2011年1月26日水曜日

極私的2000年代考(仮)……アニマル・コレクティヴとディアハンター、あるいはアニマル・コレクティヴからディアハンターへ

4年前にユナイテッド・アコースティック・レコーディングからリリースされたコンピレーション『They Keep Me Smiling』()は、「00年代の『No New York』()」とも謳われた評判通り、00年代初頭のニューヨークのアンダーグラウンド・シーンを捉えた格好のドキュメンタリーだったが、そこに収録されたアーティストの顔ぶれや彼らが象徴した音楽的趣向は、結果としてそれが「アメリカン・インディの00年代」を指標する示唆的な作品であったことを物語っている。

先日のギャング・ギャング・ダンスのライヴにもゲスト出演した元ブラック・ダイス~ソフト・サークルのヒシャムが監修を務め、そのギャング・ギャング・ダンスやブラック・ダイス、アニマル・コレクティヴを始め、サマラ・ルベルスキー、エンジェル・ブラッド(GGDのリジーの別ユニット)、ホワイト・マジック、エクセプター、ブラッド・オン・ザ・ウォール、コプティック・ライト(バトルスのイアンも在籍したストーム&ストレスが前身)、ギャヴィン・ラッソムらが名を連ねたそれが伝える当時のニューヨークに萌芽した才能の野放図は、00年代を通じてアメリカン・インディの各所で同時多発的に顕在化していく音楽的命脈の縮図に等しい。フリーク・フォーク、ポスト・ノーウェイヴ~ニュー・ノイズ/ドローン、ミニマル/エレクトロ~クラウト・ロック、シューゲーザー、ワールド・ミュージック……がまだら模様に織りなす多様な音楽事象が、ある種00年代の趨勢を予見する形でここには胚胎されていた。

その『They Keep Me Smiling』の続編ともいうべき作品が、少し前にニューヨークのレア・ブック・ルームからリリースされた『Living Bridge』()。アニマル・コレクティヴらが御用達のブルックリンのスタジオ「Rare Book Room」のエンジニア、ニコラス・ヴァーンヘスが監修したコンピレーションで、エイヴィ・テアのソロやブラック・ダイス、サマラ・ルベルスキーなど『They Keep Me Smiling』にも参加した顔ぶれに加えて、タラ・ジェイン・オニール、イーノン、セオ・エンジェル、テレパス、リングス、シルヴァー・ジューズ(※スティーヴン・マルクマスが参加した98年の音源)、パルムス(同レーベルの第2弾となるデビュー・アルバム『It’s Midnight In Honolulu』も素晴らしい。オルタナなマジー・スター?http://www.myspace.com/palmsgroup)、あるいはディアハンターといったニコラス/スタジオと縁の深い全25組のアーティストを収録。『They Keep Me Smiling』同様、いわばニューヨークの一風景を定点観測したきわめて局所的な作品ながら、その描きだすパースペクティヴは、08年現在のアメリカン・インディの全景を相似関係に可視化する射程を含む。

音楽性もその背景も世代も様々な才能が雑多に混在し、かつ互い同士がゆるやかな連帯を見せるような08年のニューヨークの音楽地図は、ジャンルやトレンドの細分化の果てに「シーン」と呼ばれるものが飽和・爛熟し、従来型の構成単位とは異なる、新たなメディアやバックグラウンドを介して結ばれたローカルなコミュニティが台頭するなかで脱中心化が進む現在のアメリカン・インディの光景をそのままなぞるものであり、さらにいえば、そうしたまるで「全体」と「細部」が入れ子の関係にあるような感覚は、90年代の反動か、“大文字の物語”が失効し、それこそメジャーとインディの間に限らずあらゆる局面で対立軸や争点を見出すことが困難な00年代という時代性を象徴しているようで興味深い。
 
似たような話は何もニューヨークに限ったことではない。こちらはPVやライヴ・パフォーマンスを収録した映像作品のコンピレーションで、ロサンゼルスのポスト・プレゼント・ミディアム()からリリースされたDVD『New Video Works』。共に今年揃ってリリースされたニュー・アルバムが好評を得た盟友関係のエイブ・ヴィゴーダ(ヴァンパイア・ウィークエンドへのUSジャンク~ローファイからの回答?)とノー・エイジ(ちなみにメンバーが同レーベルを運営)、6月のキル・ロック・スターズのショーケース・イヴェントにも出演したシュシュとミカ・ミコ、イレース・エラッタ、ラッキー・ドラゴンズといった西海岸アンダーグラウンドの新旧顔役を中心に、ヒシャムのソフト・サークルやスリル・ジョッキーへの移籍で注目集めるハイ・プレイセズ、ウルフ・アイズばりの量産ペースを誇るガールズ・ドローン/アヴァン・フォーク・デュオ=ポカハウンテッド(※元メンバーのベサニー・コンセンティーノは現在ベスト・コーストとして活動)、ジャパンサー(サーストンが映像出演)などニューヨーク勢やディアハンターも交えた強烈すぎるラインナップ。

ここに収められた異種混淆のアマルガムな饗宴は、いうまでもなく『They Keep Me Smiling』や『Living Bridge』が映し出すニューヨークのそれと重なり合うものであり、あるいはそこには、たとえば80年代末~90年代初頭のオルタナティヴ/グランジ前夜の頃のアメリカン・インディが漲らせていた何か闇雲なエモーションや創作精神を取り戻そうとしているような熱気が感じられたりもする。

とくに西海岸の連中は、様々な音楽フェーズを潜り抜ける過程でそれなりにソフィストケートされたものを漂わせるニューヨークの連中とはやはりどこか違い、サブ・ポップやKRSが設立された頃のあの空気やマインドを変わらずたたえていて微笑ましい(「素朴(プリミティヴ)な音楽は訓練されていない現代人の耳には複雑すぎる」と、現代音楽や芸術音楽の計算された前衛主義や主知主義に対し不確定で変則的な「民俗音楽の複雑性」について研究したのは20世紀初頭の民謡採集者/ピアニストのバーシー・グレインジャーだが、本作に収録されたアーティストやディアフーフなんかの音楽を聴くと、これと同じようなプリミティヴィズムが、ある種の「民俗性・民謡性」みたいなものとして西海岸のインディ・ロックには脈々と受け継がれているような気がする)。そしてここにもまた、前記の2作品と比べてたぶんに歪な形ではあるが、まぎれもなく今のアメリカン・インディの姿が凝縮されたスケールで描かれているように思う。


『They Keep Me Smiling』も『Living Bridge』も『New Video Works』も、それぞれ切り取られるフレームは微妙に異なりながら、アメリカン・インディの全容を紐解く巨大な展開図のワンピースとして、その現場の空気や温度をリアルに伝えてくれる(フガジのブレンダン・キャンティがプロデュースするDVDシリーズ『Burn to Shine』()も同様。ワシントンDCやシカゴなどアメリカ各都市のインディ・シーンにスポットを当て、取り壊しの決まった廃屋で行われる地元アーティストたちの演奏を記録したライヴ・ドキュメンタリー。ウィル・オールダムやマジック・マーカーズらが出演予定のルイヴィル編が待機中)。しかも、それぞれのピースはアメリカン・インディの全体図と相似形をなしており、各作品に名を連ねるアーティストたちは、ローカリティや音楽性で分断されたり区画されることなくゆるやかに連帯し、その背景に複雑に入り組んだ人脈図を呈する。興味深いのは、そうした「アメリカン・インディの00年代」をそのまま体現するような作家性を誇る才能がごく稀に存在することだろう。


「アメリカン・インディの00年代」を、仮に『They Keep Me Smiling』と『Living Bridge』のふたつの作品で前半と後半に分けてみる。そして仮に、先に触れた才能の象徴として、前半を代表するアーティストがアニマル・コレクティヴだとするなら、後半を代表するアーティストはディアハンターではないだろうか。


俗にフリーク・フォークと呼ばれたものが、その「フリーク」なる過剰で異形的な響きの冠のとおり、ある固有の音楽様式や音楽趣向の系譜を指すものではなくむしろ、突き詰めればその周囲に点在し錯綜する数多のエクスペリメンタルな音楽事象や音楽史的記憶=ルーツ・ミュージックの類をも際限なく巻き込みながら曼荼羅のように複雑な文様を象るような一種の音楽的スペクタクルであるという、当連載でもこれまで繰り返し触れてきた事実を踏まえたとき、そこに“ポップ・ミュージック”という非アンダーグラウンドな文脈/感性を持ち込み、新たな回路を拓きブレイクスルーを遂げてみせたのが、一時はそのフリーク・フォークの旗手とも呼ばれたアニマル・コレクティヴだった。


その大きな転機となったのが、ペイヴメントとサン・シティ・ガールズが共生したかのようなパンダ・ベアとエイヴィ・テアのデュオ時代~初期の“プリミティヴ”なアヴァン・サイケ路線をへて、さながらビーチ・ボーイズと『ホワイト・アルバム』と『リチャード・D・ジェイムス・アルバム』の邂逅を連想させた05年の『フィールズ』だったわけだが、いわば彼らは、それこそニューヨークに限っていえばヴェルヴェッツからノー・ウェイヴの時代をへて連綿と彼の地に受け継がれるアヴァンギャルドの様式美を換骨奪胎し、まるでアメリカン・インディがその創作精神をもっとも自由に謳歌していたオルタナティヴ前夜の頃のような伸びやかさで、アンダーグラウンドなエクスペリメンタリズムを否定でも反動でもなく肯定的にロック/ポップへと反転させてみせたわけだ。しかも、本来の意味での実験精神は微塵も失うことなく、百科全書的なまでに豊潤で奔放な音楽的語彙を誇りながら、そのサウンドはどこまでもサイケデリックに酩酊感を増し眩い色彩を放つ。文字どおり「フリーク」なクリエイティヴィティは、たとえばギャング・ギャング・ダンスなんかに比べると一定の「型」らしきものを近作において創出しつつも確実にピークを更新し続けていて、そのポテンシャルはいまだ底を窺い知ることができそうにない。

対するディアハンターもまた、アメリカン・インディの現在をきわめて今日的な形で体現するサンプルとして、アニマル・コレクティヴと双璧をなす屈指の存在といえるだろう。
ディアハンターが創り上げるサウンドも、じつに多面的で複雑な意匠に富み、圧倒的な構成力と情報量を誇る代物だ。中心人物のブラッドフォード・コックスが「完全な失敗作」と語り、ザ・フォールの出来損ないのようだというデビュー・アルバム『Turn It Up Faggot』をへて、昨年クランキーから発表されたセカンド『Cryptograms』。作品を聴いて気付かされるのは、それがまさにここ数年のアメリカン・インディ界隈で顕在化した音楽トピックを纏め上げたかのようなサウンドの、その見事な符合の一致だろう。

すなわち、ジザメリやマイブラを反芻するシューゲーザー、ブライアン・イーノを指標とするドローン/アンビエント、フェラ・クティのアフロ・ビート、ファウストからパウリーン・オリヴェロスまで参照するクラウト・ロック~アヴァンギャルド、シャングリラスやクリスタルズを羨望するオールド・ポップ/ドゥー・ワップ、そしてペイヴメントやブリーダーズら90年代のインディ・ロックをルーツに引くローファイ……いわばそれらが交錯するする00年代のアメリカン・インディの景色を活写した作品こそ『Cryptograms』だった。

さらにいえば、そうしたディアハンターのサウンドの偉大なアーキタイプと呼べそうなアーティスト――ラブラッドフォード、パン・アメリカン、スターズ・オブ・ザ・リッド、ウィンディ&カールらを90年代初頭から世に送り出し続けてきたクランキーから本作がリリースされた事実にも、必然めいた巡り会わせを感じずに入られない。
そうした背景には、当然ながらブラッドフォード個人の資質やルーツに求められる部分が大きい。音楽好きの従兄弟の影響で小学生の頃からヴェルヴェッツやバットホール・サーファーズ、同郷のthe B-52sやパイロンのレコードを聴き、ブラッドフォードが手作りのドラムセットとテープレコーダーで音楽制作を始めたのは10歳のとき。そして中学生のときに友達から4トラックのレコーダーを借りたのを機に、現在のディアハンターやソロのアトラス・サウンドの音楽的な基盤となるテープコラージュやサンプリングにのめり込む傍ら、同時代のインディ・ロックと一緒にあらゆるアヴァンギャルド・ミュージックやアンビエント、かたやオールディーズなんかにもどっぷりと漬かりながら、その特異な作家性は育まれてきた。『Cryptograms』とはまさに、そうしたブラッドフォードの音楽的な個人史の縮図としても聴くことが可能だし、それが奇しくも「アメリカン・インディの00年代」と相似関係をなしたことも興味深く、そこにはアニマル・コレクティヴとはまた違った形の時代性を読み取ることができるだろう。

かたやポップの求心力に魅入られるような近作におけるアニマル・コレクティヴと、かたやとことん脱中心的に創作を漂泊させるディアハンターの在り方はきわめて対照的だ。ブラッドフォード曰く、今度のディアハンターの新作『マイクロキャッスル』(レコーディング&ミックスはニコラス・ヴァーンヘス)は「スタンダードで、ポップなレコード」らしいが、その実体はアニマル・コレクティヴのそれとも、いや、今現在のアメリカン・インディが示すそれともかなり趣を異にするものである。

ちなみにアニマル・コレクティヴとディアハンター/アトラス・サウンドはツアー・メイトの間柄。この両者の関係性に、グリズリー・ベアのエドワード・ドロステやダーティ・プロジェクターズのデイヴ・ロングストレス、あるいはアーケイド・ファイア/ファイナル・ファンタジーのオーウェン・パレットの名前を組み込むことでさらに陰影に富んだ「アメリカン・インディの00年代」を描くことができそうだが……それはまた別の機会に。





(2008/12)


※追記:ブラッドフォードが、宅録の音作りから、実際にステージに立ち人前で演奏するミュージシャンを志すようになったきっかけとして、ニルヴァーナのカート・コバーンがランジェリー姿で演奏するライヴ(映像?)を見て大きな勇気をもらった、と某インタヴューで語っていたのは興味深い。

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