2011年1月26日水曜日

『ANTONY AND THE OHNOS ―魂の糧―』

2月11/12日、東京の草月ホールで行われた『ANTONY AND THE OHNOS ―魂の糧―』。アントニー&ザ・ジョンソンズのアントニーと、彼が敬愛してやまない舞踏家・大野一雄の息子であり、同じく舞踏家である大野慶人との共演が実現した今回のステージ。その公演で配布されたパンフレットに掲載されたテキストに、興味を惹かれた。「完新世の聖と俗/泣いている女陰のキリスト」と題された、アントニーが大野一雄に捧げた文章の中の一節である。


「お母さんのスカートの年輪のような白い輪っかをくぐって、私は彼女の中に入る。彼女は私の頬に触れ、私は泣く。星が私の目からこぼれ落ちる。/大野一雄が私に与えた最大の贈り物。/私の中の聖なる幼児を発見すること。/この子供を育て、抱きしめ、守ることができるのなら、それが私の願いだった」


オープニング。ステージに控えたアントニーをヴェールのように覆い隠すスクリーンに映し出された、雲間を抜けて立ち昇る太陽のモノクロ映像と、その前で静かに身体を動作させる、白塗りの肌に鳥の装具を身に付けたジョアンナ・コンスタンティン(※アントニーが90年代に結成したパフォーマンス・グループ、ブラックリップスの一員であり、現在も共演を重ねるニューヨークのダンサー)。ウィリアム・バシンスキーが創り出す蜃気楼のようなエレクトロニクスにのせて、鉄のくちばしをした一羽の鳥が光を求めて虚空を彷徨う。その光景は、まるで“ワン・ダブ”の一節「一羽の鳩よ/お前を私は待っていた/暗闇、悪夢、孤独な夜を耐えて」を思わせたが、同時に、そこにたたずむジョアンナの不安定な肉体は、あたかも「胎児」を想起させるものでもあった。静寂の中を鼓動のようにノイズがエコーするそこは、さながら「子宮/女陰」であり、「胎児」である鳥は、胎内から覗く「世界」の象徴としての太陽を見上げて、飛び立ち=誕生の瞬間を待ち構えている。そして、場面は転換し、翼を脱ぎ捨てた/剥ぎ取られた鳥は、その生身の肢体を獣のようにくねらせ、赤黒い闇の中で禍々しく演舞する。それはどこか、楽園追放的なモチーフを伝えるものでもあり、そこには「生(と死)」のトランスフォームを通じて描かれる、文字どおり聖と俗のコントラストが表現されていた。

アントニーはインタヴューで、大野一雄の舞踏について「彼は、生命に向って踊っている。カズオは、光に彼の個人の救済を求めているんだと思う」と語り、彼のライヴ・パフォーマンスに触れた体験が「僕を永遠に変えたんだ。そこには、僕が必要としていた希望があったんだ」と述懐する。アントニーにとって大野一雄という存在は、自身が表現者としての道を進むうえで大きな指針を示してくれた「光」だった。そんな大野一雄から授かったという「聖なる幼児」――ここでは「胎児」と意訳するが――とは、アントニーにとっておそらく、表現者として新たな生を宿した自分自身の姿だったのだろう。言い換えればそれは、つまり「歌」であり、だからアントニーの願いとは、大野一雄という「光」を感じながら、この聖俗に塗れた「世界」で歌い続けること。すなわちオープニングで描かれたモチーフは、自分の中で「育て、抱きしめ、守」ってきたものが大きくなるにつれて、その光と世界の狭間で揺れ動く、表現者としてのアントニー自身の葛藤を表現したものとも解釈できるかもしれない。
 
たとえば、この「聖なる幼児/胎児」というモチーフから連想されるアーティストに、シガー・ロスの名前を挙げることができる。胎児の顔面が飾る最初のアルバム『Von』に始まり、彼らの作品にはこれまで、その胎児が幼児から子供へ、少年から青年へと成長していく姿がアートワークに描かれてきた。そして、その成長の軌跡は、アイスランドの若者がワールドワイドな存在へと飛躍を遂げていくバンドのサクセスと、それに伴い変容するヨンシーと「世界」の関係性のメタファーを意味した。

「あの胎児がいた場所っていうのは、水の中のコクーンみたいな、そこに漂っていて、でもそれは電気みたいなもので外界とつながっているんだ。やがて、太陽が昇り、その電気が充電されたら、水がザバ~ってなくなって、外界にとうとう出ることになったんだ。だけど、いざ出てみたら、そこにはカオティックな世界が広がっていた。だから、少年はその眠りから目を覚ますことなく、夢遊病者のように彷徨い出す」。そう『( )』(そのタイトル表記は“空洞の母胎”を思わせる)にいたるまでのストーリーを語るヨンシーは、続く『Takk…(※「ありがとう」という意)』で「それでも世界は思っていたほど悪くもないかもしれない」と世界を受け入れ、最新作の『残響』のアートワークには、そんな覚醒後の高揚感や迸る生命感を象徴するように、彼方へと力強く大地を駆け出していく裸の青年たちの後姿を捉えた写真が飾られていた。

そして、その『残響』の隣にヨンシーのソロ・アルバム『ゴー』を並べたとき、そこには、かつての自分自身=胎児が成長して巣立っていく光景を現在のヨンシーが見つめているような、感動的な構図が浮かび上がる。ヨンシーにとって音楽が、「現実逃避」から「現実そのもの」となり、やがて自分を鼓舞し曝け出すための「自由と希望の糧」へとその意味を大きく変えていったように、かつての“内なる自分”としての胎児はいま、『ゴー』のボートレートのようにまっすぐな眼差しで世界を見晴らしている。
アントニーとヨンシーが共有する「胎児」というモチーフ。両者にとって「胎児」は、自分自身の投影であり、もうひとりの自分の姿を意味する。そして、その自分自身/もうひとりの自分は、とてもデリケートで不安定な存在として、彼らの中でイコンのように棲まう。聖性を帯びたイノセンスの象徴でありながら、同時にそれは、恐れや穢れへの対処療法という側面を併せ持ち、精神的/空想的な隠れ家としての「胎内」と、清濁併せ呑むこちら側の「世界」を薄い皮膜で隔てた中間的な領域で揺れ動く、ある種、両義的で未分化な存在。


アントニーとヨンシーの両者にとって、縁の深いアーティストのひとりであるビョーク。たとえば、彼女のパートナーであり、2005年に共演作『拘束のドローイング9』も発表した現代美術家のマシュー・バーニーが、8年の歳月をかけて制作した大作であり代表作『クレマスター』は、そんな両者の「胎児」と重なり合うイメージを与えてくれる。

クレマスターとは、医学用語で「睾丸につながる腱を包み込む筋肉」。つまり、胎児期に性の分化を左右するクレマスター筋を指し、転じてそれは、ある存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する過程を表すメタファーとして使われている。半獣半人的なグロテスクなクリーチャーや、裸体のアマルガムを思わすオブセッシヴなヴィジュアル・イメージを通してそこに映し出されるのは、いわば男性性と女性性の間で引き裂かれ宙吊りにされた「生/性」がうごめく一種の神話的な世界であり、その不安定で過渡期的な状態をひとつの通過儀礼として変化(トランスフォーム)していく「生(と死とエロス)」のありよう。そして、この、“存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する過程”にこそ「生」を見出すような感覚や視点は、アントニーとヨンシーの「胎児」をめぐるストーリーとも響き合うところがあるようにも思える。大野一雄との出会いによって“受胎告知”を受けたアントニーと、ある種の自己防衛的な本能から“懐胎”したヨンシー。両者にとって「胎児」は件のごとく不安定で不確定な存在であるように、彼ら自身もまた、いま目の前にいる自分と、「胎児」としての自分自身/もうひとりの自分の間を揺れ動く中間的な場所で、アーティストとしての「生」を全うしているように思えてならない。

『Takk…』をきっかけに、その後、『残響』から『ゴー』へと辿る過程で「世界」と和解を果たしたヨンシーとおそらく同じような意味で、アントニーにとって最新作の『クライング・ライト』は、自身と自身を取り巻く「世界」との関係性を新たに見つめ直す意味が込められた作品だった。それはまさに、あのジョアンナが演じた一羽の鳥のように、“私の胎内”から飛び立ち、“「光」の向こう側”で生身の身体として生きることの決意の表れだった。

「人間として、人間性というものと関り合おうとしている。だからそこには葛藤が生まれている」。「自分の周りの環境に手を差し伸べてより近づきたいと思っているけど、同時にそれに対して傷心もする」。そう本作が持つ意味合いを語るアントニーは、続いてポップ・カルチャーにおける“希望”という概念についての話題に触れて、こう説いた。「ここ数年、若いアーティストは独自のパラダイスを築き上ようとしたけど、その壁は高すぎて、誰もが行ける場所じゃなかった。でも、僕は、パラダイスなんてものがあるなら、それはここであるべきだ、って思ったんだよね」


アントニーが、自分の中の子供に向けて書いた曲だという“ダスト・アンド・ウォーター”。「この日が来ることは伝えておいた/私が君をここに放っておくと思ったのか/永遠に?」。世界への恐れや傷ついた心を抱きながら、それでも「物事はつねに変わっていくから、心配することはない」というメッセージを歌っているというこの曲で、アントニーは「胎児」に、光の向こう側へ――“壁”の外側へ出るときが来たことを伝える。そして、これは私の勝手な解釈というか想像だが、それはヨンシーが『ゴー』で成長したかつての「胎児」を見送ったように、「育て、抱きしめ、守」ってきた「胎児/自分の中の子供」=自分自身/もうひとりの自分と、この「世界」でふたたび出会い直すことこそが、アントニーにとっての本当の希望であり、“魂の糧”なのではないだろうか。


公演の本編ラスト。大野慶人が操る大野一雄を模した指人形に向けて、アントニーはエルヴィス・プレスリーのカヴァー“好きにならずにいられない”を捧げるように歌った。「賢者は云う、愚か者のみ、愚か者のみが事を急ぐと/だが私は、だが私は、恋に落ちるのをどうすることもできない……」。世界は思っていたほど悪くないかもしれない。なぜなら、恋に落ちるという奇跡の前に、賢者も愚者もない。だから、大野一雄のように、私よ、ここで生命に向って歌え――。アントニーはそう、この世界の中心である「聖地」で、自らにあらためて誓いを立てているようにも思えた。

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