2011年8月9日火曜日

極私的2000年代考(仮)……フリー・フォークのミューズ②

デヴェンドラ・バンハートが監修した『The Golden Apples Of The Sun』や、ジョセフィン・フォスターが監修した『So Much Fire To Roast Human Flesh』、あるいは『Two Million Tongues Festival』といった、いわゆるフリー・フォーク関連の傑作コンピレーションのリリースで知られるレーベル「Bastet」。その「Bastet」を傘下に置くアメリカの音楽雑誌「Arthur Magazine」が主催し、2005年にロスで開かれたフェスティヴァル「Arthur Fest」――その出演者のラインナップに名前を見つけたのが個人的にラヴェンダー・ダイアモンドを知るきっかけだった。オノ・ヨーコやソニック・ユースをはじめ、スリーター・キニー、キャット・パワー、サンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マン、シックス・オルガンズ・オブ・アドミッタンス、ヴェティヴァー、アース、サン・オー、マジック・マーカーズ……など、フリー・フォーク~アヴァンギャルド・シーンを俯瞰する錚々たる顔ぶれが一堂に会した2日間の、最終日に登場したラヴェンダー・ダイアモンド。そのときのステージについて、あるレポートはこう伝えている――「その美しい音楽を聴いている時間は、まさに啓示的な体験だった。彼らの魅力は、童謡のように自然で普遍的な、そのシンプルで祝祭的な歌にある」。

ラヴェンダー・ダイアモンドの始まりは、ヴォーカルのベッキー・スタークの少女時代にさかのぼる。それは、ベッキーが地元メリーランド州ケンジントンの児童劇団に所属していた13歳のとき。公演を見ていたヴォイス・コーチに見出され、レッスンを受ける経済的な余裕はなかったが、そのコーチの薦めで奨学金を受け、クラシックの歌唱とミュージカルを本格的に学ぶことになる。それから5年間、自分のすべてをクラシックの勉強に注ぐ日々が続いた。

しかし17歳のとき、ベッキーはコーチから、クラシックのシンガーになるには難しいかもしれない、と言われてしまう。理由は、彼女の身体的な問題。小柄で、つまり声量の要となる胸郭が小さく、また喘息持ちだった彼女にとって、プロのクラシック・シンガーになる道は現実問題として限りなく不可能に近いものだった。そしてコーチは、でもポップ・シンガーにならなれるかもしれない、とベッキーにアドヴァイスをする。

夢へのハシゴを一方的に外されたショックは、当然計り知れなく大きく、そのコーチの宣告以来、ベッキーは2年近くまったく歌えなくなってしまう。歌いたい気持ちはある。でも、身体に染み付いたクラシックの歌い方――ピアニストやヴァイオリニストのような器楽的な歌唱は、今の自分にはもう何の意味も持たない。

そんなベッキーに、ふたたび歌うことへの情熱を呼び覚ましてくれたきっかけが、ワシントンDCのパンク/ハードコア・シーンとの出会いだった。フガジやチゼル(テッド・レオが今も彼女のすべてのヒーローらしい)、ネイション・オブ・ユリシーズ、ビキニ・キルらのダイレクトで明確なメッセージを持った歌に触れ、彼女は大きなショックを受ける。そして、本人曰く「政治的で精神的な覚醒」を迎え、自分にとって意味のない歌はもう歌いたくないと心に誓う。それから大学進学で渡ったプロヴィデンスでジャズ・カルテットを結成し、レストランでふたたび歌い始めるようになる。

ベッキーにとってプロヴィデンスは文字通り新天地となった。1994年から1998年の4年間、同地にあるブラウン大学の学生だったベッキーは、ここでまたも運命的な出会いを果たす。そのお相手は、ライトニング・ボルトのギターのブライアン・ギブソン。地元のレストランで知り合った2人は意気投合し、やがて「Fort Thunder」(ライトニング・ボルトのドラマーのブライアン・チッペンデールらがプロヴィデンスに開いたアートスペース)にも出入りするようになった彼女は、ブライアンに自分も創作活動をやるように――曰く「プロヴィデンスで“第2次バウハウス・ムーヴメント”を起こそう!」――勧められる。ライトニング・ボルトやブラック・ダイスなど、自由奔放に音楽やアートと戯れるプロヴィデンス・シーンとの交流は(ライトニング・ボルトの初ライヴも見ている)、彼女の内に燻っていた表現への欲求を強く刺激した。そうして、自分にも自分だけの曲を作り歌うことができると確信したベッキーは、1人でソングライティングを始め、自作のオペラを書き上げるなど、オリジナルの創作活動をスタートさせる。「ラヴェンダー・ダイアモンド」というアーティスト名は、そのときの自作の舞台『The Bird Songs Of The Bauharoque』で自ら演じた役柄から命名された。

しかし、新天地のはずだったプロヴィデンスでの活動は、ベッキーにとって、けっして順風満帆と言えるものではなかった。曲作りを始めてほどなく、ベッキーは自分がやりたい音楽と、サウンド的に男性性的な性格が強いプロヴィデンスのノイズ・シーンは、本質的に相容れないことに気付かされる。そして実際、ラヴェンダー・ダイアモンドの音楽に対してシーンや観客は、理解を示してくれこそすれ、共感はきわめて薄いものだった(2003年のファースト・アルバム『Artifacts Of The Winged』は、当初「Load Records」からリリースするために制作されたが、レーベル側のサポートを得られず自主リリースの形となった)。また、気候の問題から、持病の喘息に加えて重い肺炎まで患うことになってしまったベッキーは、健康面を考え、プロヴィデンスを離れて温暖で過ごしやすいLAに移住することを決める(もっともベッキーは「ライトニング・ボルトとFort Thunderには大きな借りがある」と語り、今でもプロヴィデンス・シーンへの感謝の念を忘れていない)。

ある種、特化した音楽性や作家主義のアーティストの集まりだったプロヴィデンスに対し、パンクやノイズはもちろん、フォークやエレクトロニカ、ポップやクラシックまで、多種多様なジャンルや嗜好のアーティストが混在する西海岸のインディ・シーン。その、プロヴィデンスとはまた異なる自由でおおらかな音楽環境に感銘を受けたベッキーは、こここそが、自分を受け入れ、自分の音楽的な可能性を広げてくれる場所だと確信する。そしてベッキーは、プロヴィデンス時代からの友人で元ヤング・ピープルのジェフ・ロゼンバーグ(G)、クラシックの作曲家でもあるスティーヴ・クレゴロポウロス(Key)、元スワーリーズのロン・ロゲJr(Dr)を迎えて、ソロ・ユニットだったラヴェンダー・ダイアモンドを「バンド」として再編成。新たな形で活動を再開させる。
(ちなみに、ベッキーとロンはラヴェンダー・ダイアモンドとは別に「ミスティカル・ユニオニスツ」というユニットとしても活動している)


ソロ名義となる前述の『Artifacts Of~』や、サポートにジェフとエルヴィス・パーカーを迎えたシングル『When Are You Coming Home?~』(2003年)をへて、バンド編成の音源となるEP『The Cavalry Of Light』(プロデュースは元レンタルズのロッド・セルヴェラ。以上3作品はすべて自主リリース)、クイーン・オブ・シヴァ(デヴェンドラ・バンハートのバンド)とのスプリット7インチを2005年に発表。そして昨年2006年、アメリカではマタドール、ヨーロッパではラフ・トレードと契約を交わす(SXSWでライヴを見たジェフ・トラヴィスが即決したらしい)。本作『イマジン・アワ・ラヴ』は、正規のリリース作品/バンド名義としては初のファースト・フル・アルバムとなる。

60年代のヘイト=アシュベリーからそのまま抜け出してきたような、陽光が照らし、あわいサイケデリアが包み込むノスタルジックで楽園的なフォーク/カントリー・ポップは、LA~アメリカ西海岸こそがベッキ=ラヴェンダー・ダイアモンドにとって「約束の地」であったことを実感させる。ピアノやアコースティック・ギターが奏でるやわらかなアンサンブルにのせて届く、ベッキーのみずみずしくも幻想的な歌声に、リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェル、ローラ・ニーロやリンダ・パークスの面影を誰もが思い浮かべるに違いない。同時代で言えば、キャット・パワーやニーコ・ケース、ジェニー・ルイス、ジョアンナ・ニューサムといった名前とも共振する感性をそこには発見できる。あるいは、声域が広く、スタンダードからポップまで自在に歌い分ける柔軟なヴォーカリゼイションは、かつて少女時代にクラシックの歌唱法を学んだ素養の賜物だろう。また、聖職者だった祖母と母親の元で育ったベッキーのルーツには、教会音楽からの影響が色濃く反映されている。実際、小さい頃には教会でよく歌っていたというベッキーにとって、そのときの高揚感やゴスペルがもたらす祝祭的なフィーリングは、音楽的な原体験としてそのサウンドや意識下に深く根付いているようだ。

もっとも、その音楽的なバックグラウンドは、ベッキーが告白するところ、じつに多彩だ。母親(じつは一度司祭学校をドロップアウトした過去がある、無類のロック好きの少女だったらしい)の影響で、小さい頃から古いレコードやラジオから流れるヒット曲を聴き浸っていたという彼女。ビートルズ、イーグルス、ボブ・ディラン、リンダ・ロンシュタット、ボーイ・ジョージ、ヒューマン・リーグ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、マーヴィン・ゲイ&モータウンetc、エラ・フィッツジェラルド、シンディ・ローパー、マリア・カラス、クイクゾティック(元メンバーのミラは現在ホワイト・マジックとして活動)……と、彼女がリスペクトするアーティストは枚挙に暇がない。そうした多くのアーティストたちから受けた惜しみないインスピレーションが、ラヴェンダー・ダイアモンドの音楽、そしてプロヴィデンスや西海岸で培われたベッキーの博愛的な音楽精神の源となっていることは間違いないだろう。


舞台『The Bird Songs Of The Bauharoque』でベッキーが演じたラヴェンダー・ダイアモンドは、地球に平和をもたらす使命を授かった半人半鳥的なキャラクターとして描かれている。ベッキー曰く、ラヴェンダー・ダイアモンドとは「反響・共鳴(resonance)の象徴」。つまり、互いの/たくさんの何か、或いは異なる何か同士が響き合い、共感することで新しいものを生み出す――それがベッキーにとってのラヴェンダー・ダイアモンドのイメージ。他でもなくそれは、ベッキーにとっての「音楽」であり、人と人とのコミュニケーションのメタファーであることは言うまでもない。

そして、ベッキーは語っている。

「わたしたちの目的は、聴いてくれた人を高揚させて、みんなに強さとエネルギーを与える音楽を作ること。わたしたちの音楽を通じてみんなと愛を分かち合いたいし、そうすることで世界がもっと平和になれば、って思う。1960年代のミュージカルがそうだったように、音楽が今の時代に進化と平和をもたらしてくれることをわたしは信じているの」


(2007/04)

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