一昨年のアルバム『ザ・レッティング・ゴー』以降、シングル数枚と、カニエやソイ・ウン・カバージョ(ベルギーの男女デュオ。ハイ・ラマズのショーン・オヘイガンがプロデュース)の客演を挟み、昨年末から今年にかけて3作品を相次いでリリース。ビョークやシナトラのカヴァーを収録したEP『Ask Forgiveness』(エスパーズのグレッグ・ウィークス&メグ・ベアードが参加)、『ザ・レッティング~』でも共演したフォーン・フェイブルズのドーン・マッカーシーとの共作『Wai Notes』、そしてドーンや弟ポール・オールダムと一座を組んだライヴ盤『ワイルディング・イズ・ザ・ウェスト』。どの作品も素晴らしいが、なかでも『Wai Notes』がいい。80年代のローレン・マザケイン・コーナーズとキャス・ブルームの共演盤や、最近ならマット・ヴァレンタインとエリカ・エルダーの作品のような、プライヴェート録音ならではの温かみや艶っぽさに、思わず聴き惚れてしまう。
ご存知のとおり、ボニプリことウィル・オールダムは、これまで様々な名義を名乗り音楽活動を行ってきた。デビュー時のパレス・ブラザーズをはじめ、パレス、パレス・ソングス、パレス・ミュージック、本名のウィル・オールダム、そして現在メインとなっているボニー“プリンス”ビリー。これにさらに、今回のドーン・マッカーシーや元チャヴェス/ズワンのマット・スウィニー、あるいは世間を驚かせたトータスとのコラボまで含めると、その活動の形はじつに多岐にわたる。ちなみに本人によれば、ボニプリ名義と本人名義の違いは「レコードをつくる人と、その他のクソを全部こなす人」だそう(?)。また、ウィルはハーモニー・コリンの映画『ジュリアン』に役者として出演するなど俳優活動でも知られ、音楽のみならずアートに対して造詣が深い。
そんなウィルの、表現者としてのある種の捉えがたさは、たとえばその独特な歌詞の世界についても言える。ウィルの書く歌詞は、その大半が何らかの形の「愛」を描いたものとだが、しかし、そこで選ばれる言葉や描写は、必ずしも特別な感情やストーリーを喚起するものとはかぎらない。「はっきりとした、明確なイメージ描写やフレーズだったりするんだけど、同時にそこにある種のあいまいさや自由があるようなもの」と理想の歌詞の在り方について語るウィルは、かつて自らの音楽をこう定義したことがある。「僕のレコードは、レコードの向こう側の空間を否定しているというか、誰かが僕のレコードを聴いても、そこに参加している人たちには辿り着けないようになっている。とても抽象化されているというか、それがある意味、レコードを聴くときの解放感に繋がるんじゃないかと思う。その曲の背景や裏の事情みたいなものに邪魔されることなしに、聴くという体験が、ただ純粋にレコードを聴くことと共にあるっていう」。ウィルが紡ぐ言葉やメロディは、極私的な自己表現の賜物でありながら、かつ混じり気のない純音楽的な体験として、聴き手を音楽だけに没頭させる。そんなウィルの音楽に、ある種の羨望と共に惹きつけられる同業者は、『拘束のドローイング9』で共演したビョークをはじめ、PJハーヴェイ(ちなみにウィルには“Even If Love”という彼女9に捧げた曲がある)やキャット・パワー、モグワイのスチュアート、故ジョニー・キャッシュなど後を絶たない。
ウィルakaボニプリが、そこいらのSSWとはひと味もふた味も違う歌い人である魅力の源泉は、はたしてどこにあるのか。個人的に興味深く思うのは、たとえば彼が80年代末~90年代初頭のルイヴィル・シーンに音楽キャリアの出自をもつ、その来歴である。
つまり、当時のルイヴィル・シーンを代表するバンド――すなわちスクイレル・ベイトから分派したバストロとスリントに象徴されるハードコア~ポスト・ハードコア、あるいは90年代以降のポスト・ロック/音響派へといたる音楽潮流を背景に、(その直接的/間接的な影響の如何はさておき)ウィルがソングライティングを始めたという事情はやはり、彼のユニークな作家性を考察するうえで 見逃せないポイントだろう。バストロとはご存知、デイヴィッド・グラブスや現トータスのジョン・マッケンタイアが、スリントとはデイヴィッド・パホ(パパM、パホ)が在籍していたバンドで、実際のところウィルが当時彼らのやっていたような音楽に手を染めていた事実はないものの、逆にパホがウィルの作品に参加したり(ところでパホにも「元ズワン」の過去あり……)、後に先にも触れたトータスとのコラボが実現するなど、当時のルイヴィル・シーンの環境や風土のようなものがウィルのキャリア形成や創作のバックグラウンドに少なからず影響をもたらしたことは間違いない(ちなみにスリントの『Spiderland』のジャケ写はウィルの撮影)。当時のルイヴィル組の多くが、その後きわめて流動的で折衷的なキャリアと音楽的な変遷を辿っていったように、ウィルもまた彼ら同様、音楽的な志向は異なるが、そうした漂泊性みたいな性格を受け継いでいるのかもしれない。そして、ウィルを含めたルイヴィル組のミュージシャンには、どこか職人気質を感じさせる創作への一徹さがある。
そうして見てみると、以前にウィルが「歌詞に惹かれるミュージシャン」として、ジョアンナ・ニューサムやホワイト・マジックやママス&パパスのジョン・フィリップスと一緒に、ラングフィッシュの名前を挙げていたことも腑に落ちる。一見、ボニプリとは対極にある印象の「ハードコア」も、ウィルにとっては身近な音楽であり、実際のところの両者の間柄はわからないが(ちなみにウィルはラングフィッシュの熱烈なファン。トータスとのコラボ作『ザ・ブレイヴ・アンド・ザ・ボールド』でも彼らの“Love is Love”をカヴァーしている)、たとえば元ラングフィッシュのヴォーカリストであるダニエル・AIU・ヒッグスなんかは、その表現者としての在り方においてウィル同様ある種の捉えがたさを纏ったアーティストだといえる。また、昨年リリースされたソロ作品『Atomic Yggdrasil Tarot』等を聴くかぎり、ダニエルとウィルの音楽的な志向性はきわめて近しい。
そのダニエルの『Atomic~』をリリースしたスリル・ジョッキーから、同じく元ラングフィッシュのベーシスト、ネイサン・ベルによるデュオ=ヒューマン・ベルの2nd『Human Bell』がリリースされる。これも何かの縁だろうか、アルバムのエンジニアをウィルの弟ポール(ロイヤル・トラックス『アクセラレイター』etc)、そしてミックスをジョン・マッケンタイアが担当。なお、ベルの相棒、デイヴィッド・ヒューマンは、昨年スリル・ジョッキーから2nd『Rites of Uncovering』を発表したアーボーティアムの中心人物であり(ちなみにネイサンも初期メンバー)、ウィルの兄ネッド・オールダムのバンド=ジ・アノモアノンの一員にして、ボニプリやパパMのサポートも務める腕利きのミュージシャンである。
ネイサンとデイヴィッドが爪弾く虚空を彷徨うようなギターと、ドラマーを務めるユーフォンのライアン・ラプシーズをはじめ、ヴィブラフォンやカリンバを演奏するサポートの抑制されたプレイが絡み合い、侘び寂び的な叙情性を醸す幽玄なインストゥルメンテーションは、ラングフィッシュのハードボイルドな直情性とも、アーボーティアムの郷愁的な唄心とも異なる。その感触はむしろ、ダニエルのソロにも似て、まさに「ハードコア通過後のフォーク」と呼ぶのがふさわしい。あるいは、“Outposts of~”の荒涼とした弦音やシリアスなムードはゴッドスピード・ユー!周辺やスローコアの流れを、ラストの“The Singing Tree”で聴かせる重くうねるようなジャムは、マット・ヴァレンタイン+エリカ・エルダーの近作やベン・チャズニーのコメッツ・オン・ファイアを連想させたりもする。
ラングフィッシュ絡みのアザー・プロジェクトとしては、他にもダニエルが同バンドのギタリストのアサ・オズボーンと組んだエクスペリメンタル寄りのパピルスなどあるが、特徴的なのは、それらのユニットいずれもが、「ハードコア」をさらに削ぎ落としたような形態をとり、プリミティヴな音楽表現の可能性を追求している点だ。ダニエルのソロはその最たる例だが、このヒューマン・ベルもまた、ミニマルなギター・デュオを基本構成としながら、ハードコアやフォークの定型を突き崩すようにソノリティやアンサンブルを構築する、きわめて野心的なプロジェクトといえる。
そして、そこにオールダム3兄弟がキャリアを交差するように接点をもっているというのが面白い。そういえばウィルが、以前にこんなことを話していたのを思い出す。「僕のレコードは、すでに存在はしているんだけど、まだ表には出てきていない秘密の社会を顕在化する方法のようなものだと思っているんだよ。それでその社会は、いろんなコミュニケーションを可能にする場所で、たとえばミュージシャン同士がセッションを通して交流したり、リスナーがレコードを聴いて繋がったり。そういうコミュニティを照らし出して、その力を強くすること」だと。
バンドとして活動するミュージシャンが、それとは別にソロやユニットを新たに始める。それも、バンドの解散後、ある種の仕切り直しとして新たなキャリアをスタートさせる。結果、それまでとはまったく異なる音楽を始める者もいれば、逆に、それまでの延長にある世界観を掘り下げていく者もいる。あるいは、何かから解き放たれるように創作の場を広げていく者もいれば、マイペースを保ち手の届く範囲で「自分の音楽」に没入する者もいる。ダニエルとヒューマン・ベルの場合、一概にどちらとも言いがたいところがあるのだが(とくにダニエルは、以前にも紹介したように、あらゆる事象の中間領域に創作の本質を見出すタイプである)、一方でウィルのように、ソロであり、同時に様々なミュージシャンと積極的にコラボを交わしながら、自身の創作を突き詰めていく者もいる。
そういえば前にサーストン・ムーアがインタヴューで、ウィルがベックのことを“ハリウッドのいかさま師”と発言してた、と話してくれたことがあったが、かたや真摯なまでに現代のリアル・ブルース/フォークを追求するウィルにとって、そうしたルーツ・ミュージックの意匠を「継承」ではなく「編集」するところに現代性を見出すベックが、「実際にはすごくリアルなアーティストなんだ」というサーストンのフォローも空しく不届き者と映るのは無理もない(もっともベックがいまだ90年代の『オディレイ』に並ぶ作品を00年代につくれてないばかりか“00年代の『オディレイ』”みたいな作品を嬉々とつくっているところに疑問を感じずにはいられないのだが。それはたとえば同じく90年代のアメリカを代表する知性だったスティーヴン・マルクマスが00年代も終盤を迎えた今なおペイヴメントに代わる音楽文体を見つけることなく“マルクマス節”みたいなところに落ち着いてしまっている現状とも新作『Real Emotional Trash』を聴いた感じ重なるところがある)。
ともあれ、ミュージシャンにとって、創作の環境を変えるということはキャリアの行方に少なからず関わる大事であり、そうした変化がどのような意図に基づき選択され、その実現のためにミュージシャン側の何を引き出し、結果として何がもたらされたのかという筋道が明瞭であればあるほど、そのユニットなりプロジェクトの成否も露となるのだろう。ボニプリことウィルの一貫するようで複雑に枝分かれしたキャリアと、ラングフィッシュから枝分かれしたダニエルとヒューマン・ベルが見せる微妙な音楽的符合は、その格好のサンプルといえるかもしれない。
まさかそれが、あのDNAの元メンバーによる作品だとは、音を聴いても誰も想像がつかないのではないだろうか。コントーションズやマーズ、そして先日マーズ・ヴォルタのオマーとのコラボを発表したリディア・ランチ率いるティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークスと共に、70年代末~80年代初頭のニューヨーク「ノー・ウェイヴ」を代表するグループ、DNAの初代(『No New York』期)キーボード奏者ロビン・クラッチフィールドのソロ・アルバム『For Our Friends in the Enchanted Otherworld』。
ハープやタブラが幻惑的な音色を奏で、木笛やベル、森の自然音を録音したフィールドレコーディングなどが厳かに重ねられる神秘的な音世界に、かつてダダイスティックなアート・ロックで鳴らしたDNA時代の面影はまるでない。ドラマーのイクエ・モリが、実験的なエレクトロ奏者としてジョン・ゾーン周辺のフリー・ジャズ/即興シーンをへてソニック・ユースやジム・オルークと邂逅を果たし、ギタリストのアート・リンゼイが、同じくNY前衛派のコミュニティをへてカエターノ・ヴェローゾらトロピカリズモからアニマル・コレクティヴなどNY新世代との共演へとキャリアを巡っていったのに対し、ロビンは、イーノの薫陶をオルタナティヴに解体したようなダーク・デイを経由して、フィンランド辺りのフリーク・フォーク勢とも共振するアミニスティックな境地へとその創作性を変態させた。その背景に興味が募る。もしもこの3人が再び集まりDNAを再結成させたら、どんなことになるんだろう……って、こっちのほうがさらに想像つかないが、再評価でも再生産でもなく、こうしたあの時代の“オリジナル”が今の時代に音楽をつくり続けていることはやはり嬉しい。リディアしかりジェイムズ・チャンスしかり、ブランクの時代こそあれ00年代を迎えていっそう創作精神を滾らせるノー・ウェイヴ世代とは、いったいなんなのだろう。彼らにはキャリアの節目なんて関係ないのかもしれない。
(2008/03)
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