2011年1月31日月曜日

極私的2000年代考(仮)……スワンズあるいはMGという導線

1980年代の音楽状況をめぐるもっともラジカルな争点は、“過渡期/更新期におけるロック表現”としてのポスト・パンク/ノー・ウェイヴの時代にこそ集約されるのではないか。

たとえば1970年代のオリジナル・パンクが、無秩序を謳いながらもヒロイックで、破壊的にふるまいながらも最低限「ロック」のフォーマットであることは満たしていたのに対し、ポスト・パンクやノー・ウェイヴの多くは、文字通りの(音楽的)無秩序を、破壊を持ち込むことで、それまでとは異なる回路へと「ロック」を解放してみせた。それまで、その時々の流行や時代の変化に晒されながらも、柔軟性や適応力を見せ、表現のベクトルを垂直方向に漸進し続けてきた「ロック」に対し、いわば「外部」から補助線を引き、異物を接ぎ木し、流動的で可変的な表現へと文脈を錯綜=ミスリードさせる――それこそがポスト・パンクやノー・ウェイヴの矜持だった。
その意味で、だから彼らは所詮、「ポスト」であり「ノー」に過ぎなかった。ポップ・カルチャーのメインストリームと化した「ロック」の懐に土足で踏み込み“嫡流”の血を汚す、来歴不明の混血児の「ロック」としてのポスト・パンクやノー・ウェイヴ。もちろん、そのとば口を作ったのはオリジナル・パンクにほかならない。

しかし、ポスト・パンクやノー・ウェイヴの矛先は、必ずしも「ロック」にのみ向けられたものではなかった。それは結果的に、あらゆる本家本流に対する価値の転倒へと実を結んだ。

「で、これって、私だけでなく、当時の人たちに、フリー・ジャズとかフリー・ミュージックというのか、ま、それへの敷居を低くしましたよね。それが功績だと思いますね。それまでフリー・ジャズのコンサートって、ちょっと行きづらかったというのかしらね、ロックだったらロック、ジャズだったらジャズってはっきり分かれていたような気がするんですね。だけど、これは本当、敷居を低くしたというのがね、いろんなありとあらゆる音楽へのね」
(※『No New York』CD化に際して配布された『No New York Self Help Hand Book』より、Phewのインタヴュー記事から抜粋)


ソニック・ユースと並んで、1980年代初頭のニューヨークに登場し、当時のシーンを象徴するグループのひとつだったスワンズ。その中心人物だったマイケル・ジラにとっても、ノー・ウェイヴ/ポスト・パンクの洗礼は、サーストン・ムーアと同様に自身の音楽観を決定づけるほどの革命的な事件だった。

地元ロサンゼルスのアートスクールをドロップアウト後(ちなみに、そこでジラは当時学生だったキム・ゴードンとも出会う)、友人と「No Magazine」なるファンジンを発行するなど、ロサンゼルスのパンク/ハードコア・シーンに心酔していたジラだが、やがてスロッビング・グリッスルやSPK、グレン・ブランカやDNAといったバンドの音楽に触れ、覚醒。彼らの啓示のもと、「既存のロック・フォーマットを覆すパンクの暴力的なエナジー」「力で精神と肉体を圧倒する音楽」を求めて最初のバンド、リトル・クリップルズを結成する。しかし、LAのスタイル偏重主義なパンク/ハードコア・シーンに嫌気がさしたジラは、ノー・ウェイヴの空気に憧れてニューヨークへ。短命に終わったサーカス・モート()の活動をへて、1981年にスワンズの結成に至る。

当時、広い意味でポスト・パンクやノー・ウェイヴの恩恵を授かったバンドは、アメリカにおいてだけでも、スワンズに限らずソニック・ユースやライヴ・スカル、プッシー・ガロアにバットホール・サーファーズ、Utなどいくつか挙げられる。しかし、そのなかでもスワンズは、かなり特異な部類に入るのではないか。

そのサウンドは、まるでインダストリアルとドゥーム・メタルとグラインド・コアが混濁したような騒々しくヘヴィな代物で、全編を覆うムードも、音の奥底から滲み出るエモーションも陰鬱きわまりない。ノイズやテープ・ループで禍々しく施された音世界がのんべんだらりんと広がり、その裂け目からは、ジラの呻き声のようなヴォーカルが湧き出してくる。同時代では、ニック・ケイヴのバースデイ・パーティやフィータス&リディア・ランチとも通じる暗黒怪奇なオペラ、というか。

一昨年のWIRE誌のインタヴューでジラは、当時影響を受けたアーティストとして、前記の名前に加えてスーサイドやキャバレー・ヴォルテール、ワイヤーにバズコックス、ブライアン・イーノやクラフトワークの名前を挙げていた。が、そこにはさらに、初期のピンク・フロイドやアモン・デュール、同郷の先達でもあるフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートの姿も重ね見ることができるだろう。

とはいえ、ここに羅列された名前は、スワンズの直接的な音の構成要素というよりは、あくまで「力で精神と肉体を圧倒する音楽」へとバンドを導いた指標に過ぎない。

いや、むしろ、当時彼らにつきまとった「世界一やかましいバンド」という評判が象徴するように、そもそもキワモノとして捉えられていたきらいさえある。ちなみに、1982年にソニック・ユースと回った初のアメリカ・ツアーにジラみずから銘打ったタイトルは「Savage Blunder Tour(=凶暴でいいかげんな一行)」()。よく言えば“孤高”、悪く言えば“ナンセンス”というのが、当時のバンドに対する大方の評価だったのではないだろうか(なお、両者は当時、スワンズのライヴにサーストンがベースで参加するなど関係が深く、余談だが、MRRのMykel Boardとthe dBs のPeter Holsappleによる「Swanic Youth」なんてプロジェクトもあった)。

「既存のロック・フォーマットを覆すパンクの暴力的なエナジー」「力で精神と肉体を圧倒する音楽」という意味では、文字通り当初の目的を達成し、ある意味では本家のノー・ウェイヴやポスト・パンク以上に“決壊後”のロックの行きつく先を体現してみせたスワンズ。しかし、1987年発表の5th『Children Of God』を境に、その音楽性は大きな転換を遂げる。

従来のノイズやインダストリアルな要素は後退し、代わりに全編の基調となるのは、ジラいわく「トラディショナルな曲構造をもった、内省的な高揚感を誘う本物のメロディ」。ソング・オリエンテッドな曲展開、ギリシャ音楽や中近東のドローン・ミュージックにインスパイアされた幽玄でサイケデリックな音響、そして新加入のVo.ジャーボーがもたらした賛美歌やクラシックなジャズの要素が、次第にサウンドの核を成すようになる。

また、この時期と前後してジラはアコースティック・ギターで作曲を始め、歌唱もそれまでの不気味で“引かせる”ようなものから、レナード・コーエンも彷彿させるエレガントで“聴かせる”ものへと表情を変えていく。
1990年代を迎え、かつては異物扱いであったノイズやインダストリアルが「オルタナティヴ」の一翼として市民権を得ていくなか、そんな時代の流れと逆行するように、気難しく難解なまま、ある種のフォーマリズム的な方向へと音楽スタイルを洗練させていくさまは、かつての同胞である“凶暴でいいかげんな”ソニック・ユースが華々しくシーンの盟主として地位を確立していったのと比較したとき、あらためてスワンズというバンドの奥深さを物語るようで興味深い。

このスワンズの1980年代における変節について、ジラは「もしもあのまま初期の方法論で突き進んでいたら、しまいには『Cartoonish(=漫画的な、ベタで大袈裟な、ってところか)』なものになりかねなかった」と自身が運営するレーベル、ヤング・ゴッドのHPで語っている。たしかに、パンクの暴力性に魅入られ、半ばなし崩し的に過激さを突き詰めていった初期のスワンズは、ともすればメタル的な様式美に陥りかねない紙一重の所産だった(もっとも、その悪魔が悪魔祓いしているかのような倒錯感こそ、アーリー・スワンズの衝撃であり醍醐味なわけだが)。仮にも芸術を志し、多感な知性の持ち主だったジラが、そこに危機感と創造性の限界を感じたとしても無理はない。

しかし、サウンドの概観がいかに変化しようとも、その中心にいるマイケル・ジラという「本質」は、当然だが変わりようもない。音楽の暴力性を極めた初期においても、あるいはソングライティングに開眼していく中期以降においても、いわばジラはつねに自身をトランスフォームすることに貪欲であり、その実現のための欲望に対して忠実だ。ジラの内では絶えず表現をめぐる関心が網の目のように走り、それは本流と支流を問わず途切れることなく代謝を繰り返し、ねじれ、融解し、多元化することでスワンズのあのクロニクルのように深遠な世界観を形作ってきた。

そして、そうしたジラの来歴不明な漂流難民たる表現者の足場を成したものこそ、あの1980年代におけるポスト・パンクやノー・ウェイヴの洗礼だったのはいうまでもない。当時の空気を全身に浴び、あらゆる音楽の敷居や境界線をラジカルに壊し続けたジラは、その意味でノー・ウェイヴ/ポスト・パンクの啓示の忠実な遂行者だったように思う。


『Children Of God』以降も旺盛な音楽実験を繰り広げたスワンズは、1996年発表のアルバム『Soundtracks For The Blind』を完成後、燃え尽きるようにして解散。際限なく領域を拡大し、ベクトルを錯綜させていった結果、サイケもデカダンも、バロックもアヴァンギャルドも、エスニックもニューエイジも包摂する音のアマルガムへと膨れ上がった晩期のサウンドは、スワンズという“過剰さを志向し続けた”バンドの末路を飾るにふさわしい最後だった。

スワンズ解散後、ジラは“ポスト・スワンズ”とも言うべきプロジェクト、ボディ・ラヴァーズ/ボディ・ヘイターズ()をへて、新たにエンジェル・オブ・ライトを始動。そこでは主に、中期以降のスワンズの核となったアシッド・フォークやカントリーといったルーツ・ミュージックへの嗜好・志向が追求されている。そのハードボイルドで、赤裸々に美しく、静謐な叙情を宿した歌の数々からは、彼の永遠のアイドルであるボブ・ディランやジョニー・キャッシュ、ニック・ドレイクやウィリー・ネルソンへの愛が伝わってきて微笑ましい。

また、そうしたジラの感性は、現在「フリー・フォーク」と呼ばれるような音楽の源流となり、至る場所でユニークな才能を生み出している。

デヴェンドラ・バンハートを始め、ジョアンナ・ニューサム、マット・ヴァレンタイン、ホワイト・マジック、ダイアン・クラック(デヴェンドラが今のNYで最もお気に入りだという女性SSW)、アイアン&ワイン、ジョセフィン・フォスターらが参加したコンピレーション『The Golden Apples Of The Sun』()は、そうした潮流の深い部分にジラの大きさをあらためてうかがい知ることができる作品だ。さらに、ギャング・ギャング・ダンスやアニマル・コレクティヴ、タワー・レコーディングスらを含む現在のNYの実験的なサイケ/フリー・ミュージックの一群のなかに、中期から後期に至るスワンズ/ジラの影響を透かし見ることも可能だろう。

そんなジラの、目下デヴェンドラに続く秘蔵っ子と言えそうなのが、エンジェル・オブ・ライトの新作『ANGELS OF LIGHT & AKRON/FAMILY 』にも参加したブルックリンの4人組、アクロン/ファミリー。エレクトリックと生楽器が鮮やかに交錯し、アシッド・フォークとルーツ・カントリーのあわいで紡ぎだされる甘美で幻想的なメロディと歌は、かつてジラが思い描いたという「本物のメロディ」の原風景を思い起こさせる。


(2005/06)

※追記:スワンズは2010年、再結成を果たした。
http://www.thelineofbestfit.com/2010/09/tlobf-interview-michael-gira-swans/

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