ビョークのキャリアはこれまでも「リミックス」とともにあった。もっともビョークの場合の「リミックス」とは、世間一般でいう既存曲の再編集を意味するものから、それこそ毎回多彩なコラボレーターを招いて自身のアイディアを再構成していくアルバム制作のプロセス自体も指した、広義の解釈を含む。セカンド『ポスト』のリミックス・アルバム『テレグラム』のブックレットには、「彼らのミキシング・デスクのための材料になりえたことを、私と私の歌がいかに誇りに感じているか、リミキサーたちに伝えたいと思います」と彼女の言葉が記されていた。そうして音楽に限らずアートに関わる行為を、自己完結的な作業ではなく、他者を巻き込むダイアロジカルな機会として捉え直すことに価値を見出す姿勢は、映像やファッションの世界にも跨るすべてのクリエイションに一貫した彼女の哲学といえるものだろう。そこでは、ビョークというマルチタスクな才能と「リミックス」というバイラルなアート・フォームが相乗することで、「作品」は一回性に留め置かれることなく、多次創作的なヴァリエーションを潜在化したアート・ピースとして提示されていた。
ビョークの最新作『バイオフィリア』の最大のトピックは、それが特設のウェブサイトと連携したiPad/iPhone用アプリケーションとしてデジタル・リリースされたことだろう。「各アプリのコンテンツは次のようなものを含む:楽曲の科学的かつ音楽的な題材に基づいたインタラクティブなゲーム、楽曲のミュージカル・アニメーション、アニメーション化されたスコア、歌詞、そして学術論文など。ゲームはその楽曲の音楽的な要素を操ることによって自分のヴァージョンを創りながらさまざまな音楽的機能を学ぶことができる。ミュージカル・アニメーションとアニメーション化されたスコアは、伝統的な方法と革新的な方法で視覚的に音楽を描くことが出来る。学術論文は各楽曲、各アプリのテーマが音楽的にどのように実現したかを解説する」(『バイオフィリア』プレスシートより)。すなわち、リスナーは作品を「聴く」だけに留まらず、アプリを通じて『バイオフィリア』の世界を「学ぶ」機会を得られ、さらに楽曲の「(二次)創作」を体験することができる。過去にブライアン・イーノがアプリ用の作品を発表したり、レディオヘッドがリミックス素材をiTunesでリリースしたことはあったが、今回のビョークのような試みは例を見ない。『バイオフィリア』とは、いわばオープンソースなソフトウェアであり、一種の「リミックス・アルバム」であることをあらかじめ意図された構造を持つマルチメディア・プロジェクトと呼べるだろう。
ビョークはリリースに先立ちWIRED誌のインタヴューに応えて、『バイオフィリア』の出発点が「身体的な体験(physical experience)」を目的としたプロジェクトだったと語っている。映画『レナードの朝』の原著でも有名なオリヴァー・サックスが発表した音楽と神経学の関係に関する研究書『Musicophilia(音楽嗜好症)』に触発され、当初はアルバムとは別に、美術館のような巨大な施設で上映される3D IMAX版の映画として企画されたものだったという。結局、あまりに大掛かりな規模となるため映画化は断念されたが、その構想はタッチスクリーンという新たな直感的コントロール・デヴァイスの登場により、今回のアプリ版の開発・リリースというかたちへと受け継がれることとなった。その上でビョークは、今回のプロジェクトのテーマのひとつに「教育」を掲げていて、アプリを通じたインタラクションしかり、既報によればアルバムと連動した作曲や演奏のワークショップの開催も計画されているという。そうした展開も含めて『バイオフィリア』とは、まさに「体験学習」のプログラムといえそうだが、またビョーク自身にとっても今回の制作過程は、天体物理学から地域・比較文化論まで広範なリサーチを要する「学習期間」だったようだ。
ところで、ビョークは6年前に『拘束のドローング9』というアルバムを発表した。それは彼女も参加した現代美術家マシュー・バーニー――『ヴェスパタイン』のツアーで使用されたガラス製オルゴールの制作者、と説明したほうが通りはいいか――による同名の映像作品のサウンドトラックで、本編は日本を舞台に茶道や捕鯨を題材とした叙事詩的世界を、叙事詩的世界を、バーニーとビョーク演じる男女のラヴストーリーを軸に神話的なスケールで描いた作品だった。そのプロジェクト制作にあたり彼らが日本文化をリサーチした際、なかでも伊勢神宮の「システム」に興味を引かれたというエピソードが印象に残っている。そのシステムとは「式年遷宮」と呼ばれる飛鳥時代からの制度で、20年ごとに神宮の正殿・全社殿が造替再建されるという、物質的な新陳代謝を恒常的かつ定期的に行う特殊な建築儀式に関心を抱いたようだ。あるいはまた、作品に関連したインタヴューに答えてビョークが、日本の「神仏習合(※土着の信仰と外来の仏教信仰を折衷して、ひとつの信仰体系として再構築すること)」に共感を示す発言をしていたことを思い出す。
『拘束のドローイング』は、元フットボール選手で大学時代に医学を学んだバーニーの経験が反映された連作で、「ある抵抗下で身体が発達していく(筋肉トレーニング)」という生理学的な考察から、「負荷=拘束」を発達に不可欠なもの、すなわち創造性の媒体として提示したプロジェクトだった。9作目となる『拘束のドローング9』では、転じて、日本文化の伝統や儀式性が象徴する「拘束」からの解放のイメージが、バーニーとビョークの身体を通じて官能性やエロティシズムとともに表現されていた。ディティールは省くが、その、ある存在が確定的な状態を解かれて不確定な状態へと変化するサイクルにおいて新たなヴィジョンが更新されるというモデルこそ、バーニーが伊勢神宮の「式年遷宮」に見たものと相似形であることはいうまでもない。またそれとは、『拘束』と制作時期の重なる別のプロジェクト『クレマスター(※胎児期に男性性と女性性の分化を左右する組織)』で表現された、生物や存在の「変異・変容」をめぐるオブセッシヴな想像力の延長上に位置するものでもあった。そうした根底には、拘束と解放、秩序と衝突、あるいは身体とアートといった「ふたつの異なるものの間に存在するもの」「ふたつの異なるものの間の関係作用」に創造のダイナミズムを見るバーニーの強い動機が横たわっている。
「科学と自然の要素、そして音楽学を継ぎ目なく織り込みたかった」とビョークは『バイオフィリア』について語っている。そして「自然科学と感情の混合」というコンセプトは、たとえば閉所恐怖症を題材としたマシュー・バーニーと共作のダーク・オペラ“ホロウ”や、ウィルスとのラヴソングという“ヴァイラス”、水晶の結晶形やDNAの配列構造をトラックの複雑性に見立てた“クリスタライン”など、各楽曲に趣向を凝らして投影されている。もっとも、テクノロジーと自然、エレクトロニックとオーガニックなものの関係を寓話的なタッチで擬人化するような作風はこれまでもビョークの得意だが、加えて、前作『ヴォルタ』のツアーでお披露目したタッチスクリーン型コントロール・デヴァイス「Lemur」やiPadによって実現した身体性と同期した直感的な音の操作が、彼女のイマジネーションを飛躍させた。より感覚的なアイディアや演奏を反映したソングライティングが可能となり、鼻歌がそのままメロディに、散歩する足取りがそのままBPMやリズムに置き換えられ、さらにはプログラミング処理された自然界のアルゴリズムから曲のパターンを起こすなんて試みもアルバムでは行われている。
極めつけは、今回のレコーディングのために制作されたカスタムメイドの楽器群だ。MIDI対応のガムランとチェレスタの合体楽器「ガムレスト」、プレイステーションのコントローラーで操作する木製パイプオルガン、iPadが信号処理する重力アルゴリズムで制御された高さ3mの振り子状ハープ演奏機械「アルミニウム・ペンデュラム」など、いずれもアルバムの世界観/コンセプトを実装したオリジナルの発明品である。しかしそれらは、単なる最先端のテクノロジーとアコースティック楽器の融合といった代物ではない。今作のミュージック・ソフトウェア・プログラムを指揮したダミアン・テイラーは、その操作性を「脳と楽器をプラグで直結された演奏」「装置と対話しながら作曲できる感覚」と語っている。したがって、通常の楽器演奏とは勝手が違って思いがけない音が飛び出し、またそれに刺激されて新たなアイディアが湧くという連鎖反応が生まれる。つまりそれは、既存の電気楽器的な身体性を媒介としたテクノロジーのアウトプットではなく、テクノロジーを媒介とした身体性のアンプリファイという、演奏と音楽の関係を更新するまったく新たな体験ということだ。そこには、いわば“テクノロジーこそが新たな身体性(身体的表現)をもたらす”というビョークの確信が窺える。そしてその体験とは、アートと自然科学という異なる体系の折衷を試みた今作のコンセプトにふさわしい、まさに身体性とテクノロジーの「習合」と呼ぶべきものだろう。
そしてこのことに倣えば、『バイオフィリア』とはビョークとリスナーを「習合」するアルバム――ともいえるはずだ。『バイオフィリア』というプロジェクトにおいてビョークとリスナーは、アプリやワークショップを通じて直結された関係を築き、その学習や体験を促すプログラムによって対話的に営まれる新たな創造(多次創作)を可能性として孕んでいる。つまり極論すれば、そうすることでリスナーは「作り手」となり自分だけの『バイオフィリア』をカスタムメイドすることができ、ビョーク自身もまた「5000曲作ろうと思えばできるわ!」と語り、今作が“付け足す”という考えが中心に置かれた「進行中のプロジェクト」であることを示唆する(※リミックス音源が先行シングルだったことは象徴的だ)。そしていうまでもなく、そうした絶えざる変化と更新を創造的命題とした『バイオフィリア』の「システム」には、伊勢神宮の式年遷宮における新陳代謝のアナロジーを見ることができるだろう。そのことはたとえば、制作工程の実質90%は自身による編集作業だったという前作『ヴォルタ』の完結性とは対照的にも映る。つまりビョークは、不特定多数のリスナーまでもコラボレーターとして巻き込むことで「リミックス(・アルバムであること)」を(潜在的に)常態化し、アーティスト個々人の作家性という閉じた円環から「作品」を解放した。そうして「音楽家/聴衆」という従来の二項対立的な関係が書き換えられた結果、多中心的(N次的)に「作品」が創作される可能性を内在した『バイオフィリア』の展開は、音楽が「音楽」としてのみならず、作り手と受け手を媒介するコミュニケーション・ツールとして消費されるようなソーシャル・カルチャー以降の在り方も想起させるものだ。
もっとも、何よりビョークが掲げた「教育」こそ、バーニーが探求を続ける「拘束と発達」を具現化したテーマに他ならない。一連のプロジェクトを通じた教化・啓蒙への「リアクション」こそが新たな創造をもたらすことを、ビョークは期待している。そうした多様な音の繋がりが連鎖を生み、響きの波紋となって『バイオフィリア』の世界を拡張していく――。それは、これまでつねに他者と交わることで自身をアップデート(カスタムメイド)し続けてきたビョークにとって、ひとつの理論的帰結と呼べるものでもあるだろう。その『バイオフィリア』が描き出すであろう展望には、音楽やアートと、自然やテクノロジーと、そして私たちリスナーとビョークとの“豊かな出会い直し”を見ることができる。
(2011/11)
※『バイオフィリア』は初音ミク(的なソフト)なのかもしれない。
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