それはここ最近、俗に「フリーク・フォーク」や「ウィアード・フォーク」と呼ばれるような、デヴェンドラ・バンハートやジョアンナ・ニューサムに代表される“奇妙な”フォーク・ミュージックの部類に属するサウンドなのだが、しかし彼らの場合、その「フリーク/ウィアード」が一周回って「ポップ」に転じたというか、周縁をなぞっていたはずが気づくと中心に辿り着いていたみたいな、それこそ『ホワイト・アルバム』やブライアン・ウィルソン~ヴァン・ダイク・パークスの偉業にも通じる不可思議な位相のねじれを生んでいる。
そしてそのことは、アニマル・コレクティヴやヴァシュティ・バニアンというアーティスト自身についてもいえる。前者は、『Sung Tongs』が描く曼荼羅状に生態系の入り組んだ音のアーカイヴが物語るように、対して後者は、一方で正統的なブリティッシュ/トラディショナル・フォークの系譜に位置しながら、かたや1960年代にストーンズのマネージャーだったアンドリュー・ルーグ・オールダムに発掘された「ポップ・シンガー」としての経歴をもつという(※ストーンズの未発表曲集『Metamorphosis』に収録されている“Something Just Stick In Your Mind”はもともと彼女の持ち歌だった)複雑なキャリアが物語るように、そもそも両者はその作家性やバックグラウンドに「フリーク/ウィアード」な性格を備えたアーティストだった。
つまり『Prospect Hummer』は、はなっからの異端者=フリークス同士が出会うべくして出会い生まれた作品、と言えるかもしれない。そして、それはどういうわけか異様に「ポップ」だった――という驚き。しかし、ここで聴くことができる「ポップ」は、巷で流通する商品としてのポップとも、象徴的なありようとしてのポップとも異なる。それはいうなれば、エクスペリメンタルな前衛/現代性と、フォークロアやアニミズム的な審美主義を横断する境界例的なポップであり、従来的なポップ・ミュージックの作法からはほど遠い。それは、たとえば優れた古典のなかに今日的な叡智を見出したり、あるいは現代音楽のコンセプチュアルなフォルムに普遍的な様式美=伝統を感じたりすることが可能であるような「体験」を意味する。「天才とは伝統から生まれた子供であると同時に、伝統に反逆するものである」とは、ある有名なイギリスの古典学者の言葉だが、まさにそのような二律背反の所産として輪郭を結ぶ音楽/ポップ。その意味でアニマル・コレクティヴとヴァシュティ・バニアンは、まぎれもなく「天才」に値するアーティストと呼ぶにふさわしい。
それにしても、あらためて創作の振れ幅の大きいアニマル・コレクティヴである(※参照)。ファーストや『Sung Tongs』のようなフォーキーかつサイケデリックな歌ものアルバムから、セカンドやサードのような“ボアダムス・ミーツ・サン・シティ・ガールズ”なエクスペリメンタル・アルバムまで、作品によって2人編成か3~4人編成のバンド・スタイルで作るかの違いはあるものの、その創作の軌跡は、一見にはとても同一の作り手によるものとは思えないほど起伏が激しい。
とくに03年の『Here Comes~』以降、最近リイシューされた野外録音の実況盤『Campfire Songs』から『Sung Tongs』、パンダ・ベアのソロをへて今回の『Prospect Hummer』にいたる音楽性の拡張とクリエイティヴィティの漲り方は、ほとんど神がかり的といっていい(※その他にも、ブラック・ダイスのエリック・コープランドとエイヴィ・テアが組んだテレストリアル・トーンズや、パンダ・ベアのニュー・プロジェクトのジェーンとか)。そこで「音楽」というものが、今ある姿をバラされ、ミキサーにかけられるように混交と撹拌を繰り返し、再構築を試みながら、まったく新たな「音」として生まれ直される瞬間を目の当たりにすることができる。
たとえば、サード以降のアニマル・コレクティヴのサウンドにおいて顕著な傾向であり重要な関心を占める、ブラジリアン・ミュージックへの憧憬。そのブラジリアン・ミュージックに「トロピカリズモ」という言葉/概念がある。
トロピカリズモとは、1960年代末のブラジルで起こった、正確に言えば音楽のみならず文学や映画、演劇、美術、舞踏など広い領域で文化的な横断(ブラジル/欧米、都市/郊外、洗練/悪趣味、ハイ・アート/ポピュラー・カルチャー)と、それによる新たな表現様式の創造を謳った芸術運動を指す総称。当時の軍事政権や経済危機を背景に台頭した保守的な勢力、それに象徴される既存の体制や価値観を文化的な手段によって打破し、大袈裟に言えばブラジルという国そのものを変革しようという、ブラジル版5月革命でありフラワー・ムーヴメントを意味するカウンター・カルチャーの一種である。
しかし重要なのは、それはけっしてボサノヴァやブラジル音楽の伝統を損ない否定するものでも、ましてや安易な欧米礼賛に傾倒するものでもなく、むしろその価値を見直し、多元的な文化の交錯のなかで対象化することによって、自分たちのアイデンティティに根ざしたブラジル固有の音楽表現を新たに「再発見」しようという試みであった点である。
『ブリンギング・イット・オール~』におけるディランにとってのフォークや、『マイルス・イン・ザ・スカイ』におけるマイルスにとってのジャズがそうだったように、旧来的な枠組みを荒々しく踏み越えながら、同時にその本質を徹底して抉り出していくようなラジカルな批評精神こそ、トロピカリズモの精髄にほかならない。加えて彼らの狙いは、それをあくまで「ポップ」として実現させることだった。「MPB(ムジカ・ポプラ・ブラジレイラ)」と呼ばれるボサノヴァ以降のブラジル音楽の美学を受け継ぎ(そのエリート主義や保守性には反しながら)、実験性と大衆性の境界を揺れ動くようにして“内なるブラジル”をポップ化=脱コード化する。もちろんそれは音楽においてのみに限らない。トロピカリズモが、単なる回顧主義ともアカデミックな芸術至上主義の運動とも異なる所以である。
こうしたトロピカリズモの態度が、アニマル・コレクティヴの作家性や、その「ポップ」に対するアプローチと見事な相似形をなすのは言うまでもない。事実、ジルベルト・ジルやミルトン・ナシメントのファンを公言する彼らは、とりわけ近作のメロディアスでソングオリエンテッドな作風においてその多大な恩恵を受けていることがわかる。トロピカリズモが伝統や歴史的遺産の現代的な発展としてあったように、アニマル・コレクティヴもまた、古今東西の音楽史を所蔵する“音楽的記憶”を今日に甦らせる現代のフォークロアとしてある。
しかし、アニマル・コレクティヴの例に限らず、振り返ればブラジリアン・ミュージックは先鋭的なロック・ミュージックに様々なインスピレーションを提供してきたことがわかる。
たとえばベックの場合、『オディレイ』や『ミッドナイト・ヴァルチャーズ』のサウンドのルーツに、彼が20代前半にカエターノ・ヴェローゾやジョルジ・ベンを聴き漁っていたリスナー体験を指摘することができる。“デッドウェイト”や“トロピカリア”といったナンバーはその象徴的な例と言えるだろう(『グエロ』収録の“アースクエイク・ウェザー”も)。カート・コバーンはムタンチス(トロピカリズモ版バーズ?)の熱狂的なファンとして有名だし、トータスはトン・ゼーのリミックスを手掛けたこともある。そして、DNAを率いて1970年代末のノー・ウェイヴ・シーンに登場したアート・リンゼイは、以来ニューヨークの前衛/ジャズ・シーンを牽引する傍ら、1984年のアンビシャス・ラヴァーズの結成を境にサンバやボサノヴァといったブラジリアン・ミュージックに本格的なアプローチを試み、自身の作品をはじめカエターノ・ヴェローゾのプロデュースなど様々な機会を通じて独自のブラジリアン/ラテン・サウンドを展開してきた(彼の地の血を継ぐアートにとってはルーツ回帰の意味もあったわけだが)。最新作『ソルト』では、全編にわたって生ドラムの代わりにエレクトロニクスによってリズムを構築するというトロピカリズモな妙義(?)を披露。ちなみに前作『インヴォーク』では、アニマル・コレクティヴのメンバーと共演も果たしている。
ブラジリアン・ミュージックの、耳馴染みがよくてユーモアに溢れ、かつ土着的で複雑な音声構造をもった「ポップ」。また、そんなブラジリアン・ミュージックに惹かれ、自らの創作に迎え入れようとする側も、そんな相反する要素を抱えながら独自の「ポップ」を築いてきたアーティストである。話をアニマル・コレクティヴに戻せば、その上で彼らは、まるでトロピカリズモの精神さえも呑み込むような勢いで自らの音楽世界をどこまでも外に向けて“開いて”いくようだ。
では、その時に再発見される、彼らにとって“内なるブラジル”にあたるものとは何なのか。“内なるアメリカ”なのか、それとも“内なるニューヨーク(正確にはボルチモアか)”なのか。その明確な答えはわからないが、少なくとも近作における彼らが、ある種の「ルーツ」的なものに向かいつつあるのは間違いないように思える。
そして、おそらくその「ルーツ」とは、けっして一か所に留まるものではなく、サウンド同様に複数の領域にまたがり幾重ものレイヤーが圧縮された伝統=歴史を俯瞰するものにほかならない。アニマル・コレクティヴのサウンドに立ち現われるのは、そんなふうに遠近感も時制も無視した審美眼で選び取られる、ノンリニアな音の楽園であり無法地帯を想像させる。しかし彼らのそれは、奇をてらったものでも高尚な芸術事でもない、まがうかたなき「ポップ」を纏った――音楽的な、あまりに音楽的な理論的/感覚的(動物的?)帰結なのである。
(2005/7)