モノクロニズム(単色絵画)を代表するフランスの現代作家イヴ・クラインとノイズ・ノーマッズ(マジック・マーカーズとレーベル・メイトだったマサチューセッツのノイズ・アーティスト)を称えた“セイクリッド・トリックスター”。1960~70年代のドイツのスーパーモデル(ミック・ジャガーやキース・リチャーズも虜にした)であり活動家ウシ・オーバマイヤーと彼女の所属したヒッピー集団「コミューン1」のストーリーに着想を得た、かつてチャールズ・マンソンを題材にした代表曲“デスヴァリー’69”を連想させる(サーストンとキムのデュエットはかつてのリディア・ランチとのそれを彷彿させる) “アンチ・オルガズム”。ケヴィン・エアーズに捧げられた“ポイズン・アロー”。MC5やノイ!に音楽的な触発を受けたという“カーミング・ザ・スネイク”。そのMC5のフレッド・スミスのバンド、ソニックス・ランデヴーズ・バンドにインスパイアされた“ホワット・ウィ・ノウ”。ニューヨークのビート詩人グレゴリー・コルソの理念に共鳴した“リーキー・ライフボート(フォー・グレゴリー・コルソ)”。ジャームスら1980年代の西海岸ハードコア・シーンが牙城としたライヴ・ハウス「ザ・マスク」の光景がフラッシュバックする“サンダークラップ・フォー・ボビー・ピン”。カート・コバーンもファンだったポートランドのパンク・バンド、ワイパーズに捧げられた“ノー・ウェイ”。そして“アンテナ”においては、キング・クリムゾンやオーストラリアが誇るノイズ・ロックの巨魁デッドCから影響を受けたとインタヴューで語っている。
もっとも、こうしたさまざまなカルチャーを参照点に含んだソングライティングは、今回のアルバムに限らず彼らの流儀といえるものだろう。むしろ彼らは、そうした態度を意図的・積極的に打ち出すことで自らの音楽、すなわち「ロック」を形作ってきたことはそのディスコグラフィーが証明している。
ポスト・パンク~ノー・ウェイヴの最後尾としての出自を正確に刻んだ初期の諸作品。ハードコアの精神や美意識のなかにアメリカ/ポップ・カルチャーへの批評/批判精神を見た1980年代中期の『バッド・ムーン・ライジング』『EVOL』。クリストファー・チコーネ=マドンナをアイコニックに解体した『ザ・ホワイティ・アルバム』におけるヒップホップとのクロスオーヴァー。“パンク前ハードロック”とサーストンが呼んだダイナソーJrやマッドハニー、ニルヴァーナらグランジ世代との交流に感化された『ダーティ』、ないし1990年代初頭のインディーズ/オルタナティヴを予見した『GOO』。その反動として、メンバー個々の実験的なソロ活動をフィードバックさせながら、果ては現代音楽のカヴァー・アルバム『Goodbye 20TH Century』に至るエクスペリメンタル・ミュージック史の探求に向った1990年代後期の作品群。そして「ニューヨーク3部作」と名付けられた2000年代を迎えての3作品では、文字どおりニューヨークのアートや文化史を題材とする一方、テロの災禍をへてプロテストの意思を滲ませた言葉とメッセージ性が「ロック」への衝動と相まってそのサウンドに必然性と強度をもたらした。コンパクトでポップなギター・ロックを鳴らした前作『ラザー・リップト』については、そうした“戦時下”ゆえにあえて「ポジティヴな光を当てたレコードが作りたかった」と語っていた。
こうした、そのオリジナリティや実験性とは別に、ある種の時代(時間軸は多様)の反映としてソニック・ユースのサウンドが形作られてきた背景には、たとえばサーストンが「ある種のコミュニティを伴ったアイデンティティ」と形容する、独自の“ロック観”があるのかもしれない。つまり彼らにとっての「ロック」とは、単一の固定されたアートやカルチャーではなく、むしろ多様なアートやカルチャーを横断しながら無数の発展のフェーズを潜り抜けてきたものであり、それはたとえばボブ・ディランやパティ・スミスとバットホール・サーファーズやボアダムスが同じ文脈で結ばれるような、あらゆるレヴェルで存在可能なものである。だから彼らにとって、イアン・マッケイ(“ユース・アゲインスト・ファシズム”)やチャック・D(“クール・シング”)や無名のノイズ・ミュージシャンとコラボすることと、デヴィッド・ボウイやニール・ヤングやツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズとステージで共演することは、まるで矛盾しない。そこには、彼らがそうと感じる“アイデンティティを共有するコミュニティ”が存在するのであり、そうした意識が彼らの活動を背後で支えている。そして彼ら自身の「ロック」もまた、30年に及ぶキャリアを通じていくつもの発展のフェーズを潜り抜けてきた、「時代」や「歴史」の一部である――と、そのさまざまな符丁が散りばめられたディスコグラフィーは物語るようだ(最近、ソニック・ユースのメンバーを始めリチャード・ヘルやマイク・ワット、リディア・ランチら縁のあるアーティストがテキストを寄せたアンソロジー本『Sensational Fix』も出版された)。
「このアルバムで、ひとつ焦点をおいたことは、ソング・ラインティングの部分で、どういう曲作りが僕らのサウンドを特別なものにしたことかということを考えながら、それを具体化してみせようとしたんだ。だからこのアルバムではそういうことを真剣に考えながら、また“ポップ”・ミュージックとは、また“ノイズ”・ミュージックにおける概念というのは何なのかということもとことん考え、そして、エモーショナルなリリシズムとは何なのかということも追求してみた。そういうことをこのアルバムでは行ったんだよね」
それにしても、優に30年近いキャリアを誇り、自身そのものが「時代」や「歴史」であるような彼らが、いまもってロックやアートにインスピレーションを受け続けているという事実に驚かされる。その好奇心・探究心の旺盛さと、無邪気さにあらためて感動する。ラディカルな音楽を求めてニューヨークを徘徊する新世代に触れて「彼らのその旅路にはすごく感動する。それがどんなものか十分わかるからね。それを目撃して、音を聴くのが好きなんだ」と自らの若い頃と重ねて語るサーストンは、なによりソニック・ユース自身もまたいまだなお“旅路”のさなかにいることを隠そうとしない。
「面白いのは、僕と同世代のミュージシャンでそういうことに興味を持っている人ってほとんどいないんじゃないかってこと。どうでもいいと思っている気がするというか、自分達の世界だけが大事になってしまっているというかね。でも、僕はその逆で、むしろ自分の世界からできるだけ抜け出したいんだ。好きじゃないんだ。自分の世界にいるのが、怖いし、疲れるし、飽きちゃうし。だからそこから違う世界に逃避する必要があるんだよね」。
そこには、ロックやアートが歴史的な蓄積として培ってきたものへの敬意と、そうした文化的な意匠を新たな創造のインスピレーションとして捉え直すことで、そのロックやアートが辿ってきた/これから辿るだろう発展のフェーズの前衛に自らも立たんとする矜持のようなものが感じられて、感動する。
「もちろん、そういう歴史の片隅には所属するんじゃないかと思うし、すごく光栄には思っているし、もし僕が“成功”を手に入れる野心があるのだとしたら、そういうことこそが成功ですらあると思うしね。でも、だからこそ今はもうそういう野心や関心の時代は過ぎて、“野心後”とも言える時代に突入した気がしていて、それがどういう意味を持つのかなんていう不安を抱えることなく、自分が好きだと思うものを自由に作れる時がようやく来たっていう風に思うんだ。それで、最終的にはすべての人がそういう心配をしたりしないでいい場所に、そして目標に到達することを心配しないでいい場所に辿り着くべきなんじゃないかなあって実感しているんだけど。だって目標に辿り着くなんてことないからね。それがわかる時は必ずきて、それがわかれば、その概念を乗り越えられるものなんだ。それで、僕が他のアーティストやアートからインスピレーションを受けるのは真実だけど、でもそれと同じくらいに名前も知らないような、街で単に見かけただけの人々から、一体彼らがどんな暮らしをしているのだろうとか、彼らがそのファッションで自分を社会の中で表現する姿を見たり、どんな行動を取るのかっていう、本当に自然な人々の振る舞いを見ることからもたくさんのインスピレーションを受けるんだ。そういう行動の中にすごく美を見出すんだよね。僕は、自分がその前衛に立とうと努力したことはない。でも、僕がティーネージャーの時にニューヨークに来た唯一の理由は、その“前衛”に触れたかったからなんだ」
ニューヨークの新世代がその旅路のなかでソニック・ユースを発見するというように、彼ら自身もまた身の回りにあるアートや音楽と触れ合うなかで「時代」を感じ、「歴史」を発見する。その連続の過程に“ソニック・ユースという時代/歴史”もまた築かれてきた。繰り返すが、こうしたロックやアートをその歴史的な文脈や時代的な背景において捉え直し、そこから新たな創造のインスピレーションを得て自身のロックやアートに反映させるという態度は、たとえば相対主義や情報検索的なスキルが肥大し、創り手の意識や感性も含めてフラットな音楽環境を呈する昨今、きわめて啓蒙的とさえ思える。そうしていま、「野心や関心の時代は過ぎた」とその新たな境地を語るサーストンの感慨は、今作のアートワークにも象徴されているという。
「インナースリーヴに色んなアーティストによる絵や作品を掲載したんだ。カヴァーは、フォーク・ミュージシャンでもあるジョン・フェイヒィが描いたものだし、色んな画家やカメラマンの作品が入っている。それから詩人の作品もね。それは、このアルバムを、そういうコミュニティの中から発される音やイメージの一端として表現したかったからなんだよね。それで、ここに掲載したアートは、徹底的に吟味したものではなく、むしろあまり何も考えないで選んだんだ。そういうアートを色々なところから何も考えずに掴んで、ここに投げ込んでみることで、アートを楽しむということが、いかに人間の状態そのものと同じく、美しく、シンプルであるのかを見せたかったからなんだ。それこそがこのアルバムでやってみたかったことだからね。そういう意味でこのアルバムは、仏教的な戒律がある作品、と言えるのかもしれないな(爆笑)」
『ジ・エターナル』というタイトルについてサーストンは「間違いなく“普遍性”と関係していて、“永遠に生きる”という概念に基づいている」と説明する。そのタイトルが、アートワークに込められた精神や、たとえば「パーソナルでもあるけど、それをみんなとおおっぴらに共有しようとしているところがあるから社交的な作品であるともいえる」とインタヴューで語られた内容と呼応したものであることは明白だろう(ちなみに、『ジ・エターナル』というタイトルには別にエピソードがあって、実は何時間もブラック・メタルを聴き続けたところから思い付いたものなんだとか。「ブラック・メタルのテーマの多くは、死だったり、破壊、怒り、反宗教主義、反人間性であり、ブラック・メタルは音楽ですらなく、音楽とはまったく関係のない、それ以外のものであるという思想があるからね(笑)。すごいエリート主義で、だから音楽のテーマの多くが、永遠の独裁みたいなものだったりする。そこからタイトルを思い付いたんだ」)。
つまり、彼らはここで自らのロックやアートを時代や歴史のくびきから解放しようと試みている。それはしかし、今作が映し出すさまざまな事象が物語るように、より時代や歴史と自由に向き合おうというものであり、ありふれた営みとしてロックやアートを祝福する行為のなかに、彼らはそれこそ普遍的で永続的な美を見出そうとする。
だからこそ、サーストンは続けてこう語ろうとするのだ。
「もし“ソニック・ユース”が何たるか、そういうものがあるのだとしたら、それは4人のまったく違う人達がいる、ってことだと思う。もちろん僕はバンドのなかですごく強い個性を放っていると思うし、音楽的にバンドの進む方向性に大きな影響を与えているとは思う。でも、このバンドを真の民主主義でありたいと思っているし、そうあるために常に細心の注意を払っているつもりなんだ。それとたぶん、このカルチャーの中で表現し続けることの重要性を提示すること――もし何かなのであるとしたら、そういうことかなあ、とは思うけどね」
インタヴューでも語られている通り、ソニック・ユースのすべてが凝縮されていると豪語する重厚さを誇りながら、しかし『ジ・エターナル』は、これまでのどの作品よりも軽やかで自由なムードに包まれている。それは、“ラディカルな大人”をコンセプトに掲げ、グローバルな「ロック」の再構築に向った『ムーレイ・ストリート』よりも遥かに幅広い音楽的視点と意匠に富み、さらに“不思議な再生”とそのポジティヴな躍動感を謳った前作『ラザー・リップト』さえ「その芸術性を追求するためだけにソングライティングを洗練させたようなところがあった」と客観視するほど、圧倒的にみずみずしくて雄々しい。
もちろん、その背景には、20年ぶりにインディーズに復帰を果たした環境の変化もあるのだろう(ちなみにマタドールの設立者の一人ジェラルド・コスロイとバンドは、コスロイが80年代に設立したホームステッドから『バッド・ムーン・ライジング』をリリースした以来の仲)。
「もし、これ以上ゲフィンとの契約が続いたら自殺してたと思う。さもなくば、バンド解散だったと思う。バンドを解散して、もう一度同じメンバーを集めて、そして違うバンド名で新しいバンドとしてやり直していたと思う。とにかく、絶対何か手をうっていたと思う。だって、本当にゲフィンには嫌気がさしていたんだ。音楽なんてどうだっていいと思ってる奴らのためにレコードを作るなんて本当に最悪だからね。僕らは、ビック・セールスを誇るアーティストだったわけじゃないから、会社にとって僕らがいるのは数字のためだったってわけじゃない。ゲフィンっていうレーベルは、できた当初はもっと芸術性を重んじる会社だった。でも、今は根底から変わってしまい、芸術性なんてものはないがしろにされている。それはレーベルの古き良き時代という風にしか思えなくなってしまったんだよね」
しかし、「収容所」と形容するメジャー時代でさえ、自主レーベルの運営から縦横無尽のコラボまで実質的には限りなくインディペンデントで自由な活動を許されていた彼らである。何がそこまで彼らを“変えた”のか、いや解放させたのだろうか。
その確かな理由はわからない。しかし少なくとも彼らが、ここで“前衛”や“革新”ではなく、“普遍”や“永遠”を謳ってみせているところに、『ジ・エターナル』というアルバムと現在の彼らの本質は収斂されるのではないか、と確信する。
「今作では、まるで僕らの人生における新章の始まりに突入したと感じるような、非常に重要な時期にあったと思うんだ」
それは「50歳を超えての自分達の人生を見つめている(笑)」とサーストンが語る、ある種の達観のようなものなのか、それとも、かつて「混沌が未来だ/その先に自由がある/混乱が次にあり、その後に真実がある」(“コンフュージョン・イズ・ネクスト”)と歌ったその通りの“未来”――政治的・経済的混乱と音楽産業の崩壊を呈する――を四半世紀後の今に迎えて打ち震えるような、若気(Youth)のフラッシュバックなのか。
「言ってみれば、自分達の人生の後半の始まりを見つめていると言うことだと思うんだけど、そこにはもちろん多くの不安がつきまとう。それで僕らは年を取ることについて絶望するのか?または新たな旅の始まりとして、祝福するのか?という問題になるわけだけど、僕らは、どちらかと言うと偉大なる新たな世界へ突入したという風に見ていたような気がするんだよね」
●メジャー・レーベルの介入によってインディー・シーンが骨抜きにされた1990年代とは真逆の形で、今、例えばマイスペースだったりネットやローカルなコミュニティを介した音源の発表やアーティスト同士の連帯によって、インディー的なDIY精神がメジャー・レーベル的な価値観やシステムを骨抜きにしている現状があります。
「そうだね(笑)」
●結果、メジャーとインディーという対立関係はますます曖昧なものとなり、今やレコード産業全体が崩壊の危機と大きな転換期を迎えています。こうした現状はあなたにとって歓迎すべきものですか?
「現状の素晴らしいところは、金が関係なくなってしまったところだと思うんだ。金こそが、ロックの美しき部分をすべて歪めてしまったと思っているから。もちろん、人が音楽を創り、レコードにして売って、ツアーをして、金を儲けてそれで生計を立てられるというのは、素晴らしいことだと思う。でも、今は誰もレコードを買わなくなったわけだから、それはより難しくなっていく。みんなまだコンサートには行くから、ライヴはできると思うけどね。でも、こういう現状は音楽にあった“セレブリティ”的な観念を排除し、音楽をもっと地に足の付いた、人に近付けることになると思う。それってすごく重要だと思う。ここに、知性をもたらすと思うし、それに、例えば、音楽を無料で配信するという行為には、アナーキーな精神がある、とすら言えると思うし、音楽にとっても、音楽を創る人にとっても、それはすごくいいことだと思うんだ。というのは、音楽は金儲けをするのに最適な場所ではなくなってしまったわけだから、これから音楽を創りたいという人は、すごく渾身的にならなくてはいけないし、心からやりたいと思わなくてはできない。完全に金ではなくなってしまった。だからこそ、ロック・ミュージックは、今その原点を再発見しようとしているのだと思う。すごくいい状況だと思うよ………と言いつつ、僕だって、ローンを返済するためには、レコードを売らなくちゃいけないんだけどさ(爆笑)」
●こうした現状から、どのようなロックの未来を描くことができますか?
「未来については一体どうなるかまるでわからないなあ。でも、自分をどう表現していけばいいのかという部分において、もっとみんなクリエイティヴになっていくんじゃないのかな。それから、カセットとか、レコードと言ったアート・フォームとしてもっと敬意を表するようになるんじゃないかと思う。インターネットで聴くのは、もちろん情報量は多いけど、すごく退屈だからね。僕はそんな風に音楽をあまり聴かない。実際手に取って見るのが好きなんだ。レコードを手に取って見たり、それを創った人を実際見るのが好きだし、もちろん聴くのも好きだけど、常に、見ることが第一、その上で、聴いてみるんだ(笑)」
(2009/06)
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