2011年5月24日火曜日

極私的2000年代考(仮)……回り始めたUKとUSの両輪

ニュー・エキセントリックについてはこれまでも何度か取り上げ、思うところを書いてはみたものの、正直いまだ実態を掴みきれないでいる。理由は、その一群に属すとされるバンドの名前を並べてみればよくわかる。フォールズ、ジーズ・ニュー・ピューリタンズ、ファック・ボタンズ、ライトスピード・チャンピオン、少し範囲を広げてクラクソンズ、エンター・シカリ、ハドーケン!、レイト・オブ・ザ・ピア、フレンドリー・ファイアーズ、ザ・ティン・ティンズ、ロス・キャンペーノシス!……。と、つまり、そこにはシーンやトレンドと呼ぶに相応しい一目で明らかな「音楽的な共通項」が見当たらない。そこがニュー・エキセントリックの特異な所以であり、逆に面白いところでもある、のだけど。

なのでニュー・エキセントリックに対する個人的な理解は、以前にも書いたように、フォールズやファック・ボタンズ、ライトスピード・チャンピオンを例に挙げて指摘した「アメリカのアンダーグラウンド/インディ・ロックとの同時代的な共振性」という、きわめて限定された域を出るものではない。フォールズの、イクレクティックでアンチ・ポップなマナーとビートに窺えるミニマリズム/エスノ嗜好。ファック・ボタンズの、ノイズへのフェティシズムとアンビエントな音響構築。そしてライトスピード・チャンピオンの、ナードなローファイ感覚とフォーキィなルーツ趣味。あくまで大雑把な見立てだが、それらはいずれも2000年代以降の同時代的なUKロックの文脈からは逸脱したオルタナティヴな個性やベクトルを示すものである。つまり、そうした個別のケースで顕在化する局地的な動向が垣間見せる、“風変わりで新しい”UKロックの光景――一枚絵ではなくモザイク画のような凹凸こそ、あえていうならニュー・エキセントリックという実態ではないか、と。

そして、先日サマーソニックで見たレイト・オブ・ザ・ピアとフレンドリー・ファイアーズのライヴは、そんなニュー・エキセントリックや新世代のUKロックに対する理解に新たなイメージを与えてくれるものだった。かたや、ニュー・ウェイヴやレイヴからグラムやハードロック~メタルまで大胆に咀嚼するジャンクなダンス・ロックを鳴らし、シンセの派手なエレクトロにのせて圧倒的な高揚感と疾走感を生みだすレイト・オブ・ザ・ピア。かたや、一見ポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ的なメソッドを起点としながら、アフロ・ミュージックを引用するパーカッシヴなビートやミニマルなフレーズを重ね、煌くメロディとファルセットが飾る官能的なロマンティシズムを描きだすフレンドリー・ファイアーズ。両者は、ある部分では音楽性をシェアし、ある部分では志向/嗜好を画しつつも(前者はクラクソンズ~ニュー・レイヴ以降、後者はパンク/ハードコアの素地はないがラプチャーやDFA周辺に近い)、互いに貪欲な折衷性を誇るエキセントリックな感性と、無邪気ともいっていいダンスへの衝動を強烈にたぎらせ、彼らの世代ならではのやり方でロックやポップに新たな輪郭を与えようと試みている。そうした態度や情熱は、その出来あがったサウンドのフォルムこそ違え、先に挙げた3組とも確実に共鳴するものであり(フォールズとは音楽的にも共有する部分はあるが)、彼らもまた、この2000年代も幕を閉じつつあるUKロックの地平に“風変わりで新しい”光景を現出させ特異点を刻まんとするオルタナティヴな先鋭にほかならない。

ニュー・エキセントリックとは、繰り返すように音楽的な共通項やスタイルの符合で連帯しカテゴライズされるモードやシーンとは異なる。逆に、安易なトレンド化に絡めとられない、ムーヴメントという名の軽薄な熱気に浮き足立たないタフな知性と加速するクリエイティヴィティの更新、セオリーや既成の文脈を根本から突き崩すような無謀さこそがニュー・エキセントリックに代表されるUK新世代の醍醐味であり原動力であり、いつかそれは、1970年代や80年代の先達がそうであったように行き詰まりを迎えかねない危うさを孕みながらも、あくまでロック/ポップとして昇華され達成をみる地点をそれぞれのアプローチと回路で目論む。長らくUKのロック・バンドにはほとんど関心のアンテナが触れず、新人バンドにいたっては聴こえてくるものすべてが箸にも棒にもかからない状態が長らくあった自分にとって、ニュー・エキセントリックやそれを取り巻くUK新世代のロックの台頭にたまらなく魅せられてしまうのは、その純音楽的にすべての情熱を注ぐある種の愚直さであり(もちろんその背景には今という時代や世代意識を反映した精神性が息づいているわけだが)、フォールズとファック・ボタンズ、そしてライトスピード・チャンピオンという従来型の2000年代UKロックの規格外を示す3組の才能が予感させた新世代の胎動と、サマー・ソニックで目の当たりしたレイト・オブ・ザ・ピアとフレンドリー・ファイアーズのライヴは、大げさにいえば画期的な「現象」として認識せしめるインパクトのものだった(もろもろの都合でハドーケン!のライヴを見れなかったことが悔やまれる)。


そんな圧倒的な存在感を見せつけたUK新世代に対し、果たしてUS新世代、なかでもニューヨークの“エキセントリック”たちはどんな具合だろうか。同じくサマーソニックでは、ヴァンパイア・ウィークエンドとMGMTという目下要注目のニューヨーカーが日本デビューのステージを踏んだが、残念ながら個人的にライヴを見ることはできなかった。ニュー・エキセントリックとの比較でいえば、とくにフォールズやレイト・オブ・ザ・ピア、フレンドリー・ファイアーズとは、アフロ・ミュージックの解釈や、形は違うが「ダンス」を意識させるバンド・アンサンブルなど共通点を指摘できなくもないニューヨークの2組。ヴァンパイア・ウィークエンドもMGMTも、ディスコ・パンクやノー・ウェイヴの再興をへてフリーク・フォークやニュー・ノイズ等のエクスペリメンタル・シーンが飽和状態を迎える=アンダーグラウンドなロック状況がかつてなく顕在化した2000年代のニューヨークの文脈とはほとんど無関係な場所から登場したという意味では、両陣営とも自国における立ち位置や境遇が似ているともいえなくない。とはいえ、2000年代に限ってみても、ロック/ポップが辿った軌跡も歴史的な背景や蓄積も何から何まで異なるUKとUS=ニューヨーク両陣営の間で“エキセントリック”の基準を同じ物差しで計ることは不可能であり、安易な比較や対置は控えるべきだろうが、それでも、共通のキーワードで参照することはできても実質的には没交渉だった(たとえばニュー・ウェイヴ/ポスト・パンク・リヴァイヴァルの受け止め方の、ラプチャーとフランツを比較すれば明らかな違い)2000年代以降の両陣営を相応のリアリティをもって同じ遡上にのせて検討できるというのは、やはりニュー・エキセントリックならでは、というべきか。

繰り返しになるが、ニューヨークにとって2000年代は、本来なら潜在化するだろうアンダーグラウンドなロック状況が過剰ともいえる形でオアーヴァーグラウンドに顕在化した10年だった。ノー・ウェイヴを参照点としたポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ・リヴァイヴァル、エレクトロクラッシュ、フリーク・フォークやNO FUNフェス周辺のニュー・ノイズを含む2000年代の多様な事象やフェーズが、歴史的な蓄積として従来あるフリー・ジャズや前衛シーン等のエクスペリメンタルな土壌と交わり、溢れだす地下水脈のうねりとなってニューヨークのロック/ポップを席捲し続けた。それは、オルタナティヴ/グランジの台頭をよそに停滞沈降した1990年代ニューヨークの反動か。それとも、ギャング・ギャング・ダンスのブライアン・デグロウも語るように00年代初頭のロックンロール・リヴァイヴァルへの反発か。

しかしここ数年、明らかに潮目は変わりつつある。ヴァンパイア・ウィークエンドやMGMT、あるいはクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーらの台頭を象徴に、アンダーグラウンドの重力から解き放たれたように瑞々しくのびのびとロック/ポップを謳歌するバンドが次々と登場してきた。そして、アンダーグラウンドの内側からも、アニマル・コレクティヴの『フィールズ』あたりからだろうか、かつてのエクスペリメンタルな路線からソングオリエンテッドな方向へと創作の舵を切るバンドが現れ始めてきている(TV・オン・ザ・レディオの新作も、圧倒的にそうだ)。

「ロック・リヴァイヴァルとちょうど同じだよ。今はエクスペリメンタルな音楽があふれていて、それはそれでいいことなんだけど、そのぶん、僕は興味を失いつつある。実験的な要素を入れつつ、どうやって構造のある曲にしていくかっていうことに、僕の興味は移りつつあるから。そういう意味で、今、昔よりGGDの曲がポップになっているのは、無意識に実験的なものを避けているから、かもしれないね」
(ギャング・ギャング・ダンス、ブライアン・デグロウ)

ギャング・ギャング・ダンスのニュー・アルバム『セイント・ディンフナ』もまた、そんなニューヨークの変化を印象づける作品かもしれない。その作風に明らかな変化の兆しが見え始めたのは、2005年にリリースされたアルバム『God’s Money』。それまでのインプロヴィゼーション主体、時に1曲が20分以上にも達する呪術的なフリー・ミュージックから、エスニックな旋律やトライバルなビート、ダビーなエレクトロをふんだんに取り入れ、メロディアスで音響的な深みの際立つメリハリの効いたサウンドへと「ポップ」化した。初期のスポンテニアスな抽象性やシャーマニックなトーンは残しつつも、ダンス的な快楽志向と歌謡的な官能性が増し、その『God’s Money』を引っ提げた2006年の初来日公演で体験した彼らのライヴは、アーバン・プリミティヴなグルーヴが奔流する、感覚的にはほとんどダンスホール・レゲエのようなものだった。『セイント・ディンフナ』ではそうした傾向が強まり、グライムMCを迎えるなど新局面も見せつつ、渾然一体とうねるテクスチャーはさらに豊潤な艶身をたたえ、より奔放かつ「ポップ」に躍動している。今作が本国アメリカと日本以外ではWARPからリリースされることも象徴的だ。

そうした背景には、ブライアンも語るように自然発生的な部分と、ソングライティングやレコーディング・プロセスの変化という自覚的な部分と、両義的な要因があるのだろう。今作の制作では再びインプロヴィゼーションを起点とする初期のアプローチに戻したようだが、しかし、そのサウンドが描きだすニューヨークの光景は、かつてとは異なり“風変わりで新しい”。
 

そんなニューヨークのバンドの中から、気になる2組を紹介したい。

去年の春頃か、ネットで偶然聴いたラ・ラ・ライオットの音源は、同時期に初めて聴いたヴァンパイア・ウィークエンド同様、そのえもいわれぬ音の瑞々しさが深く印象を刻むものだった。ラ・ラ・ライオットは、ニューヨークはシュラキュースを拠点に活動する6人組。ヴァンパイア・ウィークエンドとは、Vo/Keyのウェズリー・マイルスが彼らのアルバムに参加するなど親密な間柄にあり、去年リリースされたデビューEPを機に頭角を現し始めた注目のニューヨークの新世代である。

ヴァイオリン/チェロ奏者2人を擁し、ヴァンパイア・ウィークエンドとも相通じる軽妙なバンド・アンサンブルと伸びやかなポップネス、ときにドラマチックに高揚するメロディと叙情性が魅力的。どこか“DIYなアーケイド・ファイア”といった趣もあり、あるいはダーティー・プロジェクターズ辺りも連想させるニュー・ウェイヴ的陰影と相俟ったあわいエキゾチズムは、今のニューヨークならではだろうか。メンバーの死など困難を乗り越え完成されたアルバム『The Rhumb Line』は、新曲&既発曲にケイト・ブッシュのカヴァーも含むバラエティに富んだ内容で、そのユニークな個性を余すところなく伝えてくれる。

対して、ブルックリンのハイ・プレイセズは、アニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンス以降の才能(?)を予感させる男女2人組。“トライバルなトイトロニカ”とでもいった幻惑的な電子音と歪なリズムが絡み合うアブストラクトなトラックの上を、気だるく可憐な女性ヴォーカルがたゆたうようにエコーする。ブラック・ダイスのようなエクスペリメンタリズムは希薄で、ポップで懐っこく、童心で音と戯れるような感覚が愛らしい(同様の愛らしさでアヴァンに振れると西海岸の女子デュオ=ポカハウンテッドドになる)。ノー・エイジやアトラス・サウンド(ディアーハンター)との交流も納得で、ラ・ラ・ライオットとタイプは異なるが彼らもまた今後のニューヨークの一角を担う可能性を秘めた存在に違いない。その成果は、以前に紹介した7インチをへてスリル・ジョッキーからリリースされた既発曲の編集盤『03/07-09/07』で聴くことができる。また今月末にはファースト・アルバムのリリースも決定しているのでお楽しみを。


ニュー・エキセントリックに代表される新しい世代によるUKロックの台頭の背景には、とりわけ最初に挙げた3組を見るかぎり、2000年代のUSインディ/アンダーグラウンドのエフェクトが相応にあったと想像できるが、逆にUKのニュー・エキセントリックが趣旨返しのようにUS勢にインスピレーションを与えるような事態になったら、それは相当に面白いことになりそうだが、どうなんだろう。NMEがヴァンパイア・ウィークエンドやデイヴ・シーテックを積極的に持ち上げている様子は見ていて不思議な気もするが、ともあれ2000年代も最終盤を迎えてようやくUS/UKのインディ・ロックが両輪のように回り始めた事態に興奮しているし、素直に支持したい。“次の10年”の足音が聴こえ始めたような感じがするのは、気のせいだろうか。



(2008/10)

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