」に他ならないのだが、あらためて言うまでもなく、その実態はきわめて奇想天外で、とてもひとつのジャンルで括ることのできない複雑に入り組んだものだ。しかも、ポップなものもアンダーグラウンドなものも、あらゆるアートがヒエラルキーを作ることなく等価に扱われ、きわめて具体的かつ明確なコンセプトのもと、ひとつの自律した表現スタイルとして機能している。さらに加えて、「一演奏家」としてフリーキーかつ卓抜なスキルを誇るサックス・プレイヤーでありながら、同時に「一作曲家/一編曲者」として精度の高い統制力と創意に溢れた手腕を発揮する、多才かつ異能のアーティスト・シップ……。結局、ジョン・ゾーンとは、そうして彼の抱える特質を端から書き上げた末にようやく姿を現す才能(と、ここでは仮にしておく)の集合体、とでもしか形容のできない存在なのかもしれない。

こうした彼の多重人格的なキャラクターは、NYという都市の姿そのものを映し出している、ともいえるだろう。あらゆる文化が独立したかたちのまま混在した状態で共生し、まさにモザイク状の様相を呈したNYのストリートから生まれた必然的な表現のありようとして、ゾーンのあの坩堝的なスタイルは誕生した、と。事実、彼以外にも、多作・多能を誇るミュージシャンはNYではけっして珍しくなく、また彼と同時代に登場した新即興派の面々も少なからずそうであった。
しかし、ゾーンほど、そのすべての対象に愛情を注ぎ、偏執的(変質的?)なまでの凝りようでそれぞれの道を究めながら、いまなお表現への欲求の赴くまま作品を量産し続けているタイプは、やはりいない。しかも、こうしているいまも精力的に世界中を飛び回り、各国のさまざまなアーティストと共演を果たし、そのコネクションを広げている。この、尽きないヴァイタリティとイマジネーションの持ち主、いや、見たまんま感じたまんまあるがままのコレこそが、ジョン・ゾーンなのだ――。そうとしか理解の仕様がない。


去る12月7、8日、新宿ピットインでジョン・ゾーンの4年ぶりの来日公演が行われた。共演はビル・ラズウェルとイクエ・モリ(7日)、山本秀夫(8日)。自分が観た7日は、特別ゲストとして元ヒカシューの巻上公一と元ブランキー・ジェット・シティの中村達也が参加した。

馬の嘶きのような高音を響かせ疾走するゾーンのサックスと、フリーキーというよりはテクニカルに刻むビル・ラズウェルのベース、そしてラップトップと対峙し、的確な位置とタイミングにノイズや電子音を挿入するイクエ・モリ。奇怪なヴォイス・パフォーマンスを披露した巻上公一に、鋼のように強靭でしなやかなグルーヴを叩き出す中村達也。短い即興パートが立ち現われては消え、その繰り返しがしばらく続いたかと思うと、突然、炎に包まれたように全パートが怒濤のインプロヴィゼーションに突入する。秒刻みで目まぐるしく表情を変え、逆巻くように輪廻するアンサンブル。終始鳥肌が立ちっぱなしで、本格的な即興演奏を生で観たのは初めてだったのだけど、それがこれほどまで身体的な快楽をもたらすものだとは知らなかった。そして、ときおり演奏を休め、他の演奏者がプレイする様子を眺めながら「たまんねえな……」とでもいいたそうな笑みを浮かべるゾーンの姿が印象に残った。きっと今日もどこかで、ゾーンはニヤニヤと嬉しそうに笑っているんだろうな。


(2002/12)

極私的2000年代考(仮)……ポスト・ハードコアの“亡霊”

2年前の話になるが、2006年に地元シカゴで開催された「Touch and Go」のレーベル設立25周年イヴェントは、インディ・ロック・ファンにとって、たとえ現場に赴けなくとも、その出演バンドのラインナップを眺めるだけで気持ちが昂ぶるような壮観な祝典だった。

ファンを狂喜させたスティーヴ・アルビニ率いるビッグ・ブラックの再結成&シェラックを筆頭に、ネガティヴ・アプローチ、ディドジッツ、キルドーザー、スリー・マイル・パイロット、スクラッチ・アシッドら再結成したレジェンド、ジ・エックス、ガールズ・アゲインスト・ボーイズ、アークウェルダー、シーム、シッピング・ニュース、タラ・ジェイン・オニール、ブラック・ハート・プロセッション、ピンバッグ、キャレキシコ、ウゼダ、テッド・レオ、モノーキッド、ニュー・イヤー、クアージ、イーノン、さらに!!!やココロジー、スーパーシステムといった新顔……。ここには、キャリアも音楽性もそれぞれ異なりながら、T&Gというレーベルの精神ともいうべき個性と、世代を越えて受け継がれてきた意匠のようなものを確認することができる。そして何より、その四半世紀の歴史の蓄積が、けっして遺産化することなく、絶えず時代の参照点となりながら「今」にアピールし続けてきた、T&Gのアクチュアルな魅力を再確認させられる。


T&Gの設立の出発点は、70年代の終わりにザ・ミートメンというパンク・バンドのメンバーが始めた一冊のジンだった。似たようなケースは、同じくファン・ジンの発行に端を発したサブ・ポップ、あるいは「ワード・コア」と呼ばれるスポークン・ワードのシングルが第一弾リリースだったキル・ロック・スターズなどあり、とくにアメリカのインディ・シーンではひとつの典型ともいえ必ずしも珍しいものではない。しかし、そこから現在に至るレーベルの軌跡と、集ったアーティストの顔ぶれを見れば、そうした当時のパンク/ハードコア・シーンを背景に誕生した出自が、その後のT&Gの方向性を決定づけ、レーベル活動の指針となってきたことがよくわかる。

そして、実際に音楽性の面でいえば、レーベル設立当初からのメンツはいうに及ばず、現在のラインナップにおいても、音楽性は異なるがルーツやキャリアの原点にパンク/ハードコア体験を抱えるバンドやアーティストが多いことは、けっして偶然ではないだろう。前記のラインナップでいえば、タラやスリー・マイル・パイロットから分派したピンバック&ブラック・ハート・プロセッション、元ブレイニアックのジョン・シュマザールが結成したイーノン、新しいところでは!!!やスーパーシステム、さらに現在はバトルスの一員であるイアン・ウィリアムスがかつてT&G所属のドン・キャバレロ/ストーム・アンド・ストレスの一員だった事実は、周知のとおりである。そうした事例はまた、近年、たとえばフリー・フォークなどのジャンルの一部に指摘される“ハードコアの越境性”とも共振するものであり、T&Gというレーベルのユニークな特色をあらためて物語るようで興味深い。

T&Gというレーベルに脈々と息づくパンク/ハードコアの血統を考えるとき、おそらく多くのひとが思い浮かべるのは、スティーヴ・アルビニの存在だろう。ビッグ・ブラックにレイプマン、そして現在はシェラックを率いてレーベルの初期から中核を担い続けるミュージシャンとしてのキャリアはいうまでもなく、プロデューサー(レコーディング・エンジニア)として、スリントやドン・キャバレロ、ブレイニアック、ダーティー・スリーといった看板アーティストの代表作を数多く手掛けてきたこの男の、T&Gに寄与した功績は計り知れなく大きい。80年代のオリジナル・ハードコアからポスト・ハードコア/ジャンク、90年代のオルタナティヴ~グランジを潜り抜け2000年代の現在へと地続きに流れる時代の音を「特化」し、アルビニが提示した不変のサウンド美学は、T&Gのヴィジョンを確固たるものとし、レーベルをアメリカン・インディの牙城へと押し上げた、間違いなく最大の要因である。それほどアルビニの存在感は揺るぎないものがあるし、その音楽的な意匠や薫陶は、たとえ彼が手掛けた作品でなくとも、ある種の通奏低音としてT&Gのカタログすべてに貫かれているような感覚を、一リスナーとして強く受ける。


そんな「T&G=アルビニ」のイメージを、その初期において最も象徴したバンドがジーザス・リザードである――という意見に異論は少ないだろう。ご存知のとおり、T&Gからリリースした4枚のスタジオ・アルバムすべてアルビニがプロデュースを手掛け、ジーザス・リザードを結成する以前にはベースのデヴィッド・Wm・シムズがレイプマンでギターを務めるなど、両者の関係性は深い。そのデヴィッドが、レイプマンより先にヴォーカルのデヴィッド・ヨウ(当時はベース)と活動していたテキサスのスクラッチ・アシッドも含め、ジーザス・リザードもアルビニも共に、「本心を表現したかったら32秒で伝える」と映画『アメリカン・ハードコア』でフガジ/元マイナー・スレットのイアン・マッケイが語ったところのオリジナル・ハードコアの本流からは外れた「傍流」であり、また最初期のジーザス・リザードはビッグ・ブラック同様にドラム・マシーンを導入していたりと、いわば両者はハードコア勃興後の混沌のなかで引き寄せられた盟友関係といえる。


1987年、元スクラッチ・アシッドのデヴィッド・ヨウ、デヴィッド・Wm・シムズ、元カーゴ・カルトのデュアン・デニソンのトリオとしてジーザス・リザードは結成される。その後、ドラマーのマック・マクネイリーが加入し、1989年、デビューEP『Pure』をT&Gからリリース。本作『ゴート』は、その翌年のファースト・アルバム『ヘッド』に続き、1991年に発表された2枚目のスタジオ・アルバムになる。

1991年といえば、ニルヴァーナの『ネヴァー・マインド』がリリースされ、俗にオルタナティヴ~グランジがムーヴメント化する端緒の年とされるが、たとえばダイナソーJrがメジャー・デビュー作『グリーン・マインド』でポップなノイズを鳴らし、あるいはソニック・ユースが時代に感化された『ダーティ』を発表するような当時の状況下にあって、しかしジーザス・リザードの「音」は圧倒的に異物であり、今あらためて聴き返してみてもドキリとさせられる。アルビニの「原音主義」が貫かれたロウな音像のなか、ハードボイルドなギターと強靭なベース、そしてデヴィッド・ヨウのイカレた咆哮が荒々しい変拍子にのせてうねるフリーキーなアンサンブルは、やはり唯一無二だ。当時はノイズ・ロックやジャンクとも評されたジーザス・リザードだが、隙間/空間の際立ったプロダクションは静謐ささえ漂わせ、どこか醒めた音の手触りがただならぬ凄みを伝える。アルビニとの関連でいえば、あくまで「バンド・サウンド」を軸に展開されるその巧妙な崩しと構築は、むしろシェラックを先取したようなところさえある。


同年に同じくセカンド・アルバム『スパイダーランド』を発表したスリントは、アンワウンドやジョーン・オブ・アークからモグワイやゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーに続く“ハードコア通過後のインストゥルメンタル・ロック/ポスト・ロック”の系譜の源流となったが、対してジーザス・リザードは、ブレイニアックやストーム・アンド・ストレスをへて、ジョーン・オブ・アークから派生したメイク・ビリーヴや、元ディスコード所属のエル・グアポとブラック・アイズが解散後に各々立ち上げたスーパーシステムやミ・アミ、あるいはドラッグ・シティのファッキン・チャンプといった“ハードコア/ジャンク通過後のオルタナティヴ”の音楽的指標のひとつとなった――と強引に位置づけることも可能かもしれない。


本作『ゴート』に続いて、T&Gから2枚のアルバム『ライアー』『ダウン』をリリースした後、メジャーのキャピトルに移籍。ギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルがプロデュースした6作目『Blue』を最後に、バンドは1999年に解散する。錚々たるビッグネームが復活を遂げた前記のT&Gの25周年イヴェントでは、前身のスクラッチ・アシッドこそ再結成を果たしたものの、ジーザス・リザードの再結成は残念ながら実現しなかった。

彼らがT&Gに残した作品群は、その「音」が、今なお比類なき強度を誇り、現在に有効性を持ちえるハードコアの前衛であることを物語っている。

(2008/08)