2011年2月7日月曜日

極私的2000年代考(仮)……“奇妙なフォーク”の萌芽

最近のニューヨークのシーンを観察していて思うのは、相変わらず盛況なポスト・パンクやノー・ウェイヴの子供たちに混じって、アコースティックを主体とした実験的なフォークやブルース、あるいはサイケデリック・ロックを演奏するユニークなバンドがチラホラと目につくようになったことだ。

たとえばクイクゾティックのミラ、アイダのミギー、カリフォルニア・スピードウェイのアンディからなるホワイト・マジック。リジー・ボウガツォス率いるギャング・ギャング・ダンス。最近、2作目のソロ・アルバム『Young Prayer』を発表したアニマル・コレクティヴのパンダ・ベア(アニコレ本体のニュー・アルバム『Sung Tongs』もそんな趣の作品だった)。あるいは、キャリアは長いが、ジャッキー・O・マザー・ファッカーやノー・ネック・ブルース・バンドといったコレクティヴなインプロヴィゼーション・グループも含めて、彼らの作品や志向する音楽性が、ここ数年のニューヨークの主流派とは明らかに距離を置いたものであることは間違いない。

それと同様の感触を得たのが、サマラ・ルベルスキーのアルバム『The Fleeting Skies』だ。

サマラ・ルベルスキーは、ニューヨーク在住の女性シンガー・ソングライター/マルチ・インストゥルメンタリスト。過去には、タラ・ジェイン・オニール(※スリントの正統なる後継者とも評されたルイヴィルの伝説的バンド、ロダンの元ベーシスト/女性SSW)率いるソノラ・パインや、前述のジャッキー・O・マザー・ファッカーなど数々のバンドを渡り歩いてきた彼女だが(※追記:2007年のサーストン・ムーアのソロ・アルバム『Trees Outside the Academy』に参加。次作への参加もアナウンスされている)、最新作の『The Fleeting Skies』はソロ名義で発表する初の本格的な作品となる。彼女自身がギターからストリングス、キーボードやパーカッションを演奏し、サポート・メンバーにはキャット・パワーも手掛けるマーク・ムーアらが名を連ねている。

サウンドそのものはいたってシンプルである。紡ぎだされるエレガントで飾り気のないアンサンブルと音のレイヤーは、その前衛肌(?)なイメージの経歴とは裏腹に、1960~70年代のトラディショナル・フォークや正統的なルーツ・ミュージックの類の趣を伝えるものだ。また、澄んだ響きのなかにも独特な憂いを含んだサマラの歌声は、キャット・パワーやタラ・ジェイン・オニール、イーデス・フロストなどインディ界の歌姫はもちろん、ケレン・アンやファイストといった最近注目のSSWの名前を想起させるかもしれない。音の質感や楽曲の構成、メロディーの流れる様子はきわめてジェントリーだが、それがサマラの陰影豊かなヴォーカルと絡みあい、複雑な余韻と色彩感覚をたたえた音世界を描き出す。

先に挙げたホワイト・マジックやパンダ・ベアの作品にはインパクトで及ばないものの、そこには彼らと同様に、独自の解釈でルーツ・ミュージック等を解体してオルタナティヴな「うた」を再構築する視線が垣間見ることができて興味深い。その特異性は、ポスト・パンクやノー・ウェイヴを参照しながらひたすら「音」の即物性へと傾斜するその他多くのニューヨーク勢と比べると、いっそう際立って感じられるはずだ。

余談だが、こうした一連のミュージシャンを見ていて思い浮かべるのは、たとえばアート・リンゼイやマーク・リボー、ローレン・マザケイン・コーナーズといったニューヨークの前衛派を代表する音楽家たちの名前である。彼らはいずれも、ポスト・パンクやノー・ウェイヴが台頭を見せた1970年代末から80年代初頭に登場し、それぞれフリー・ジャズや実験/現代音楽の世界で今も第一線で活動を続けるアーティストだが、とりわけ1990年代に入り彼らが露わにした、ブラジリアン・ポップやキューバ音楽、カントリーやフォークなどルーツ・ミュージックを媒介とする「歌もの」への志向/嗜好性は、サマラをはじめとする現在のニューヨークの一部のミュージシャンの姿にどこか重なるところがあるように思える。

ちなみに、サマラが所属するレーベル「The Social Registry」()には、彼女以外にもユニークなバンドが多い。ギャング・ギャング・ダンスをはじめ、“酔い潰れたPIL”ことゴースト・イグジット、ハードボイルドなアンビエント・ジャズを聴かせるアータンカー・コンヴォイ、オルタナティヴの残滓を鮮やかに甦らせるブラッド・オン・ザ・ウォール、シューゲイザー的なノイズ感覚をもったサイキック・イルズ、トム・ウェイツやウィル・オールダムを彷彿とさせる詩人TK・ウェップ、そしてアニマル・コレクティヴにも通じる総天然色なアシッド・フォークを奏でるペインティング・ソルジャーズなど、どれも個性的でクセ者揃いだ。

なかでも個人的に注目しているのが、アイスウォーター・スキャンダルなる3人組で、たとえるならソニック・ユースとスリントを両輪にアヴァン・ロックからサイケデリックまで奔放に暴れまわるサウンドは、ちょっと堪らないものがある。ちなみに、この春に発表されたアルバム『No Handle』のレコーディング/プロデュースを手掛けたのはソニック・ユースのリー・ラナルド。彼らのデビューEP(※こちらのプロデュースはヤー・ヤー・ヤーズのデビューEPも手掛けた元ハネムーン・キラーのジェリー・テリー)を聴いたリーがいたく気に入り、彼直々の提言によりソニック・ユースの自前スタジオ「Echo Canyon」でレコーディングが行われたのだという。


そもそも、こうしたニューヨークの音楽事情の潮目の変化のようなものに気付く大きなきっかけとなったのは、アニマル・コレクティヴの新作『Sung Tongs』だった。そして、それに続いて発表されたパンダ・ベアのソロ・アルバム『Young Prayer』。そこに描き出されていた、さまざまなルーツ・ミュージックから実験とポップの歴史まで呑み込んだスピリチュアリズムの洪水のごときサウンドは、マテリアリスティックな興奮に沸くニューヨークの状況に対するある種のカウンター(と映る傾向)として差し出されたという点において、きわめて象徴的だった。

そのアニマル・コレクティヴが、自身のレーベル「Paw Tracks」から送り出す新人、アリエル・ピンクのニュー・アルバム『Ariel Pink’s Haunted Graffiti 2』(※元はCDRで発表されていた2作品をコンパイルしたもの)が面白い。素性については「ロス在住の宅録アーティスト」程度しか現状では定かではないが、そのサウンドはアニマル・コレクティヴやサマラ周辺のアーティストたちとも感覚を共有するものだ、といえる。

全編、自宅の8トラックMTRで制作されたという淀んだ音像のなか、充満する能天気でアシッド全開のアトモスフィアと弛緩しきった「うた」は、何よりまずフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートが唱えた「フリーク・アウト/サイケデリック」の正嫡子の証として捉えるべきだろう。ピュアなローファイ感覚は初期のベックを思わせもするが、さながら“白目をむいたブライアン・ウィルソン”といった形容がしっくりくる。

裏声で国歌を斉唱するような倒錯感、大麻樹脂と偽ドル札でしつらえた燕尾服を着てロイヤル・パレードを駆け抜けるような禍々しさ……どこからどう見ても聴いてもジャンクの寄せ集めのようなのに、たまらなく抒情的で、愛らしく「ポップ」であるという、まるでなんだかどこぞのカルト教団のテーマ・ソング集のような怪作だ。

彼の音楽を規定するモチーフもまた、一種のルーツ・ミュージックの再定義ではないか、と考える。しかし、この場合、彼にとって「ルーツ」となるものは、いわゆるフォークでもブルースでもジャズでも、ブラジリアン・ポップでもない。想像するに、おそらくフィル・スペクターやブライアン・ウィルソンといった1960~70年代の真性ポップ狂の血がそのサウンドの素地には染み付いている。

まるでロネッツのように甘ったるく、後期ビートルズのように恐れ知らずで(さすがに『ジョンの魂』や『ロックンロール』に本作をたとえようとは思わないが)、チャールズ・マンソンのフォーク・アルバムのように禍々しく(馬鹿馬鹿しく?)、ペット・サウンズのように楽園的で偏執的な非合法ポップスの傑作選。そうしたポップ史に名を残す巨人(狂人)たちの意匠を受け継ぎ、彼らのハイクオリティでウェルメイドな作法とは真逆のアプローチで荒療治的に組み上げられた21世紀のウォール・オブ・サウンドは、ニューヨークの一部で台頭を見せる「ルーツ・ミュージックの脱歴史化」の動きと微妙なシンクロを果たしながら、対岸のカリフォルニアのアンダーグラウンドに新たな音楽風景を築き上げつつあるようだ。

(2004/12)

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