2001年のストロークス『イズ・ディス・イット』、1991年のニルヴァーナ『ネヴァーマインド』、あるいは1981年のブラック・フラッグ『ダメージド』――という過去を振り返れば、2010年も半ば足らずの現時点で何かを語ることなど、無意味で早計に過ぎるのかもしれない。しかし、それでもつい「2010年代」なんて、まだ始まったばかりのディケイドについて思いを巡らせてしまいたくなるほど、このところのリリース作品はテンションが高く話題性に事欠かない。
ヴァンパイア・ウィークエンド、MGMT、オーウェン・パレット、スプーン、フライング・ロータス、フォールズ……そして人気沸騰のドラムス、MIAのフックアップで注目を集めるスレイ・ベルズ。実際のところ、音楽的なモードは大半が2000年代の余韻を引き継いだものとはいえ、その顔ぶれは新たな時代の始まりを飾るにふさわしいフレッシュさを感じさせる。2000年代は、刺激に満ちていたが、同時にその刺激は痛みやひずみを伴うものでもあり、結果として大文字の「ロック」や「ポップ」があらかた空洞化した10年でもあった。“2010年代の予感”とは、その空洞化のバックラッシュとして複雑化し、多層化した音楽環境をデフォルトに立ち現れる新たな感性の登場への期待、と言い換えて構わない。
しかし、不満がないわけでもない。それは、そこに女性アーティストやガールズ・バンドの存在がほとんど希薄であるということ。冒頭で名前を挙げたような気鋭のアーティストが次々と登場するなか、しかし、そこに“彼女たち”の姿はまるで見当たらない)。たとえばレディー・ガガのようなカバー・ガールの威圧的な存在感とは対照的に、2010年も「そこ」は、依然としてギターを手にした白人青年たちが集うサークルのようだ。
昨年、アニマル・コレクティヴやグリズリー・ベアなどブルックリン勢が批評的かつ商業的にもブレイクを果たすかたちで、大団円を迎えたかのように幕を閉じた2000年代。そんな“インディ・ロックの10年”を振り返ったとき、その盛り上がりとは対照的に、そこに女性によるロック・バンドの存在がほとんど議題に上らなかった事実に、あらためて気付かされるだろう。
もちろん、個別に素晴らしいガールズ・バンドはいるし、ヤー・ヤー・ヤーズのカレン・Oやゴシップのベス・ディットーのように魅力的な女性アーティストをフロントに置くバンドはいた。しかし、いわゆるライオット・ガールが登場した90年代以降、少なくともこの10年における様々なシーンや現象において、女性によるロック・バンドが何かの争点としてクローズアップされた例は確認できない。MIAやリリー・アレン、それこそレディー・ガガといった個性的なソロ・アーティストが活躍を見せる反面、女性によるロック・バンドは、もう10年以上も長い空白期を迎えたまま、現在にいたる。
たとえば1970年代のパンク・ムーヴメントは、スリッツやレインコーツが登場する土壌を用意し、ポップ・グループやディス・ヒートといった同期のポスト・パンク・バンドは彼女たちを積極的にサポートした。たとえば1980年代のオリジナル・ハードコアは、その理想と限界を示すことでライオット・ガールが産声を上げる契機となり、ニルヴァーナやオリンピアのインディ・シーンをはじめ1990年代のオルタナティヴは、彼女たちを同志として時代の俎上に引き上げた。
対して、2000年代は、ロックンロール・リヴァイヴァルしかりニュー・レイヴしかり、いかなるシーンやムーヴメントも“彼女たち”をそのようなかたちで巻き込むことはなかった。また、“彼女たち”もそこで自らカウンター・ポイントを作るようなことはなかった。音楽シーンとしてのライオット・ガールは、オルタナティヴの終焉を契機に求心力を失い停滞していくが、もっとも、2000年代に起きた様々な出来事や現実を思えば、もはや「性差」が(それだけではないが)、優先順位的にもロック/ポップにおいてラディカルでクリティカルなテーマではなくなってしまったことも頷けるかもしれない。ともあれ、結果的に“インディ・ロックの10年”は、そのボトムアップで築かれた連帯的なイメージに反して、“彼女たち”の不在のなか成し遂げられたという印象が強い。
「キャリーが言ってたけど、『ロックンロールを救うバンドっていつもギターを弾く白人の男の子』って。すごく的を射てる表現だと思うわ。カート・コバーンにしてもそうだったし、ジャック・ホワイトやストロークスだってそう。音楽業界が売れると思うものの概念って何年経っても変わらないってことなのよね」。ロックンロール・リヴァイヴァルが騒がれた2000年代の初めごろ、そんなことを話していたのがスリーター・キニーのコリンだった。スリーター・キニー――ブラットモービルやビキニ・キニルに触発され登場し、同時にそのライオット・ガールが衰退していくさまを目の当たりにしながら、1990年代と2000年代を股に架け活動を続けたガールズ・ロック・バンド。この愚痴っぽくも聞こえるコリンの一言は、しかし、誕生から約半世紀の間に様々な変化や発展のフェーズを潜り抜けながらも、結局のところ解決される様子のないロックンロールの根源的な真実を突いている。
そうしたなか、先日キャリーの口から、スリーター・キニーに再結成の可能性があることが突如告げられた。オフィシャルなアナウンスではないが、今後5年以内にアルバムを制作するプランもある、とも。そして今年、まさにライオット・ガールの第一世代にあたるコートニー・ラヴ率いるホールが、12年ぶりとなるニュー・アルバムを発表した。単なる偶然だろうが、しかし、この奇妙なめぐり合わせは、2000年代をやり損ね、やり逃した“彼女たち”によるこの10年の仕切り直しのようにも思えて、興味深い。
いや、実のところ、前段ではあのように書いたが、ここ1、2年、2000年代の終わり頃からアメリカのインディ・シーンでは、新しい世代のなかにガールズ・バンドの姿が頻繁に見られるようになってきた。それも、ある種のシーンやコミュニティを形成するように、緩やかな連帯感を伴うかたちで。
具体名を挙げれば、ブルックリンのヴィヴィアン・ガールズや、最近サブ・ポップからデビューを飾ったダム・ダム・ガールズ。ブリリアント・カラーズ、スリープ・オーヴァー、ラス・ロベルタス、ゾーズ・ダーリンズ。あるいは、イギリスだが所属レーベルを介して彼女たちと近い間柄にあるペンズやラ・ラ・ヴァスケス。サウンド的には、今風のガレージ・ロックやローファイを共通言語とする彼女たちは、自らレーベルを運営したり、仲間内で新たなバンドを結成したり、リトル・プレスの7インチやカセットをリリースしたりと、自分たちの手でシーンを作るということにきわめて意識的だ。
しかも、彼女たちは、女性だけで群れることはしない。むしろ積極的に“彼ら”を巻き込み、意気揚々とつるみながら、一緒にツアーを回ったり、バンド・メンバーをシェアしたり、スプリット盤を制作したりしている。
たとえばダム・ダム・ガールズとブランク・ドッグスが合体したメイフェア・セットや、同じくダム・ダムのディー・ディーとクロコダイルズのブランドンが主宰するレーベル「Zoo Music」など。彼女たちはローカルなコミュニティを大事にし、そこではクリエイティヴな連帯性が尊重される。そうした光景は、ともすれば性差の対立構造に陥りがちだったライオット・ガールとは異なるものであり、ポスト・パンクの頃のラフ・トレードや、オルタナティヴ黎明期のKやキル・ロック・スターズといったオリンピア・シーンの雰囲気に近いのかもしれない。あるいは、その彼女たちと“彼ら”の世代感覚を共有した親密さは、かつてソフィア・コッポラ周辺のガーリー・カルチャーと、ビースティーズを中心としたグランド・ロイヤル周辺のストリート・カルチャーが見せたそれにも似ている。
そして、たとえばガールズやリアル・エステイトといった“彼ら”と同様に、彼女たちの間でも「海」というイメージは一種の同時代的な記号として共有されるものでもある。
それは、アートワーク等の具体的なヴィジュアルや歌詞で描写される情景というより、あくまで音楽的なものだが、彼女たちにおいても50~60年代のウェストコースト・サウンドやサーフ・ミュージック、シャングリラスあたりのオールド・ポップやビーチ・ボーイズのサイケデリックは、そのサウンドを特徴付ける重要なエッセンスといえる。そうした嗜好性/志向性を共有のイメージとして同心円状に広がるサークルのなかに、いわば彼女たちは“彼ら”と隣接するかたちで含まれている。しかし、彼女たちの存在が、“彼ら”とは対照的に、時代やシーンを象徴する特異点として顕在化をみせる気配は今のところない。それってやっぱり、キャリーが言ったように「ロックンロールを救うバンドっていつもギターを弾く白人の男の子」っていうことなのだろうか。
もっとも、2000年代を通じて「ロック」や「ポップ」は、リヴァイヴァルや過去の参照に没頭するあまり、かつてのパンク・ムーヴメントやオリジナル・ハードコアやオルタナティヴのように、前の時代に対するカウンター・ポイントを作ることで文化的な更新を図るような習性を失ってしまったかのようにも映る。むしろ、過去の歴史や他所の文化の特徴的な要素や最良と思われる部分を集めて提示することが、今の時代におけるラディカルさの証明であるかのような向きもある。そんな状況下において、“彼女たち”の存在は、言っても男性支配的/上位的な今の時代の「ロック」に対するカウンター・ポイントになりうるという意味で、かろうじての批評性を感じさせて頼もしい(もちろん、そうあることが“彼女たち”に何の意味があるのか、そもそも、そうあることに“彼女たち”の関心はあるのか、は別として)。
もしも現時点で「2010年代」に期待を抱くにたる展望があるとしたら、その一翼は“彼女たち”にかかっていると断言したい。
(2010/06)
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