きっかけは2004年の初来日公演の際に行われたボニー“プリンス”ビリーことウィル・オールダムのインタヴューで、「ソングライターとして“歌詞”の部分で共感するアーティストは?」という質問に、ジョアンナ・ニューサムやホワイト・マジックと一緒にウィルが挙げた名前がラングフィッシュだった(もっとも取材場所の壁に貼られていた彼らの来日告知のポスターを見て咄嗟に名前を挙げたのかもしれないが)。
その理由についてウィルは「明確なイメージ描写やフレーズだったりするんだけど、同時にそこにある種の曖昧さや自由があるようなものが好きなんだと思う。それがきっと10年後も聴けるだろうとわかるような、そしてその時は今とは違うふうに聞こえるだろうなって思えるもの。聴くたびに違う部分が耳に入ってくるような」と語っている。
ラングフィッシュ(Lungfish=「肺魚」の意。4億年前、ジュラ紀以前のデボン紀に発生した魚類と両生類の中間に位置する古代魚の名称)。1980年代後半にメリーランド州ボルチモアで結成され、フガジのイアン・マッケイ主宰のディスコードに在籍する異形のハードコア・バンド。もちろんそれまで名前を聞いたことはあったが、いわゆる「ハードコア」と「詩人」ウィルのイメージが自分の中で結び付かず、その時はまったく気に留めることはなかった。対してジョアンナ・ニューサムやホワイト・マジックの名前は、当時台頭し始めた「フリーク・フォーク」なる潮流を意識させる契機として、(その数時間後にウィルの前座で初めて見た二階堂和美の衝撃と合わせて)自分の中では強く印象付けられたことを記憶している。
ちなみに、個人的なことを言うと、じつは純粋にジャンルとしての「ハードコア」を聴いた経験は少なく(まともに聴いたと言えるのはブラック・フラッグとミニットメンぐらい)、たとえば以前紹介した映画『アメリカン・ハードコア』を観て初めて知った事実も多く、オリジナルな意味での「ハードコア」については疎く関心も高くない。同映画の中でイアン・マッケイが「本心を表現したかったら32秒で伝える」と語っていたように、仮に「ハードコア」の本質が凝縮された強度と速度にあるとするなら、むしろ個人的な興味の対象は“拡散し混交を重ね越境する”ポスト・ハードコア的展開であり、つまり純血な正嫡子よりも来歴不明な混血児にこそ「音楽的」に惹かれる。
そんなわけで、ダニエル・AIU・ヒッグスというアーティストのアルバム『Atomic Yggdrasil Tarot』を最初に手にしたときも、それがラングフィッシュのヴォーカリストのソロ作品だとはまったく気付かなかった。いや逆に、もしそうと知っていたら聴く機会のなかった可能性もあり得る。
アコギやエレキ・ギター、アップライト・ピアノにバンジョー、ユダヤ楽器など用いて自宅のカセットで録音されたというサウンドは、ところどころ亀裂のようなノイズが走り、音響は不気味に歪み、なんだか祈祷や魔術的な儀式を思わす禍々しさを漂わせている。いわゆるフォークやギター・インストゥルメンタルのスタイルを採りながら、ラーガやガムランの要素も含みつつ、しかしあくまで「ハードコア」の延長にあることを実感させるささくれ立った手触りは、単なるルーツ探求やスピリチュアルな瞑想に回収されない奇形性を帯びたもので、たとえばジャンデックに通じる無常を極めたような空恐ろしさ、あるいはどことなく壊れてしまった感じがジョン・フルシアンテの初期のソロ作品を連想させた。ちなみに作品のタイトルにある「Yggdrasil」とは北欧の神話に伝わる巨木のことで、あの世とこの世を繋ぐ象徴とされているという。
『Atomic Yggdrasil Tarot』にはアートブックが付録されていて、そこにはダニエル自身のペインティングと詩によって作品の世界観が提示されている。バンドを始める以前はタトゥー・アーティストだったダニエルは、音楽以外にもアート全般に造詣が深い多才な作家で知られている(そのあたりも個人的にジョン・フルシアンテの姿とダブる)。ライヴでの奇怪なパフォーマンスを指摘されたインタヴューでは「このバンドにおける自分の最大の関心は踊ること」と語り、加えてバンドやソロの他にもギタリストのアサ・オズボーンと組んだデュオ=パピルス名義で作品を発表するなど、この男の創作に向けられたヴァイタリティは尽きるところを知らない。
ダニエルはあるインタヴューで「ラングフィッシュというバンドを4つの単語で表すとするなら?」と訊かれ、「Apocalypse(啓示、黙示)」、「Yellow」、「Amphibious(水陸両性、二重人格)」、「Occult(神秘的、魔術的な)」の4つを挙げている。なかでも興味深いのは「Yellow」と「Amphibious」の2つの単語で、「Yellow」を選んだ理由についてダニエルは「黄色は自分にとってもっとも力強い色で、太陽の色でもあり、この世界のあらゆるすべてを繋ぐ中間色を意味している」と説明する。そして「太陽」は、あらゆるすべてが生まれる場所である、と。
この「Yellow」や「Amphibious」が意味する中間性や両義性は、バンド名の「肺魚」やアルバムのタイトルにある「Yggdrasil」が象徴するところと同じく、奇しくもウィルが「ある種の曖昧さや自由」とその歌詞について指摘したように、ダニエル・ヒッグスというアーティストを定義する本質的なパーソナリティなのだろう。
いわゆるハードコアからフォーク~エクスペリメンタルへと越境する音楽的なバックグラウンド。そして音楽のみならず様々な表現のフィールドに広がる横断的な創作精神。おそらくダニエルにとって音楽を含めた「アート」とは、強度や速度に還元される原理主義的な産物ではなく、異質なもの同士が隣り合う場所にこそ価値を見出される、不確かで曖昧な存在として実感されるものなのではないだろうか。
映画『アメリカン・ハードコア』でも描かれていたような「ハードコア」の急進/求心的な凝縮への動きに対して、ダニエルはそこに音楽的な出自をもちながら、しかしそこから奇妙な旋回を見せる。ラングフィッシュのフロントマンとしてアメリカン・ハードコアの本流に立ち、そこから枝分かれする支流のようにソロやユニットでは実験的で折衷的なベクトルへと創作の舵を切るポスト・ハードコア的展開(もっとも1987年に結成されたラングフィッシュはキャリア的にはビッグ・ブラックらと同様にポスト・ハードコアに属するのだろうが)。
興味深く、また象徴的でもあるのは、そのとき彼が辿る支流の先が「フォーク」であり、そこには「ハードコア」とは対極にある越境性や漂泊性とも言うべき心性と、きわめて今日的なアンダーグラウンド・ミュージックの潮流と交わる動向を確認できることだ。
「ハードコア」から「フォーク」へ、あるいは両者が交わる場所から独創的な音楽を立ち上げるアーティストの台頭が、いわゆる「フリーク・フォーク」と呼ばれるシーンの中に散見できることはこれまでも繰り返し触れた。それは、たとえばラプチャーやLCDサウンドシステムに代表される一部「ディスコ・パンク」勢から、!!!、さらにはマーズ・ヴォルタやバトルスまで含む「ポスト・ハードコアの現代的展開」の一事象として、2000年代のオルタナティヴ・シーンを切り取るきわめて重要な特異点と言える。「ハードコア」体験の有無が――それは直接的か間接的かを問わず、1990年代においては先鋭的なポスト・ロック~インストゥルメンタル・ロックの萌芽の遠因となっていたように(トータス、モグワイ、ジョーン・オブ・アーク、ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーetc)、2000年代における「ハードコア」を起点とした音楽的転回は、よりラディカルな形で局所的だがシーンにエフェクトを与えている(ブラック・フラッグにインスピレーションを受けたという傑作『Rise Above』をリリースしたダーティー・プロジェクターズ、同じくNY発で最新EP『Rawwar』をリリースしたばかりの、かつてフガジのギーがアルバムをプロデュースしたこともあるDC出身のクレイニアムを前身とするギャング・ギャング・ダンスなんかもその最たる例だろう)。ダニエルがソロで見せる志向性とはまさにそうした動き(=越境性、漂泊性)と連なるものであり、「本流」も「支流」も併せ呑む(=中間性、両義性)形で「ハードコア」を追求するそのパーソナリティは他に例を見ることが少ない独特なものだ。
もっとも、実際のところダニエル自身が、そうした周囲の動向にどれだけ意識的なのか、また音楽家としての自らのパーソナリティについてどの程度自覚的なのかはわからない。数少ない彼のインタヴューからは、天性の「アーティスト」であり、自由人であり、聖職者のように自己の内面を厳しく見つめるリリシスト……といった人物像を思い描くことができるが、今回のアルバム『Atomic Yggdrasil Tarot』についての見解やキャリアを通じての音楽観、あるいは根本的なルーツの部分を含めて彼については個人的に知りえない部分が多い。
ちなみにダニエルのミドルネーム「AIU」とはラテン語で「Arcus Incus Ululat」、英語に訳すと「the Wailing Rainbow Anvil(咽ぶような音を発する虹色の砧骨?)」という意味らしく(「砧骨」とは外界の音波を振動によって鼓膜から内耳に伝える耳の骨の一種)、自然の力や神といった目に見えない存在を「音」によって具現化するというヒンドゥー教の概念を反映したものだという(『Atomic Yggdrasil Tarot』のアートブックしかり、ダニエルのペインティングやタトゥーに「目」をモチーフにしたものが多いのもヒンドゥー教の影響か)。「ハードコア」と「フォーク」を架橋する、そのいずれでもあり得る(=両義性)/いずれでもあり得ない(=中間性)「ある種の曖昧さや自由」を含んだ不可視なものに惹かれ、かつそれを可視化=音像化することに創作を捧げるダニエルの飽くなき情熱は、こんなところにも由来しているのかもしれない。
「僕にとってアコースティック・ショウをやることは、本当のパンク・ミュージックとは何なのかってことを発見する行為だった。ステージに独りで立ち、ギターを構え、すべての曲をアカペラで歌う。傍にはバンドもいないし、隠れることができる場所もない。あれこそがパンクだったよ」。
ベックとの対談(Guitar World Acoustic誌3月号)で、LAのフォーク・シーン時代を振り返りそう語っていたのはデヴェンドラ・バンハートだが、なるほど「フォーク」の原始的なスタイルとは「ハードコア」に匹敵する究極のDIYの形なのかもしれない。いわゆる「フリーク・フォーク」シーンにおいて「ハードコア」に音楽的なルーツを持つなかには、ジャッキー・O・マザーファッカーやサンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マン、ベン・チャズニー率いるシックス・オルガンズ・オブ・アドミッタンス、ビョークの『ヴォルタ』にも参加したクリス・コルサーノなど、自分たちの音楽や行為に社会的かつ政治的な意義を感じているアーティストは少なくない。1980年代のオリジナル・ハードコアがそうだったように(そのスタイルは異なるが)、そのフリーフォームで多文化・多民族的なサウンドや、ドロップアウターたちの社会集会的な性格を帯びたシーンのあり方自体が、今のアメリカや現代社会に対する批評でありプロテストであり得ていることを彼らは自覚しているところがある。そうした視点からダニエルの活動やパーソナリティをふたたび捉え直したとき、そこにはある種の必然性を伴い音楽やあらゆるアートの創作に向き合っている彼の「矜持」のようなものを発見することができるのではないだろうか。
サーストン・ムーアの12年ぶりとなるソロ・アルバム『Trees Outside The Academy』は、『ラザー・リップト』をはじめとするソニック・ユース本体の近作にも通じるクラシックでソングオリエンテッドな作風のサウンドに仕上がった。サーストンとスティーヴ・シェリー(Dr)を軸に、ハラランビデスのクリスティーナ・カーターや、ヴァイオリンを弾くサマラ・ルベルスキーといった「フリーク・フォーク」人脈、そして本人的にはもしかしたらダイナソーJrの再結成以上に「積極的」に近年その界隈のアーティストとコラボレートを重ねているJ・マスキスなど、脇を固める強力なゲスト陣に目を引かれるが、そもそもこうしたこれまでの「ノイズ、フリー、アヴァンギャルド」なソロ・キャリアとは異質な作品をサーストンはなぜ作ったのか、その動機は今回のアートワークに収められたブックレットを見ればなんとなくわかる。
ルー・リード『メタル・マシーン・ミュージック』を聴きながら悦に入るサーストン少年、パティ・スミス『ホーセス』を大事そうに抱えたティーンエイジャーと思しき長髪のサーストン、おそらく出会って間もない頃に撮られたのだろうサーストンとキム・ゴードンのツーショット……etc、セピア調のフォト・ダイアリーのようなブックレットを眺めながら、このアルバムがサーストンにとってきわめてプライヴェートな意味合いを帯びた作品であること、そしてサーストンがソニック・ユースの近作について語った「不思議な再生」というある種の原点回帰的なフィーリングが、彼にアコースティック・ギターを手に取らせ(エレキ・ギターは数曲のみ)、衒いのない「歌」へと向わせたことを想像する。
アルバムの最終局“Thurston @13”には、サーストンが13歳の時にコネチカットの自宅のベッドルームで録音されたという独り言が収録されている。「Listen to The sound/Here’s Something for your ears to taste」。
でも「音」らしきものは何も聴こえない。「不可視な音」――サーストンは独りで一体何に耳を澄ましていたのだろう。
(2007/11)
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