ベックにとって「ソングライティング」とはいかなる行為か。
その答えの一端を示すエピソードとして、たとえば以下に語られるベックの“ブルース観”は象徴的だ。
「ブルースのごった煮なとこが好きなんだ。いろんなリフレインがいろんな人たちの歌の中に散りばめられているだろ。いくつかの曲からいくつかのヴァースを持ちよって、組み立ててみる。そうすると、いつの間にか自分の中から、自分なりの曲が生まれてくるってわけさ」
続けて、こう自己分析してみせる。
「フォークやトラディショナル・ミュージックから始まって、僕の歌にはアメリカン・ソングのメロディと構造がしっかりと根付いているんだ。けど、音楽的な意味での僕の持ち味は、その構造の中に様々なサウンドやいろんなアイデアを反映させるところにあると思う。構造はそのままで、おもいっきり楽しんじゃおうって感じかな」(DHC刊『ベック』より)
つまり、「編集」と「折衷」。そのメタ的なプロセスが導く先に像を結ぶ音の手触りの中に“オリジナリティ”を発見し、実作者としての“アイデンティティ”を獲得する。繰り返し語られてきたことだが、そうした一連の行為こそがベックにとっての「ソングライティング」であると一先ず定義することができる。その最初の到達点がいうまでもなく『オディレイ』(‘96)であり、アップデートされたモダン・ヴァージョンが「王道ベック・サウンドの復活」とも評された『グエロ』(‘04)と『ザ・インフォメーション』(’06)に他ならない。
「このアルバムは、僕がこれまでに実験してきたこと、いろいろと試してきたことすべての結晶なんだ」とベック自身が語った『グエロ』。その続編か腹違いの双子(前者はダスト・ブラザーズ、後者はナイジェル・ゴドリッチが相手)的な位置づけも可能な『ザ・インフォメーション』は、まさしく巨大な情報庫のようなアルバムだった。さながらそれは、そもそも存在自体が多様な音楽史的記憶を格納する情報庫といえるベックを、さらにそのディスコグラフィー丸ごと(=ベック史的記憶)格納する迷宮的なアーカイヴと呼ぶのがふさわしい。その内部をマトリックス状に張り巡らされた「情報」を、自在に引き出し、掛け合わし、マルチレイヤードに構築しながら展開されるベックのストロングスタイル。そこに蓄積された情報量は、ともすればベック本人さえも持て余しかねないほど膨大なものであり(その感覚は、アルバム・タイトルの「ザ・インフォメーション」に関連してベックが語った「僕らの目の前に立ちはだかる、巨大で不可解で不気味な物体」というリアリティの飽和した現代社会のイメージに近い)、なるほど、レコーディングではインスピレーションを頼りにバンド・メンバーとの自然発生的なセッションの中からサウンドが練られたというのも頷ける。「このアルバムから聴こえてくるのは僕らがどこに向っているのか分からない不安とそして興奮なんだ」と語るベックの実感はまさにその通りだろうし、目の前の無数の選択肢の中から唯一絶対の解答を引き当てるために、偶然性やハプニングを持ち込むような賭けにあえて打って出たところも、もしかしたらあったのかもしれない。ともあれ、結果的に出来上がった『ザ・インフォメーション』は、まるで「『ベック』という構造の中に様々な『ベック』のサウンドや『ベック』のアイデアを反映させた」ようなアルバムだといえる。
『ザ・インフォメーション』が誇る情報量の膨大さは、そのままベックの15年、すなわち積み上げてきたディスコグラフィーの射程と同義である。そして、そのディスコグラフィーが呈するベックの創作史とは、冒頭で定義した特異なソングライティングの作法が導いた音楽的な帰結に他ならない。
たとえばビョークの場合、そのディスコグラフィーは、常に最先端の「今」と交わりながら変態する、自己像の絶えざる更新の軌跡といえる。あるいはレディオヘッドの場合、それは、『キッドA』や『イン・レインボウズ』を巡るバンド自身の言説にも顕著なように批評的(批判的)に自己像を検証しながら、しかしあくまでバンド内/トム・ヨーク個人に集約される絶対的なロジックに従い漸進する、ある種の自己完結的な創作史ともいえるだろう。
ベックのディスコグラフィーは、ポップ・ミュージックの今日的な革新とも、作家主義的なドラマツルギーの発露とも異なるベクトルを示す。なるほど、そのサウンドは、新たな「情報」を書き加えられながら他花受粉を重ねる不断の変化や更新を孕むものだが、しかしそれはある意味、時勢/時制を無視したところで遂げられるものであり、つまり「今」とは必ずしも交わらない(逆に「今」の指標となることはあっても)。あるいはそれは、後述するようにベックの個人史に根差した、その記憶のディープな反映そのものといっていい代物だが、同時にそのメタ的なオリジナリティの有り様しかり、あらゆる音楽作法や音楽史的記憶に参照点を見出す限りなく開かれたものだ。博覧強記で感度は鋭いが、シーンやムーヴメントという意味での時代性にはじつは無頓着で、求道的で凝り性の反面、寄り道や余暇的な遊びも嫌いじゃない(むしろ大好き)。そんなベックの特異なキャラクターを伝えるディスコグラフィーは、その圧倒的なポピュラリティーとは裏腹に類例を見ない道筋を辿る。
そして、何より“ベックらしい”のは、件のソングライティングの作法の行き着く果てに、近作に至って自身のディスコグラフィー(=ベック史的記憶)をも編集/折衷素材の「情報」として対象化しているフシがあるところだろう。『「ベック」という構造の中に――』とその感触を記した『ザ・インフォメーション』。また「これまでにいろいろと試してきた中で、いちばんうまくいったなと思えたことばかりを総括した」とベック自身が語った『グエロ』。けれどもそれらは、過去の焼き直しでも二次創作でもない、むしろこうした志向やプロセスこそがベックというアーティストであるという意味で“オリジナル”なアルバムとしてある。
であるならば、今度の『モダン・ギルト』の場合はどうだろう。
「芸術家は、文化的・形式的な仮定事項を受け取り、そこから非常に多くのものを、いわば横領する。もはや流通していないアイデアを再評価し、再度紹介し、それによって芸術家自身もまた革新を果たす。しかしその「革新」の部分は、我々が通常考えているよりはずっと少ない割合でしかない。(略)革新は全然直線的なものではない。それは、同じ一つの場所に停まろうとする努力であり、移り変わる風景の中で、主体性を持ち続けようとする努力である」(ブライアン・イーノ――水声社刊『ブライアン・イーノ』より)
自身のディスコグラフィーの編集/折衷を含むソングライティングとは、すなわち絶えず過去を包摂しながら現在そして未来を循環するように結ぶ再帰的なプロセスの創作を意味する。ベックはベックから「情報」を受取り、それはベック自身にフィードバックされる、そしてまたその更新された「情報」はソングライティングに再導入され、新たなベック像が創られていく。つまり「いろんな『情報』がベックの中には散りばめられているだろ。いくつかのベックの曲からいくつかの『情報』を持ちよって組み立ててみる。そうすると、いつの間にかベックの中からベックなりの曲が生まれてくるってわけさ」。その再帰的なソングライティングの中でベックという「情報」は、他の「情報」とも交わりながら反復され反芻され、増幅される。『ザ・インフォメーション』(の膨大さ)は、そうした途上に姿を現したものだった。
だとするなら、仮にそのようなプロセスを極限まで推し進めた先に、いかなる事態を予測できるか。『ザ・インフォメーション』を凌駕するさらなる膨大で坩堝的な「情報庫」と化すのか。
いや、むしろその逆だろう。おそらくそれは、ある種の優生学的な帰結として“ベックの純血化”に向うのではないか。
自身の編集/折衷とはつまり最もシビアな自己批評/批判であり、その繰り返しはやがて因数分解するようにベックの「構造」を露にする。いわば“素数”にあたるのがベックの核/精髄(=ベック史/論の要旨)であり、それは件の再帰的なソングライティングの過程で優性遺伝のように受け継がれながら精錬される。結果、あらゆる余剰やノイズは削ぎ落とされ、膨大な「情報」の中から濾過抽出されたエッセンスだけが凝縮された形で作品化される……。
そして、前置きが長くなったが、いうなればそれこそが、ベックにとってニュー・アルバム『モダン・ギルト』、そこで到達した境地ではないだろうか。
『モダン・ギルト』の音はとても“濃い”。けれどもその濃さとは、たとえば『オディレイ』や近作が誇ったような博覧強記で情報網羅型の濃さじゃない。ギターやベースやドラム、トラックのビートやリズムの一音一音に漲る、いわば「基音/地音」の濃さ。あるいはその濃さとは、「太さ」や「厚さ」といい換えてもいいかもしれない。デンジャー・マウスをプロデューサーに迎え、多くの楽曲でベックはギターやベースからピアノやフルートまで自分で演奏している。もっとも“ノーバディーズ・フォルト~”を敷衍するアトモスフェリックなサイケ・ロック“ケムトレイルズ”や、エイフェックスっぽいブレイクビーツ&ピアノがリードする“レプリカ”のようなナンバーもあったり、サウンドのレンジは絞られているが起伏は際立ちを見せる。しかし、それでもやはり、何より『モダン・ギルト』を聴いて耳を引かれるのは、エッジの砥がれた、ベックのコアそのものを刻み付けたようなソングライティングの生々しさだろう。
ベックの「コア」。その源流すなわちルーツは、ふたつの場所に求められる。ひとつは、ベックが少年期を過ごしたロスのダウンタウン。そして、もうひとつは、15歳のとき、友達の家で偶然手にした古いブルースやフォークのレコード。前者は、その多様な音楽史的記憶に親しむバックグラウンドを育み、後者は、アコースティック・ギターを握らせミュージシャンとして生きる天啓を与えた、ベックの「原風景」である。
ヒスパニックやコリアンや雑多な人種の移民が暮らす環境の下、ラジオから流れるファンクやヒップホップに交じって民家や商店から聴こえる多国籍な音楽に日々触れる中でアイデンティティを培われた“現代アメリカ音楽の私生児”としてのベック。一方、ミシシッピ・ジョン・ハートを入り口に20~30年代へと歴史を遡るデルタ・ブルースやトラディショナル・フォークに傾倒し、その伝統的な作曲術、ギターの演奏法や歌唱法を体得する過程で後天的に覚醒した“アメリカ・ルーツ音楽の正嫡子”としてのベック。自身のディスコグラフィーにおいて、両者のベックは陰に陽に互いを補完する関係で共存しながら、そのソングライティングの血肉と骨を形作ってきた。
ベックは、『オディレイ』制作中に得た「逆ファンク」なるキーワードに関連してこう語っている。「ぎくしゃくしててぎこちないほうが、よりファンキーに見えるんだ。めちゃファンキーなダンサーたちを観察してみると、上半身は動いてないのに、身体の他の部分は違う動きをしている。身体を硬くして、できるだけぎこちなく踊る。それがファンキーに踊るコツなんだよ」。これはクラフトワークやトーキング・ヘッズにも参照可能なベックの白人ファンク解釈ともいえるものだが、ここにはじつに“ベックらしい”極意が示されている。それは白人がファンクをやるという、いわばフェイクが本物を志向する際に生じる歪みや軋轢の中にこそ事の本質を見出そうとする錬金術師的な発想である。そしてそれは、所詮どこまでもジャンクな私生児である自身をブルース/フォークという正統へと向わせた倫理であり、強い肯定の意思(ある種の開き直り?)としてデビュー作の『ゴールデン・フィーリング』以降、あらゆる局面でベックの創作を支えてきた。冒頭で示したソングライティングの特異さ、『ザ・インフォメーション』の膨大さ・過剰さもすべてはここに繋がるものである。
けれど、『モダン・ギルト』からはもはやそうした歪みや軋轢は聴こえてこない。異質なもの同士が交わることで生まれるダイナミズムや躁的な快楽志向、圧倒的な「情報」量で凌駕する偏執的なプロダクションはここにはない。代わりに『モダン・ギルト』が伝えるのは、ロックンロールとソウル、そのルーツでブルース/フォークとが分かち難く一本の太い線で結ばれたピュアリズム。まるでそこにあるがまま聳え立つような勇壮さ、音楽の静謐な輝きがここにはある。
想像するようにこれは、自身さえ対象化する解体的なソングライティングの果てに行き着いた、一種の達観の成せる業なのか。それともこれもまた、ベック一流の「反動」の表れなのか。少なくともそのサウンドからは、近作とは明らかに異なるフェーズを迎えたベックのモードが伝わる。いわばベックはここで、「ベック」という記名性/記号性(=『オディレイ』に象徴される “王道ベック”のイメージ)をも削ぎ落とさんとする精錬を見せる。つまり逆ファンク的な「異種の正統」から「本格派」へのパラダイムシフトである。
そして、それとはおそらくベックにとって「90年代」との決別に他ならない。ベックの(みならずシーンの)「90年代」を決定づけ、ある面では呪縛ともなった『オディレイ』。そこから様々な音楽的摸索をへた末に『オディレイ』を再訪し(=「90年代」に回帰)制作された『グエロ』と『ザ・インフォメーション』。『モダン・ギルト』とは、そうした『オディレイ』以降の再帰的なサイクルを脱し、「90年代」的な振る舞いを葬りついに実感された「ベックの00年代」――「00年代の一枚」といえるのではないだろうか(同じような感慨、「本格派」への目覚めはスティーヴン・マルクマスの新作にも感じた。まあ個人的にマルクマスにはまだまだ変な奴でいてほしいんだけど)。
(2008/09)
(
※極私的2000年代考(仮)……またはベックという案件)