2011年8月26日金曜日

極私的2000年代考(仮)……アニマル・コレクティヴとトロピカリズモ

昨年のアルバム『Sung Tongs』に続くアニマル・コレクティヴのニュー・リリース『Prospect Hummer』は、ヴァシュティ・バニアン(※1970年に発表したアルバム『Just Another Diamond Day』たった一枚を残して音楽シーンの表舞台から姿を消したイギリスの伝説的な女性シンガー。彼女の信奉者は多く、昨年には今作に先立ちデヴェンドラ・バンハートと共演を果たし話題を呼んだ)とのコラボレート作品。彼女の熱狂的なファンだったメンバーが、フォー・テットのツアー・サポート中にエジンバラで偶然彼女に出会い、それをきっかけに着想を得て曲作りを重ねるなかで共演が実現したという作品である。ちなみに、今作のレコーディングを担当したのは、『Sung Tongs』の共同プロデュースも手がけたラスティ・サントス。つい先日、パウ・トラックス(※アニマル・コレクティヴが主宰するレーベル)の新人アーティストのアリエル・ピンクと一緒に来日も果たした、ブルックリンの気鋭シンガー・ソングライターである。

で、そのサウンドはというと――これがもう、まがうかたなきアニマル・コレクティヴとヴァシュティ・バニアンの両者だからこそ生み得たとしか言いようがない、モダンで神々しく、浮き世離れした極上のアシッド・フォーク集である。『Sung Tongs』やパンダ・ベアのソロ・アルバム『Young Prayer』にも横溢していた、ブラジリアン・ポップやカンタベリー風サイケデリア、ハワイアンやグレゴリオ聖歌をなぞるたおやかな旋律と色彩あふれる叙情性。そこにヴァシュティ・バニアンの美しく漂白された歌声が重なり、おごそかで多幸感に満ち溢れた「うた」を紡ぎだしていく。アコギをはじめとする生楽器のやわらかな音色とリズム、その背景を彩るほのかな電子音、そしてヴァシュティとバンドによる美しいコーラスが寄り添うように優雅にたわむれ、まるでゆりかごに揺られているかのようなえもいわれぬ祝祭的な安らぎに包まれたサウンドは、能天気なシャーリー・コリンズ&デイヴィ・グレアムか、サマー・オブ・ラヴに感染したニコ&ヴェルヴェット・アンダーグラウンド――にもたとえられるかもしれない。


それはここ最近、俗に「フリーク・フォーク」や「ウィアード・フォーク」と呼ばれるような、デヴェンドラ・バンハートやジョアンナ・ニューサムに代表される“奇妙な”フォーク・ミュージックの部類に属するサウンドなのだが、しかし彼らの場合、その「フリーク/ウィアード」が一周回って「ポップ」に転じたというか、周縁をなぞっていたはずが気づくと中心に辿り着いていたみたいな、それこそ『ホワイト・アルバム』やブライアン・ウィルソン~ヴァン・ダイク・パークスの偉業にも通じる不可思議な位相のねじれを生んでいる。

そしてそのことは、アニマル・コレクティヴやヴァシュティ・バニアンというアーティスト自身についてもいえる。前者は、『Sung Tongs』が描く曼荼羅状に生態系の入り組んだ音のアーカイヴが物語るように、対して後者は、一方で正統的なブリティッシュ/トラディショナル・フォークの系譜に位置しながら、かたや1960年代にストーンズのマネージャーだったアンドリュー・ルーグ・オールダムに発掘された「ポップ・シンガー」としての経歴をもつという(※ストーンズの未発表曲集『Metamorphosis』に収録されている“Something Just Stick In Your Mind”はもともと彼女の持ち歌だった)複雑なキャリアが物語るように、そもそも両者はその作家性やバックグラウンドに「フリーク/ウィアード」な性格を備えたアーティストだった。

つまり『Prospect Hummer』は、はなっからの異端者=フリークス同士が出会うべくして出会い生まれた作品、と言えるかもしれない。そして、それはどういうわけか異様に「ポップ」だった――という驚き。しかし、ここで聴くことができる「ポップ」は、巷で流通する商品としてのポップとも、象徴的なありようとしてのポップとも異なる。それはいうなれば、エクスペリメンタルな前衛/現代性と、フォークロアやアニミズム的な審美主義を横断する境界例的なポップであり、従来的なポップ・ミュージックの作法からはほど遠い。それは、たとえば優れた古典のなかに今日的な叡智を見出したり、あるいは現代音楽のコンセプチュアルなフォルムに普遍的な様式美=伝統を感じたりすることが可能であるような「体験」を意味する。「天才とは伝統から生まれた子供であると同時に、伝統に反逆するものである」とは、ある有名なイギリスの古典学者の言葉だが、まさにそのような二律背反の所産として輪郭を結ぶ音楽/ポップ。その意味でアニマル・コレクティヴとヴァシュティ・バニアンは、まぎれもなく「天才」に値するアーティストと呼ぶにふさわしい。


それにしても、あらためて創作の振れ幅の大きいアニマル・コレクティヴである(※参照)。ファーストや『Sung Tongs』のようなフォーキーかつサイケデリックな歌ものアルバムから、セカンドやサードのような“ボアダムス・ミーツ・サン・シティ・ガールズ”なエクスペリメンタル・アルバムまで、作品によって2人編成か3~4人編成のバンド・スタイルで作るかの違いはあるものの、その創作の軌跡は、一見にはとても同一の作り手によるものとは思えないほど起伏が激しい。

とくに03年の『Here Comes~』以降、最近リイシューされた野外録音の実況盤『Campfire Songs』から『Sung Tongs』、パンダ・ベアのソロをへて今回の『Prospect Hummer』にいたる音楽性の拡張とクリエイティヴィティの漲り方は、ほとんど神がかり的といっていい(※その他にも、ブラック・ダイスのエリック・コープランドとエイヴィ・テアが組んだテレストリアル・トーンズや、パンダ・ベアのニュー・プロジェクトのジェーンとか)。そこで「音楽」というものが、今ある姿をバラされ、ミキサーにかけられるように混交と撹拌を繰り返し、再構築を試みながら、まったく新たな「音」として生まれ直される瞬間を目の当たりにすることができる。

たとえば、サード以降のアニマル・コレクティヴのサウンドにおいて顕著な傾向であり重要な関心を占める、ブラジリアン・ミュージックへの憧憬。そのブラジリアン・ミュージックに「トロピカリズモ」という言葉/概念がある。

トロピカリズモとは、1960年代末のブラジルで起こった、正確に言えば音楽のみならず文学や映画、演劇、美術、舞踏など広い領域で文化的な横断(ブラジル/欧米、都市/郊外、洗練/悪趣味、ハイ・アート/ポピュラー・カルチャー)と、それによる新たな表現様式の創造を謳った芸術運動を指す総称。当時の軍事政権や経済危機を背景に台頭した保守的な勢力、それに象徴される既存の体制や価値観を文化的な手段によって打破し、大袈裟に言えばブラジルという国そのものを変革しようという、ブラジル版5月革命でありフラワー・ムーヴメントを意味するカウンター・カルチャーの一種である。


それは音楽に限って言えば、つまりボサノヴァやブラジルの伝統音楽と、エレクトリカルな英米のロック・ミュージックの融合を意味した。1968年に発表されたコンピレーション『トロピカリア』は、いわばカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルといったトロピカリズモの旗手だったポスト・ボサノヴァ世代による「『サージェント・ペパーズ~』に対するブラジルからの返答」と呼ぶべき作品だった。サウンド的にはすなわちボサノヴァの“電化”であり、当時の西海岸のアシッド・カルチャーと共振したブラジリアン・ミュージックの“サイケデリック化”である。

しかし重要なのは、それはけっしてボサノヴァやブラジル音楽の伝統を損ない否定するものでも、ましてや安易な欧米礼賛に傾倒するものでもなく、むしろその価値を見直し、多元的な文化の交錯のなかで対象化することによって、自分たちのアイデンティティに根ざしたブラジル固有の音楽表現を新たに「再発見」しようという試みであった点である。

『ブリンギング・イット・オール~』におけるディランにとってのフォークや、『マイルス・イン・ザ・スカイ』におけるマイルスにとってのジャズがそうだったように、旧来的な枠組みを荒々しく踏み越えながら、同時にその本質を徹底して抉り出していくようなラジカルな批評精神こそ、トロピカリズモの精髄にほかならない。加えて彼らの狙いは、それをあくまで「ポップ」として実現させることだった。「MPB(ムジカ・ポプラ・ブラジレイラ)」と呼ばれるボサノヴァ以降のブラジル音楽の美学を受け継ぎ(そのエリート主義や保守性には反しながら)、実験性と大衆性の境界を揺れ動くようにして“内なるブラジル”をポップ化=脱コード化する。もちろんそれは音楽においてのみに限らない。トロピカリズモが、単なる回顧主義ともアカデミックな芸術至上主義の運動とも異なる所以である。


こうしたトロピカリズモの態度が、アニマル・コレクティヴの作家性や、その「ポップ」に対するアプローチと見事な相似形をなすのは言うまでもない。事実、ジルベルト・ジルやミルトン・ナシメントのファンを公言する彼らは、とりわけ近作のメロディアスでソングオリエンテッドな作風においてその多大な恩恵を受けていることがわかる。トロピカリズモが伝統や歴史的遺産の現代的な発展としてあったように、アニマル・コレクティヴもまた、古今東西の音楽史を所蔵する“音楽的記憶”を今日に甦らせる現代のフォークロアとしてある。

しかし、アニマル・コレクティヴの例に限らず、振り返ればブラジリアン・ミュージックは先鋭的なロック・ミュージックに様々なインスピレーションを提供してきたことがわかる。

たとえばベックの場合、『オディレイ』や『ミッドナイト・ヴァルチャーズ』のサウンドのルーツに、彼が20代前半にカエターノ・ヴェローゾやジョルジ・ベンを聴き漁っていたリスナー体験を指摘することができる。“デッドウェイト”や“トロピカリア”といったナンバーはその象徴的な例と言えるだろう(『グエロ』収録の“アースクエイク・ウェザー”も)。カート・コバーンはムタンチス(トロピカリズモ版バーズ?)の熱狂的なファンとして有名だし、トータスはトン・ゼーのリミックスを手掛けたこともある。そして、DNAを率いて1970年代末のノー・ウェイヴ・シーンに登場したアート・リンゼイは、以来ニューヨークの前衛/ジャズ・シーンを牽引する傍ら、1984年のアンビシャス・ラヴァーズの結成を境にサンバやボサノヴァといったブラジリアン・ミュージックに本格的なアプローチを試み、自身の作品をはじめカエターノ・ヴェローゾのプロデュースなど様々な機会を通じて独自のブラジリアン/ラテン・サウンドを展開してきた(彼の地の血を継ぐアートにとってはルーツ回帰の意味もあったわけだが)。最新作『ソルト』では、全編にわたって生ドラムの代わりにエレクトロニクスによってリズムを構築するというトロピカリズモな妙義(?)を披露。ちなみに前作『インヴォーク』では、アニマル・コレクティヴのメンバーと共演も果たしている。


ブラジリアン・ミュージックの、耳馴染みがよくてユーモアに溢れ、かつ土着的で複雑な音声構造をもった「ポップ」。また、そんなブラジリアン・ミュージックに惹かれ、自らの創作に迎え入れようとする側も、そんな相反する要素を抱えながら独自の「ポップ」を築いてきたアーティストである。話をアニマル・コレクティヴに戻せば、その上で彼らは、まるでトロピカリズモの精神さえも呑み込むような勢いで自らの音楽世界をどこまでも外に向けて“開いて”いくようだ。

では、その時に再発見される、彼らにとって“内なるブラジル”にあたるものとは何なのか。“内なるアメリカ”なのか、それとも“内なるニューヨーク(正確にはボルチモアか)”なのか。その明確な答えはわからないが、少なくとも近作における彼らが、ある種の「ルーツ」的なものに向かいつつあるのは間違いないように思える。

そして、おそらくその「ルーツ」とは、けっして一か所に留まるものではなく、サウンド同様に複数の領域にまたがり幾重ものレイヤーが圧縮された伝統=歴史を俯瞰するものにほかならない。アニマル・コレクティヴのサウンドに立ち現われるのは、そんなふうに遠近感も時制も無視した審美眼で選び取られる、ノンリニアな音の楽園であり無法地帯を想像させる。しかし彼らのそれは、奇をてらったものでも高尚な芸術事でもない、まがうかたなき「ポップ」を纏った――音楽的な、あまりに音楽的な理論的/感覚的(動物的?)帰結なのである。


(2005/7)

2011年8月9日火曜日

極私的2000年代考(仮)……フリー・フォークのミューズ②

デヴェンドラ・バンハートが監修した『The Golden Apples Of The Sun』や、ジョセフィン・フォスターが監修した『So Much Fire To Roast Human Flesh』、あるいは『Two Million Tongues Festival』といった、いわゆるフリー・フォーク関連の傑作コンピレーションのリリースで知られるレーベル「Bastet」。その「Bastet」を傘下に置くアメリカの音楽雑誌「Arthur Magazine」が主催し、2005年にロスで開かれたフェスティヴァル「Arthur Fest」――その出演者のラインナップに名前を見つけたのが個人的にラヴェンダー・ダイアモンドを知るきっかけだった。オノ・ヨーコやソニック・ユースをはじめ、スリーター・キニー、キャット・パワー、サンバーンド・ハンド・オブ・ザ・マン、シックス・オルガンズ・オブ・アドミッタンス、ヴェティヴァー、アース、サン・オー、マジック・マーカーズ……など、フリー・フォーク~アヴァンギャルド・シーンを俯瞰する錚々たる顔ぶれが一堂に会した2日間の、最終日に登場したラヴェンダー・ダイアモンド。そのときのステージについて、あるレポートはこう伝えている――「その美しい音楽を聴いている時間は、まさに啓示的な体験だった。彼らの魅力は、童謡のように自然で普遍的な、そのシンプルで祝祭的な歌にある」。

ラヴェンダー・ダイアモンドの始まりは、ヴォーカルのベッキー・スタークの少女時代にさかのぼる。それは、ベッキーが地元メリーランド州ケンジントンの児童劇団に所属していた13歳のとき。公演を見ていたヴォイス・コーチに見出され、レッスンを受ける経済的な余裕はなかったが、そのコーチの薦めで奨学金を受け、クラシックの歌唱とミュージカルを本格的に学ぶことになる。それから5年間、自分のすべてをクラシックの勉強に注ぐ日々が続いた。

しかし17歳のとき、ベッキーはコーチから、クラシックのシンガーになるには難しいかもしれない、と言われてしまう。理由は、彼女の身体的な問題。小柄で、つまり声量の要となる胸郭が小さく、また喘息持ちだった彼女にとって、プロのクラシック・シンガーになる道は現実問題として限りなく不可能に近いものだった。そしてコーチは、でもポップ・シンガーにならなれるかもしれない、とベッキーにアドヴァイスをする。

夢へのハシゴを一方的に外されたショックは、当然計り知れなく大きく、そのコーチの宣告以来、ベッキーは2年近くまったく歌えなくなってしまう。歌いたい気持ちはある。でも、身体に染み付いたクラシックの歌い方――ピアニストやヴァイオリニストのような器楽的な歌唱は、今の自分にはもう何の意味も持たない。

そんなベッキーに、ふたたび歌うことへの情熱を呼び覚ましてくれたきっかけが、ワシントンDCのパンク/ハードコア・シーンとの出会いだった。フガジやチゼル(テッド・レオが今も彼女のすべてのヒーローらしい)、ネイション・オブ・ユリシーズ、ビキニ・キルらのダイレクトで明確なメッセージを持った歌に触れ、彼女は大きなショックを受ける。そして、本人曰く「政治的で精神的な覚醒」を迎え、自分にとって意味のない歌はもう歌いたくないと心に誓う。それから大学進学で渡ったプロヴィデンスでジャズ・カルテットを結成し、レストランでふたたび歌い始めるようになる。

ベッキーにとってプロヴィデンスは文字通り新天地となった。1994年から1998年の4年間、同地にあるブラウン大学の学生だったベッキーは、ここでまたも運命的な出会いを果たす。そのお相手は、ライトニング・ボルトのギターのブライアン・ギブソン。地元のレストランで知り合った2人は意気投合し、やがて「Fort Thunder」(ライトニング・ボルトのドラマーのブライアン・チッペンデールらがプロヴィデンスに開いたアートスペース)にも出入りするようになった彼女は、ブライアンに自分も創作活動をやるように――曰く「プロヴィデンスで“第2次バウハウス・ムーヴメント”を起こそう!」――勧められる。ライトニング・ボルトやブラック・ダイスなど、自由奔放に音楽やアートと戯れるプロヴィデンス・シーンとの交流は(ライトニング・ボルトの初ライヴも見ている)、彼女の内に燻っていた表現への欲求を強く刺激した。そうして、自分にも自分だけの曲を作り歌うことができると確信したベッキーは、1人でソングライティングを始め、自作のオペラを書き上げるなど、オリジナルの創作活動をスタートさせる。「ラヴェンダー・ダイアモンド」というアーティスト名は、そのときの自作の舞台『The Bird Songs Of The Bauharoque』で自ら演じた役柄から命名された。

しかし、新天地のはずだったプロヴィデンスでの活動は、ベッキーにとって、けっして順風満帆と言えるものではなかった。曲作りを始めてほどなく、ベッキーは自分がやりたい音楽と、サウンド的に男性性的な性格が強いプロヴィデンスのノイズ・シーンは、本質的に相容れないことに気付かされる。そして実際、ラヴェンダー・ダイアモンドの音楽に対してシーンや観客は、理解を示してくれこそすれ、共感はきわめて薄いものだった(2003年のファースト・アルバム『Artifacts Of The Winged』は、当初「Load Records」からリリースするために制作されたが、レーベル側のサポートを得られず自主リリースの形となった)。また、気候の問題から、持病の喘息に加えて重い肺炎まで患うことになってしまったベッキーは、健康面を考え、プロヴィデンスを離れて温暖で過ごしやすいLAに移住することを決める(もっともベッキーは「ライトニング・ボルトとFort Thunderには大きな借りがある」と語り、今でもプロヴィデンス・シーンへの感謝の念を忘れていない)。

ある種、特化した音楽性や作家主義のアーティストの集まりだったプロヴィデンスに対し、パンクやノイズはもちろん、フォークやエレクトロニカ、ポップやクラシックまで、多種多様なジャンルや嗜好のアーティストが混在する西海岸のインディ・シーン。その、プロヴィデンスとはまた異なる自由でおおらかな音楽環境に感銘を受けたベッキーは、こここそが、自分を受け入れ、自分の音楽的な可能性を広げてくれる場所だと確信する。そしてベッキーは、プロヴィデンス時代からの友人で元ヤング・ピープルのジェフ・ロゼンバーグ(G)、クラシックの作曲家でもあるスティーヴ・クレゴロポウロス(Key)、元スワーリーズのロン・ロゲJr(Dr)を迎えて、ソロ・ユニットだったラヴェンダー・ダイアモンドを「バンド」として再編成。新たな形で活動を再開させる。
(ちなみに、ベッキーとロンはラヴェンダー・ダイアモンドとは別に「ミスティカル・ユニオニスツ」というユニットとしても活動している)


ソロ名義となる前述の『Artifacts Of~』や、サポートにジェフとエルヴィス・パーカーを迎えたシングル『When Are You Coming Home?~』(2003年)をへて、バンド編成の音源となるEP『The Cavalry Of Light』(プロデュースは元レンタルズのロッド・セルヴェラ。以上3作品はすべて自主リリース)、クイーン・オブ・シヴァ(デヴェンドラ・バンハートのバンド)とのスプリット7インチを2005年に発表。そして昨年2006年、アメリカではマタドール、ヨーロッパではラフ・トレードと契約を交わす(SXSWでライヴを見たジェフ・トラヴィスが即決したらしい)。本作『イマジン・アワ・ラヴ』は、正規のリリース作品/バンド名義としては初のファースト・フル・アルバムとなる。

60年代のヘイト=アシュベリーからそのまま抜け出してきたような、陽光が照らし、あわいサイケデリアが包み込むノスタルジックで楽園的なフォーク/カントリー・ポップは、LA~アメリカ西海岸こそがベッキ=ラヴェンダー・ダイアモンドにとって「約束の地」であったことを実感させる。ピアノやアコースティック・ギターが奏でるやわらかなアンサンブルにのせて届く、ベッキーのみずみずしくも幻想的な歌声に、リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェル、ローラ・ニーロやリンダ・パークスの面影を誰もが思い浮かべるに違いない。同時代で言えば、キャット・パワーやニーコ・ケース、ジェニー・ルイス、ジョアンナ・ニューサムといった名前とも共振する感性をそこには発見できる。あるいは、声域が広く、スタンダードからポップまで自在に歌い分ける柔軟なヴォーカリゼイションは、かつて少女時代にクラシックの歌唱法を学んだ素養の賜物だろう。また、聖職者だった祖母と母親の元で育ったベッキーのルーツには、教会音楽からの影響が色濃く反映されている。実際、小さい頃には教会でよく歌っていたというベッキーにとって、そのときの高揚感やゴスペルがもたらす祝祭的なフィーリングは、音楽的な原体験としてそのサウンドや意識下に深く根付いているようだ。

もっとも、その音楽的なバックグラウンドは、ベッキーが告白するところ、じつに多彩だ。母親(じつは一度司祭学校をドロップアウトした過去がある、無類のロック好きの少女だったらしい)の影響で、小さい頃から古いレコードやラジオから流れるヒット曲を聴き浸っていたという彼女。ビートルズ、イーグルス、ボブ・ディラン、リンダ・ロンシュタット、ボーイ・ジョージ、ヒューマン・リーグ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、マーヴィン・ゲイ&モータウンetc、エラ・フィッツジェラルド、シンディ・ローパー、マリア・カラス、クイクゾティック(元メンバーのミラは現在ホワイト・マジックとして活動)……と、彼女がリスペクトするアーティストは枚挙に暇がない。そうした多くのアーティストたちから受けた惜しみないインスピレーションが、ラヴェンダー・ダイアモンドの音楽、そしてプロヴィデンスや西海岸で培われたベッキーの博愛的な音楽精神の源となっていることは間違いないだろう。


舞台『The Bird Songs Of The Bauharoque』でベッキーが演じたラヴェンダー・ダイアモンドは、地球に平和をもたらす使命を授かった半人半鳥的なキャラクターとして描かれている。ベッキー曰く、ラヴェンダー・ダイアモンドとは「反響・共鳴(resonance)の象徴」。つまり、互いの/たくさんの何か、或いは異なる何か同士が響き合い、共感することで新しいものを生み出す――それがベッキーにとってのラヴェンダー・ダイアモンドのイメージ。他でもなくそれは、ベッキーにとっての「音楽」であり、人と人とのコミュニケーションのメタファーであることは言うまでもない。

そして、ベッキーは語っている。

「わたしたちの目的は、聴いてくれた人を高揚させて、みんなに強さとエネルギーを与える音楽を作ること。わたしたちの音楽を通じてみんなと愛を分かち合いたいし、そうすることで世界がもっと平和になれば、って思う。1960年代のミュージカルがそうだったように、音楽が今の時代に進化と平和をもたらしてくれることをわたしは信じているの」


(2007/04)

2011年8月6日土曜日

最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑦

・ The Rapture/In the Grace of Your Love
・ Girls/Father, Son, Holy Ghost
・ Neon Indian/Era Extraña
・ Stephen Malkmus & The Jicks/Mirror Traffic
・ 森ゆに/夜をくぐる
・ Solid Afro/Mexican Zombie
・ Warm Brains/Old Volcanoes
・ Miles/Facets EP
・ Laurel Halo/Hour Logic EP
・ Tomutonttu/Elävänä planeetalla
・ Crystal Antlers/Two-Way Mirror
・ High Places/Original Colors
・ Keiji Haino/Un autre chemin vers l'Ultime
・ Julianna Barwick & Ikue Mori/FRKWYS Vol. 6


(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑥)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)⑤)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)④)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)③)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...)②)
(最近の熟聴盤(from 3.11 to ...))