2011年2月2日水曜日

極私的2000年代考(仮)……USインディはかくも豊饒

やっぱアメリカのインディ・ロックは凄いな、と先日のキル・ロック・スターズのショーケース・イヴェントを見てあらためて実感した。とくにシュシュとディアフーフのライヴは、前者は今回が初めてで、後者は5年前にルー・バーロウの前座で見て以来だったのだけど、凄いを通り越して感動的ですらあった。

両者とも、ロックやポップのセオリーを容赦なく突き崩す無類のフリークネスを誇りながら、かたや気高いまでにダダイスティックでインテレクチュアルなシュシュと、かたやそれはどうしたってロックであり「ポップ(・ミュージック)」以外の何物でもないディアフーフ。シュシュの枢軸=フロントマンのジェイミー・スチュワートと新ドラマーのチェズ・スミスのエキセントリック極まりない一挙手一投足は、まるでスワンズ時代のマイケル・ジラとディス・ヒートのチャールズ・ヘイワードを連想させる異形の存在感を放ち、対するディアフーフは、醸しだす愛らしさとは裏腹に、グレッグの変態的なドラミングを起点にジャムが始まるや、ソニック・ユースも脅かしかねぬ独創性と天衣無縫な演奏力で聴衆を圧倒する(中盤で演奏された長尺のインスト・ナンバーは、ソニック・ユースの“ダイヤモンド・シー”に通じる拡張性を感じさせた)。

サンフランシスを拠点に活動を始めて、シュシュが今年で9年目で、ディアフーフは15年目。以前グレッグはインタヴューで、西海岸のインディ・シーンについて“音楽の不思議の国”と形容し、その秘密を「そこではただ、天才的な人間たちが純粋に自分なりのやり方でエキサイティングなことをやっているに過ぎないんだ」と話してくれたことがある。その日、見たライヴは、彼らが文字通り自分たちなりのやり方で、今なお確実に創造性のピークを更新し続けていることを証明していた。

アメリカのインディ・ロックが近年活況を呈していることは、すでに伝えられている通りである。ブライト・アイズやザ・シンズが、あるいはモデスト・マウスやデス・キャブ・フォー・キューティーといったメジャー移籍した中堅どころが、ビルボードの上位に作品を送り込み(音楽的な評価と共に)商業的にも結果を残し、またマイスペースやユーチューブ等の新たなプラットフォームの登場も背景に、有望な新人バンドが次々とデビューを飾り注目を集めている。キル・ロック・スターズからもゴシップが昨年ソニーと契約を結び、賛否両論のなかメジャー進出を果たした(ちなみにジェイミーは「米メジャー・レーベルの親会社はどれも石油産業か軍事産業に関わっていて、軍事産業のために利益を上げるくらいなら死んだほうがマシ」と語り移籍を拒む)。なるほど、00年代も終盤を迎えたアメリカのインディ・ロックは、90年代のオルタナティヴ~グランジ以来の勢いを取り戻しつつある、とある面では言えるのかもしれない。


しかし、そうした云々とは別に、もっと深いレヴェルで今のアメリカのインディ・ロックの“豊穣さ”を伝えてくれたのが、件のキル・ロック・スターズのショーケース・イヴェントだった。

その豊穣さとは、つまりディアフーフとシュシュが示した音楽的な豊穣さ(=深み)であり、あるいは、例えば1990年代のオルタナティヴ~グランジが、ソニック・ユースやダイナソーJrやマッドハニーといった先行世代が先導し、ニルヴァーナやパール・ジャムやベックら後続世代を引き上げることで大きなうねりを生み出したように、そこに会した世代もバックグラウンドも異なる4組のバンドが体現した、シーンとしての豊穣さ(=厚み)でもある(それはすなわちキル・ロック・スターズというレーベルの豊穣さを意味するだろう)。

同じようなことは、その前々週に見たジャッキー・O・マザーファッカーやオムのライヴにも感じたし(「フリーク・フォーク」とか「ドゥーム・メタル」とか、そうしたジャンル音楽に還元されない圧倒的な力強さがあった)、個人的に最近のアメリカのインディ・ロックの作品を聴いていても、その背景に音楽性やローカリズムを超えた大局的なダイナミズムを感じる場面が多い(たとえばフリート・フォクシズは、デヴェンドラ・バンハートやスフィアン・スティーヴンスを押しのけポップ・ミュージックの「本格派」としての地位をあっさり手に入れてしまいかねない可能性を秘める。かたやノー・エイジは、ハードコア以降のバラバラに散ったインディ・ロックのピースを掻き集めて圧縮し、総体としての「ロック」を再構築するようだ)。2000年代以降、様々な呼称やトレンドのもと細分化を極め、複雑に枝分かれしたアメリカのインディ・ロックの支流が、ここに来てゆるやかに混じり合い太い奔流となって、その地盤ごと揺るがすような放埓さを見せ始めている――そんな気配を感じなくもない。

そうした気運も微妙に作用しているのだろうか、最近目に付くイギリスの若手バンドのなかには、アメリカのインディ・ロックとの近しい関係性を窺わせるケースが少なくない。

以前、フォールズのアルバム『アンチドーツ/解毒剤』を聴いた第一印象について「LCDサウンドシステムやラプチャーに相応するバンドがようやくイギリスから登場した」と記した。つまり、2000年代初頭のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの再評価を、ハードコアやノー・ウェイヴを参照するラディカルな反動と捉えたアメリカ勢と、後のニュー・レイヴと連結する「ポップ」のヴァリエーションと捉えたイギリス勢という乖離を呈した状況において、ヒップホップやハードコアをバックグラウンドに持ち、マス・ロックやアフリカ音楽/ミニマル・ミュージックの影響を発露させるフォールズは、そうした両陣営の隔たりを埋める存在なのではないか、と。もっとも、これはあくまで推論の域を出ないものだが(5月の来日公演で見たライヴは、作品で聴くよりも遥かに性急で荒っぽく、堂々たるロック・バンドの佇まいだった。ミニマルなコード/緻密な音の構築と、ハードコア的な激情が危ういバランスで拮抗した、このまま行けばバトルスにもトレイル・オブ・デッドにも転がりかねない大器の片鱗を感じた)、そのフォールズを含め俗に「ニュー・エキセントリック」と呼ばれるアート志向でインテレクチュアルな最近のイギリスの若手バンドの一部のサウンドからは、むしろアメリカのインディ・ロックへのシンパシーが特徴的に感じられる。

ア・トライブ・コールド・クエストやウータン・クラン、スワンズやゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーや聴き浸っていたというフォールズのヤニスは言うまでもなく、ニュー・レイヴを先取したテスト・アイシクルズに見切りをつけ、ブライト・アイズのコーナー・オバーストに導かれフェイントやカーシヴのメンバーらオマハのサドルクリーク人脈とナードなフォーク・ポップ・アルバムを完成させたライトスピード・チャンピオンことデヴ・ハインズ。あるいはブリストルのファック・ボタンズは、若手に限らず今のUKシーンにおいて最もレフトフィールドに属する存在であり、そのサウンドはブラック・ダイスやグローイングといったUSアンダーグラウンド勢とも共振する強烈なエクスペリメンタリズムを誇る(それにしてもオール・トゥモローズ・パーティーズでグレン・ブランカと共演って、どんだけだよまったく)。音に対してフェティスティックで、アーカイヴ的な視座を持つ(つまりマニアックでオタク的)彼らは、これまでの2000年代以降の同国のバンドたちとは明らかに立ち位置もベクトルも異なる。


そのような状況を踏まえたとき、たとえばNMEが“これから注目のアーティストBEST50”的なランキングでその名前をトップに挙げていたように、デイヴ・シーテックのような存在が今のイギリスでクローズアップされるのも当然の成り行きと言えるのかもしれない。

ご存知の通り、TVオン・ザ・レディオ/プロデューサー(ヤー・ヤー・ヤーズ、ライアーズetc)として2000年代のニューヨーク・シーンを牽引し、かつフォールズ『アンチドーツ/解毒剤』、そしてマッシヴ・アタックの来るべき新作のプロデュースとも伝えられるその男は、アメリカとイギリス両陣営を繋ぐ格好の媒介者と言える。最近もスカーレット・ヨハンソンのアルバムをプロデュースし話題を呼んだが(もはや誰が歌っても名盤が約束されてしまうくらいの完璧なプロデュース・ワーク! そしてジザメリからマイブラと連想してシーテックに行き着いたスカーレットのセンスは実に的を射ている)、つまり周囲が彼に重ねるイメージとは、1970~80年代の頃のブライアン・イーノのような存在なのだろう。かたやディーヴォやトーキング・ヘッズやノー・ウェイヴ周辺、あるいはボウイのベルリン3部作やU2『ヨシュア・トゥリー』を手掛けた――そして自身ではアンビエント・ミュージックを開拓し他を寄せ付けなかった――イーノは、まさにその理想の人物と言えるのではないか。

ニュー・レイヴも早々に消費し尽くした今のUKシーンで、ニュー・エキセントリックがどこまで有効なムーヴメントとなり得るかはわからない。が、ともあれ、それが単なる音楽的な動向という以上にジェネレーションの動向として相応のリアリティを持って受け止められているらしいという事実は注目に値すると思う。2000年代を締める椿事と終わるか、それとも“次の10年”を予告する胎動となるか、デイヴの「双肩」がその命運を握ると言っても過言ではない、かもしれない。
 

現時点で2000年代のアメリカのインディ・ロックにおいて、例えば1990年代のオルタナティヴ~グランジや1970年代のパンク・ムーヴメントに比肩するような大きな事件は起きていない。2000年代に登場した素晴らしいバンドを挙げれば数限りないが、それでも時代を変えるような、たいそれた影響力を持ったバンドは現れていない。

しかし、そうしたことと、自分が今のアメリカのインディ・ロックに感じる豊穣さとはまったく別の次元の話であり、今年で設立19年目を迎えるキル・ロック・スターズが、当初の精神やレーベル・カラーを見失うことなく今なおその最前線に踏みとどまり、またそうした姿勢に共感を寄せるバンドが素晴らしいライヴを見せてくれたことは、それだけで十分に意義深く、感動的な光景に感じられた。そして、イギリスにおけるニュー・エキセントリックと呼ばれる若者たちの台頭は、そんなアメリカのインディ・ロックに対するリスペクトに満ちたリアクションのようにも思えて興味深い。


サンフランシスコの3人組、マイ・アミは、DCハードコアの牙城ディスコードに以前所属したブラック・アイズのダニエル・マーティンが、バンド解散後に立ち上げたニュー・プロジェクト。『African Rhythms』は、ペンシルヴァニアのレーベル「White Denim」からリリースされたデビュー12インチ。ハードコアに出自を持つ音楽表現の紆余曲折についてはこれまで繰り返し触れてきたが(ちなみにデイヴ・シーテックも13歳の頃にハードコア・バンドを組んでいた)、そのすべての音楽的変遷を凝縮したような濃密さを、彼らはここに収録されたたった3曲で提示する。

キンキンのファルセット・ヴォイスに煽られ、アフロ・ビートとギター・ノイズが壮絶な応酬を繰り広げるハードコア・ファンクな表題曲と“Feel You”。そして、!!!をフリーク・フォークに落とし込んだような禍々しく頽廃的なサイケ空間を創出するラストの“Clear Light”。バトルスの精緻さや硬質さとは真逆をいく、いわばデタラメなバットホール・サーファーズ的変態さが、さらに場数をこなしてアルバムを完成させたときどんな進化/深化を見せるか、期待が高まる

ダーティー・プロジェクターズの元メンバーによる2組。去年の『ライズ・アバヴ』の衝撃再び!な美しくも放埓なポップ・ミュージックを奏でるナット・バルドウィン『Most Valuable Player』も素晴らしいが、チャーリー・ルーカー率いるエクストラ・ライフの『Secular Works』が群を抜く凄まじさ。

ZsやオクリリムといったNYアヴァンギャルド~フリー系アクトのメンバーも兼ねる経歴そのままに、ヴァイオリンやキーボードを交えながら不協和に変転するアンサンブルは、プログレ~マス・ロック的な構築性/ミニマリズムと、ダーティー・プロジェクターズにも通じるミスティックなムードやオリエンタリズムが共存する奇妙な代物。スワンズかクリムゾンをバックに歌うアーサー・ラッセルってな趣もあり、奇想天外な音と唄を紡ぎ続けるこの界隈の類稀なクリエイテヴィティを再確認する。
ちなみに両者はメンバーをシェアする間柄であり、ナットのアルバムにはダーティー・プロジェクターズのデイヴ・ロングストレスがゲストで参加している。

ポニーテイルは、昨年のイェーセイヤーのアルバムで注目を集めるレーベル「We Are Free」から、インディアン・ジュエリーの新作に続いて2ndがリリースされるボルチモアの4人組。アニマル・コレクティヴ以降とも言うべきポップなサイケデリアを溌剌と発散しながら、ハードコア・マナーのファストなバンド・サウンドはノー・エイジやライトニング・ボルト~LOAD()系っぽくもあり、絶叫(遠吠え?)系のヴォーカルも含めて焦点の定まらなさ加減が、逆に得がたい個性を生み出している。

ボルチモアといえばダン・デーコンなど最近数多くユニークな才能を輩出しているが、誰ひとりとして型にはまった奴がいない。アメリカのインディ・ロックの豊穣さは、けっしてどこか特定の都市やレーベルのみに宿るようなものではない。それは至る場所に拡散している。その行方をしっかりと見届けたい。

(2008/08)

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