その意見に異論はない。
「ロックンロール」と一口にいっても、そのイメージや解釈はさまざまだが、それを承知の上で、彼らのサウンドには、しかし「ロックンロール」と以外に呼びようのない絶対的なアウラがある。
個人的に彼らの音楽を初めてちゃんと聴いたのは3年前のサマーソニックで観たライヴだったが、思い返してみても、その際の強かなインパクトを言い表すにはやはり「ロックンロール」の他にふさわしい言葉は見当たらない。もちろん、彼らの音楽はそう単純に一元化されるものではない、多様なエレメンツを含んだものであることはいうまでもないが、それでも2000年代以降に登場した数多の顔ぶれの中で「ロックンロール・バンド」と名乗ることがサマになるバンドは、彼らを置いてそういないだろう。
しかし、そう彼らに対して手放しで快哉を上げたくなる一方で、一リスナーとして彼らの音楽を聴きながら、あるいは彼らを取り巻く状況を見ていて思う、素朴な疑問がある。じゃあ、アークティック・モンキーズというバンドの何がそこまで “特別”なのか。彼らが最高のロックンロール・バンドだとして、ならばそこで彼らを「ロックンロール」たらしめているものとは何なのか。
それこそ、その理由はリスナーの数だけさまざまあるだろうが、彼らの魅力を、理屈ではなく感覚で理解しながらも、いざアークティック・モンキーズというバンドを真正面から語ろうとするとき、その難しさや捉えがたさに突き当たる。
彼らとその「ロックンロール」は、今の音楽シーンにおいてどう位置付けられるべきものなのか。そして彼らとその「ロックンロール」は、過去と現在をつなぐどのような流れの中に立つべきものなのか。そうした、アークティック・モンキーズというバンドの特異性を示すべく、彼らを評価の遡上に乗せるための座標軸を、そこにうまく描くことができないのだ。
というか、そもそも彼らが寄って立つこの2000年代の音楽シーン自体、その輪郭を描くことは難しく、実像は捉えがたい。
ネット環境の進展や音楽市場の爛熟(リイシュー&リマスター、BOX等のカタログ売り)を背景に加速する、ジャンルの細分化と“音楽史”のアーカイヴ化……リヴァイヴァルやクロスオーヴァーが前提となった2000年代の音楽シーンは、そのカルチャーとしての全体性を解体し、「ロックンロール」(「ポップ・ミュージック」も然り)という概念や価値観をとことん流動化させ空洞化させた、と2000年代の最初の10年を振り返りあらためて実感する。
(メジャーもインディーズも素人も、過去も現在も同じ空間にファイル状で陳列され)氾濫する“情報”としての音楽と、それらに取り囲まれた中で、いわば外堀を埋められるような形で逆説的に存在感を浮かび上がらせる「ロックンロール」。もはや「ロックンロール」は“中心”や“全体”ではなく“一部”であり、そうした無数の“一部”が、たとえば「時代(精神)」や「音楽シーン」といった大きな流れに収斂することなく点在するような状況こそ、2000年代の特異性であり、捉えがたさの所以だろう。
「幻想から醒めた後の時代を生きる世代っていうかな……魔法がすっかり解けてしまった後の妙に醒めた感覚が常につきまとってるっていうか。現代も過去もひっくるめてあまりにもいろんな情報に簡単にアクセスできるようになった時代の結果として……スポイルされた時代のスポイルされた世界を生きるスポイルされた子供達なんだよ(笑)」(ハドーケン!、ジェイムス)。
2000年代とはいわば、“「ロックンロール」という幻想から醒め、魔法が解けてしまった後の時代”であり、「加速する文化のための音楽」と題されたハドーケン!のデビュー・アルバムのタイトルは、そうした“喪失後”の音楽環境を取り巻く空気やミュージシャン/リスナーの意識の変化をリアルに象徴しているようだ。そこでは、「ロックンロール」は、ただそれだけではもはや時代やカルチャーを代弁するような音楽ではないのかもしれない。
ストロークスやホワイト・ストライプスのブレイクに触発されたロックンロール・リヴァイヴァル。フランツ・フェルディナンドが牽引したニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクの再評価。そしてクラクソンズやハドーケン!に代表されるニュー・レイヴ~ニュー・エキセントリックと呼ばれたクロスオーヴァー~折衷主義の動き。そうした2000年代を通じた一連の音楽トレンドを背景に、そこでは夥しい情報量の音楽が「現代も過去もひっくるめて」取り交わされ、なかば価値のインフレを引き起こしながらも、状況はこの10年間で文字どおり加速の一途を辿ってきた。その光景は、ジェイムスのいう「醒めた感覚」とは対照的に、あたかも幻想から醒め魔法が解けたことを忘れさせるかのような、一種の躁状態のようにも映る。そしてアークティック・モンキーズは、前年の限定シングルに続き2006年のデビュー・シングル、デビュー・アルバム『ホワットエヴァー・ピープル・セイ・アイ・アム、ザッツ・ホワット・アイ・アム・ノット』を引っ提げ、2000年代のど真ん中に登場した。リバティーンズがUKシーンに復権させたDIYなコミュニティ感覚を受け継ぎ、ネットを通じて広がったファンをベースに世界的なブレイクへの足がかりを築いた彼らもまた、ある意味ではまぎれもなく「加速する文化」の恩恵の元にクローズアップされたバンドといえるだろう。
しかし、アークティック・モンキーズの音楽は、いわゆる「加速する文化の『ため』の音楽」ではない。ハドーケン!やクラクソンズのクロスオーヴァーとはいうまでもなくフォルムはまったく異なる。数多のリヴァイヴァルや、参照と折衷に没頭するような音楽とも無縁だ。
もちろん彼らのサウンドもまた、過去のさまざまなアーティストやレコードからの影響やインスピレーションを形にしながら、ジェイムス・フォード(シミアン・モバイル・ディスコ)を始めとするプロデューサー陣との共同作業を通じて実を結んだ、「加速する文化」を背景にした賜物に他ならない。
が、あらゆる音源がファイリングされアーカイヴとして流通する2000年代という同時代性に立ちながらも、そうした「加速する文化」の反映としての音楽を彼らはけっして作らない。「ロックンロール」の共同幻想的な物語を信用していないという意味では、彼らもまた「醒めた感覚」を共有するが、しかし、それでも彼らの足場はあくまで「ロックンロール」であり、彼らのサウンドには、いうなればそうした“喪失後”の「ロックンロール」の可能性を模索し、音楽的な再構築/脱構築を試みるような肯定性がある。
それはけっして幻想や魔法への憧憬でも、ましてやノスタルジーではない。ほとんど自らの作品についてのみ饒舌に語られる彼らのインタヴューにも象徴的なように、そこにあるのはいわば「醒めた肯定性」というものであり、安易に群れず、またシーンと呼ばれるようないかなる磁場や文脈にも属すことなく孤独なほどストイックに音楽と向き合っている印象が、彼らにはある。
誤解を恐れずにいえば、アークティック・モンキーズはけっして音楽的に革新的なバンドではない。何か斬新なアイディアが試みられているわけでも、新たなタームを創出するような画期性があるわけでもない。異論は認めるが、ただ少なくともそうしたサウンド面の新奇さや実験性云々で注目を集めたバンドではない。「加速する文化」の元で新たな刺激を求めて奔走するような2000年代において、彼らのサウンドはむしろ、ともすればオーソドックスでクラシックに映る代物だろう。彼らの登場を、悪い意味でロックンロール・リヴァイヴァルのそれと重ねる向きも少なくなかったかもしれない。
しかし、そのことは、彼らが新しさや変化に無関心で鈍感なバンドという意味では断じてない。ニュー・アルバムの『ハムバグ』も合わせて3枚のアルバムを並べて聴けばわかるように、彼らは一作ごとに過去の自分達のサウンドを敷衍し止揚しながら、確実かつ強かに変貌を遂げてきた。
とりわけ2nd『フェイヴァリット・ワースト・ナイトメア』において、その変化/進化の象徴的なトラックである “ブライアンストーム”を決定づけたビートのキーとしてプロディジーの名前を挙げていことが(後のニュー・レイヴ~ニュー・エキセントリックの参照性をわずかに先取していた点で)興味深いが、ジェイムス・フォードやクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムといったプロデューサーの人選にも窺えるように、彼らはけっして座りのいい「ロックンロール・バンド」ではない。外部のさまざまな刺激に触れ、それらを吸収しながら、細かな実験や試行を重ねることで、初期の原初的なギター・ロックからより広義のそれへと彼らがサウンド/バンド・アンサンブルの幹と枝葉を太くしなやかに成長させてきたことを『ハムバグ』は物語る。
「加速する文化」は、“新しさ”という価値を流動化させ空洞化させる。「現代も過去もひっくるめて」容易にアクセス可能な音楽の氾濫は、その評価の拠り所となる時間軸や時系列を混乱させ、ゆえに“新しさ”を測る基準も当然曖昧になる。そうした“新しさ”を相対化する座標軸の喪失は、先に触れた「ロックンロール」の流動化/空洞化、また「時代(精神)」や「シーン」といった全体性の解体/島宇宙化に顕著な2000年代の特異性とも密接に絡んでいるだろう。そこにはそもそも“新しさ”を共有できる場所がない。それはつまり、かつて(「加速する文化」以前)の“新しさ”の基準では、2000年代(「加速する文化」以降)の“新しさ”を確定することはもはやできない、ということなのかもしれない。
であるとするならば、2000年代における“新しさ”とは何か。その音楽の“新しさ”を担保する特性なり資質は何か。その答えを出すことの難しさは、この10年の間に、本当の意味でのムーヴメントや、アイコンと呼べるようなバンドやアーティストが登場しなかったことと表裏の関係にあるだろうことは間違いない。そして、なぜ登場しなかったのかといえば――そう問うことはすなわち「加速する文化」の問題に回帰してしまうような、そんな入れ子の関係で堂々巡りするサイクルの中に2000年代は呑み込まれてしまっているようなのだ。それは、作り手側のクリエイティヴィティを問うアーティスティックな問題なのかもしれないし、あるいは、それを支える音楽業界の仕組みや消費者側の問題でもあるのかもしれない。ジェイムスが語る「スポイルされた時代のスポイルされた世界」という感覚は、こうした“新しさ”をめぐる閉塞感とたぶんシンクロしている。
繰り返すが、アークティック・モンキーズはけっして音楽的に特別革新性に秀でたバンドというわけではない。しかし彼らは、(まだアルバム3枚のサンプルしかないが)作品ごとに確実にその音楽的な変化や進化のプロセスを提示している。たった3年の間にも関わらず、『ホワットエヴァー~』と『ハムバグ』とでは、ビートの速度感や展開力、リフやギター・フレーズの多彩さ、ソングライティングの成熟度は比べ物にならない。そして、その達成された変化や進化はしかし、同時代的な今の音楽シーン内に位置付けられたり還元されたりするものではない、と考える。つまりアークティック・モンキーズとは、自らの“新しさ”を相対化させようと「加速する文化」にエントリーするのではなく、いわば内在化させることでその変化や進化のベクトルを定位し、内側から音楽的な自己像の更新を図ろうとするようなバンドなのではないだろうか。
「今じゃどんな音楽でも、誰もが本当に簡単に手に入れられてすぐ自分のものにできるし、他人が何と思おうが関係ないんだよね。そのお陰で、音楽は他のものと何ら変わらない、単なる生活の一部になったんだ。そこには自由があったよ――みんな“この音楽を自分が参考にしていいものか? この音楽は自分を代弁してるだろうか?”といった縛りから解放されて、そしていきなり、“これまで経験してきた音楽の集大成が、自分のパーソナリティを形作るんだ”とされるようになった。どんな音楽でどんなことをやっても構わない、好きな音楽で好きなことをしていいんだ、ってことになったんだ」。
そう語るバトルスのタイヨンダイ・ブラクストンの考えに100%同意する。これはある意味で「加速する文化」のポジティヴな解釈であり、そこで音楽との間で結び直される新たな関係性がミュージシャンの創造性をより解放するという感覚の正しさは、何より彼のソロ・アルバム『セントラル・マーケット』が雄弁すぎるほどに物語っている。
そんな時代に「ロックンロール」とは、なるほど一種の幻想か魔法のようなものなのかもしれない。しかし、それでもなお幻想や魔法を信じさせてくれる「ロックンロール」があるとすれば、それはアークティック・モンキーズ以外にありえない、と彼らの音楽は直感に訴えかける。そこにあるのもまた、「シーン」や「時代(精神)」ではなく“これまで経験してきた音楽の集大成が自分のパーソナリティを形作る”という意味で「加速する文化」のポジティヴィティを享受し、あらゆる縛りから解放された「自由」に他ならない。
(2009/10)
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