6月のキル・ロック・スターズのショーケース・イヴェントでディアフーフのライヴを見て、彼らの内で何かが変わった、あるいは変わろうとしているだろうことは薄々感じていた。サウンドや演奏云々より、サトミさんの存在感も含めたキャラクターが先立って感じられた5年前の初来日や直後の『ミルク・マン』ツアーの印象とはまるで見違えるほど、もはやアメリカン・インディの新盟主たる風格すら漂う威風堂々とした佇まいに、隔世の感にも似た驚きを覚えずにいられなかった。
けれど、今度の新作『オフェンド・マギー』を聴き、そして彼らへのインタヴューを通じて、その予感は確信に至った。彼らは、“変わった”でも“変わろうとしている”のでもなく、“変わり続けている”。今作は、誤解を恐れずにいえば、あくまでその過程であり途上にある彼らを記録した作品に過ぎない。
最新のインタヴューでも語られているとおり、今回のアルバムがこれまでの作品とは異なることにグレッグとサトミさんは自覚的だ。それも、少なくともふたりは、音楽的に新たな変化を促すべく明確な意図をもってそれぞれ今作のレコーディングに臨んでいたことがわかる。
「これまでの僕らは、まるで14歳の子供が初めてギターを手にしたりドラムを叩く時のように、ガガガガガーッてがむしゃらで(笑)、それがディアフーフの13年間だったわけ。それで今、初めて空間の使い方を覚えようとしているんだ」
今作の独特な空間・隙間の使い方、音の間の取り方について指摘を受けて、グレッグが答えたコメントである。しかしそれは、同時に『オフェンド・マギー』というアルバムの性格、そして今作に至るバンドのモードを象徴的に言い表しているようで興味深い。グレッグは、その発言に続けて「かなり意図的に、例えばレッド・ツェッペリンの空間の使い方だったり、そういう、グッと緊張感が生まれるようなものを狙ってた」とその明確な音楽ヴィジョンを語り、サトミさんの歌は、ますます屈託なく日本語を織り交ぜながら、よりソングオリエンテッドな方向へと表現のフォーカスを変化させた(そうしたサトミさんのモードは、テニスコーツのさやさんとのユニット=わんわんにも窺える)。
そして、新ギタリストのエド・ロドリゲスの加入により、バンド内のコミュニケーションや関係性は必然的に更新・再編され、結果、今までのどのアルバムよりも「一緒に、同時に」「全部のパートがそれぞれの個性を鳴らしている」作品になったという。つまり、彼らはまるで、さもここで初めてバンドを始めるかのごとく、今作の制作を通じて“ディアフーフを発見している”ようなのだ。それなりの成熟や洗練へ向ってもいいはずのところを彼らは、それこそグレッグが言うように「いい年をした大人が子供のように」振る舞い、音楽と真剣に戯れてみせる。
ディアフーフにおいて、「変化」は重要なキーワードと言えるだろう。しかし、その場合の「変化」とは、単純に“作品ごとにサウンドが異なる”という意味ではなく、例えば「偶然性」や「不定形」といった言葉に置き換えることも可能な意味を含んだ「変化」である。
つまり、何かの結果として起こる変化ではなく、過程として起こり続ける変化、とでも言うか。ディアフーフの曲を聴いていると、作品でもライヴでも、作曲された楽曲なのか即興的な演奏なのか境界があいまいに感じられたり、はたまた演奏者の手を離れてそれ自身の自由意志で動き出しているかのような感覚に捉われることがある。「最高の音楽っていうのは永遠に完成しない音楽なんだ」と言い切るグレッグのこんなエピソードも、なんだかじつにディアフーフらしくて腑に落ちる。
「僕は、ローリング・ストーンズが2007年に“サティスファクション”や“ジャンピング・ジャック・フラッシュ”をやるのを聴いたり観たりするのが大好きなんだ。だってキース・リチャーズはいまだに自分のソロ・パートを作曲してるから。2007年に鳴らされる彼の音は、2004年のものとも違うし、それ以前のどのツアーとも違う。毎回違うんだ。一度、映画でもビデオでもMTVでもなく、実際に生で観たことがあって、本物のローリング・ストーンズが目の前でプレイしてたんだけど、“サティスファクション”のキースのソロは、僕がそれまでに聴いたどれとも違ったんだ。実際僕はかなり彼らの音源を聴き込んでるけどさ。で、巨大なスクリーンに彼の顔がアップで映ったんだけど、自分で弾いて驚いたみたいな、ワオ!って顔をしたんだよ。たった今この曲の弾き方を思いついたっていうような。何か、やっぱり音楽をやるってそういうことなんだと思ったよ」
最新のインタヴューの中で、今作の背景について話題が及んだ際にグレッグが発した「起源を創造してる」というフレーズが印象に残った。つまり、そのアルバムのアイディアはどこからきたのか、そのサウンドはどのようにして生まれたのか――それを、理屈で解き明かそうとしたり、思い出そうとしたりするのではなく、わかろうと思考し、創造する。そしてグレッグは、そうしたプロセスや、創造されたストーリーやエピソードもひっくるめて「作品」であるとでも、どこか言いたげなのである。
ここでグレッグが言った「起源」とは、必ずしもある作品やサウンドについての場合にのみ限定されたものではない。おそらくそれは、ディアフーフというバンドの「起源」さえも意味しているのではないだろうか。
ディアフーフのサウンドを聴いていてつくづく不思議に思うのは、それがいわゆる音楽的なルーツや作り手の音楽的なバックボーンをまるで感じさせない、意識させないということだ。
例えば同じレーベルのシュシュや、同時代のニューヨークのバンドと比べてみると、それはよくわかる。ディアフーフのサウンドからは、どのような音楽やバンドから影響を受けたり、引用・参照点を含むといった情報的なものや比較対象がほとんど見えてこない。むろんグレッグを始め彼らはいろんな音楽に造詣が深く、とりわけ今度の『オフェンド・マギー』はこれまでの作品以上にある種コンセプチュアルとも言えるが、しかし、そのサウンドを聴いてツェッペリンやストーンズをあからさまに連想するようなリスナーはほとんどいないだろう。というか、今作に限らず彼らの曲を聴いて多くのリスナーは、そもそもそれがどんなアイディアから生まれてどのようにして出来上がったものなのか?と疑問に捉われるのではないだろうか。そしてそれは、グレッグや彼ら自身にもよくわからない。
以前にグレッグは、ディアフーフのオリジナリティの秘訣について話してくれたことがある。
「それというのも僕らの場合、模範にするサウンドの手本っていうのがひとつもないからなんだよ。どういうサウンドの曲にすべきかっていう部分で、特定のジャンルのパターンに従ったりすることが一切ないわけ。だから、自分たちがやっていることが正しいのか間違ってるのかもわかんない。ひたすら直感で動くしかないんだ――“これで大丈夫か? いや、何かおかしいぞ”って。でも最後の最後に何かがピンときて、魔法が起きるっていうのかな」。
だから「少なくとも僕は、曲をコントロールするなんてことはできないんだ。逆に曲のほうが僕たちに、何をすべきかを教えてくれるんだよ」と。彼らにとって作品は、ゆえにあくまで括弧付きの「完成」品に過ぎない。むしろ大事なのは、そこに至るまでの過程であり、“すでにあるもの”や“知っているもの”ではなく、たえず湧き上がる直感の導きに自分たちを開放し、即興的なアイディアや偶然性を孕みながら変化し続ける「未完成」なところにこそ、彼らは創作の価値を置く。つまりそうして彼らは、ひいては“ディアフーフはどこから来たのか、どのようにして生まれたのか”という自分たちの「起源(=あるいは音楽を作ることの意味だったり、やりがいや実感)」をめぐる問いに対して創作を通じて向き合い、「創造=自答」しようとしているのではないだろうか。
それにしても、つくづく存在自体がユニークなバンドである。今年で結成14年目。つまり今をときめく(?)モデスト・マウスや、イギリスではオアシスやブラーとほぼ同期である彼らは、しかしどこまでも自由でイノセントなままキャリアを謳歌している。一方、その音楽は、ツアーやフェスで共演多数のソニック・ユースやレディオヘッドを始め、ベック(グレッグにアルバムでのドラム演奏を依頼したことがある。都合がつかず実現しなかったが)やフレーミング・リップス、あるいはボウイ、デヴィッド・シルヴィアンやアル・クーパーなど多くの錚々たるアーティストを魅了し、いまやキル・ロック・スターズの大看板アクトとして、アメリカン・インディに比類なきポジションを築いている。
以前に同じ西海岸出身のあるバンドが彼らを評して「ディアフーフは最高にディアフーフである、みたいなところでやっている」と話してくれたことがあったが、いわゆるシーンやトレンド的な時代性とも無縁なら、起源を参照する音楽史的な縦軸ともズレまくりで、かつ亜流の追随も許さないというそのクリエイティヴィティの在り方は、地元サンフランシスコを含むベイエリア一帯はおろかインディ/メジャー問わずアメリカ全土のロック・シーンに範囲を広げても並び立ち得るものは容易に見当たらない。
それは、例えばブラック・ダイスやアニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンスといった、キャリアは異なるが00年代初頭の同時期に似たような時代背景の中で頭角を現したニューヨークのバンドが、そのとびきり才能豊かで個性的なサウンドに関わらず、やはりどこかでニューヨークという空間や歴史の文脈とは無縁ではなく、あるいは積極的に古今東西の森羅万象的な音楽史的記憶と交わろうとする姿とは対照的である。
「ロックンロール・リヴァイヴァルの時と同じで、今はエクスペリメンタルな音楽が溢れている」とニューヨークの現状を語っていたのはギャング・ギャング・ダンスのブライアン・デグロウだが、対して「これは“音楽の不思議の国”みたいなものなんだよ。そこではただ、天才的な人間たちが純粋に自分なりのやり方でエキサイティングなことをやっているに過ぎないんだ」とグレッグが語る西海岸は、2000年代以降~現在に至るまで、なんら飽和も爛熟も迎えることないまま、見事なほど脱中心的で不思議な音楽を育み続けている。そしてその秘密とは、ディアフーフが示すように、音楽の起源=創作のアイディアやイマジネーションを「外側」ではなく自分たちの「内側」に求め、変化に対して敏感であり寛容であり続けるという、どこまでもピュアで好奇心旺盛な音楽愛にあるのかもしれない。
●どうして音楽に対していつまでもピュアでいられるのでしょうか。
グレッグ「僕らってピュアかな?」
サトミ「ポジティヴってことじゃない?」
●そうそう。で、さっきオアシスと大体キャリアが同じって話をしたけど、例えば成功したいとか? たぶんそれはないと思うけど(笑)。
グレッグ「成功? でも成功は関係ないでしょ。オアシスが音楽に対してどんな態度で臨んでいるのか僕は知らないけど……ああでも、オアシスは良い例かも。もしかしたら、彼はピュアじゃないのかもね。彼は音楽を、自分がやらなければならない当然の仕事だと考えているかもしれない。自宅のプールを買うためのね」
サトミ「何でそんな言い方なの?」
グレッグ「僕はギャラガーの発言を引用しただけだよ。2日前に彼の記事を読んだから。その記事でトム・ヨークについて語ってて、彼の説によると、レディオヘッドは常にファンに難題をふっかけているけど、自分はファンに対してそんなことはしない、自分はファンを喜ばせたいだけだって言ってたんだ。俺のファンは俺がプールを買うために存在してるんだからってね」
サトミ「それは彼が言ってたの?」
グレッグ「うん、そう。僕は、それでも別にいいと思うんだけど、でもとにかく君の質問に対する答が分かった、なぜ僕らが今のようなアティテュードを持つに至ったのかという。それは僕らがトップ10入りするようなヒット曲を出して一夜にして成功するようなことがなかったからだ。成功の規模じゃなく、突然の成功っていうのが鍵なんだよ。オアシスの場合、それまで誰にも知られてなかったのに、ある1曲によって、もしくは1枚のアルバムによって、次の日には誰もがオアシスを知っていた。となれば、その後のキャリアはずっとその呪縛から逃れられなくなる。だから彼が言った、ファンを喜ばせるのが自分の仕事だっていうのはまさにその通りで、そうしないと彼のキャリアはおしまい、オアシスの終焉なんだ。しかも彼のファンは、ビートルズ的ギター・ポップもしくはブリット・ポップをオアシスがやることでしか、喜ばない。彼は、『俺はファンに試練を与えるような真似はしない、そしてそれを誇りに思う』という言い方をしてるけど、でも実際彼には、ファンを試すようなことは出来ないんだ」
サトミ「言うねえ」
グレッグ「いやでも、彼は僕に同意してくれると思うよ。だって彼の言ってることは分かるもん。でも僕は僕で自分が今いるところに満足しているし、僕らが突然ヒット曲を出さなくて良かったと思ってる。しかも僕の意見では、僕らだって立派に成功してるんだよ。それで、例えば僕らがコンサートをやる時には、『この曲を絶対やって!』みたいなのはないんだ。もしあったとしても、全員やってほしい曲が違う(笑)。どれがディアフーフのヒット曲かは、みんな意見がバラバラなんだよ。とにかく僕は自分が世界一ラッキーなミュージシャンだと思ってて、だからポジティヴになれるし、それは聴いてくれる人、ファンのおかげだよ。こうやっていられる特権をみんなが僕に与えてくれてるんだ」
(2008/11)
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