2011年1月26日水曜日

2000年代の極私的“ビッチ”考……ガーリー・カルチャーという現象

ガーリー・カルチャーに明確な定義はない。よって明確な起源もなく、ゆえにその全体像を把握することは難しい。それは、ひとつの出来事ではなく、さまざまな出来事が同時多発的に重なった結果、醸成された時代のムードのようなものであり、しかし偶然ではなく必然性を伴ったムーヴメントとして現象化した、文字通りの“カルチャー”である。そこには、世代も活動のフィールドも異なりながら、アートへの情熱を通じて緩やかな連帯を見せるような「彼女たち」の蜂起があった。


ガーリー・カルチャーが台頭する舞台となった1990年代。その初頭に起きた「ライオット・ガール」なるガールズ・パンク・ロックのムーヴメントは、それがまさに「彼女たち」の時代の到来を告げていたという意味で象徴的な出来事だったといえる。


当時の男性支配的なハードコア・シーンに対し、女性ミュージシャンが自由で対等な条件で音楽活動が行える環境を作ろうという問題提起の下、1991年にワシントンDCで開催された集会で決起されたフェミニズムとパンク・ロックをめぐる新たなコミュニティ。「Revolution Girl Style Now!」というスローガンを掲げ、自らの居場所と表現する権利を要求した建設的な主張はもちろん、それが音楽のみならずファンジンの発行や会合なども含む複合的なアート・パフォーマンスの形態をとり、いわばガーリー・カルチャーの“カルチャー”たる可能性を先駆的に示していた点は興味深い。


ライオット・ガールズ周辺の映像作家セディ・ベニングが制作した『Girl Power』(1992年)http://www.sensesofcinema.com/2003/great-directors/benning/、あるいは写真家のナン・ゴールディンらが参加したアート展『Bad Girls』(1993年)に窺えるのは、「彼女たち」の“強さ”への意思である。そして、1994年にファッション・ブランド「X-GIRL」を設立したキム・ゴードンは、そうした呼びかけに応えるように語った。「empowerment。“強くなりましょう”が、私たちのキーワードよ!」。

果たして「X-GIRL」とキムの周りには、映像作家やデザイナー、画家、女優などフィールドや世代も異なるさまざまな女性クリエイターたちが登場し、ガーリー・カルチャーが台頭する決定的な起点となった。なかでも、「MILK FED.」を立ち上げたソフィア・コッポラやゾエ・カサヴェテスを筆頭に、当時“X‐ジェネレーション”(※1991年に出版のダグラス・クープランド著『ジェネレーションX』から取られた、1960年代のカウンター・カルチャーの世代の子供を指す言葉)と呼ばれた20代前半の新世代の才能の躍進は、それが時代の変革期を意味する事件であることを強く印象づけた。この「X-GIRL」周辺のシーンからは、さらに映画『キッズ』で主演に抜擢されるクロエ・セヴィニーやリタ・アッカーマンといったラディカルな個性が輩出されることになる。


そうしてガーリー・カルチャーが求心力を示した背景に、とりわけ当時の音楽シーンとの密な関係性があったことは重要なポイントだろう。


ライオット・ガールやキム・ゴードンはいわずもがな、ソフィア・コッポラは映画監督の以前にミュージック・ビデオを数々手掛け、その先駆者的な映像作家のタマラ・デイヴィスは『No Alternative Girls』で黎明期のガーリー・カルチャーを記録するなど、当時の状況を伝えるエピソードは事欠かない。ベックやビースティ・ボーイズに代表される1990年代のオリタナティヴ・シーンが体現したインディペンデント精神は、ガーリー・カルチャー周辺のDIYな女性クリエイターと同時代性を共有するとともに強力なバックアップとなり、「彼女たち」のブレイクを促した。加えて、オルタナティヴ・シーンともクロスオーヴァーした当時のスケーター・カルチャー(マイク・ミルズ、スパイク・ジョーンズetc)との交流も、そのリアルなストリート感覚を担保する重要なファクターとなった。


ガーリー・カルチャーに定義や起源はない。しかし確かなのは、そこには花咲いたアートはいずれも、「彼女たち」のリアルな日常の感覚に根ざしていたということ。内向的な少女趣味とも、威圧的なセックス・アピールとも異なる。「彼女たち」の“強さ”の源泉は、まさにそうしたところにこそあるのだろう。


(2009/1130)

『ニュー・ガーリーグラフィックス』(PIE BOOKS)より

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