その記事のなかで個人的に興味を引いたのは、たとえばマイクが語った次のような一節だ。
「僕たちが書く曲にはつねに映像的な要素がある。それはたぶん、映画やテレビによって植え付けられたオブセッションに由来している。子供のときの映像体験――たとえば爆弾が虹色の閃光を放ちながら爆発するアニメーションとか――って、とても感動的なものだし、影響力も大きい。それは幼いころであれば尚更、より強烈な体験として記憶に刻まれるものだと思う。でも、大人になるにつれて僕たちの脳は、無意味や不要だと判断したノイズを濾過して取り除いてしまうようになる。そして僕たちは、いつのまにか多くのことに鈍感になっていってしまう」
「ボーズ・オブ・カナダの音楽には、そんな子供のころの敏感な感受性を喪失してしまった悲しみが満ちている。ボーズ・オブ・カナダの音楽は、人が成長していくなかで出会う音やイメージへのノスタルジアを創り出す一方、あの初めて世界に触れたときの昂ぶる気持ちを取り戻すために闘っているんだよ」
ボーズ・オブ・カナダのサウンドはとても映像的だ。その「音」は、音楽体験であると同時に一種の映像体験といっても差し支えないほど、聴く者に映像的なイメージを強く喚起させる。それは、彼らの作品を聴いたことがある人ならば誰もが感じるだろうことだと思う。
そうしたボーズ・オブ・カナダのサウンドの高い映像喚起性のルーツと言え、またマイクとマーカスの映像へのオブセッションを大いに刺激したのが、後にグループ名の由来ともなった「The National Film Board Of Canada」(カナダ国立映画制作庁)が制作したネイチャー系の映像作品だった。自然科学や地球遺産的なテーマを扱ったNFBC制作の教育向けテレビ・プログラムを、2人は幼少から思春期を過ごしたカナダとスコットランドで浴びるように観ていたという。その影響で2人は、実際に13歳のころに地元の友人とともにスーパー8ミリで映像作品の制作も経験している(※NFBCのアニメーション部門も担当していたカナダの前衛アニメーション作家ノーマン・マクラーレンの影響を受けた実験的な作品だったらしい)。まだ大学生だった1990年代の初頭には、「Hexagon Sun」名義のアウトドア・パーティーをスコットランドの郊外で開き、グラフィック・デザイナーやミュージシャンなど大勢のアーティストを巻き込んで音楽(音響)と映像(視覚効果)を融合したマルチ・パフォーマンスを行っていたことは知られたエピソードだ。
そうしたごくありふれた好奇心に支えられていた映像への関心が、同時に、冒頭のマイクのコメントにも表れるように内省的な意味合いを帯びたものである背景には、どんな理由があるのだろうか。
たとえば、彼らが長年にわたって個人的に集めてきた家族などのポラロイド写真で埋め尽くされた『ザ・キャンプファイア・ヘッドフェイズ』のアートワーク。そのコンセプトについて、彼らは「誰か他人の古い家でその写真を見つけたときの気持ちと、そこに写っている人たちがみんな死んでしまったときの気持ちを、リスナーに想像してほしい」と話している。なるほど、その色褪せたターコイズ・ブルーと黄色のグラデーションで彩られたアートワークのヴィジュアル・イメージは、サウンド同様にリスナーの心のひだを激しくふるわすような情感を呼び起こしてやまない。
「どこか欠陥があったり、不完全なものに惹かれてしまう」とマイクは語る。
「たとえ僕たちの音楽が様式化されたもののように聞こえたとしても、そこにはかならず“闇”のようなものがあって、どこかほろ苦い陰影をたたえたものにしている。僕たちはときどき、意図的に様式化されたように聞こえるように曲を作ることがあるんだけど、そんなときは少しだけ意地悪して、“釘”みたいなものを曲のなかに忍ばせておくんだよ」
濾過されないノイズとしての“闇”。あるいは“釘”。それは冒頭のマイクのコメントに照らし合わせるなら、時間がたつにつれて平坦に均されていく(=様式化する)感受性に対する抵抗のようにも感じられる。
なるほど、ギターやパーカッションといった生楽器が奏でるフレーズを、エレクトロニクスによるアブストラクトなテクスチャーに織り込み、立体的で起伏の美しいサウンドスケープを描き出した『ザ・キャンプファイア・ヘッドフェイズ』。なめらかで端正な調和が保たれた世界のなかでささやかな波風を立てる、ざらざらとした違和感を残す何か。その静と動が入り混じった不均衡なコントラストこそ、おそらくマイクとマーカスが意図するボーズ・オブ・カナダの美意識であり、それは彼らが子供のころに体験した映像的記憶やその視覚的なイメージを介して「音」に起こされることで、作品内に結実されている。
「僕たちは、傷ついた心や記憶に“ありふれた音楽”として聞こえるような音楽を作ろうとしているんだ」(マイク)
そうしたボーズ・オブ・カナダが、今回のミニ・アルバム『トランス・カナダ・ハイウェイ』に合わせて初めて制作したPV「デイヴァン・カウボーイ」(※『ザ・キャンプファイア・ヘッドフェイズ』にも収録された本作のリード・トラック)には、これまで彼らが「音」によって告白してきた映像的感受性がありありと感じられて興味深い。上空102,800フィートから落下するパラシュートから捉えた宇宙空間や雲海の景色と、映画『ステップ・イントゥ・リキッド』を彷彿させるサーフィンのライディング・シーンを組み合わせたクリップは、彼らが思春期に心を奪われたというNFBCの映像作品を連想させるが、そのフィルム全体に流れるえもいわれぬ豊かな色彩や時間の感覚は、サウンドと絶妙なシンクロを見せながら、とても感動的な光景として心に響く。
それはまさに「初めて世界に触れたときの昂ぶる気持ち」を思い起こさせる陶酔感と、同時にその「昂ぶる気持ち」を知った子供時代の記憶に回帰していくようなノスタルジックな心地よさに満ちあふれている(※さらにいえばそれは、二度と帰れない失われた時間の記憶でもある)。残念ながら本作には収録されなかったが(※代わりにイメージ・クリップのような短編のコラージュ映像がエンハンスドで収録されている)、WARPのホームページで観ることができるので、是非ともその世界観を堪能してもらいたい。
その「デイヴァン・カウボーイ」を除く5曲はすべて今回が初出しとなる未発表曲。レコーディング時期は現時点で不明だが、生楽器の存在感が際立っていたオーガニックな手触りの『ザ・キャンプファイア・ヘッドフェイズ』に対し、ファットで硬質なビートとアトモスフェリックなエレクトロニクスが形作るその音響空間は、初期の『トゥイズム』や『ミュージック・ハズ・ザ・ライト・トゥ・チルドレン』のころの作風を連想させるコズミックな浮遊感をたたえている。ちなみに、本作ラストで「デイヴァン・カウボーイ」のリミックスを披露しているオッド・ノスダムとは、2年前にボーズ・オブ・カナダがクラウデッド名義の「デッドドッグ・トゥー」をリミックスするなど、お互い知る仲。ブライアン・イーノのアンビエント・ワークスを思わせる冒頭部分が印象的な、本作のなかでも屈指のトラックである。
『トランス・カナダ・ハイウェイ』が纏う、どこか原点回帰的なトーンは、その作品的な評価とは別に、むしろ彼らがこの先に迎えるだろう創作の次なる局面を予感させるものかもしれない。マイクの言葉を借りるなら、まるで「初めてボーズ・オブ・カナダの世界に触れたときの昂ぶる気持ちを取り戻す」ような新鮮な感慨を与えてくれる『トランス・カナダ・ハイウェイ』。さすがに気の早すぎる話かもしれないが、しかしここにはおそらく、『ザ・キャンプファイア・ヘッドフェイズ』の次へと続くボーズ・オブ・カナダのネクスト・フェイズのヒントが隠されている。
(2006/04)