ヴェイパーウェイヴが悶々と抱えていたR&Bへの愛情。だったり憧憬。みたいなものが昨今のメインストリームやそこかしこに咲き乱れるアフロ・アメリカンたちの音楽とどこかで出会う(出会い直す)可能性がない、ともいえない。そのとき、たとえばハイプ・ウィリアムスが残してきた一連の音楽はその来たるべきものの格好のシュミレーションとして改めて顧みられる機会が来るのだろうけど、はたして2017年はどう動くのか。いや、転ぶのか。
Angel Dust Dealers / Beverly Kills (Noumenal Loom)
アメドラの『スレンジャー・シングス』、もう少しどうにかならなかったものなんだろうか。というのが正直な感想。ストーリーやキャストはまあいいとしても、あのスティーヴン・キング映像作品的なセンスはどうしたってお目こぼしの出来ないシロモノだったように思うのだけど。あのクリーチャーの造形とかヒドかったなあ。ウィノナ・ライダーも演技が空回りしていたし。というあのドラマのサントラちっくな、SURVIVEというかヴァンゲリスというかタンジェリン・ドリームというかゴブリンというか、プログレサイケSci-Fiノリのシンセ・インストゥルメンタル。
SISTER GROTTO & YARROW / SONG FOR AN UNBORN SUN
ジュリア・ホルターもグライムスも、エンジェル・オルセンもワイズ・ブラッドも、みんなポップへと行ってしまった。もちろん良し悪しではなく。しかるべきタイミングだったのかもしれないし、生存のための抜き差しならない選択だったのかもしれないし。そしておそらくはグルーパーも……なんてことを考えながながら聴いたのは、その彼女をぐっとフォーク寄りに、今一度ほのぐらいアンビエント寄りへと舵を切り直したような音楽を連想させたから。弦のこすれる音、ヒスノイズ、近づいては遠ざかっていく、女の声。
Sigtryggur Berg Sigmarsson / Sad Vocal Manipulation..? Sorry, I'm New and Not Very Clear On This (Vitrine)
ドローンや具体音の混濁状態が続く緊張がふっと解け、耳なじみのいいシンセやポスト・クラシカル的な器楽が表面に踊りだす瞬間の、あのなんとも興ざめな感じ。サウンドアートや実験音楽の類が、さまざまな本音と建前を使い分けることで「次」へと進むことを選択する、いや、みずからに許可するその心理をおもんばかると、なんだか素面で音楽なんて聴けないなー、と自問してしまう。
YlangYlang / Life Without Structure (Crash Symbols)
去年起きた100%Silkの悲しい事故がまだ記憶に新しいところだけど、あの、数年前まではアンダーグラウンドで血気盛んに毒々しくも煌びやかな存在感を咲かせていたレディたちは、今頃何をしているのだろう。と考えだしたら途方に暮れてしまうほど隔世の感があるというか、めっきりあの喧騒が忘却の彼方に行ってしまったような感覚にとらわれる、2016年を振り返ったときのため息。久しぶりに名前を見つけた、モントリオールのあの娘。
Sad Hana / Information Overload (Vague Audio Tapes)
2016年における過小評価に甘んじた作品のなかの一枚、ケイト・テンペストのニュー・アルバムのようなキレには及ばぬものの、ICレコーダーを片手に湿った匂いのする街中を徘徊するような執拗さがこちとら肝。歌唱とポエトリーリーディングの境界線の上で沸々(鬱々?)と言葉を繰り続ける、フィラデルフィアの蝶の一刺し。
Raw Silver / Aqua Spells (Speaker Footage)
80年代ハードコアやスキンズの美学がニュー・インダストリアル以降のリニューアルされたミニマル・テクノやEBMと出会ったら、いや紛れ込んだら……とでもいった展開がいわゆるロウ・ハウスの一部に散見された代物だったとするならば、その先には、はたして。カウンターやアンタイ、大雑把に言えばそうしたパンク的なアティチュードやポージングがポップ音楽のラッパによってインディにおいてもアンダーグラウンドにおいてもその声がかき消されたかのごとく日照りにされた感もある2016年。なるほどパウエルの新譜が昨年におけるそのもっともかりやすく嘱望された“一矢”だったとしても、それってあまりにも先が暗いなー、という気がねえ。
mmph / Dear God (BEER ON THE RUG)
オンラインアンダーグラウンドの反対語は? フィジカルメインストリーム? いやよくわからないけど。少なくとも2016年のポップ音楽を見渡したとき、そこにはオンラインメインストリーム(オーヴァーグラウンド?)とでもいうべき傾向というのか潮流というのか、才能同士を結び合わせるネットワークが一気に顕在化したことは確か。フランク・オーシャン周りしかり、ボン・イヴェール周りしかり。では……というところで、数年前にアルカやOPNの台頭が私たちを興奮させたあの場所では、今、何が起きていて、いや、誰がいるのか。例のSimpsonwaveという名の退廃、爛熟、諦念……をへて、今一度、耳を擽り、引きつける音楽。
POORGRRRL / PITIPARTI (Parachute)
チチョリーナがトラップを始めたような? と思ったらレーベルはイタリアだけど彼女の拠点はマイアミだそう。しかし、ならばPCミュージックがトラップ的な意匠に触手を伸ばしたかのような……的な同時代性を感じなくもない。ノーネームを除けばシカゴ産のヒップホップ・ルネッサンスにはいまいちリアリティを感じない自分には、どちらに興味があるか聞かれれば俄然、トラップのエレクトロとビートとフロウが生み出す「サウンドスケープ」の方なので。
Plaguecourier / Scirocco (Sacred Phrases)
光が強ければ強いほど闇?影?は深く濃くなる。みたいな台詞を子供のころに映画『スウィートホーム』で見ていらい強烈に刻まれたことを思い出す。2000年代はメタルがリニューアルされてシューゲイズやアンビエントや方々へと拡散・拡張を見せた10年だったが、次のディケイドを迎えるとその深くて濃いシミは行き場を失って急速に求心力を弱めて行ったのではないか、という気がする。傍目には。光り輝くポップ・スターの時代が到来したと言われる昨今、果たして2010年代も折り返しを過ぎてメタルはどこへ向かう?
MYA GOMEZ / INMATE (NON)
クロスオーヴァー。と言われれば確かにそうなんだろう。いたるところでそれはなるほど起こりまくっている、というか、起こりまくっているという事実が顕在化しまくっている、と言ったほうが正確か。人材も、サウンドにおいても。ただし、「クロスオーヴァー」によってどんな効果、結果がもたらされているのか。何より音楽面において。という検証なくして、ただ「クロスオーヴァー」の事実を賞揚するのは無邪気過ぎないか、とも。“インダストリアル”は2010年代の前半において重要なタームのひとつだったわけだけど、たとえばシャックルトンが見せたようなダブ/トライバルとの交配だったり、あるいうはロウ・ハウスにおけるクラブ・ミュージックとの邂逅をへて、いよいよトラップへの流入も見せ始めたか、という場面も。
GreyscaleSound / [ I N T I M A C Y ] (GreyscaleSound)
試しに検索してみたらやはりあった“trapwave”。あるいは“vaportrap”。とろっとした音響処理やメロディのフロウ、あるいはヴォーカルの加工の仕方とか、両者は親和性は高いと思っていたので。いつごろ生まれたタグ/ジャンルなのかわからないけど。というか、そもそもヴェイパーウェイヴにはトラップの音響感覚を内包しているところがあると思っていたし、かたやトラップの、様式美を突き詰めていくと匿名的にならざるを得ないところはヴェイパーと通じ合うところがあると踏んでいたので。
Surf Curse / Nothing Yet
「ティーン」や「ユース」といった言葉、いや価値や存在が「オトナ」たちによって値踏みされている。いつの時代だってそういうものなのかもしれないが、最近のカルチャー雑誌をパラパラと眺めていて頓に感じるところ。肩入れすることで何か利でも得たいのかしら。そんなうがった見方をしてしまうのは、自分だってそんな「オトナ」のひとりに過ぎないから、なのかもしれないけれど。このネバダのふたり組はいくつぐらいなのだろう。
Eaves / Verloren (PTP)
交響曲なのか協奏曲なのか。と問われれば前者なのだろう。中心を持たず、物音や電子音、人声、ノイズ、サンプリングやミュージック・コンクレートの類が個別の旋律やテーマを響かせながら結果的に総体として楽曲、というかある種のシークエンスを形作る連なりへとまるで成形肉かフランケンシュタインのような全体像を耳の前に横たわらせる、という意味において。混沌としたフロウを描きながらもギリギリのところで持ちこたえているのは適度に挟み込まれる反復によって身体的な快感を聴覚へと注ぎ続けてくれるから、であって。極端な話、BPMを上げ続けていけばジュークやフットワークの域に達するのでは。
Jamire Williams / ///// EFFECTUAL (LEAVING RECORDS)
いわゆる「ロック・バンド」に代表される(固定されたメンバーによる)バンド音楽の停滞と、サークル・オブ・フレンズによるコレクティヴとしてのバンド(生)演奏に対する価値の見直し。このズレやかい離とは音楽の質だったり嗜好によるものなのか、それとも単に一時的な流行のようなものなのか。ジャズとアンビエントの止揚。生演奏とデジタルプロセッシングの敷衍。
HARAAM / The Sacrifice Of Will (Yerevan Tapes)
エスニックとインダストリアルの邂逅。すなわちムスリムガーゼの2010年代ヴァージョン、みたいな。2000年代においてはフリー・フォークやサブライム・フリークエンシー諸々~のつまりは「エスニック」の分脈から再評価されたムスリムガーゼだけど、現在においては後者つまりポスト・インダストリアルやその影響下にあるテクノやミニマル・ミュージックの分脈からムスリムガーゼは再評価の要請を受けている、と思案」も。
MIDWIFE / NAME (Sister Grotto)
映像で楽曲を発表。さらにはそれをBandcampで売る。というビジネスモデルがあることに膝を打つ。いや、あるべくしてある、という感じなのだけど。市中引き回しの刑、に処されたギターの映像はシュールでもの悲しく。たとえばギターを叩き壊すのでも燃やすのでもなく、ただひたすら水平方向に引き伸ばしていくことで弦やボディの表面が削れていき、さながらクラスター音が時間の経過と共に減退していくさまを見せつけられるような描写がドローニッシュでありアンビエンタルだな、と。
Perfect Human / Total. Amateurs. Teslas(Perfect Aesthetics)
コペンハーゲンのラスト・フォー・ユースとかウォーといったポスト・パンク・ポップ、ニュー・ウェーヴ・ポップにも通じるてらいのなさ。スタイリッシュだけど様式美を突き詰めると記名性がはぎ取られて、グローバルになるけどその代償も大きい、というか。たとえばカリフォルニアのシュ・シュなんかは一時期、その隘路に陥っていたように思うのだけど、今度出る新作を聴くかぎり抜け出しつつあるのかな、という印象。
Jake Acosta / First Corridor(prettyallright)
マニュエル・ゲッチングやクラスター。クラウト・ロック・リヴァイヴァルからバレアリックへ。ディスコ・ダブやモダン・サイケデリアとも手を結びながら2000年代の後半から2010年代にかけて台頭を見せたうねりは、アンビエントやドローンの荒波にさらわれる形で霧散し、今やいたるところにその残滓を見かけることができる。そこに発見や驚きを感じるまでには少なくともあと5年はかかりそうだけど、カセットテープという「市場」がよくも悪くもその温床となっている感は否めなくもなく。
I.G.M/Lugweight / Seven of Clubs
ブラック・メタルとドローンとアンビエントの止揚。は数年前のザ・ボディとハクサン・クロークのコラボレーションにおいて一つの極点を刻んだわけだけど、デス・グリップスを軽くなめながらそのハクサン・クローク(とアルカ)とアルバムを作ったビョークの近作がはたして、彼女の感情のトロに呑み込まれる形で当初の期待にはじゃっかん沿わない形に終わったことはいたって残念な結果だったとしか言いようがないものの、実は次の作品も同様の布陣で制作する(されている)らしい、とかなんとか聞いた記憶があるので、お楽しみは年内にとっておきたい。
CTN. / Algorithmic Love(BEER ON THE RUG)
ジェシー・カンダのトラックメイカー名義のドーン・カンダの音源を聴いたら案の定、やはりアルカに引っ張られた?寄せられたものになっていて、いや、両者はクリエイティヴ上の共犯関係にあり、むしろカンダの映像こそがアルカのあのサウンドを引き寄せたことは間違いないものの、アルカの後であれを聴かされるといたしかたなし、という気がやむをえず。
Postura / Cadere(End Result Productions)
なるほどたしかにロックは死んだのかもしれない。しかしニュー・ウェイヴやポスト・パンクは死なず。デフォルト、というよりも細かい刻みでリヴァイヴァル&リニューアルを繰り返している。そんな印象。その直近の波とは間違いなくコペンハーゲンのPI周辺であるわけだけど、一方でアメリカ西海岸のアンダーグラウンドに構えるあのシュシュだって粛々とそれっぽい音源を作り続けているわけだしなー、とかれらの新作を聴いて。
Micromelancolié / External Sources(Wounded Knife)
インダストリアル、グリッチ、ミュージック・コンクレート、ノイズ、ラップ、アンビエント、ドローン、ジャズ、クラシック、ポスト、ニュー、リヴァイヴァル/リニューアル、アンタイ……音も人も何もかもにおいてクロスオーヴァーが進んで成熟しきった結果、また一昔前みたいに何かが弾けるみたいな形で壮大な原点回帰の波が起きたりするのだろうか。
Dedekind Cut / $uccessor (HOSPITAL PRODUCTIONS)
そもそもは瞑想や癒し、鎮静のための音楽だったはずのアンビエントや、おそらく元を辿れば資料保存やフィールド・ワークの一環だったのではないかと思うサンプリングやミュージック・コンクレート的なるものが、同時に、何を境に緊張や圧迫、心にさざ波を立てるというか物騒というか、ある種の恐怖表現を構成演出するサウンドトラックへとなり得ていったのか。きっとそのグラデーションが始まる起点となった作品なりアーティストなりというのは存在するわけで。